死に様データベース
《病死》 《1496年》 《7月》 《21日》 《享年69歳》
洛西嵯峨摂取院の尼僧。
父は参議甘露寺房長、母は未詳。
応仁・文明の乱後、真如は越前国にあった摂取院の所領に移住した。
京都に戻らぬまま、
明応5年(1496)7月21日、入滅。69歳。
8月10日、江南院龍霄(もと参議万里小路春房)が、
従弟の権大納言三条西実隆にこのことを知らせた。
龍霄は真如の兄甘露寺親長の実子、実隆は真如の姉の子であり、
ふたりは真如の甥にあたる。
実隆の母(真如の姉)はすでに25年前に他界しており、
「女子連子この一人なり。
今一度相謁せず、無念というべし。」(『実隆公記』)
と、最後の女性の親族であったのに、再会せぬままになってしまった、
と、叔母の死を悲しんでいる。
15日、実隆は妹を喪った叔父親長を見舞っている。
〔参考〕
『実隆公記 巻3』(太洋社、1933年) →該当箇所
洛西嵯峨摂取院の尼僧。
父は参議甘露寺房長、母は未詳。
応仁・文明の乱後、真如は越前国にあった摂取院の所領に移住した。
京都に戻らぬまま、
明応5年(1496)7月21日、入滅。69歳。
8月10日、江南院龍霄(もと参議万里小路春房)が、
従弟の権大納言三条西実隆にこのことを知らせた。
龍霄は真如の兄甘露寺親長の実子、実隆は真如の姉の子であり、
ふたりは真如の甥にあたる。
実隆の母(真如の姉)はすでに25年前に他界しており、
「女子連子この一人なり。
今一度相謁せず、無念というべし。」(『実隆公記』)
と、最後の女性の親族であったのに、再会せぬままになってしまった、
と、叔母の死を悲しんでいる。
15日、実隆は妹を喪った叔父親長を見舞っている。
〔参考〕
『実隆公記 巻3』(太洋社、1933年) →該当箇所
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《病死》 《1505年》 《11月》 《7日》 《享年40代》
三条西家の下女。
文明初年(1470前後)のころから、三条西家に仕えていたらしい。
永正2年(1505)11月6日の夜、
梅枝は中風(脳卒中の類)を発し、人事不省に陥った。
主の三条西実隆は、「不便々々(ふびんふびん)」と言いつつも、
瀕死の梅枝の身を自邸から出して、今出川辺りの民家に移した(『実隆公記』)。
自身に死穢が及ぶことを避けたためであろう。
翌7日、絶命。
30余年にわたって三条西家に仕えたというから、
40代半ば~後半であったろうか。
主の実隆は、「正直者であった」とその死を悼んでいる(『実隆公記』)。
〔参考〕
『実隆公記 巻4』(太洋社、1935年) →該当箇所
三条西家の下女。
文明初年(1470前後)のころから、三条西家に仕えていたらしい。
永正2年(1505)11月6日の夜、
梅枝は中風(脳卒中の類)を発し、人事不省に陥った。
主の三条西実隆は、「不便々々(ふびんふびん)」と言いつつも、
瀕死の梅枝の身を自邸から出して、今出川辺りの民家に移した(『実隆公記』)。
自身に死穢が及ぶことを避けたためであろう。
翌7日、絶命。
30余年にわたって三条西家に仕えたというから、
40代半ば~後半であったろうか。
主の実隆は、「正直者であった」とその死を悼んでいる(『実隆公記』)。
〔参考〕
『実隆公記 巻4』(太洋社、1935年) →該当箇所
《病死》 《1097年》 《閏正月》 《18日》 《享年63歳》
中宮亮高階公俊の妻。
永長2年(1097)閏正月16日朝、
中宮亮高階公俊が卒去した。
64歳であった。
その2日前に出家していたというから、
すでに病床にあったのだろう。
その2日後の閏正月18日、
公俊の妻も卒した。
63歳であった。
夫のあとを追うような死に方は、
「頗る奇怪か」(『中右記』)
といわれた。
この妻は、日ごろから観音菩薩を篤く信仰し、
臨終の際にも、その名号を念じていた。
絶命の直後、部屋には薫香が満ちたという。
信心から現れた「瑞相」とされた(『中右記』)。
〔参考〕
『大日本古記録 中右記 3』(岩波書店、1999年)
中宮亮高階公俊の妻。
永長2年(1097)閏正月16日朝、
中宮亮高階公俊が卒去した。
64歳であった。
その2日前に出家していたというから、
すでに病床にあったのだろう。
その2日後の閏正月18日、
公俊の妻も卒した。
63歳であった。
夫のあとを追うような死に方は、
「頗る奇怪か」(『中右記』)
といわれた。
この妻は、日ごろから観音菩薩を篤く信仰し、
臨終の際にも、その名号を念じていた。
絶命の直後、部屋には薫香が満ちたという。
信心から現れた「瑞相」とされた(『中右記』)。
〔参考〕
『大日本古記録 中右記 3』(岩波書店、1999年)
《病死》 《1095年》 《6月》 《9日》 《享年80歳》
右大臣藤原頼宗の次女で、藤原道長の孫にあたる。
母は内大臣藤原伊周の娘。
幼少期より一条院の皇女脩子内親王に養育された。
長久3年(1042)3月22日、延子は27歳で後朱雀天皇に入内。
10月9日、女御となって、内裏の麗景殿を居所とし、
高倉女御、あるいは麗景殿女御と呼ばれた。
当時としては、入内時の年齢が高いのは、
娘の入内をめぐる父親たちのかけひきがあったためのようである。
長久5年(1044)正月、従四位上に叙され、ほどなく懐妊したが、
翌寛徳2年(1045)正月18日、後朱雀天皇が37歳で崩御してしまった。
延子が天皇の女御として過ごしたのは、わずか3年足らずのことであった。
次代の後冷泉天皇が即位すると、延子は30歳で内裏を退出し、
4月20日、正子内親王を出産。
こぞ(去年)よりも色こそ濃けれ萩の花涙の雨にかゝる秋には(『今鏡』)
これは、延子がその翌年秋に詠んだ歌で、
勅撰集『後拾遺和歌集』にも哀傷の歌として入集している。
永承3年(1048)正月に従三位、
永承5年(1050)正月に従二位と昇っており、
父頼宗の存命中は、先帝の女御であっても相応に重んじられたようである。
また、延子は音楽と和歌に堪能だったらしく、
永承5年(1050)4月には歌合を催すなど、文化面でも存在感をもっていたとみられる。
康平3年(1060)4月、延子は父より封戸500烟を譲与されている。
延久5年(1073)5月12日、延子は58歳で病気を理由に出家。
その後の延子の動向は、あまり伝わらない。
寛治7年(1093)11月26日に、近江園城寺で堂供養をしているが、
夫後朱雀院か父頼宗の追悼のためだろうか。
そして、
嘉保2年(1095)6月9日夜半、
延子は「霍乱」により、にわかに薨じた(『中右記』)。
80歳だったという。
「霍乱」とは、暑気あたりか食あたりなどのこと。
急死というから、高齢でもおおむね健康だったのだろう。
葬礼のようすを伝える史料はない。
後朱雀院の没後50年のこと。
時代はすでに摂関政治のときを過ぎて、院政の時代となっていた。
〔参考〕
『大日本古記録 中右記 2』(岩波書店、1996年)
竹鼻績全訳注『今鏡 下』(講談社学術文庫、1984年)
高橋由記「後朱雀天皇とキサキの文学的営為・文化圏についての一考察―女御延子を中心に―」(研究代表者福田景道『平成25年度~平成27年度国文学研究資料館共同研究(特定研究)成果報告書 歴史叙述と文学』国文学研究資料館、2017年)
右大臣藤原頼宗の次女で、藤原道長の孫にあたる。
母は内大臣藤原伊周の娘。
幼少期より一条院の皇女脩子内親王に養育された。
長久3年(1042)3月22日、延子は27歳で後朱雀天皇に入内。
10月9日、女御となって、内裏の麗景殿を居所とし、
高倉女御、あるいは麗景殿女御と呼ばれた。
当時としては、入内時の年齢が高いのは、
娘の入内をめぐる父親たちのかけひきがあったためのようである。
長久5年(1044)正月、従四位上に叙され、ほどなく懐妊したが、
翌寛徳2年(1045)正月18日、後朱雀天皇が37歳で崩御してしまった。
延子が天皇の女御として過ごしたのは、わずか3年足らずのことであった。
次代の後冷泉天皇が即位すると、延子は30歳で内裏を退出し、
4月20日、正子内親王を出産。
こぞ(去年)よりも色こそ濃けれ萩の花涙の雨にかゝる秋には(『今鏡』)
これは、延子がその翌年秋に詠んだ歌で、
勅撰集『後拾遺和歌集』にも哀傷の歌として入集している。
永承3年(1048)正月に従三位、
永承5年(1050)正月に従二位と昇っており、
父頼宗の存命中は、先帝の女御であっても相応に重んじられたようである。
また、延子は音楽と和歌に堪能だったらしく、
永承5年(1050)4月には歌合を催すなど、文化面でも存在感をもっていたとみられる。
康平3年(1060)4月、延子は父より封戸500烟を譲与されている。
延久5年(1073)5月12日、延子は58歳で病気を理由に出家。
その後の延子の動向は、あまり伝わらない。
寛治7年(1093)11月26日に、近江園城寺で堂供養をしているが、
夫後朱雀院か父頼宗の追悼のためだろうか。
そして、
嘉保2年(1095)6月9日夜半、
延子は「霍乱」により、にわかに薨じた(『中右記』)。
80歳だったという。
「霍乱」とは、暑気あたりか食あたりなどのこと。
急死というから、高齢でもおおむね健康だったのだろう。
葬礼のようすを伝える史料はない。
後朱雀院の没後50年のこと。
時代はすでに摂関政治のときを過ぎて、院政の時代となっていた。
〔参考〕
『大日本古記録 中右記 2』(岩波書店、1996年)
竹鼻績全訳注『今鏡 下』(講談社学術文庫、1984年)
高橋由記「後朱雀天皇とキサキの文学的営為・文化圏についての一考察―女御延子を中心に―」(研究代表者福田景道『平成25年度~平成27年度国文学研究資料館共同研究(特定研究)成果報告書 歴史叙述と文学』国文学研究資料館、2017年)
《病死》 《1093年》 《10月》 《21日》 《享年73歳》
大舎人頭藤原親国の娘。母は未詳。
春宮大進藤原隆経の妻となり、息子顕季を産んだ。
天喜元年(1053)6月、
春宮尊仁親王(のち後三条天皇)に第一皇子貞仁が生まれると、
親子は33歳でその乳母のひとりに選ばれた。
乳母にはほかに、藤原資業の娘もいたが、こちらは貞仁が5歳のときに死去し、
親子が「唯一の御乳母」となった(『中右記』)。
なお、貞仁の実母藤原茂子も、康平5年(1062)6月に薨じている。
延久4年(1073)12月、親子53歳のとき。
貞仁親王は、父後三条天皇の退位を受けて皇位を嗣いだ(白河天皇)。
親子は天皇の乳母として従五位下から正三位に昇り、
白河天皇の退位後も重んじられて、
跡を嗣いだ堀河天皇も、父白河院の仙洞御所に次いで、
親子のもとに行幸している。
従二位に叙されたのち、親子は落飾し、
法勝寺の南東にお堂を建てて、念仏の日々を送った。
寛治7年(1093)9月中頃、親子は病に臥した。
10月4日夕刻、白河上皇はわずかの供を連れて、洛東の親子を見舞った。
親子の容態は思わしくなかったようで、
10日にも白河上皇の見舞いを受けている。
21日朝、親子薨ず。73歳。
「上皇の御愁歎、殊に深しと云々」(『中右記』)。
白河上皇はこのとき40歳。
なお、このころ京都では疱瘡(天然痘)が流行していたようだが、
親子が罹患していたかは定かでない。
親子の息子で、白河院の乳母子(乳兄弟)にあたる藤原顕季は、
院の信任も厚く、受領を歴任して財をなし、正三位まで昇った。
受領系の院近臣の典型とされるひとりである。
その子孫からは、四条家や山科家、六条藤家などが出て、大いに栄えた。
その礎に、院の乳母であった親子の存在があったことは、いうまでもない。
〔参考〕
『大日本古記録 中右記 1』(岩波書店、1993年)
竹鼻績全訳注『今鏡 上』(講談社学術文庫、1984年)
田端泰子『乳母の力―歴史を支えた女たち―』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー、2005年)
大舎人頭藤原親国の娘。母は未詳。
春宮大進藤原隆経の妻となり、息子顕季を産んだ。
天喜元年(1053)6月、
春宮尊仁親王(のち後三条天皇)に第一皇子貞仁が生まれると、
親子は33歳でその乳母のひとりに選ばれた。
乳母にはほかに、藤原資業の娘もいたが、こちらは貞仁が5歳のときに死去し、
親子が「唯一の御乳母」となった(『中右記』)。
なお、貞仁の実母藤原茂子も、康平5年(1062)6月に薨じている。
延久4年(1073)12月、親子53歳のとき。
貞仁親王は、父後三条天皇の退位を受けて皇位を嗣いだ(白河天皇)。
親子は天皇の乳母として従五位下から正三位に昇り、
白河天皇の退位後も重んじられて、
跡を嗣いだ堀河天皇も、父白河院の仙洞御所に次いで、
親子のもとに行幸している。
従二位に叙されたのち、親子は落飾し、
法勝寺の南東にお堂を建てて、念仏の日々を送った。
寛治7年(1093)9月中頃、親子は病に臥した。
10月4日夕刻、白河上皇はわずかの供を連れて、洛東の親子を見舞った。
親子の容態は思わしくなかったようで、
10日にも白河上皇の見舞いを受けている。
21日朝、親子薨ず。73歳。
「上皇の御愁歎、殊に深しと云々」(『中右記』)。
白河上皇はこのとき40歳。
なお、このころ京都では疱瘡(天然痘)が流行していたようだが、
親子が罹患していたかは定かでない。
親子の息子で、白河院の乳母子(乳兄弟)にあたる藤原顕季は、
院の信任も厚く、受領を歴任して財をなし、正三位まで昇った。
受領系の院近臣の典型とされるひとりである。
その子孫からは、四条家や山科家、六条藤家などが出て、大いに栄えた。
その礎に、院の乳母であった親子の存在があったことは、いうまでもない。
〔参考〕
『大日本古記録 中右記 1』(岩波書店、1993年)
竹鼻績全訳注『今鏡 上』(講談社学術文庫、1984年)
田端泰子『乳母の力―歴史を支えた女たち―』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー、2005年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 ~1299
| 1084 | ||
| 1093 | ||
| 1095 | ||
| 1097 | ||
| 1105 | ||
| 1138 | ||
| 1150 | ||
| 1151 | ||
| 1177 | 1178 | |
| 1186 | ||
| 1188 | ||
| 1200 | ||
| 1207 | ||
| 1212 | 1213 | |
| 1225 | ||
| 1227 | ||
| 1230 | ||
| 1234 | ||
| 1242 | ||
| 1245 | ||
| 1250 | ||
| 1257 |
没年 1350~1399
| 1350 | ||
| 1351 | 1352 | 1353 |
| 1355 | ||
| 1357 | ||
| 1363 | ||
| 1364 | 1365 | 1366 |
| 1367 | 1368 | |
| 1370 | ||
| 1371 | 1372 | |
| 1374 | ||
| 1378 | 1379 | |
| 1380 | ||
| 1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
| 1400 | ||
| 1402 | 1403 | |
| 1405 | ||
| 1408 | ||
| 1412 | ||
| 1414 | 1415 | 1416 |
| 1417 | 1418 | 1419 |
| 1420 | ||
| 1421 | 1422 | 1423 |
| 1424 | 1425 | 1426 |
| 1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
| 1430 | ||
| 1431 | 1432 | 1433 |
| 1434 | 1435 | 1436 |
| 1437 | 1439 | |
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| 1444 | 1446 | |
| 1447 | 1448 | 1449 |
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没年 1460~1499
没日
| 1日 | 2日 | 3日 |
| 4日 | 5日 | 6日 |
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| 10日 | 11日 | 12日 |
| 13日 | 14日 | 15日 |
| 16日 | 17日 | 18日 |
| 19日 | 20日 | 21日 |
| 22日 | 23日 | 24日 |
| 25日 | 26日 | 27日 |
| 28日 | 29日 | 30日 |
| 某日 |
享年 ~30代
| ~9歳 | ||
| 6歳 | ||
| 9歳 | ||
| 10代 | 10歳 | |
| 11歳 | ||
| 15歳 | ||
| 18歳 | 19歳 | |
| 20代 | 20歳 | |
| 22歳 | ||
| 24歳 | 25歳 | 26歳 |
| 27歳 | 28歳 | 29歳 |
| 30代 | 30歳 | |
| 31歳 | 32歳 | 33歳 |
| 34歳 | 35歳 | |
| 37歳 | 38歳 | 39歳 |
享年 40代~60代
| 40代 | 40歳 | |
| 41歳 | 42歳 | 43歳 |
| 44歳 | 45歳 | 46歳 |
| 47歳 | 48歳 | 49歳 |
| 50代 | 50歳 | |
| 52歳 | 53歳 | |
| 55歳 | ||
| 57歳 | 58歳 | |
| 60代 | 60歳 | |
| 61歳 | 62歳 | 63歳 |
| 66歳 | ||
| 68歳 | 69歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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