死に様データベース
《病死》 《1447年》 《7月》 《12日》 《享年15歳》
権中納言広橋兼郷の三男。
祖父広橋兼宣は、室町殿足利義持の信任を得てその手足となり、
ついには准大臣に昇るなど、京都政界で権勢を振るった。
父兼郷もその勢いを継いで、
一時は本宗家の日野家家督を襲うほどだったが、
将軍足利義教の勘気を蒙って失脚し、
文安3年(1446)4月、失意のうちにこの世を去った。
長兄春龍丸は父に先だって夭逝しており、
広橋家の命運は、
16歳の次兄綱光と14歳の阿婦丸の、若き兄弟の肩にかかっていたのである。
「大様のもの」(『建内記』)と評されるような、ぼんやりした性格の兄綱光と違い、
阿婦丸の性格は父兼郷に似ていたという。
才気煥発で抜け目がなく、人を圧するような面があったのだろうか。
人々は阿婦丸を怖れたという。
中年の後花園天皇はこの阿婦丸の才能を愛したようで、側近くに仕えさせた。
阿婦丸は連日のように内裏に祗候し、
兄の綱光も阿婦丸に、天皇への取り次ぎを求めている。
文安4年(1447)、
室町幕府政治の混乱と、おりしもの天候不順などで、
京都近郊では土一揆が頻発していた。
さらに「三日病」とよばれる咳病も流行し、社会は混迷の度を増していた。
6月半ば、綱光・阿婦丸兄弟もこれに罹った。
綱光はほどなく癒えたものの、阿婦丸はついに癒えず、
翌7月12日、わずか15歳で世を去った。
同日、同じく後花園天皇に近仕していた高倉永知も、18歳で死去している。
4か月後の11月16日、
後花園天皇は、典侍綱子(阿婦丸の伯母)の申し出もあって、
阿婦丸の詠歌を宸筆で書き留め、その末尾に次の御製を記した。
わかのうらに跡のみ残るもしほ草 かきあつめてもぬるゝ袖かな
阿婦丸亡きあとの悲しみのほどがしれようか。
これを聞いた兄綱光は、
「面目のいたりであり、
過分のほどはなかなか申し上げようもない。
とくに御製をいただいたことは、格別である。
阿婦丸も眉目のいたりと、さぞありがたく思ったことだろう。」(『綱光公記』)
と喜び、
「猶々殊勝々々、思出泪落袖々々々、」(同上)
と偲んでいる。
もし阿婦丸が長命であったら、
室町時代政治史はいかばかりか変わっていたろうか。
〔参考〕
『大日本古記録 建内記 9』(岩波書店、1982年)
『史料纂集 師郷記 第4』(続群書類従完成会、1987年)
遠藤珠紀・須田牧子・田中奈保・桃崎有一郎「史料紹介 綱光公記―文安三年・四年暦記」(『東京大学史料編纂所研究紀要』20、2010年)
権中納言広橋兼郷の三男。
祖父広橋兼宣は、室町殿足利義持の信任を得てその手足となり、
ついには准大臣に昇るなど、京都政界で権勢を振るった。
父兼郷もその勢いを継いで、
一時は本宗家の日野家家督を襲うほどだったが、
将軍足利義教の勘気を蒙って失脚し、
文安3年(1446)4月、失意のうちにこの世を去った。
長兄春龍丸は父に先だって夭逝しており、
広橋家の命運は、
16歳の次兄綱光と14歳の阿婦丸の、若き兄弟の肩にかかっていたのである。
「大様のもの」(『建内記』)と評されるような、ぼんやりした性格の兄綱光と違い、
阿婦丸の性格は父兼郷に似ていたという。
才気煥発で抜け目がなく、人を圧するような面があったのだろうか。
人々は阿婦丸を怖れたという。
中年の後花園天皇はこの阿婦丸の才能を愛したようで、側近くに仕えさせた。
阿婦丸は連日のように内裏に祗候し、
兄の綱光も阿婦丸に、天皇への取り次ぎを求めている。
文安4年(1447)、
室町幕府政治の混乱と、おりしもの天候不順などで、
京都近郊では土一揆が頻発していた。
さらに「三日病」とよばれる咳病も流行し、社会は混迷の度を増していた。
6月半ば、綱光・阿婦丸兄弟もこれに罹った。
綱光はほどなく癒えたものの、阿婦丸はついに癒えず、
翌7月12日、わずか15歳で世を去った。
同日、同じく後花園天皇に近仕していた高倉永知も、18歳で死去している。
4か月後の11月16日、
後花園天皇は、典侍綱子(阿婦丸の伯母)の申し出もあって、
阿婦丸の詠歌を宸筆で書き留め、その末尾に次の御製を記した。
わかのうらに跡のみ残るもしほ草 かきあつめてもぬるゝ袖かな
阿婦丸亡きあとの悲しみのほどがしれようか。
これを聞いた兄綱光は、
「面目のいたりであり、
過分のほどはなかなか申し上げようもない。
とくに御製をいただいたことは、格別である。
阿婦丸も眉目のいたりと、さぞありがたく思ったことだろう。」(『綱光公記』)
と喜び、
「猶々殊勝々々、思出泪落袖々々々、」(同上)
と偲んでいる。
もし阿婦丸が長命であったら、
室町時代政治史はいかばかりか変わっていたろうか。
〔参考〕
『大日本古記録 建内記 9』(岩波書店、1982年)
『史料纂集 師郷記 第4』(続群書類従完成会、1987年)
遠藤珠紀・須田牧子・田中奈保・桃崎有一郎「史料紹介 綱光公記―文安三年・四年暦記」(『東京大学史料編纂所研究紀要』20、2010年)
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《病死》 《1476年》 《6月》 《15日》 《享年48歳》
西行の和歌、
ねがはくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ
にもあるように、
中世の人々は、
15日の夜、つまり満月の夜に往生することを願った、という。
前内大臣日野勝光も、15日往生を求めたひとりだった。
日野流の分家裏松政光の嫡男として生まれた日野勝光の幼少期は、
祖父義資の横死や宗家の有光の失脚、有光の子資親の処刑など、
日野家受難の時代であった。
勝光は、廃絶した日野宗家の家督を継いで、その再興を果たすと、
やがて受難の時代は去り、
勝光は順調に昇進したばかりでなく、
妹富子が、8代将軍足利義政の正室、9代将軍義尚の母、
さらに、娘が義尚の正室となり、
将軍家の外戚という、かつての日野家の位置を取り戻した。
そればかりか、
応仁・文明の乱という政治の混乱期にも暗躍し、
足利義政・義尚の側近くにあって、大いに権勢をふるった。
蓄財もすさまじく、
「和漢の重宝を山岳の如く集め置」(『長興宿祢記』)いた。
文明8年(1476)4月下旬、
勝光は「雑熱」(『親長卿記』『実隆公記』)に冒されていた。
原因は、「腫物癰」(『長興宿祢記』)だったらしい。
医師は大事ないと診断したが、容体は悪化の一途をたどったようで、
5月10日頃には、「難儀」(『親長卿記』)、「危急之体」(『実隆公記』)となり、
妹の富子が兄のもとに駆けつけた。
14日には、平癒のため陰陽師によって泰山府君祭が行われている。
この頃から、勝光は死への準備を着々と進めている。
往生のことや葬儀のことなどを、あれこれと差配し、
300貫という多額のお布施を準備している。
また、5月16日には、日野家ではじめて左大臣に任じられた。
日野家の家格では、本来左大臣に昇ることはできないが、
足利将軍家の執奏によって、はじめて実現したのである。
6月に入ると、病状は一時安定し、食欲も回復したようだが、
8日夕、医師竹田昭慶の処方した薬を服用したところ、
たちまち容体は一変した。
勝光は、
もし今回の病で命ながらえるようなことがあれば、竹田昭慶の子孫は医師をやめよ(『雅久宿祢記』)
と、周囲に言い散らしていたといい、
勝光の病状安定に慌てた昭慶が毒を盛った、との噂が流れた。
勝光の発言の真意はよくわからないが、
入念な往生の準備に水を差されることが、嫌だったのだろうか。
10日、「腫物」は病勢を増し、
ついに勝光は、目の前の人を認知することすらできなくなった。
11日には、視線を交わす程度のことはできたようだが、
14日に、義政・富子・義尚一家が見舞いに訪れたのを、理解していたかどうか。
かくして、6月15日未明、
知恩寺の僧4、5人が念仏を勧めるなか、
南枕で西を向いて横たわり、8歳の嫡男政資が水を供える前で、
勝光は息を引き取った。
享年48歳。
年来勝光は、15日に往生したいと願っていたという。
「不思議の事なり。」(『親長卿記』)
なお、供水は死後に行うことだが、
幼い政資が「死面」(『雅久宿祢記』)を怖がったため、
勝光が眠っているときに行ったのだという。
明け方、遺体は知恩寺に移され、
19日辰の刻(朝8時頃)、葬儀が行われて、
同寺法誉上人の沙汰により、千本歓喜寺に土葬された。
院号は、遺言により「唯称院」。
所領の分配はこれも遺言により、吉田兼倶に一任された。
朝儀の停滞を避けるため、
公家全般は、触穢としない旨が通達されたが、
当然ながら、日野一家の人々は触穢とされた。
ただし、日野家のうちでも柳原量光のみは、
父資綱が神事にかかわる関係から、触穢とされていない。
義政は、乙穢(穢れの及ぶ範囲に関する等級のひとつ)とされている。
大乗院尋尊は、
勝光が左大臣に任じられてから、30日に満たずに死んだのを、
「希有の神罰」(『大乗院寺社雑事記』)と酷評している。
敵の多い人生ではあっただろうけれど、
これはいささか言いがかりのような気がしなくもない。
〔参考文献〕
黒田智「弘法大師の十五夜―願われた死の日時―」 (藤巻和宏編『聖地と聖人の東西―起源はいかに語られるか―』勉誠出版 2011年)
『大日本史料』第8編之8 (東京大学出版会 1970年)
西行の和歌、
ねがはくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ
にもあるように、
中世の人々は、
15日の夜、つまり満月の夜に往生することを願った、という。
前内大臣日野勝光も、15日往生を求めたひとりだった。
日野流の分家裏松政光の嫡男として生まれた日野勝光の幼少期は、
祖父義資の横死や宗家の有光の失脚、有光の子資親の処刑など、
日野家受難の時代であった。
勝光は、廃絶した日野宗家の家督を継いで、その再興を果たすと、
やがて受難の時代は去り、
勝光は順調に昇進したばかりでなく、
妹富子が、8代将軍足利義政の正室、9代将軍義尚の母、
さらに、娘が義尚の正室となり、
将軍家の外戚という、かつての日野家の位置を取り戻した。
そればかりか、
応仁・文明の乱という政治の混乱期にも暗躍し、
足利義政・義尚の側近くにあって、大いに権勢をふるった。
蓄財もすさまじく、
「和漢の重宝を山岳の如く集め置」(『長興宿祢記』)いた。
文明8年(1476)4月下旬、
勝光は「雑熱」(『親長卿記』『実隆公記』)に冒されていた。
原因は、「腫物癰」(『長興宿祢記』)だったらしい。
医師は大事ないと診断したが、容体は悪化の一途をたどったようで、
5月10日頃には、「難儀」(『親長卿記』)、「危急之体」(『実隆公記』)となり、
妹の富子が兄のもとに駆けつけた。
14日には、平癒のため陰陽師によって泰山府君祭が行われている。
この頃から、勝光は死への準備を着々と進めている。
往生のことや葬儀のことなどを、あれこれと差配し、
300貫という多額のお布施を準備している。
また、5月16日には、日野家ではじめて左大臣に任じられた。
日野家の家格では、本来左大臣に昇ることはできないが、
足利将軍家の執奏によって、はじめて実現したのである。
6月に入ると、病状は一時安定し、食欲も回復したようだが、
8日夕、医師竹田昭慶の処方した薬を服用したところ、
たちまち容体は一変した。
勝光は、
もし今回の病で命ながらえるようなことがあれば、竹田昭慶の子孫は医師をやめよ(『雅久宿祢記』)
と、周囲に言い散らしていたといい、
勝光の病状安定に慌てた昭慶が毒を盛った、との噂が流れた。
勝光の発言の真意はよくわからないが、
入念な往生の準備に水を差されることが、嫌だったのだろうか。
10日、「腫物」は病勢を増し、
ついに勝光は、目の前の人を認知することすらできなくなった。
11日には、視線を交わす程度のことはできたようだが、
14日に、義政・富子・義尚一家が見舞いに訪れたのを、理解していたかどうか。
かくして、6月15日未明、
知恩寺の僧4、5人が念仏を勧めるなか、
南枕で西を向いて横たわり、8歳の嫡男政資が水を供える前で、
勝光は息を引き取った。
享年48歳。
年来勝光は、15日に往生したいと願っていたという。
「不思議の事なり。」(『親長卿記』)
なお、供水は死後に行うことだが、
幼い政資が「死面」(『雅久宿祢記』)を怖がったため、
勝光が眠っているときに行ったのだという。
明け方、遺体は知恩寺に移され、
19日辰の刻(朝8時頃)、葬儀が行われて、
同寺法誉上人の沙汰により、千本歓喜寺に土葬された。
院号は、遺言により「唯称院」。
所領の分配はこれも遺言により、吉田兼倶に一任された。
朝儀の停滞を避けるため、
公家全般は、触穢としない旨が通達されたが、
当然ながら、日野一家の人々は触穢とされた。
ただし、日野家のうちでも柳原量光のみは、
父資綱が神事にかかわる関係から、触穢とされていない。
義政は、乙穢(穢れの及ぶ範囲に関する等級のひとつ)とされている。
大乗院尋尊は、
勝光が左大臣に任じられてから、30日に満たずに死んだのを、
「希有の神罰」(『大乗院寺社雑事記』)と酷評している。
敵の多い人生ではあっただろうけれど、
これはいささか言いがかりのような気がしなくもない。
〔参考文献〕
黒田智「弘法大師の十五夜―願われた死の日時―」 (藤巻和宏編『聖地と聖人の東西―起源はいかに語られるか―』勉誠出版 2011年)
『大日本史料』第8編之8 (東京大学出版会 1970年)
《病死》 《1426年》 《10月》 《16日》 《享年49歳》
室町幕府管領。
摂津・阿波・讃岐守護。
管領在任中には、
伊勢北畠満雅の討伐や、
関東の上杉禅秀の乱、
その後の鎌倉公方足利持氏との関係悪化、
対馬応永の外寇、といった地方の混乱や、
将軍連枝足利義嗣の出奔、
将軍近習富樫満成の失脚など、幕政の動揺もあったが、
将軍足利義持を支えて、乗り切っている。
応永33年(1426)10月上旬、
細川満元(法名道歓)は、腫物に悩まされていた。
それもやや悪性のものであったらしい。
宿老の病状を心配した室町殿足利義持は、見舞いにゆこうとし、
三宝院満済に、治癒の祈祷と併せて、
予め満元の様子を見てくることを命じた。
10月7日、
やってきた満済に面会した満元は、
それほど苦しそうな様子ではなかったが、
視界にやや不調があったという。
翌8日、
義持は満元を見舞い、腫物の様子を見た。
満元は、10月5日より、
家臣の安富宝城が「よく効く」として進上した薬を使用していたが、
どうもこれがよくなかったらしい、
という話が義持周辺で言われた。
医師の坂胤能が、
「この薬のこと、不審なり」(『満済准后日記』)
と疑義を呈したという。
こうした満元の病状に、幕府首脳は動揺したようである。
「およそ〈細川〉京兆入道(満元)のこと、
天下の重人なり。
ご政道等一方の意見者の間、
御所様(足利義持)かたがたご仰天か。」(『満済准后日記』)
14日、
満元の腫物は悪化した。
医師坂胤能は、「難儀」と診ている。
義持は、再び見舞いにゆこうとし、
またしても、先んじて満済を遣わした。
訪れた満済に、満元は起き上がって対面した。
意識等は変わりなかったが、
病状は相当なものであった。
まもなく訪れた義持は、
薬を違えたことを責めたが、
もはや後の祭りとせざるを得なかった。
この日、義持は、
嫡男持元へ、満元の跡目を安堵した。
15日、
すでに先が長くないことを悟ったか、
満元は辞世の歌を詠んでいる。
ことし又命の露のそめいだす
座のもみぢを人や見なれん (『満済准后日記』)
16日午後(午の刻の終わり〈午後1時頃〉とも、申の刻の初め〈夕方4時頃〉とも)、
満元は、
諸仏無増処
衆生又不滅 (『満済准后日記』)
の2句の偈をしたため、端座入滅。
享年49歳。
「平生一義神妙の仁か。
御所様(足利義持)もってのほかのご周章と云々。」(『満済准后日記』)
人々は、3日間遊興を慎んだという。
義持は、焼香にゆくつもりであった。
しかし、
義持が、焼香のために細川亭に入ると、
室町殿は30日間の触穢となる。
そこで、
公家や諸門跡には、室町殿に参入しないよう布達された。
ところが、比叡山から、
翌年正月の山門礼拝講で頭人をつとめる義持本人が、触穢になっては困る、
との訴えがあり、
義持自身の焼香も中止され、
荼毘への参列も取りやめとなった。
「天下の重人」「神妙の仁」(『満済准后日記』)
「執政の器」「古昔の大臣に異なるべからざるか」(『薩戒記』)
と評価の高い満元であったが、
死後の弔いは、現実的な問題で処理されている。
なんとも不憫であるような。
なお、
献じた薬が問題視され、義持の不興を買った安富宝城は、
つとめていた東寺領備中国新見荘の代官を辞め、
高野山に隠遁したという。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『大日本古記録 薩戒記 3』 (岩波書店 2006年)
東京大学史料編纂所データベース
室町幕府管領。
摂津・阿波・讃岐守護。
管領在任中には、
伊勢北畠満雅の討伐や、
関東の上杉禅秀の乱、
その後の鎌倉公方足利持氏との関係悪化、
対馬応永の外寇、といった地方の混乱や、
将軍連枝足利義嗣の出奔、
将軍近習富樫満成の失脚など、幕政の動揺もあったが、
将軍足利義持を支えて、乗り切っている。
応永33年(1426)10月上旬、
細川満元(法名道歓)は、腫物に悩まされていた。
それもやや悪性のものであったらしい。
宿老の病状を心配した室町殿足利義持は、見舞いにゆこうとし、
三宝院満済に、治癒の祈祷と併せて、
予め満元の様子を見てくることを命じた。
10月7日、
やってきた満済に面会した満元は、
それほど苦しそうな様子ではなかったが、
視界にやや不調があったという。
翌8日、
義持は満元を見舞い、腫物の様子を見た。
満元は、10月5日より、
家臣の安富宝城が「よく効く」として進上した薬を使用していたが、
どうもこれがよくなかったらしい、
という話が義持周辺で言われた。
医師の坂胤能が、
「この薬のこと、不審なり」(『満済准后日記』)
と疑義を呈したという。
こうした満元の病状に、幕府首脳は動揺したようである。
「およそ〈細川〉京兆入道(満元)のこと、
天下の重人なり。
ご政道等一方の意見者の間、
御所様(足利義持)かたがたご仰天か。」(『満済准后日記』)
14日、
満元の腫物は悪化した。
医師坂胤能は、「難儀」と診ている。
義持は、再び見舞いにゆこうとし、
またしても、先んじて満済を遣わした。
訪れた満済に、満元は起き上がって対面した。
意識等は変わりなかったが、
病状は相当なものであった。
まもなく訪れた義持は、
薬を違えたことを責めたが、
もはや後の祭りとせざるを得なかった。
この日、義持は、
嫡男持元へ、満元の跡目を安堵した。
15日、
すでに先が長くないことを悟ったか、
満元は辞世の歌を詠んでいる。
ことし又命の露のそめいだす
座のもみぢを人や見なれん (『満済准后日記』)
16日午後(午の刻の終わり〈午後1時頃〉とも、申の刻の初め〈夕方4時頃〉とも)、
満元は、
諸仏無増処
衆生又不滅 (『満済准后日記』)
の2句の偈をしたため、端座入滅。
享年49歳。
「平生一義神妙の仁か。
御所様(足利義持)もってのほかのご周章と云々。」(『満済准后日記』)
人々は、3日間遊興を慎んだという。
義持は、焼香にゆくつもりであった。
しかし、
義持が、焼香のために細川亭に入ると、
室町殿は30日間の触穢となる。
そこで、
公家や諸門跡には、室町殿に参入しないよう布達された。
ところが、比叡山から、
翌年正月の山門礼拝講で頭人をつとめる義持本人が、触穢になっては困る、
との訴えがあり、
義持自身の焼香も中止され、
荼毘への参列も取りやめとなった。
「天下の重人」「神妙の仁」(『満済准后日記』)
「執政の器」「古昔の大臣に異なるべからざるか」(『薩戒記』)
と評価の高い満元であったが、
死後の弔いは、現実的な問題で処理されている。
なんとも不憫であるような。
なお、
献じた薬が問題視され、義持の不興を買った安富宝城は、
つとめていた東寺領備中国新見荘の代官を辞め、
高野山に隠遁したという。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『大日本古記録 薩戒記 3』 (岩波書店 2006年)
東京大学史料編纂所データベース
《自害》 《1414年》 《11月》 《29日》 《享年不明》
室町幕府管領細川氏の一族。
社会が安定を迎えていた将軍足利義持の時代のことである。
管領細川氏の一族、細川宮内少輔は、
東大寺の所領を押領し、混乱を起こしていた。
度重なる東大寺の訴えを受けた室町幕府は、
事態を重く見て、宮内少輔に押領停止を命じた。
しかし、
宮内少輔は幕命を軽んじて、従わず、
それどころか、
暴言を吐くなど、反抗する態度をとり続けた。
事態の収束を図る将軍義持は、
管領細川満元へ密命を下す。
応永21年(1414)11月29日明け方、
宮内少輔は惣領満元に攻められ、切腹。
安定へ向かう社会において、
それを乱す者の処分に容赦はない。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
東京大学史料編纂所データベース(大日本史料データベース)
室町幕府管領細川氏の一族。
社会が安定を迎えていた将軍足利義持の時代のことである。
管領細川氏の一族、細川宮内少輔は、
東大寺の所領を押領し、混乱を起こしていた。
度重なる東大寺の訴えを受けた室町幕府は、
事態を重く見て、宮内少輔に押領停止を命じた。
しかし、
宮内少輔は幕命を軽んじて、従わず、
それどころか、
暴言を吐くなど、反抗する態度をとり続けた。
事態の収束を図る将軍義持は、
管領細川満元へ密命を下す。
応永21年(1414)11月29日明け方、
宮内少輔は惣領満元に攻められ、切腹。
安定へ向かう社会において、
それを乱す者の処分に容赦はない。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
東京大学史料編纂所データベース(大日本史料データベース)
《誅殺》 《1415年》 《8月》 《26日》 《享年62歳》
将軍足利義持の近習。
応永22年(1415)8月26日、
京都新日吉社の笠懸馬場にて、喧嘩が起こった。
一方は、将軍義持の近習畠山貞清、法名常忠、62歳。
もう一方は、同じく将軍近習小笠原満長の子二郎、19歳。
喧嘩は刃傷沙汰に発展し、
刺し違えたか、2人はその場で死んだ。
そこで収まらないのが中世の喧嘩。
貞清の家臣や子どもたちは、
二郎の父小笠原満長の屋敷へ攻め寄せた。
双方、死傷者を出したが、
やがて将軍義持が来たことで、退散。
9月2日、貞清は荼毘にふされた。
理由は何だかわからぬが、
老人と若者の喧嘩とはこれ如何に。
〔参照〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
東京大学史料編纂所データベース(大日本史料総合データベース)
将軍足利義持の近習。
応永22年(1415)8月26日、
京都新日吉社の笠懸馬場にて、喧嘩が起こった。
一方は、将軍義持の近習畠山貞清、法名常忠、62歳。
もう一方は、同じく将軍近習小笠原満長の子二郎、19歳。
喧嘩は刃傷沙汰に発展し、
刺し違えたか、2人はその場で死んだ。
そこで収まらないのが中世の喧嘩。
貞清の家臣や子どもたちは、
二郎の父小笠原満長の屋敷へ攻め寄せた。
双方、死傷者を出したが、
やがて将軍義持が来たことで、退散。
9月2日、貞清は荼毘にふされた。
理由は何だかわからぬが、
老人と若者の喧嘩とはこれ如何に。
〔参照〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
東京大学史料編纂所データベース(大日本史料総合データベース)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
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没年 1400~1429
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没年 1430~1459
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没年 1460~1499
没日
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某日 |
享年 ~40代
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本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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