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  <title type="text">中世人今際図巻</title>
  <subtitle type="html">死に様データベース</subtitle>
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  <updated>2011-10-31T01:04:55+09:00</updated>
  <author><name>東専房</name></author>
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    <published>2026-03-20T00:29:24+09:00</published> 
    <updated>2026-03-20T00:29:24+09:00</updated> 
    <category term="か～こ" label="か～こ" />
    <title>光智禅尼</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<span style="font-size: x-small;">《病死》　《1509年》　《2月》　《10日》　《享年88歳》</span><br />
<br />
<br />
三条西家の女房。<br />
局名は<strong>右京大夫</strong>。<br />
出自等は未詳。<br />
<br />
<br />
応永29年（1422）の生まれ。<br />
永享11年（1439）、18歳で三条西家へ女房づとめを始め、<br />
当主公保・実隆父子に長く仕えた。<br />
永正元年（1504）10月9日、83歳の年、<br />
三条西家家礼の大沢重種宅で出家を遂げ、法名<strong>光智</strong>を名乗ったが、<br />
その後も三条西家への奉公を続けたようである。<br />
<br />
5年後の永正6年（1509）正月、<br />
「老病無頼」により、<strong>光智</strong>は88歳で三条西家を退き、<br />
三条西邸近くの二度観音堂辺りの小庵に相談して、そこへ移ることとなった。<br />
その支度をしていたところ、<br />
同月28日に三条西家へ雲龍院主がやってきたので、<br />
幸いにもその輿に乗せてもらって、移住先の小庵に運んでもらった。<br />
<br />
<br />
小庵に輿で運んでもらった<strong>光智</strong>と、ただ民家に移された<a href="https://imawazukan.blog.shinobi.jp/Entry/235/" title="" target="_self">梅枝</a>。<br />
死に臨んでも、女房と下女という身分の違いは、歴然と上位者によって示される。<br />
<br />
<br />
10日ほど経った2月10日午の刻<span style="font-size: small;">（正午頃）</span>、<strong>光智</strong>入滅。<br />
すぐに葬ったというから、土葬であったか。<br />
知らせを受けた旧主実隆は、<br />
翌11日に葬料を送っている。<br />
「愁歎比類なきものなり」<span style="font-size: small;">（『実隆公記』）</span><br />
その後も実隆は、<strong>光智</strong>のために法華経を書写し、<br />
百箇日や一周忌の法要も行っている。<br />
<br />
<br />
<br />
<span style="font-size: x-small;">〔参考〕<br />
『実隆公記 巻5』（1938年）<br />
原勝郎『東山時代に於ける一縉紳の生活』（講談社学術文庫、1978年）<br />
脇田晴子『中世に生きる女たち』（岩波新書、1995年）<br />
細川涼一「家族を構成しない女性」（峰岸純夫編『中世を考える 家族と女性』吉川弘文館、1992年）</span>]]> 
    </content>
    <author>
            <name>東専房</name>
        </author>
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    <id>imawazukan.blog.shinobi.jp://entry/239</id>
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    <published>2026-03-18T01:18:27+09:00</published> 
    <updated>2026-03-18T01:18:27+09:00</updated> 
    <category term="あ～お" label="あ～お" />
    <title>右兵衛尉為成</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<span style="font-size: x-small;">《不明》　《1202年》　《某月》　《某日》　《享年不明》</span><br />
<br />
<br />
建仁2年（1202）の春頃、<br />
鎌倉では将軍家2代の源頼家の御所で、<br />
連日のように蹴鞠会が催されていた。<br />
3月8日にも、蹴鞠会があり、<br />
その後の宴席は、比企能員邸の庭木の花が見頃だとのことで、<br />
将軍家の御所から場所を移して開催された。<br />
<br />
その宴席に、京都から下ってきたという微妙という名の舞女が候じた。<br />
歌舞もよく、頼家もご満悦だったようだが、<br />
亭主能員によれば、この微妙には愁訴の旨があって、山河を越えて鎌倉に来たのだという。<br />
頼家が尋ねると、微妙は泣きながら、途切れがちにこう訴えた。<br />
<br />
「去る建久年中<span style="font-size: small;">（1190～99）</span>、<br />
　父の<strong>右兵衛尉為成</strong>は、他人の讒言に遭って捕らえられ、<br />
　右京の獄舎に入れられました。<br />
　その後、同所の囚人は陸奥へ移送することとなり、<br />
　鎌倉将軍家の雑色に引き渡されましたが、<br />
　父<strong>為成</strong>もそのうちにおりました。<br />
　母は悲嘆の余りに世を去り、7歳であった私は、頼るべき兄弟もなく、<br />
　長く孤独の恨みに沈んでおりましたが、<br />
　<strong>父</strong>への想いを抑えきれず、その安否をたしかめたいと、<br />
　今こうして宴曲の芸を身につけて、東路を越えてきたのです。」<span style="font-size: small;">（『吾妻鏡』、以下同）</span><br />
<br />
これを聞いて涙しない者はなく、<br />
頼家はさっそく陸奥へ使者を遣わして、<strong>為成</strong>の行方を捜させた。<br />
<br />
この話は、尼御台北条政子の耳にも届き、<br />
3月15日、政子が頼家の御所を訪れた際に、微妙も召され、<br />
その巧みな芸を披露した。<br />
微妙の<strong>父</strong>を想う志に感じ入った政子もまた、陸奥へ使者を遣って<strong>為成</strong>を捜させた。<br />
さらに、<br />
使者が鎌倉に戻った際には、政子のもとへ直接報告に来るよう命じている。<br />
<br />
その後もたびたび微妙は頼家に召され、宴席に候じたが、<br />
陸奥から使者が帰ったのは、5ヶ月後の8月5日。<br />
その報告は、<strong>為成</strong>の死去を知らせるものであった。<br />
<br />
これを聞いた微妙は、「涕泣、悶絶躄地」<span style="font-size: small;">（もだえ苦しみ、転げ回ること）</span>。<br />
10日後の15日夜、<br />
微妙は鎌倉亀谷の栄西の禅坊に入って、出家を遂げた。<br />
法名は持蓮。<br />
<strong>父</strong>の夢後を弔うためであったのはいうまでもない。<br />
憐れんだ政子は、微妙改め持蓮に鎌倉西郊の深沢にに居所を用意して与え、<br />
政子の持仏堂にも参じるよう言い含めたという。<br />
<br />
<br />
微妙の姿は、<strong>父</strong>を想うけなげな女性像として称賛されたようで、<br />
戦前には「列女伝」の類や修身の教科書などに、多く取り上げられたようである。<br />
<br />
<br />
ただ、この<strong>父</strong>娘の孝行譚にはおまけがつく。<br />
鎌倉滞在中の微妙は、<br />
古郡保忠という御家人と浅からぬ仲になっていた。<br />
ふたりは「比翼連理の契り」をしていたが、<br />
微妙は、保忠が本国の甲斐に帰っている間、その帰りを待たずに出家したのである。<br />
3月24日、鎌倉に戻った古郡保忠は、微妙の出家を知る。<br />
微妙が、栄西の門弟祖達の房にいることを聞いた保忠は、そこへ押しかけ、<br />
微妙に会わせよと迫った。<br />
その剣幕におそれおののいた祖達は、将軍御所に駆け込み、<br />
鬱憤休まらざる保忠は、従僧らを打擲したため、<br />
亀谷一帯はたちまち騒動になった。<br />
まもなく鎮静したが、政子は平賀朝光を遣わして保忠を宥めている。<br />
結局、27日なって保忠は将軍頼家の勘気を蒙り、<br />
政子からも「理不尽の所行、奇怪」と叱責を受けた。<br />
<br />
<br />
<br />
<span style="font-size: x-small;">〔参考〕<br />
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 前篇』（吉川弘文館、1964年）</span>]]> 
    </content>
    <author>
            <name>東専房</name>
        </author>
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    <id>imawazukan.blog.shinobi.jp://entry/238</id>
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    <published>2026-03-10T23:08:39+09:00</published> 
    <updated>2026-03-10T23:08:39+09:00</updated> 
    <category term="は～ほ" label="は～ほ" />
    <title>藤原 苡子</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<span style="font-size: x-small;">《病死》　《1103年》　《正月》　《25日》　《享年28歳》</span><br />
<br />
<br />
堀河天皇の女御。<br />
父は大納言藤原実季、母は大宰大弐藤原経平の娘睦子。<br />
後三条天皇の皇女で伊勢斎宮であった俊子内親王の養女となった。<br />
<br />
<br />
承徳2年（1098）10月29日、<strong>苡子</strong>は23歳で3歳下の堀河天皇に入内し、<br />
12月8日、女御となった。<br />
相前後して懐妊したが、康和元年（1099）4月4日、4ヶ月で流産。<br />
康和2年（1100）正月11日には、その労いとして従四位下に叙されている。<br />
<br />
<strong>苡子</strong>の同母兄の権大納言藤原公実が、なおも皇子の誕生を祈願すると、<br />
はたして康和4年（1102）8月、<strong>苡子</strong>の再びの懐妊が明らかとなった。<br />
8月7日、着帯の儀を行ったのち、<strong>苡子</strong>は内裏を退いて、<br />
五条高倉の左少弁藤原顕隆邸に移った。<br />
出産が近づくにつれて、<br />
奈良興福寺の造営が中止され、軽犯の者が釈放されるなど、<br />
世間の注目は皇嗣の誕生集まった。<br />
<br />
康和5年（1103）正月13日夜より、<strong>苡子</strong>は産気づき、<br />
兄公実が万事をとりしきって、<br />
14日酉の刻<span style="font-size: small;">（夜6時頃）</span>、産所に白木の御帳が立てられて、そのときに備えた。<br />
16日申の刻<span style="font-size: small;">（夕方4時頃）</span>からいよいよとなって、<br />
深夜、ついに<strong>苡子</strong>は男児を出産。平産であった。<br />
兄公実がへその緒を切ったという。<br />
<br />
人々は皇子の降誕を祝いあった。<br />
なかでも白河法皇は孫の誕生に、「御感の余りすでに落涙に及」んだという<span style="font-size: small;">（『中右記』）</span>。<br />
もっとも、外戚の地位を脅かされる摂関家の右大臣藤原忠実は、<br />
いささかおもしろくなかったようである。<br />
<br />
翌17日から、御湯殿始めや御乳付けなど、皇子の誕生儀礼が進められたが、<br />
この間、<strong>苡子</strong>の体は「邪気」に冒され、「不食」<span style="font-size: small;">（食欲不振）</span>となっていた<span style="font-size: small;">（『中右記』）</span>。<br />
兄公実はこの<strong>妹</strong>の病状をひた隠しにしたとされる。<br />
<br />
25日、白河法皇が産所の藤原顕隆邸に臨幸し、<strong>苡子</strong>を見舞って皇子と対面した。<br />
<br />
ところが、同日亥の刻<span style="font-size: small;">（夜10時頃）</span>、雨の降りしきるころ、<br />
「邪気」に取り入られた<strong>苡子</strong>の容態が悪化。<br />
万一の死穢に備えて、皇子は院御所の高松殿に移された。<br />
しかして、子の四点（深夜1時頃）、<strong>苡子</strong>卒去。28歳であった。<br />
「今朝臨幸の栄耀あり、夕に非常の哀哭に逢ふ。<br />
　誠に則ち憂喜聚門、吉凶同域の謂れか。<br />
　世間の無常、あたかも春の夢のごときものなり。」<span style="font-size: small;">（『中右記』）</span><br />
もし、公実が<strong>苡子</strong>の容態を隠していなければ、手の施しようがあったかもしれない、<br />
と人々は噂した。<br />
<br />
しかし、その後、公実が語ったところでは、<br />
<strong>苡子</strong>の容態は、深夜に急変して人事不省に陥り、<br />
一刻<span style="font-size: small;">（30分）</span>ほどで逝去してしまった、<br />
まったくの「頓滅」であったという<span style="font-size: small;">（『中右記』）</span>。<br />
そのうえ、人々からは「<strong>妹</strong>の重病を隠した」と謂れのない誹りを受けた、<br />
ということであった。<br />
白河法皇と堀河天皇に近仕し、摂関家をも凌がんとする勢いのあった公実には、<br />
敵も多かったらしい。<br />
とはいえ、<strong>妹</strong>に先立たれたうえ、&ldquo;権力欲から<strong>妹</strong>を見殺しにした&rdquo;と中傷されては、<br />
たまったものではない。<br />
<br />
<br />
27日、<strong>苡子</strong>の遺骸は、生前のごとく日用の牛車に乗せられ、<br />
養母俊子内親王の御所に運ばれ、入棺。<br />
皇子降誕の儀礼が催されているなかで、葬礼は憚られたらしい。<br />
2月3日、鳥辺野で火葬されて、遺骨は木幡山陵に納められ、従三位の位階が贈られた。<br />
<br />
悲嘆に暮れる堀河天皇は、はやくから<strong>苡子</strong>のために仏堂を建てようと志し、<br />
父の白河法皇も同意して、方角と経費に気を付けるよう言い添えた。<br />
<br />
<br />
同年末の12月19日、<br />
七条室町の亡父実季の仏堂で、<strong>苡子</strong>の一周忌が大々的に営まれた。<br />
丈六（高さ約4.85m）の釈迦如来像が造立され、<br />
金泥の法華経も供えられた。<br />
明けて康和6年（1104）正月27日には、<br />
堀河天皇の念願叶って、仁和寺に転輪院が建立された。<br />
<br />
<br />
4年後の嘉承2年（1107）には、堀河天皇も世を去り、<br />
<strong>苡子</strong>が産んだ皇子宗仁が5歳で即位した<span style="font-size: small;">（鳥羽天皇）</span>。<br />
これにより、<strong>苡子</strong>に皇太后の称号が贈られた。<br />
<br />
<br />
<br />
<span style="font-size: x-small;">〔参考〕<br />
『大日本古記録 中右記 5』（岩波書店、2005年）<br />
『大日本古記録 殿暦 1』（岩波書店、1960年）</span><br />
<a href="https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/" title="" target="_blank">東京大学史料編纂所データベース</a>]]> 
    </content>
    <author>
            <name>東専房</name>
        </author>
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    <id>imawazukan.blog.shinobi.jp://entry/237</id>
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    <published>2026-02-11T16:47:39+09:00</published> 
    <updated>2026-02-11T16:47:39+09:00</updated> 
    <category term="さ～そ" label="さ～そ" />
    <title>坂 某（清原宣賢の妻）</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<span style="font-size: x-small;">《病死》　《1496年》　《11月》　《23日》　《享年15歳》</span><br />
<br />
<br />
清原宣賢の妻。<br />
父は医師の上池院<span style="font-size: small;">（坂）</span>胤祐か。<br />
<br />
明応5年（1496）11月23日、<br />
六位蔵人清原宣賢の<strong>妻</strong>は、難産のすえに死去してしまった。<br />
15歳であった。<br />
<br />
夫の宣賢は22歳。<br />
<br />
<br />
なお、夫宣賢には、3年後に別の女性との間に、<br />
嫡男業賢<span style="font-size: small;">（のち良雄）</span>が生まれ、<br />
吉田家の養子となる息子<span style="font-size: small;">（兼右）</span>や、三淵晴員の妻となる娘<span style="font-size: small;">（智慶院）</span>など、<br />
多くの子に恵まれている。<br />
<br />
<br />
<span style="font-size: x-small;">〔参考〕<br />
『実隆公記 巻3』（太洋社、1933年）</span>]]> 
    </content>
    <author>
            <name>東専房</name>
        </author>
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    <id>imawazukan.blog.shinobi.jp://entry/236</id>
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    <published>2026-01-28T19:35:38+09:00</published> 
    <updated>2026-01-28T19:35:38+09:00</updated> 
    <category term="さ～そ" label="さ～そ" />
    <title>真如</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<span style="font-size: x-small;">《病死》　《1496年》　《7月》　《21日》　《享年69歳》</span><br />
<br />
<br />
洛西嵯峨摂取院の尼僧。<br />
父は参議甘露寺房長、母は未詳。<br />
<br />
応仁・文明の乱後、<strong>真如</strong>は越前国にあった摂取院の所領に移住した。<br />
京都に戻らぬまま、<br />
明応5年（1496）7月21日、入滅。69歳。<br />
<br />
<br />
8月10日、江南院龍霄<span style="font-size: small;">（もと参議万里小路春房）</span>が、<br />
従弟の権大納言三条西実隆にこのことを知らせた。<br />
龍霄は<strong>真如</strong>の兄甘露寺親長の実子、実隆は<strong>真如</strong>の姉の子であり、<br />
ふたりは<strong>真如</strong>の甥にあたる。<br />
実隆の母<span style="font-size: small;">（<strong>真如</strong>の姉）</span>はすでに25年前に他界しており、<br />
「女子連子この一人なり。<br />
　今一度相謁せず、無念というべし。」<span style="font-size: small;">（『実隆公記』）</span><br />
と、最後の女性の親族であったのに、再会せぬままになってしまった、<br />
と、<strong>叔母</strong>の死を悲しんでいる。<br />
<br />
15日、実隆は<strong>妹</strong>を喪った叔父親長を見舞っている。<br />
<br />
<br />
<br />
<span style="font-size: x-small;">〔参考〕<br />
『実隆公記 巻3』（太洋社、1933年）　&rarr;<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/1041780/1/141" title="" target="_blank">該当箇所</a></span>]]> 
    </content>
    <author>
            <name>東専房</name>
        </author>
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    <id>imawazukan.blog.shinobi.jp://entry/235</id>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="https://imawazukan.blog.shinobi.jp/Entry/235/" />
    <published>2026-01-24T00:57:13+09:00</published> 
    <updated>2026-01-24T00:57:13+09:00</updated> 
    <category term="あ～お" label="あ～お" />
    <title>梅枝（三条西家の下女）</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<span style="font-size: x-small;">《病死》　《1505年》　《11月》　《7日》　《享年40代》</span><br />
<br />
<br />
三条西家の下女。<br />
文明初年（1470前後）のころから、三条西家に仕えていたらしい。<br />
<br />
<br />
永正2年（1505）11月6日の夜、<br />
<strong>梅枝</strong>は中風<span style="font-size: small;">（脳卒中の類）</span>を発し、人事不省に陥った。<br />
主の三条西実隆は、「不便々々<span style="font-size: small;">（ふびんふびん）</span>」と言いつつも、<br />
瀕死の<strong>梅枝</strong>の身を自邸から出して、今出川辺りの民家に移した<span style="font-size: small;">（『実隆公記』）</span>。<br />
自身に死穢が及ぶことを避けたためであろう。<br />
<br />
翌7日、絶命。<br />
30余年にわたって三条西家に仕えたというから、<br />
40代半ば～後半であったろうか。<br />
主の実隆は、「正直者であった」とその死を悼んでいる<span style="font-size: small;">（『実隆公記』）</span>。<br />
<br />
<br />
<br />
<span style="font-size: x-small;">〔参考〕<br />
『実隆公記 巻4』（太洋社、1935年）　&rarr;<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/1918627/1/247" title="" target="_blank">該当箇所</a></span>]]> 
    </content>
    <author>
            <name>東専房</name>
        </author>
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    <published>2026-01-17T14:34:25+09:00</published> 
    <updated>2026-01-17T14:34:25+09:00</updated> 
    <category term="姓名不詳" label="姓名不詳" />
    <title>高階公俊の妻</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<span style="font-size: x-small;">《病死》　《1097年》　《閏正月》　《18日》　《享年63歳》</span><br />
<br />
<br />
中宮亮高階公俊の妻。<br />
<br />
<br />
永長2年（1097）閏正月16日朝、<br />
中宮亮高階公俊が卒去した。<br />
64歳であった。<br />
その2日前に出家していたというから、<br />
すでに病床にあったのだろう。<br />
<br />
<br />
その2日後の閏正月18日、<br />
公俊の<strong>妻</strong>も卒した。<br />
63歳であった。<br />
夫のあとを追うような死に方は、<br />
「頗る奇怪か」<span style="font-size: small;">（『中右記』）</span><br />
といわれた。<br />
<br />
この<strong>妻</strong>は、日ごろから観音菩薩を篤く信仰し、<br />
臨終の際にも、その名号を念じていた。<br />
絶命の直後、部屋には薫香が満ちたという。<br />
信心から現れた「瑞相」とされた<span style="font-size: small;">（『中右記』）</span>。<br />
<br />
<br />
<br />
<span style="font-size: x-small;">〔参考〕<br />
『大日本古記録 中右記 3』（岩波書店、1999年）</span>]]> 
    </content>
    <author>
            <name>東専房</name>
        </author>
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    <published>2026-01-10T17:54:07+09:00</published> 
    <updated>2026-01-10T17:54:07+09:00</updated> 
    <category term="は～ほ" label="は～ほ" />
    <title>藤原 延子</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<span style="font-size: x-small;">《病死》　《1095年》　《6月》　《9日》　《享年80歳》</span><br />
<br />
<br />
右大臣藤原頼宗の次女で、藤原道長の孫にあたる。<br />
母は内大臣藤原伊周の娘。<br />
幼少期より一条院の皇女脩子内親王に養育された。<br />
<br />
<br />
長久3年（1042）3月22日、<strong>延子</strong>は27歳で後朱雀天皇に入内。<br />
10月9日、女御となって、内裏の麗景殿を居所とし、<br />
<strong>高倉女御</strong>、あるいは<strong>麗景殿女御</strong>と呼ばれた。<br />
当時としては、入内時の年齢が高いのは、<br />
娘の入内をめぐる父親たちのかけひきがあったためのようである。<br />
<br />
長久5年（1044）正月、従四位上に叙され、ほどなく懐妊したが、<br />
翌寛徳2年（1045）正月18日、後朱雀天皇が37歳で崩御してしまった。<br />
<strong>延子</strong>が天皇の女御として過ごしたのは、わずか3年足らずのことであった。<br />
次代の後冷泉天皇が即位すると、<strong>延子</strong>は30歳で内裏を退出し、<br />
4月20日、正子内親王を出産。<br />
<br />
　こぞ<span style="font-size: small;">（去年）</span>よりも色こそ濃けれ萩の花涙の雨にかゝる秋には<span style="font-size: small;">（『今鏡』）</span><br />
<br />
これは、<strong>延子</strong>がその翌年秋に詠んだ歌で、<br />
勅撰集『後拾遺和歌集』にも哀傷の歌として入集している。<br />
<br />
<br />
永承3年（1048）正月に従三位、<br />
永承5年（1050）正月に従二位と昇っており、<br />
父頼宗の存命中は、先帝の女御であっても相応に重んじられたようである。<br />
また、<strong>延子</strong>は音楽と和歌に堪能だったらしく、<br />
永承5年（1050）4月には歌合を催すなど、文化面でも存在感をもっていたとみられる。<br />
康平3年（1060）4月、<strong>延子</strong>は父より封戸500烟を譲与されている。<br />
<br />
<br />
延久5年（1073）5月12日、<strong>延子</strong>は58歳で病気を理由に出家。<br />
その後の<strong>延子</strong>の動向は、あまり伝わらない。<br />
寛治7年（1093）11月26日に、近江園城寺で堂供養をしているが、<br />
夫後朱雀院か父頼宗の追悼のためだろうか。<br />
<br />
<br />
そして、<br />
嘉保2年（1095）6月9日夜半、<br />
<strong>延子</strong>は「霍乱」により、にわかに薨じた<span style="font-size: small;">（『中右記』）</span>。<br />
80歳だったという。<br />
「霍乱」とは、暑気あたりか食あたりなどのこと。<br />
急死というから、高齢でもおおむね健康だったのだろう。<br />
葬礼のようすを伝える史料はない。<br />
<br />
後朱雀院の没後50年のこと。<br />
時代はすでに摂関政治のときを過ぎて、院政の時代となっていた。<br />
<br />
<br />
<br />
<span style="font-size: x-small;">〔参考〕<br />
『大日本古記録 中右記 2』（岩波書店、1996年）<br />
竹鼻績全訳注『今鏡 下』（講談社学術文庫、1984年）<br />
高橋由記「<a href="https://kokubunken.repo.nii.ac.jp/records/3387" title="" target="_blank">後朱雀天皇とキサキの文学的営為・文化圏についての一考察―女御延子を中心に―</a>」（研究代表者福田景道『平成25年度～平成27年度国文学研究資料館共同研究（特定研究）成果報告書 歴史叙述と文学』国文学研究資料館、2017年）</span>]]> 
    </content>
    <author>
            <name>東専房</name>
        </author>
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    <id>imawazukan.blog.shinobi.jp://entry/232</id>
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    <published>2026-01-07T00:52:06+09:00</published> 
    <updated>2026-01-07T00:52:06+09:00</updated> 
    <category term="は～ほ" label="は～ほ" />
    <title>藤原 親子</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<span style="font-size: x-small;">《病死》　《1093年》　《10月》　《21日》　《享年73歳》</span><br />
<br />
<br />
大舎人頭藤原親国の娘。母は未詳。<br />
春宮大進藤原隆経の妻となり、息子顕季を産んだ。<br />
<br />
<br />
天喜元年（1053）6月、<br />
春宮尊仁親王<span style="font-size: small;">（のち後三条天皇）</span>に第一皇子貞仁が生まれると、<br />
<strong>親子</strong>は33歳でその乳母のひとりに選ばれた。<br />
乳母にはほかに、藤原資業の娘もいたが、こちらは貞仁が5歳のときに死去し、<br />
<strong>親子</strong>が「唯一の御乳母」となった<span style="font-size: small;">（『中右記』）</span>。<br />
なお、貞仁の実母藤原茂子も、康平5年（1062）6月に薨じている。<br />
<br />
<br />
延久4年（1073）12月、<strong>親子</strong>53歳のとき。<br />
貞仁親王は、父後三条天皇の退位を受けて皇位を嗣いだ<span style="font-size: small;">（白河天皇）</span>。<br />
<strong>親子</strong>は天皇の乳母として従五位下から正三位に昇り、<br />
白河天皇の退位後も重んじられて、<br />
跡を嗣いだ堀河天皇も、父白河院の仙洞御所に次いで、<br />
<strong>親子</strong>のもとに行幸している。<br />
従二位に叙されたのち、<strong>親子</strong>は落飾し、<br />
法勝寺の南東にお堂を建てて、念仏の日々を送った。<br />
<br />
寛治7年（1093）9月中頃、<strong>親子</strong>は病に臥した。<br />
10月4日夕刻、白河上皇はわずかの供を連れて、洛東の<strong>親子</strong>を見舞った。<br />
<strong>親子</strong>の容態は思わしくなかったようで、<br />
10日にも白河上皇の見舞いを受けている。<br />
<br />
21日朝、<strong>親子</strong>薨ず。73歳。<br />
「上皇の御愁歎、殊に深しと云々」<span style="font-size: small;">（『中右記』）</span>。<br />
白河上皇はこのとき40歳。<br />
なお、このころ京都では疱瘡<span style="font-size: small;">（天然痘）</span>が流行していたようだが、<br />
<strong>親子</strong>が罹患していたかは定かでない。<br />
<br />
<br />
<strong>親子</strong>の息子で、白河院の乳母子<span style="font-size: small;">（乳兄弟）</span>にあたる藤原顕季は、<br />
院の信任も厚く、受領を歴任して財をなし、正三位まで昇った。<br />
受領系の院近臣の典型とされるひとりである。<br />
その子孫からは、四条家や山科家、六条藤家などが出て、大いに栄えた。<br />
その礎に、院の乳母であった<strong>親子</strong>の存在があったことは、いうまでもない。<br />
<br />
<br />
<br />
<span style="font-size: x-small;">〔参考〕<br />
『大日本古記録 中右記 1』（岩波書店、1993年）<br />
竹鼻績全訳注『今鏡 上』（講談社学術文庫、1984年）<br />
田端泰子『乳母の力―歴史を支えた女たち―』（吉川弘文館、歴史文化ライブラリー、2005年）</span>]]> 
    </content>
    <author>
            <name>東専房</name>
        </author>
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    <id>imawazukan.blog.shinobi.jp://entry/231</id>
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    <published>2025-12-26T19:02:03+09:00</published> 
    <updated>2025-12-26T19:02:03+09:00</updated> 
    <category term="た～と" label="た～と" />
    <title>待賢門院三条局</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<span style="font-size: x-small;">《誅殺》　《1138年》　《11月》　《9日》　《享年20代》</span><br />
<br />
<br />
<span style="color: #ff0000;">*****性暴力とフェミサイドに関する記事です。閲覧にご注意ください。*****</span><br />
<br />
<br />
参議藤原家政の娘。<br />
鳥羽上皇の后である待賢門院藤原璋子に仕え、<br />
鳥羽上皇の皇女妍子内親王を産んだ。<br />
ただし、出産まもないころか、長承2年（1133）6月に、<br />
「<strong>母<span style="font-size: small;">（三条局）</span></strong>の心、すこぶる穏やかならず」として、<br />
鳥羽上皇から娘の同居を却けられている<span style="font-size: small;">（『長秋記』）</span>。<br />
<br />
<br />
<br />
保延4年（1138）11月9日の夜、<br />
<strong>三条局</strong>は参籠のためか、伏見稲荷近くのお堂にいた。<br />
そこで乳母子の河内二郎清原盛資に「密通」を迫られ、<br />
拒んだところ、殺害された<span style="font-size: small;">（『帝王編年記』）</span>。<br />
<br />
父家政の生没年（1080-1115）と娘妍子内親王の生年（1133以前）からして、<br />
20代半ばから30歳前後であったろうか。<br />
<br />
<br />
犯人の河内二郎盛資は捕えられ、獄中で死去。<br />
その父の河内守清原俊資は、縁坐により解官のうえ「移郷」<span style="font-size: small;">（強制移住）</span>に処され、<br />
12月7日夜、検非違使によって逢坂の関の外へ放逐された<span style="font-size: small;">（『上卿故実』）</span>。<br />
<br />
<br />
中世における乳母子<span style="font-size: small;">（乳兄弟）</span>とのつながりは、擬制的な血縁関係として重視され、<br />
中世初頭の政治史においても、とりわけ権力者の乳母子は重要な存在とされている。<br />
だが、<br />
乳母子との関係が、ときとして性暴力に発展し、フェミサイドを引き起こすこともあったことに、<br />
注意が必要である。<br />
<br />
<br />
<br />
<span style="font-size: x-small;">〔参考〕<br />
『群書類従 第5輯（公事部）』（経済雑誌社、1905年）<br />
『新訂増補国史大系 扶桑略紀 帝王編年記』（吉川弘文館、1932年）<br />
『新訂増補国史大系 尊卑分脈 第1篇』（吉川弘文館、1957年）<br />
『増補史料大成 長秋記』（臨川書店、1981年）<br />
竹鼻績全訳注『今鏡 下』（講談社学術文庫、1984年）<br />
角田文衛『日本の後宮 本編』（学燈社、1973年）</span>]]> 
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    <author>
            <name>東専房</name>
        </author>
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