死に様データベース
《病死》 《1504年》 《正月》 《14日》 《享年70歳》
内裏(後花園・後土御門天皇)の女房。勾当内侍、民部卿典侍。
藤原南家の高倉家の出身。高倉範綱の娘で、四辻季春の養女となった。
春子は文亀3年(1503)末ごろより病に臥し、
翌4年(1504)正月8日夜、内裏を退去した。
このころ、内裏女房のうちで体をこわす者が多く、
新大納言典侍(勧修寺藤子)も、正月5日夜に内裏を退去、
伊予局(半井就子)、大納言典侍(広橋守子)も病により役目を負えなくなっていた。
流行病があったのだろうか。
正月12日、新大納言典侍は無事回復して内裏に復帰したが、
14日戌の刻(夜8時頃)、春子は帰らぬ人となった。
70歳。
永享7年(1435)生まれの春子は、10歳を過ぎた頃には宮仕えを始め、
文正元年(1466)4月、勾当内侍として従五位上に叙された。
文亀元年(1501)2月に、勾当内侍を辞して典侍に昇っている。
50年以上にわたる宮仕えは、応仁・文明の乱などにより、
およそ安泰とはいえないものだっただろう。
それでも高齢まで、しかも他界の直前までつとめあげたことは、好運だったといえようか。
なお、実家の高倉家は、春子の兄弟範音の代でひとたび断絶したが、
春子の義兄弟四辻季経の息子範久が相続することで、一応の再興を見た。
〔参考〕
『大日本古記録 二水記 1』(岩波書店、1989年)
吉野芳恵「室町時代の禁裏の女房―勾当内侍を中心として―」(『國學院大學大學院紀要―文学研究科―』13、1982年)
松薗斉『中世禁裏女房の研究』(思文閣出版、2018年)
内裏(後花園・後土御門天皇)の女房。勾当内侍、民部卿典侍。
藤原南家の高倉家の出身。高倉範綱の娘で、四辻季春の養女となった。
春子は文亀3年(1503)末ごろより病に臥し、
翌4年(1504)正月8日夜、内裏を退去した。
このころ、内裏女房のうちで体をこわす者が多く、
新大納言典侍(勧修寺藤子)も、正月5日夜に内裏を退去、
伊予局(半井就子)、大納言典侍(広橋守子)も病により役目を負えなくなっていた。
流行病があったのだろうか。
正月12日、新大納言典侍は無事回復して内裏に復帰したが、
14日戌の刻(夜8時頃)、春子は帰らぬ人となった。
70歳。
永享7年(1435)生まれの春子は、10歳を過ぎた頃には宮仕えを始め、
文正元年(1466)4月、勾当内侍として従五位上に叙された。
文亀元年(1501)2月に、勾当内侍を辞して典侍に昇っている。
50年以上にわたる宮仕えは、応仁・文明の乱などにより、
およそ安泰とはいえないものだっただろう。
それでも高齢まで、しかも他界の直前までつとめあげたことは、好運だったといえようか。
なお、実家の高倉家は、春子の兄弟範音の代でひとたび断絶したが、
春子の義兄弟四辻季経の息子範久が相続することで、一応の再興を見た。
〔参考〕
『大日本古記録 二水記 1』(岩波書店、1989年)
吉野芳恵「室町時代の禁裏の女房―勾当内侍を中心として―」(『國學院大學大學院紀要―文学研究科―』13、1982年)
松薗斉『中世禁裏女房の研究』(思文閣出版、2018年)
PR
《病死》 《1329年》 《9月》 《24日》 《享年70代》
北条実時(金沢家2代)の側妻、金沢北条家の女房。
出自は未詳。
将軍宗尊親王の女房で、同じく実時の側妻のひとりであった帥局の養女となったとされる。
「谷殿(やつどの)」の呼称は、居所にちなんだものとおぼしく、
建治2年(1276)の夫実時の没に際して、出家して法名永忍を号したか。
その後、鎌倉極楽寺の近くに庵室を構えたようだが、
徳治元年(1306)ごろ、
極楽寺の火災により延焼する不遇に見舞われている。
永忍に子はなかったようで、
慈眼房なる僧侶を養子にしたが、正和4年(1315)ごろに先立たれ、
のち、実時の孫金沢貞顕を養子とした。
下総国下河辺荘の河妻・前林両郷(現・茨城県五霞町・古河市)や、
信濃国太田荘の石村・大倉両郷(現・長野市)を領し、これらを貞顕に譲った。
元徳元年(1329)9月24日、病没。
実時との関係からすれば、若くても70歳前後だったと思われる。
4年後の貞顕やその他北条一門の運命など、知らずによかったというべきか。
養子の貞顕は富士大宮司に諮問して、120日の間、養母の喪に服した。
貞顕がそのことを、六波羅探題南方だった息子の貞将かに伝えた書状(「金沢文庫文書」)には、
正中の変にもかかわった土岐頼員の誅殺事件についても触れられており、
当時の不穏な世相をうかがわせる。
翌月から翌年にかけて、
貞顕はたびたび永忍の菩提を弔う法要を行っている。
称名寺所蔵(神奈川県立金沢文庫保管)の「称名寺絵図」によれば、
谷殿の墓は、金沢北条氏の菩提寺だった同寺境内北東の実時の墓に並んで建てられている。
〔参考〕
永井晋『金沢北条氏の研究』(八木書店、2006年)
同「[史料紹介]称名寺所蔵『聖天 五』紙背文書について」(『東京大学史料編纂所研究紀要』24、2014年)
『特別展 よみがえる中世のアーカイブズ―いまふたたび出会う古文書たち―』(神奈川県立金沢文庫、2021年)
北条実時(金沢家2代)の側妻、金沢北条家の女房。
出自は未詳。
将軍宗尊親王の女房で、同じく実時の側妻のひとりであった帥局の養女となったとされる。
「谷殿(やつどの)」の呼称は、居所にちなんだものとおぼしく、
建治2年(1276)の夫実時の没に際して、出家して法名永忍を号したか。
その後、鎌倉極楽寺の近くに庵室を構えたようだが、
徳治元年(1306)ごろ、
極楽寺の火災により延焼する不遇に見舞われている。
永忍に子はなかったようで、
慈眼房なる僧侶を養子にしたが、正和4年(1315)ごろに先立たれ、
のち、実時の孫金沢貞顕を養子とした。
下総国下河辺荘の河妻・前林両郷(現・茨城県五霞町・古河市)や、
信濃国太田荘の石村・大倉両郷(現・長野市)を領し、これらを貞顕に譲った。
元徳元年(1329)9月24日、病没。
実時との関係からすれば、若くても70歳前後だったと思われる。
4年後の貞顕やその他北条一門の運命など、知らずによかったというべきか。
養子の貞顕は富士大宮司に諮問して、120日の間、養母の喪に服した。
貞顕がそのことを、六波羅探題南方だった息子の貞将かに伝えた書状(「金沢文庫文書」)には、
正中の変にもかかわった土岐頼員の誅殺事件についても触れられており、
当時の不穏な世相をうかがわせる。
翌月から翌年にかけて、
貞顕はたびたび永忍の菩提を弔う法要を行っている。
称名寺所蔵(神奈川県立金沢文庫保管)の「称名寺絵図」によれば、
谷殿の墓は、金沢北条氏の菩提寺だった同寺境内北東の実時の墓に並んで建てられている。
〔参考〕
永井晋『金沢北条氏の研究』(八木書店、2006年)
同「[史料紹介]称名寺所蔵『聖天 五』紙背文書について」(『東京大学史料編纂所研究紀要』24、2014年)
『特別展 よみがえる中世のアーカイブズ―いまふたたび出会う古文書たち―』(神奈川県立金沢文庫、2021年)
《不詳》 《1428年》 《某月》 《某日》 《享年不明》
真言僧。
正長2年(1429)2月のとある日、
武蔵国のある僧侶が、律師の位を望んでいるという話が、
京都に伝わった。
これを聞いた参議中山定親は、さっそく、
頭右大弁甘露寺忠長をとおして、後花園天皇に奏上した。
まもなく、その僧侶を律師に任じる口宣案が発給され、
定親はそれを、話を届けてきた人物に送った。
律師になるのを望んだのは、宥海という名の僧で、
前年、真言灌頂を遂げたとのことであった。
話を届けてきた人物も、真言僧で、
当の宥海と同門であるという。
ところが、
その後よくよく話を聞いてみると、
意外なことが明らかになった。
なんと、この宥海は、
すでにこの世の人ではないというのである。
宥海は、
昨年、真言灌頂を遂げたのち、
修行のため、武蔵国に下ったが、
ほどなく入滅してしまった。
その後、人々の夢の中に現れ、
「生前無官であったから、今、冥途で座次(席次)が定まらず、大変困っている」
と嘆き訴えた。
多くの人々がこの夢を見たため、
このたびの僧官申請に至ったという。
口宣案の発給まで話をとおしてしまった中山定親は、
事情も調べず差配をしてしまったことを、後悔している。
〔参考〕
『大日本古記録 薩戒記 4』(岩波書店 2009年)
真言僧。
正長2年(1429)2月のとある日、
武蔵国のある僧侶が、律師の位を望んでいるという話が、
京都に伝わった。
これを聞いた参議中山定親は、さっそく、
頭右大弁甘露寺忠長をとおして、後花園天皇に奏上した。
まもなく、その僧侶を律師に任じる口宣案が発給され、
定親はそれを、話を届けてきた人物に送った。
律師になるのを望んだのは、宥海という名の僧で、
前年、真言灌頂を遂げたとのことであった。
話を届けてきた人物も、真言僧で、
当の宥海と同門であるという。
ところが、
その後よくよく話を聞いてみると、
意外なことが明らかになった。
なんと、この宥海は、
すでにこの世の人ではないというのである。
宥海は、
昨年、真言灌頂を遂げたのち、
修行のため、武蔵国に下ったが、
ほどなく入滅してしまった。
その後、人々の夢の中に現れ、
「生前無官であったから、今、冥途で座次(席次)が定まらず、大変困っている」
と嘆き訴えた。
多くの人々がこの夢を見たため、
このたびの僧官申請に至ったという。
口宣案の発給まで話をとおしてしまった中山定親は、
事情も調べず差配をしてしまったことを、後悔している。
〔参考〕
『大日本古記録 薩戒記 4』(岩波書店 2009年)
《誅殺》 《1422年》 《3月》 《8日》 《享年不明》
正四位下、左近衛中将。
応永29年(1422)3月8日夜、
楊梅兼英は、
洛中の路上において、何者かに襲われ、命を奪われた。
同行していた子兼興も、負傷。
当時、兼英は弟兼豊と対立しており、
その差し金ではないかと、人々は噂した。
6月30日、
噂どおり、弟兼豊の犯行が明らかとなり、
流罪となった。
なお、
襲撃を受けながらも、一命をとりとめた兼興(のち兼重)は、
永享3年(1431)2月、内裏女官との密通を犯し、
所領没収の憂き目に遭った。
ぐだぐだで先細りの楊梅家は、
その後廃絶。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004)
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006)
正四位下、左近衛中将。
応永29年(1422)3月8日夜、
楊梅兼英は、
洛中の路上において、何者かに襲われ、命を奪われた。
同行していた子兼興も、負傷。
当時、兼英は弟兼豊と対立しており、
その差し金ではないかと、人々は噂した。
6月30日、
噂どおり、弟兼豊の犯行が明らかとなり、
流罪となった。
なお、
襲撃を受けながらも、一命をとりとめた兼興(のち兼重)は、
永享3年(1431)2月、内裏女官との密通を犯し、
所領没収の憂き目に遭った。
ぐだぐだで先細りの楊梅家は、
その後廃絶。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004)
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006)
《病死》 《1350年》 《2月》 《22日》 《享年74歳》
正三位、権中納言。
後醍醐天皇の重臣吉田定房の弟。
吉田隆長は、鎌倉末期には、
比叡山に訴えられて、阿波に流されたこともあった。
南北朝分立後は、
兄定房と異なり、京都に残って北朝に仕えた。
定房の子宗房と、吉田家の家督を争ったこともあったらしい。
高齢のゆえか、体調を崩しがちであったらしい隆長は、
貞和5年(1349)6月、
鹿肉を食して、やや体力を取り戻した。
だが、数日後にはまた悪くなり、
食欲も減退。
息子の甘露寺藤長は、
父の容態を思って、「歎息」(『園太暦』)している。
翌貞和6年(1350)2月6日、
さらに容態が悪化し、
何も食べることができず、
どうにもならないような状況に陥った。
そうして、
22日、他界。
74歳。
翌23日、
隆長の娘婿坊城俊実も、相次いで没した。
人々は、世の無常を嘆いた。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十三』 (1914)
正三位、権中納言。
後醍醐天皇の重臣吉田定房の弟。
吉田隆長は、鎌倉末期には、
比叡山に訴えられて、阿波に流されたこともあった。
南北朝分立後は、
兄定房と異なり、京都に残って北朝に仕えた。
定房の子宗房と、吉田家の家督を争ったこともあったらしい。
高齢のゆえか、体調を崩しがちであったらしい隆長は、
貞和5年(1349)6月、
鹿肉を食して、やや体力を取り戻した。
だが、数日後にはまた悪くなり、
食欲も減退。
息子の甘露寺藤長は、
父の容態を思って、「歎息」(『園太暦』)している。
翌貞和6年(1350)2月6日、
さらに容態が悪化し、
何も食べることができず、
どうにもならないような状況に陥った。
そうして、
22日、他界。
74歳。
翌23日、
隆長の娘婿坊城俊実も、相次いで没した。
人々は、世の無常を嘆いた。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十三』 (1914)
《戦死》 《1340年》 《某月》 《某日》 《享年不明》
武蔵国人。
多西郡土淵郷の地頭。
現東京都日野市の高幡不動(高幡山金剛寺)の不動堂本尊不動明王坐像胎内から、
古文書の束が発見されたのは、1920年代半ば。
その後、ながらく放置されていたが、
1985年に最初の調査がなされ、
1990年代に入り、本格的な精密調査がされるに至った。
その文書群は、
地元多西郡土淵郷の地頭山内経之が、
戦場から妻や子に宛てた手紙の束であった。
そこから、
これまであまり知られていなかった、南北朝期の武士の姿や、戦場の光景が、
まざまざと映し出されることとなるのである。
文書自体、痛みがはげしく、欠損が多いが、
ここで、その一端を紹介したい。
暦応元年(1338)9月、
南朝の北畠親房が、常陸東条浦に来着。
12月には、小田治久に迎えられて常陸小田城に入り、
常総地域や南奥に、南朝支持勢力を拡げていった。
対する足利尊氏は、
翌暦応2年(1339)4月、
対親房戦の大将として、高師冬を関東に派遣。
6月、鎌倉に到着した師冬は、
しばらくここにとどまり、出陣の準備を行った。
山内経之も、鎌倉に馳せ参じ、
出陣を待つ。
7月か 子息又けさ宛てか
…従者の五郎を、先日そちらに帰しました。
それでも、こちらには人が多いと思っていましたが、
最近になって、身辺に遣える者が乏しく、
今更ながら、帰したことを心許なく思っています。
来月11日には、必ず常陸へ出陣します。…
月日不明 妻宛てか
…従者の彦三郎を、常陸出陣までの間、そちらに帰そうとしましたが、
五郎が帰りたいと望むので、五郎を帰しました。
以前から言っているとおり、
所領のことは、親しい新井殿に万事相談して、
他人には、心を許すことのないようにしてください。
8月 宛先不明
…常陸出陣が、このように延期になっており、
みな長期の鎌倉滞在を嘆いています。
13日には出発かと思っていましたが、
今日になって、まだ出発しません。
高幡殿も出陣するようです。…
月日不明 関戸観音堂住職宛て
…常陸出陣にあたり、兵糧米を1・2駄欲しいので、
万事お頼み申します。…
8月か 関戸観音堂住職宛て
出陣も、今日明日かと言っていましたが、
いつものことで、
まるで出陣する気配がありません。
恐縮ですが、
新井殿の方にも、こちらからお願いしておりますけれど、
銭を送っていただけるよう、お取り計らいいただけませんでしょうか。
出陣は、16日と承っています。
8月か 子息又けさ宛てか
…出発が近いなどと言われており、
この7・8日ではないにせよ、幾日もないかと思われます。
三河殿(高師冬)の武蔵下向も、20日頃のことでしょう。
大変でしょうが、それまでに銭を2貫ばかり用意しておいてください。
どのようにでも取り計らって、在家を売るなどして…
8月か 妻宛てか
…近日出発と言っておりましたが、
8月15日の鶴岡社放生会との調整がつきません。
まずは出発しないことには、と、
三河殿(高師冬)の出発も、20日と決定しました。
まず、武蔵国府までお供します。
…在家を1軒売ってください。
それで小袖を送ってくれたら、すぐに常陸へ向かいます。
以前言ったように、
2・3着は用意しなければなりません。
茶染めの地のものが欲しいです。
もし、そちらで小袖を染めたいのであれば…
8月16日 子息又けさ宛てか
…三河殿(高師冬)の出陣も近くなり、
私もお供して、武蔵まで下る予定です。
又けさには鎌倉へ来てほしかったのですが、
あまり見苦しいまねもできないので、呼びませんでした。
田舎で留守を守るのも、耐え難いことかと思います。
五郎も、疲れているとは思うけれど、こちらに随行させます。
…訴訟で獲得した在家を、送ります。
もし費用が残ったら、受け取って、
弓を買って、送ってください。
この旨、母御にも伝えてください。…
8月下旬、
山内経之らを率いた高師冬軍は、
ようやく鎌倉を出発する。
鎌倉街道を北上して、
9月、武蔵村岡に着陣。
ここで、軍勢を整え、
北東へ向かって進軍する。
月日不明 子息又けさ宛てか
…滞納していた宿賃1貫あまりを、
新井殿に肩替わりして支払ってもらいました。…
…早くもそちらの生活費が、残り少なくなってきたようですが、
留守の間のことは、いつものこととはいえ、痛ましく思っています。
ですが、
こちらにも、何とかやりくりして銭を送ってください。
…柿・浅黄は100文、二重ものは100余文、染めるのにかかります。
送った帷子も染めたかったのですが、
費用がなかったので…
9月上旬 宛先不明
方々からの早馬の知らせでは、
下総下河辺へ出陣して、すぐに合戦がありそうです。
今はまだ決まってませんが、
下河辺に14・15日には出陣せよとの命令があり…
…16・17日頃には下河辺に…
月日不明 某僧・一族山内六郎治清宛てか
…下総下河辺荘の対岸に着きました。
出陣しない人は皆、所領を没収されると聞きました。
そのほか、噂によれば、
訴状を提出して異議を唱える人は、
本領を没収されるそうです。
武蔵高麗郡笠幡北方の渋江殿も、この処置に遭い、
その闕所を、皆に配分するとのことです。
忠節を尽くす者の行く末は、決まりました。
どうにかしてでも、費用2・3貫が欲しいです。
大進房に言って、費用5貫を借りてください。…
10月12日か 妻宛てか
…便りが絶えてしまっても、返事は早々に、
何事も詳しく書いてくれねば、心許なく思います。
こちらは10日に“なかへ”に着き、
今日12日の状況に応じて、下河辺に向かいます。
いずれにせよ、明日はしっかりやらねばなりません。
…今日は昼にも出立するかもしれません。
もし延期になっても、明日は必ず発つでしょう。
早くも恋しい思いをしています。
10月13日 子息又けさ宛てか
…容器を2つ送りました。
1つには、古葉の茶の苦くないものを、
寺へ言ってもらって、送ってください。
もう1つにも、茶などを入れて、送ってください。
干柿・搗栗を少し買って、送ってください。
10月初旬には、早くも、
足利方先鋒部隊と南朝方との間で、戦闘が開始されていたが、
師冬軍は、
10月中旬に至って、ようやく太日川を渡河。
下総下河辺荘に入り、
敵の前線基地常陸駒城を目の前にする、
下総山川に着陣した。
10月16日 子息又けさ宛て 下総山川の陣より
…百姓らに何とでも命じて、鞍・具足を借りて、
馬に乗せて送ってください。
鞍・具足がないならば、
徒歩ででも、馬を牽いて連れてきてください。
何事も、母御の言うことを聞き、
もう幼くないのだから、がんばってください。
10月28日 子息又けさ宛て 下総山川の陣より
…合戦のことといい、留守のことといい、
心苦しさは、言い様もありません。
逃亡した陪臣の人数を、書き送ります。
この者たちを、一人残らず捕まえて、
こちらに送り返してください。
少しでもこれを違えるならば、
今後親子とは思いません。
越中八郎の家人、谷の家人、紀平次の家人、
彼らを捕らえてください。
…もし、この者たちが来ないならば、
その親を遣わしてください。
大久保の弥三郎や、まだ参陣していない者は、
しばらくしたら来るように言ってください。
10月下旬、
師冬軍は、敵の前線基地である常陸駒城を包囲。
敵の防御は堅く、苦戦を強いられる。
長陣により、厭戦気分が漂い、
逃亡する者もあったようだ。
11月2日 子息又けさ宛て
…佐藤三郎の童を参陣させる旨を、
奥にも伝えてください。
先日述べた、逃亡した陪臣どもを、
早く、一人残らず捕まえて、送ってください。
留守の間のことを思うにつけ、心配です。…
11月某日 子息又けさ宛てか
…馬が欲しく、戦死者の遺物であった馬を、
ゑひ殿に言って、いただきました。
兜も、最近は他人が貸してくれるので、
それを着用して、合戦に行っています。
人がこれほど討ち死にしたり、負傷したりしているのに、
私は今まで何事もありませんので、
合戦がどのようなものかなどと、心許なく思わないでください。…
12月下旬か 子息又けさ宛て
使者小三郎が持ってきた手紙を読みました。
おっしゃるとおり、今まで変わったことはありません。
この城(常陸駒城)は、今年中に落ちそうにないので、
暇をもらって、帰郷しようと思っています。
…今後はだんだん肌寒くなってきます。…
月日不明 子息又けさ宛てか
…おっしゃるとおり、
留守の間、頼りになる者が一人もいないことは、
心許なく思います。
…先日、この合戦での働きを、
三河殿(高師冬)も大いに褒めてくださいました。
…もし私が死んでも、
大将や一揆の人々がいるので、安心です。
月日不明 子息又けさ宛てか
…おっしゃるとおり、
こちらの辛苦は言い様もありませんが、
ただ、こちらのことは以前より覚悟していたことです。
それよりも、
留守に頼りになる者がいないことこそ、
心配に思います。
何事も、しっかりと大人として、
母御と相談し、
百姓らにも、あまり無沙汰にせぬよう、
がんばってください。…
月日不明 宛先不明
…先日、常陸塩本に向かいました。
いずれも戦場であることには変わりませんが、
塩本は苦戦を強いられているところであり、
味方も小勢ですので、
覚悟はしています。
今のところは、異常はありません。
新井殿の方へも、手紙を送りたいのですが、
たいしたこともありませんし、
昨夜、こちらの城へ敵襲があるということで、
用心しています。
…何事も、ご心配なさらず。…
月日不明 子息又けさ宛てか
…合戦が延びているので、
暇をもらって帰郷したいけれども、
敵城も近く、なかなか難しそうです。
今度の合戦では、生きて帰れるとも思えず、
留守宅に、頼もしい者が一人もないことが、
かえすがえすも、心許なく思います。…
留守宅の心配、
身のまわりの困窮、
妻への恋情、
家臣たちの逃亡、
厳しい戦場の様子。
紹介したのは、ごく一部であるが、
山内経之の手紙には、
これらが、連々と綴られている。
そこには、
勇壮なイメージとはかけ離れた、武士の姿がある。
それは、山内経之に限ったものではなく、
当時の武士の、普遍的な姿だっただろう。
これらを残して、
経之の手紙は、ふつりと途絶える。
手紙の消滅は、すなわち、
書き手の死を意味している。
駒城攻めの激戦の中で、
暦応3年(1340)2・3月頃、
経之は、討ち死にしたものと思われる。
留守にした家を案じつつ、
経済的にも不自由な中で、戦場に立った経之は、
死の瞬間、いかほどの思いであったろうか。
なお、高師冬の足利方は、
暦応3年(1340)5月末、
7ヶ月にわたる攻防戦の末に、
ようやく常陸駒城を陥したが、
すぐに、南朝方の猛反撃により、奪回された。
師冬軍は、
下野宇都宮を迂回して、常陸瓜連城に入り、
暦応4年(1341)5月、
態勢を整えて、小田城に迫った。
激戦の末、
11月、小田治久が足利方に投降。
北畠親房は、関宗祐の関城に移り、
関・大宝の2城を拠点に、戦闘を継続する。
暦応4年(1341)12月、
師冬軍は、関・大宝城の攻撃を開始し、
康永2年(1343)11月、
ついに両城を陥して、親房を大和吉野へ潰走させた。
こうして、
4年以上に及ぶ常陸合戦は、ようやく幕を下ろす。
〔参考〕
『日野市史 史料編 高幡不動胎内文書編』 (日野市史編さん委員会 1993)
峰岸純夫「高幡不動胎内文書」 (『中世東国の荘園公領と宗教』 吉川弘文館 2006)
武蔵国人。
多西郡土淵郷の地頭。
現東京都日野市の高幡不動(高幡山金剛寺)の不動堂本尊不動明王坐像胎内から、
古文書の束が発見されたのは、1920年代半ば。
その後、ながらく放置されていたが、
1985年に最初の調査がなされ、
1990年代に入り、本格的な精密調査がされるに至った。
その文書群は、
地元多西郡土淵郷の地頭山内経之が、
戦場から妻や子に宛てた手紙の束であった。
そこから、
これまであまり知られていなかった、南北朝期の武士の姿や、戦場の光景が、
まざまざと映し出されることとなるのである。
文書自体、痛みがはげしく、欠損が多いが、
ここで、その一端を紹介したい。
暦応元年(1338)9月、
南朝の北畠親房が、常陸東条浦に来着。
12月には、小田治久に迎えられて常陸小田城に入り、
常総地域や南奥に、南朝支持勢力を拡げていった。
対する足利尊氏は、
翌暦応2年(1339)4月、
対親房戦の大将として、高師冬を関東に派遣。
6月、鎌倉に到着した師冬は、
しばらくここにとどまり、出陣の準備を行った。
山内経之も、鎌倉に馳せ参じ、
出陣を待つ。
7月か 子息又けさ宛てか
…従者の五郎を、先日そちらに帰しました。
それでも、こちらには人が多いと思っていましたが、
最近になって、身辺に遣える者が乏しく、
今更ながら、帰したことを心許なく思っています。
来月11日には、必ず常陸へ出陣します。…
月日不明 妻宛てか
…従者の彦三郎を、常陸出陣までの間、そちらに帰そうとしましたが、
五郎が帰りたいと望むので、五郎を帰しました。
以前から言っているとおり、
所領のことは、親しい新井殿に万事相談して、
他人には、心を許すことのないようにしてください。
8月 宛先不明
…常陸出陣が、このように延期になっており、
みな長期の鎌倉滞在を嘆いています。
13日には出発かと思っていましたが、
今日になって、まだ出発しません。
高幡殿も出陣するようです。…
月日不明 関戸観音堂住職宛て
…常陸出陣にあたり、兵糧米を1・2駄欲しいので、
万事お頼み申します。…
8月か 関戸観音堂住職宛て
出陣も、今日明日かと言っていましたが、
いつものことで、
まるで出陣する気配がありません。
恐縮ですが、
新井殿の方にも、こちらからお願いしておりますけれど、
銭を送っていただけるよう、お取り計らいいただけませんでしょうか。
出陣は、16日と承っています。
8月か 子息又けさ宛てか
…出発が近いなどと言われており、
この7・8日ではないにせよ、幾日もないかと思われます。
三河殿(高師冬)の武蔵下向も、20日頃のことでしょう。
大変でしょうが、それまでに銭を2貫ばかり用意しておいてください。
どのようにでも取り計らって、在家を売るなどして…
8月か 妻宛てか
…近日出発と言っておりましたが、
8月15日の鶴岡社放生会との調整がつきません。
まずは出発しないことには、と、
三河殿(高師冬)の出発も、20日と決定しました。
まず、武蔵国府までお供します。
…在家を1軒売ってください。
それで小袖を送ってくれたら、すぐに常陸へ向かいます。
以前言ったように、
2・3着は用意しなければなりません。
茶染めの地のものが欲しいです。
もし、そちらで小袖を染めたいのであれば…
8月16日 子息又けさ宛てか
…三河殿(高師冬)の出陣も近くなり、
私もお供して、武蔵まで下る予定です。
又けさには鎌倉へ来てほしかったのですが、
あまり見苦しいまねもできないので、呼びませんでした。
田舎で留守を守るのも、耐え難いことかと思います。
五郎も、疲れているとは思うけれど、こちらに随行させます。
…訴訟で獲得した在家を、送ります。
もし費用が残ったら、受け取って、
弓を買って、送ってください。
この旨、母御にも伝えてください。…
8月下旬、
山内経之らを率いた高師冬軍は、
ようやく鎌倉を出発する。
鎌倉街道を北上して、
9月、武蔵村岡に着陣。
ここで、軍勢を整え、
北東へ向かって進軍する。
月日不明 子息又けさ宛てか
…滞納していた宿賃1貫あまりを、
新井殿に肩替わりして支払ってもらいました。…
…早くもそちらの生活費が、残り少なくなってきたようですが、
留守の間のことは、いつものこととはいえ、痛ましく思っています。
ですが、
こちらにも、何とかやりくりして銭を送ってください。
…柿・浅黄は100文、二重ものは100余文、染めるのにかかります。
送った帷子も染めたかったのですが、
費用がなかったので…
9月上旬 宛先不明
方々からの早馬の知らせでは、
下総下河辺へ出陣して、すぐに合戦がありそうです。
今はまだ決まってませんが、
下河辺に14・15日には出陣せよとの命令があり…
…16・17日頃には下河辺に…
月日不明 某僧・一族山内六郎治清宛てか
…下総下河辺荘の対岸に着きました。
出陣しない人は皆、所領を没収されると聞きました。
そのほか、噂によれば、
訴状を提出して異議を唱える人は、
本領を没収されるそうです。
武蔵高麗郡笠幡北方の渋江殿も、この処置に遭い、
その闕所を、皆に配分するとのことです。
忠節を尽くす者の行く末は、決まりました。
どうにかしてでも、費用2・3貫が欲しいです。
大進房に言って、費用5貫を借りてください。…
10月12日か 妻宛てか
…便りが絶えてしまっても、返事は早々に、
何事も詳しく書いてくれねば、心許なく思います。
こちらは10日に“なかへ”に着き、
今日12日の状況に応じて、下河辺に向かいます。
いずれにせよ、明日はしっかりやらねばなりません。
…今日は昼にも出立するかもしれません。
もし延期になっても、明日は必ず発つでしょう。
早くも恋しい思いをしています。
10月13日 子息又けさ宛てか
…容器を2つ送りました。
1つには、古葉の茶の苦くないものを、
寺へ言ってもらって、送ってください。
もう1つにも、茶などを入れて、送ってください。
干柿・搗栗を少し買って、送ってください。
10月初旬には、早くも、
足利方先鋒部隊と南朝方との間で、戦闘が開始されていたが、
師冬軍は、
10月中旬に至って、ようやく太日川を渡河。
下総下河辺荘に入り、
敵の前線基地常陸駒城を目の前にする、
下総山川に着陣した。
10月16日 子息又けさ宛て 下総山川の陣より
…百姓らに何とでも命じて、鞍・具足を借りて、
馬に乗せて送ってください。
鞍・具足がないならば、
徒歩ででも、馬を牽いて連れてきてください。
何事も、母御の言うことを聞き、
もう幼くないのだから、がんばってください。
10月28日 子息又けさ宛て 下総山川の陣より
…合戦のことといい、留守のことといい、
心苦しさは、言い様もありません。
逃亡した陪臣の人数を、書き送ります。
この者たちを、一人残らず捕まえて、
こちらに送り返してください。
少しでもこれを違えるならば、
今後親子とは思いません。
越中八郎の家人、谷の家人、紀平次の家人、
彼らを捕らえてください。
…もし、この者たちが来ないならば、
その親を遣わしてください。
大久保の弥三郎や、まだ参陣していない者は、
しばらくしたら来るように言ってください。
10月下旬、
師冬軍は、敵の前線基地である常陸駒城を包囲。
敵の防御は堅く、苦戦を強いられる。
長陣により、厭戦気分が漂い、
逃亡する者もあったようだ。
11月2日 子息又けさ宛て
…佐藤三郎の童を参陣させる旨を、
奥にも伝えてください。
先日述べた、逃亡した陪臣どもを、
早く、一人残らず捕まえて、送ってください。
留守の間のことを思うにつけ、心配です。…
11月某日 子息又けさ宛てか
…馬が欲しく、戦死者の遺物であった馬を、
ゑひ殿に言って、いただきました。
兜も、最近は他人が貸してくれるので、
それを着用して、合戦に行っています。
人がこれほど討ち死にしたり、負傷したりしているのに、
私は今まで何事もありませんので、
合戦がどのようなものかなどと、心許なく思わないでください。…
12月下旬か 子息又けさ宛て
使者小三郎が持ってきた手紙を読みました。
おっしゃるとおり、今まで変わったことはありません。
この城(常陸駒城)は、今年中に落ちそうにないので、
暇をもらって、帰郷しようと思っています。
…今後はだんだん肌寒くなってきます。…
月日不明 子息又けさ宛てか
…おっしゃるとおり、
留守の間、頼りになる者が一人もいないことは、
心許なく思います。
…先日、この合戦での働きを、
三河殿(高師冬)も大いに褒めてくださいました。
…もし私が死んでも、
大将や一揆の人々がいるので、安心です。
月日不明 子息又けさ宛てか
…おっしゃるとおり、
こちらの辛苦は言い様もありませんが、
ただ、こちらのことは以前より覚悟していたことです。
それよりも、
留守に頼りになる者がいないことこそ、
心配に思います。
何事も、しっかりと大人として、
母御と相談し、
百姓らにも、あまり無沙汰にせぬよう、
がんばってください。…
月日不明 宛先不明
…先日、常陸塩本に向かいました。
いずれも戦場であることには変わりませんが、
塩本は苦戦を強いられているところであり、
味方も小勢ですので、
覚悟はしています。
今のところは、異常はありません。
新井殿の方へも、手紙を送りたいのですが、
たいしたこともありませんし、
昨夜、こちらの城へ敵襲があるということで、
用心しています。
…何事も、ご心配なさらず。…
月日不明 子息又けさ宛てか
…合戦が延びているので、
暇をもらって帰郷したいけれども、
敵城も近く、なかなか難しそうです。
今度の合戦では、生きて帰れるとも思えず、
留守宅に、頼もしい者が一人もないことが、
かえすがえすも、心許なく思います。…
留守宅の心配、
身のまわりの困窮、
妻への恋情、
家臣たちの逃亡、
厳しい戦場の様子。
紹介したのは、ごく一部であるが、
山内経之の手紙には、
これらが、連々と綴られている。
そこには、
勇壮なイメージとはかけ離れた、武士の姿がある。
それは、山内経之に限ったものではなく、
当時の武士の、普遍的な姿だっただろう。
これらを残して、
経之の手紙は、ふつりと途絶える。
手紙の消滅は、すなわち、
書き手の死を意味している。
駒城攻めの激戦の中で、
暦応3年(1340)2・3月頃、
経之は、討ち死にしたものと思われる。
留守にした家を案じつつ、
経済的にも不自由な中で、戦場に立った経之は、
死の瞬間、いかほどの思いであったろうか。
なお、高師冬の足利方は、
暦応3年(1340)5月末、
7ヶ月にわたる攻防戦の末に、
ようやく常陸駒城を陥したが、
すぐに、南朝方の猛反撃により、奪回された。
師冬軍は、
下野宇都宮を迂回して、常陸瓜連城に入り、
暦応4年(1341)5月、
態勢を整えて、小田城に迫った。
激戦の末、
11月、小田治久が足利方に投降。
北畠親房は、関宗祐の関城に移り、
関・大宝の2城を拠点に、戦闘を継続する。
暦応4年(1341)12月、
師冬軍は、関・大宝城の攻撃を開始し、
康永2年(1343)11月、
ついに両城を陥して、親房を大和吉野へ潰走させた。
こうして、
4年以上に及ぶ常陸合戦は、ようやく幕を下ろす。
〔参考〕
『日野市史 史料編 高幡不動胎内文書編』 (日野市史編さん委員会 1993)
峰岸純夫「高幡不動胎内文書」 (『中世東国の荘園公領と宗教』 吉川弘文館 2006)
《誅殺》 《1363年》 《7月》 《19日》 《享年不明》
佐々木導誉(京極高氏)の筆頭家臣。
出雲守護代。
貞治2年(1363)7月19日戌の刻(夜8時頃)、
導誉邸から自宅に帰る途中、
京都四条京極の常阿弥堂前にて、暗殺された。
下手人は、侍所所司代若宮左衛門尉。
吉田秀仲が、
導誉の嗣子高秀の廃嫡、導誉の幼い曾孫秀頼の擁立を画策していたため、
侍所所司であった高秀が、その誅殺を命じたのであった。
これにより、
高秀は父導誉の譴責を受けた。
父子の間は、その後怪しいものとなっている。
とはいえ、
下手人の所司代若宮は、
それまで将軍義詮邸におり、
事件後、ふたたび義詮のもとへ行って、
事件を報告したというから、
義詮も了承済みのことだったのだろう。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十五』 (1931)
『国史大辞典 6 (こま-しと)』 (1985)
佐々木導誉(京極高氏)の筆頭家臣。
出雲守護代。
貞治2年(1363)7月19日戌の刻(夜8時頃)、
導誉邸から自宅に帰る途中、
京都四条京極の常阿弥堂前にて、暗殺された。
下手人は、侍所所司代若宮左衛門尉。
吉田秀仲が、
導誉の嗣子高秀の廃嫡、導誉の幼い曾孫秀頼の擁立を画策していたため、
侍所所司であった高秀が、その誅殺を命じたのであった。
これにより、
高秀は父導誉の譴責を受けた。
父子の間は、その後怪しいものとなっている。
とはいえ、
下手人の所司代若宮は、
それまで将軍義詮邸におり、
事件後、ふたたび義詮のもとへ行って、
事件を報告したというから、
義詮も了承済みのことだったのだろう。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十五』 (1931)
『国史大辞典 6 (こま-しと)』 (1985)
《病死》 《1364年》 《2月》 《13日》 《享年87歳》
室町幕府2代将軍足利義詮に、召仕として仕えていた。
出自等は未詳。
貞治3年(1364)2月13日酉の刻(夕方6時頃)、
矢部尼、他界。
すこし前から、急に体調を崩して、
将軍邸を退いていたという。
中原師守は日記に、
「老病か」(『師守記』)
と記しているから、
老衰だろうか。
「中世人今際図巻」、長寿記録更新。
〔参考〕
『大日本史料 第六之二十六』 (1933)
室町幕府2代将軍足利義詮に、召仕として仕えていた。
出自等は未詳。
貞治3年(1364)2月13日酉の刻(夕方6時頃)、
矢部尼、他界。
すこし前から、急に体調を崩して、
将軍邸を退いていたという。
中原師守は日記に、
「老病か」(『師守記』)
と記しているから、
老衰だろうか。
「中世人今際図巻」、長寿記録更新。
〔参考〕
『大日本史料 第六之二十六』 (1933)
1
2
ブログ内検索
最新記事
(07/02)
(06/29)
(06/28)
(06/27)
(06/25)
(06/22)
(06/10)
(06/08)
人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 ~1299
| 1084 | ||
| 1093 | ||
| 1095 | 1096 | |
| 1097 | ||
| 1103 | ||
| 1105 | ||
| 1138 | ||
| 1150 | ||
| 1151 | ||
| 1177 | 1178 | |
| 1186 | ||
| 1188 | ||
| 1200 | ||
| 1202 | ||
| 1207 | ||
| 1212 | 1213 | |
| 1221 | ||
| 1225 | ||
| 1227 | ||
| 1230 | ||
| 1234 | ||
| 1242 | ||
| 1245 | ||
| 1250 | ||
| 1257 |
没年 1350~1399
| 1350 | ||
| 1351 | 1352 | 1353 |
| 1355 | ||
| 1357 | ||
| 1363 | ||
| 1364 | 1365 | 1366 |
| 1367 | 1368 | |
| 1370 | ||
| 1371 | 1372 | |
| 1374 | ||
| 1378 | 1379 | |
| 1380 | ||
| 1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
| 1400 | ||
| 1402 | 1403 | |
| 1405 | ||
| 1408 | ||
| 1412 | ||
| 1414 | 1415 | 1416 |
| 1417 | 1418 | 1419 |
| 1420 | ||
| 1421 | 1422 | 1423 |
| 1424 | 1425 | 1426 |
| 1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
| 1430 | ||
| 1431 | 1432 | 1433 |
| 1434 | 1435 | 1436 |
| 1437 | 1439 | |
| 1441 | 1443 | |
| 1444 | 1446 | |
| 1447 | 1448 | 1449 |
| 1450 | ||
| 1451 | 1452 | 1453 |
| 1454 | 1455 | |
| 1459 |
没年 1460~1499
没日
| 1日 | 2日 | 3日 |
| 4日 | 5日 | 6日 |
| 7日 | 8日 | 9日 |
| 10日 | 11日 | 12日 |
| 13日 | 14日 | 15日 |
| 16日 | 17日 | 18日 |
| 19日 | 20日 | 21日 |
| 22日 | 23日 | 24日 |
| 25日 | 26日 | 27日 |
| 28日 | 29日 | 30日 |
| 某日 |
享年 ~30代
| ~9歳 | ||
| 5歳 | 6歳 | |
| 9歳 | ||
| 10代 | 10歳 | |
| 11歳 | ||
| 15歳 | 16歳 | |
| 18歳 | 19歳 | |
| 20代 | 20歳 | |
| 21歳 | 22歳 | |
| 24歳 | 25歳 | 26歳 |
| 27歳 | 28歳 | 29歳 |
| 30代 | 30歳 | |
| 31歳 | 32歳 | 33歳 |
| 34歳 | 35歳 | |
| 37歳 | 38歳 | 39歳 |
享年 40代~60代
| 40代 | 40歳 | |
| 41歳 | 42歳 | 43歳 |
| 44歳 | 45歳 | 46歳 |
| 47歳 | 48歳 | 49歳 |
| 50代 | 50歳 | |
| 52歳 | 53歳 | |
| 55歳 | ||
| 57歳 | 58歳 | 59歳 |
| 60代 | 60歳 | |
| 61歳 | 62歳 | 63歳 |
| 66歳 | ||
| 68歳 | 69歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
最新コメント
[07/29 horse racing betting]
[08/26 記主]
[01/18 記主]
[01/16 記主]
[10/20 世良 康雄]
[08/18 記主]
[09/05 記主]
[04/29 記主]
[03/07 記主]
[01/24 記主]
アクセス解析
忍者アナライズ
P R