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死に様データベース
《事故死》 《1244年》 《5月》 《25日》 《享年46歳》


藤原南家貞嗣流。
従四位上、前備中守。
大学頭藤原孝範の次男で、文章博士藤原経範の弟とされるが、
実は経範の息子とも、異父兄弟ともいう。


寛元2年(1244)5月26日、
前右大臣西園寺実氏邸を訪れた前備中守藤原宗範は、
雑談の折、粽(ちまき)を振る舞われた。
中世の粽は、餅米粉やうるち米粉を笹の葉などでくるんで蒸した餅菓子。
宗範がこれを口にしたところ、のどにつまらせてしまった。
周囲は背中を蹴って吐き出させようとしたが、詰まった粽は容易に出てこず、
宗範はついに窒息死してしまった。
45歳とも、46歳とも。

死穢を避けてか、
遺体は牛車に担ぎ入れられ、西園寺邸から送り出された。

「無常の理、驚くべからずといえども、悲しむべし悲しむべし。」(『平戸記』)
餅には気をつけられたい。



〔参考〕
『増補史料大成 平戸記 1』(臨川書店、1981年)
『大日本史料 第5編之17』(東京大学出版会、1982年)
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《病死》 《1453年》 《正月》 《20日》 《享年20代》


室町幕府政所執事伊勢貞国の娘。
権中納言日野勝光の正妻。


享徳2年(1453)正月20日夜、
難産のすえ、他界。

夫勝光25歳、父貞国56歳、兄貞親37歳であったから、
享年は10代後半から20代のいずれかであったか。


このとき、室町幕府の女房衆も多くその産所に詰めていたため、
室町殿足利義成(のち義政)も「甲穢」(一時的な触穢)とされ、
この間に室町殿に参仕した人々にも触穢が及んだ。
それゆえ、「世間穢」として、
2月に予定されていた祭礼の多くが、翌月以降に延期された。

故人の葬礼や産児のゆくすえは記録にない。


系図史料『尊卑分脈』等の伊勢氏の系図には、勝光の「妾」とあるが、
同時代史料には正妻を意味する「室家」とある。
夫勝光と兄貞親は、こののち応仁・文明の乱にかけて暗躍、策動するが、
それは10年以上後のこと。



〔参考〕
『史料纂集 師郷記 5』(続群書類従完成会、1988年)
《病死》 《1452年》 《6月》 《24日》 《享年15歳》


室町幕府管領細川持之の息子。勝元の弟。
細川典厩家の継嗣。
右馬助。


宝徳4年(1452)の夏、
京都では疱瘡(天然痘)が大流行し、命を落とすものが続出した。
室町幕府や朝廷の周辺でも、
駿河守護今川範忠の子や赤松治部少輔、右中将土御門有通らが相次いで没した。

4月ごろ、細川京兆家から典厩家に養子入りしていた細川右馬助成賢も、疱瘡に罹った。
2ヶ月の闘病のすえ、6月24日、卒去。15歳。
「その体(てい)、常篇を絶すと云々。」(『師郷記』)というから、
尋常ならざる病態だったようだ。
疱瘡は、発疹が化膿するほか、高熱を発して呼吸不全も起こすというから、
よほど苦しんだのだろう。

家人の内藤藤右衛門が「悲歎の余り」殉死した(『師郷記』)。

継嗣成賢の死により、
典厩家はのちに細川野州家から養子に入った政国が継ぐこととなる。
管領細川勝元の隣に、有力一門典厩家の当主として実弟成賢がいたならば、
その後の幕府政治の流れもいささか変わっていたろうか。


〔参考〕
『史料纂集 師郷記 5』(続群書類従完成会、1988年)
川口成人「細川持賢と室町幕府 : 幕府-地域権力間交渉と在京活動の検討から(『ヒストリア』266、2018年)
《病死》 《1235年》 《閏6月》 《16日》 《享年30代》


権大納言三条実親の妻。
父は、関東申次として朝幕間で重きをなした入道前太政大臣西園寺公経。
実親との間に、公親・公泰らを産んだ。
呼び名や院号、法名などは伝わらない。


権大納言三条実親の妻は、
文暦2年(1235)3月頃には「邪気」により健康を損じていた。
病状はながいこと思わしくなく、
3月9日は「邪気又盛興」、
同11日、「又病重」、
4月7日には「又危急云々」(いずれも『明月記』)。

余命いくばくもないことを悟ってか、
5月23日、洛北の香隆寺あたりで出家した。
夫実親の叔父覚教僧正が戒師を、実親の子睿助法眼が剃頭をつとめた。


閏6月16日、実親の妻は沐浴を済ませて浄衣を着、
清畳を敷いて、その上で五色の糸を引いて印を結び、臨終の用意を済ませた。
未の刻(午後2時頃)には、意識を失ったのかことばも絶え、
雲が空を覆って満月の見えない夜更け、
父公房の制止をふりきって駆けつけた夫実親が見守る前で、息を引き取った。
夫実親が41歳、息子の公親と公泰が14歳と5歳であったから、
30代半ばか後半ほどであったろうか。



〔参考〕
『大日本史料 第5編之10』(東京大学出版会、1982年)
東京大学史料編纂所データベース
《病死》 《1452年》 《6月》 《15日》 《享年16歳》


室町幕府6代将軍足利義教の七男。
母はその正妻正親町三条尹子の妹豊子。
永享9年(1437)8月20日生まれ。
喝食となり、禅僧となる将来が定められていたようだが、
寺には入らず、母の実家正親町三条家で暮らしていた。


京都で疱瘡(天然痘)が大流行する宝徳4年(1452)のこと。
室町殿足利義成(のち義政)の弟で、
正親町三条家に暮らす16歳の青年が、
6月15日、他界した。

疱瘡に罹ったわけではなく、
幼いころより「邪気」にとりつかれており、
このところいっそう「興盛」で、落命に至ったようである(『師郷記』)。


貴人の「邪気」にはしばしば後日談がつく。

自称粟田口神明社神主の男が、「種々の不思議」を致し、
人々を「誑惑」したことが、この「邪気」の原因とされ(『師郷記』)、
幕吏に捕えられた。
その顛末は知れない。



〔参考〕
『史料纂集 師郷記 5』(続群書類従完成会、1988年)
家永遵嗣「足利義視と文正元年の政変」(『学習院大学文学部研究年報』61、2014年)
《病死》 《1448年》 《4月》 《13日》 《享年59歳》


庭田経子、のち幸子。
贈左大臣庭田経有の娘。
伏見宮貞成親王に仕えて、
性恵、後花園天皇、貞常親王、雲岳聖朝らの王子女を産み、
その正妻格となった。


天皇の母として、
永享6年(1434)3月、従三位に叙され、
文安元年(1444)4月、准后宣下を受けた。
叙従三位の折、父経有の一字をとって「経子」と名付けられたが、
准后宣下に際して「幸子」と改名した。
伏見宮家では、「今参」「二条局」、次いで「南御方」と呼ばれた。

癇癖な6代将軍足利義教や、その正妻正親町三条尹子と良好な関係を維持し、
社交的な性格だったかといわれている。


文安4年(1447)11月末、
夫の貞成親王は、天皇の父として院号宣下を受け、
後崇光院の尊号と上皇の待遇を得たが、
この少し前から、幸子は病魔に冒されていた。
「噎病所労」(『看聞日記』)、また「噎御病」(『師郷記』『康富記』)というから、
嚥下に困難が生じるのどの病気か、呼吸器系の疾患であったろうか。

翌文安5年(1448)2月、
形式にのっとって貞成親王の尊号辞退が進められるのと同時に、
幸子への女院号宣下の話が進められた。
2月3日、夫貞成は関白一条兼良に相談のうえ、後花園天皇にこの件を申し入れた。
幸子の病状は、治療の甲斐なく進行しており、宣下が急がれたのである。
翌4日には、色よい勅答が貞成のもとに届いている。


2月28日、
後花園天皇が、伏見宮家の御所に行幸して母幸子を見舞った。
幸子の容態は、「難治」(『師郷記』)、「昨今御危急」(『康富記』)であったのだ。
一条東洞院の内裏と土御門高倉の伏見宮家御所は、大路を挟んで向かいどうしであり、
徒歩での行幸であったともいう。
子の刻(深夜0時頃)に内裏を発した後花園天皇は、母幸子を見舞ったのち、
父貞成親王や弟貞常親王と盃を交わし、
丑・寅の刻(深夜2~4時頃)に還幸した。


この深夜の見舞いに際して、事前に諮問を受けた関白一条兼良は、
  「非常の臨幸」というのは、
  近隣の火事か、あるいは死に目に駆け付けるようなときになされるものであって、
  長患いを見舞うなら、方違えという名目で行くのがよいでしょう、
と進言した。
しかし、方違え行幸では事が進まなかったようで、
後小松天皇が危篤の母通陽門院(三条厳子)を見舞った応永13年(1406)の例を引いて、
結局、「非常の臨幸」となった。
関白兼良以下、前権大納言三条西公保、権大納言松木宗継・正親町三条実雅、
権中納言正親町持季、参議東坊城益長・正親町三条公綱・中山親通、
左中将庭田政賢・冷泉為富、右中将白川忠富・山科顕言、少将小倉実右・滋野井教国、
蔵人頭柳原資綱・坊城俊秀が供奉をし、
大路に出て渡るまでの路次を、管領細川勝元の配下が警固した。
親の見舞いを行くのに、実にぎょうぎょうしいことである。


3月4日、幸子への女院号宣下が実現し、
東坊城益長の勘進により、敷政門院の称号が与えられた。


4月13日申の刻(夕方4時頃)、
幸子は二尊院住持臨空を戒師として落飾。
もとは15日に落飾の予定だったが、予断を許さぬ状況として、
2日早めての落飾であった。

落飾ののち、幸子は手や顔を清めて、念仏を唱え、
酉の刻(夜6時頃)、崩御。59歳。
「御臨終正念云々」(『師郷記』『康富記』)。
触穢、諒闇としない旨が定められた。


15日暁、遺骸は伏見大光明寺に移され、
16日には、貞常親王やその姉妹たちが、伏見の御所跡に建つ法久庵に入った。
19日卯の刻(朝6時頃)、大光明寺にて葬儀が営まれ、
22日、大通院にて中陰の儀、
5月25日、大光明寺で四十九日の法要が行われた。


娘性恵の死も克明に記した夫貞成親王の日記『看聞日記』は、
2月初旬から4月7日までの記事がふつりと途切れている。
77歳の夫の心中は、いかばかりであったか。


〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 7』(宮内庁書陵部、2014年)
『増補史料大成 康富記 2』(臨川書店、1985年)
『史料纂集 師郷記 4』(続群書類従完成会、1987年)
松薗斉「伏見宮家の南御所」(『中世禁裏女房の研究』思文閣出版、2018年)
《誅殺》 《1450年》 《12月》 《29日》 《享年5歳》


前内大臣花山院持忠の息子。
大臣家花山院家の息男ともなれば、
嫡子でなくとも幼児のうちに叙爵(叙従五位下)するのが通例だったようだが、
生母の出自のためか、この息子はその例にのらなかったようで、
実名も幼名も伝わらない。


宝徳2年(1450)12月29日のことか、
入道前内大臣花山院持忠(46歳)が、
5歳になる息子を自身の手で殺害する、という事件が起こった。
「前代未聞の事なり。末代の作法、悲しむべしと云々。」(『師郷記』、以下同)


それから2ヶ月後の宝徳3年(1451)2月26日、
今度は、持忠の嫡男の権中納言花山院定嗣が、
青侍の「あえ」という者に命じて、同じく青侍の安芸右馬助入道を討たせる、
という事件が起きた。
事件現場とは別の場所でも、右馬助入道の父や孫などが同時に殺害され、
安芸一族13人が犠牲になったという。

前年12月の事件の「余殃」(悪事の報い)であると噂された。

家長持忠は、花山院家断絶後に他家から入った継嗣であり、
当主家と家僕の間になにか角逐があったのかもしれない。


無理心中か錯乱か、はたまた家督をめぐる内訌か、
花山院家でいかなる事態があったか不明だが、
かりに、12月の事件と2月の安芸一族粛清が一連のことだとしても、
少なくとも5歳の幼児は、もめごとの主体ではなかったはずである。



〔参考〕
『史料纂集 師郷記 5』(続群書類従完成会、1988年)
《自害》 《1451年》 《6月》 《15日》 《享年不明》


宝徳4年(1451)6月15日夕刻、
京都一条小川の誓願寺で、
女がひとり「自害」した(『師郷記』、以下同)。
公家の中山家に仕える青侍と「相思」の女であったという。


誓願寺は、
清少納言が発心して往生した寺と伝わり、
また、和泉式部もこの寺で女人往生を志し、念仏の日々を過ごしたともいわれる。

この女が、いかなる迷いを抱えていたのかは明らかでない。
あるいは、叶わぬ思いに世を儚んだ女が、
最期に女人往生を夢見て、誓願寺を死に場所に選んだのかもしれない。



〔参考〕
『史料纂集 師郷記 5』(続群書類従完成会、1988年)
『浄土宗西山深草派寺院名鑑』(浄土宗西山深草派宗務所、1983年)
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