死に様データベース
《病死》 《1509年》 《2月》 《10日》 《享年88歳》
三条西家の女房。
局名は右京大夫。
出自等は未詳。
応永29年(1422)の生まれ。
永享11年(1439)、18歳で三条西家へ女房づとめを始め、
当主公保・実隆父子に長く仕えた。
永正元年(1504)10月9日、83歳の年、
三条西家家礼の大沢重種宅で出家を遂げ、法名光智を名乗ったが、
その後も三条西家への奉公を続けたようである。
5年後の永正6年(1509)正月、
「老病無頼」により、光智は88歳で三条西家を退き、
三条西邸近くの二度観音堂辺りの小庵に相談して、そこへ移ることとなった。
その支度をしていたところ、
同月28日に三条西家へ雲龍院主がやってきたので、
幸いにもその輿に乗せてもらって、移住先の小庵に運んでもらった。
小庵に輿で運んでもらった光智と、ただ民家に移された梅枝。
死に臨んでも、女房と下女という身分の違いは、歴然と上位者によって示される。
10日ほど経った2月10日午の刻(正午頃)、光智入滅。
すぐに葬ったというから、土葬であったか。
知らせを受けた旧主実隆は、
翌11日に葬料を送っている。
「愁歎比類なきものなり」(『実隆公記』)
その後も実隆は、光智のために法華経を書写し、
百箇日や一周忌の法要も行っている。
〔参考〕
『実隆公記 巻5』(1938年)
原勝郎『東山時代に於ける一縉紳の生活』(講談社学術文庫、1978年)
脇田晴子『中世に生きる女たち』(岩波新書、1995年)
細川涼一「家族を構成しない女性」(峰岸純夫編『中世を考える 家族と女性』吉川弘文館、1992年)
三条西家の女房。
局名は右京大夫。
出自等は未詳。
応永29年(1422)の生まれ。
永享11年(1439)、18歳で三条西家へ女房づとめを始め、
当主公保・実隆父子に長く仕えた。
永正元年(1504)10月9日、83歳の年、
三条西家家礼の大沢重種宅で出家を遂げ、法名光智を名乗ったが、
その後も三条西家への奉公を続けたようである。
5年後の永正6年(1509)正月、
「老病無頼」により、光智は88歳で三条西家を退き、
三条西邸近くの二度観音堂辺りの小庵に相談して、そこへ移ることとなった。
その支度をしていたところ、
同月28日に三条西家へ雲龍院主がやってきたので、
幸いにもその輿に乗せてもらって、移住先の小庵に運んでもらった。
小庵に輿で運んでもらった光智と、ただ民家に移された梅枝。
死に臨んでも、女房と下女という身分の違いは、歴然と上位者によって示される。
10日ほど経った2月10日午の刻(正午頃)、光智入滅。
すぐに葬ったというから、土葬であったか。
知らせを受けた旧主実隆は、
翌11日に葬料を送っている。
「愁歎比類なきものなり」(『実隆公記』)
その後も実隆は、光智のために法華経を書写し、
百箇日や一周忌の法要も行っている。
〔参考〕
『実隆公記 巻5』(1938年)
原勝郎『東山時代に於ける一縉紳の生活』(講談社学術文庫、1978年)
脇田晴子『中世に生きる女たち』(岩波新書、1995年)
細川涼一「家族を構成しない女性」(峰岸純夫編『中世を考える 家族と女性』吉川弘文館、1992年)
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《病死》 《1489年》 《3月》 《10日》 《78歳》
賀茂社神主森益久の娘。
後花園上皇の女房。
讃岐局、次いで中将局として後花園上皇に仕えた。
これらの女房名からすると、
はじめ下﨟だったが、のちに中﨟にのぼったと推測される。
文明2年(1470)12月の後花園法皇の崩御に際して、
女房づとめを退いて出家し、慶徳庵と名乗ったのだろうか。
「年来数奇」(『親長卿記』)というから、
和歌などに優れていたのだろう。
長享3年(1489)の春ごろ、慶徳庵が死期に近づくと、
弟の賀茂社神主森貞久は、絵師に命じて姉の寿像(肖像画)を描かせた。
寿像が完成すると、慶徳庵は一首を寄せて辞世とした。
のこしてもなにゝかはせんあだし野の草葉にきゆる露の面影(『親長卿記』)
「私の寿像など描き残して何になろう」という、
弟の行いに対するいささか皮肉めいたものを感じる。
なお、下の句は一説に「草葉にやどる露の面影」(『実隆公記』)であったとされるが、
面影も消えたほうが皮肉が効いていようか。
そうして、長享3年(1489)3月10日朝、逝去。
78歳とも79歳とも。
上の寿像と辞世の話を後土御門天皇から聞いた三条西実隆は、
「老病のうち、優美のことなり」(『実隆公記』)と記している。
〔参考〕
『実隆公記 巻2』(1932年) →該当記事(国立国会図書館デジタルコレクション)
『増補史料大成 親長卿記 3』(臨川書店、1965年)
賀茂社神主森益久の娘。
後花園上皇の女房。
讃岐局、次いで中将局として後花園上皇に仕えた。
これらの女房名からすると、
はじめ下﨟だったが、のちに中﨟にのぼったと推測される。
文明2年(1470)12月の後花園法皇の崩御に際して、
女房づとめを退いて出家し、慶徳庵と名乗ったのだろうか。
「年来数奇」(『親長卿記』)というから、
和歌などに優れていたのだろう。
長享3年(1489)の春ごろ、慶徳庵が死期に近づくと、
弟の賀茂社神主森貞久は、絵師に命じて姉の寿像(肖像画)を描かせた。
寿像が完成すると、慶徳庵は一首を寄せて辞世とした。
のこしてもなにゝかはせんあだし野の草葉にきゆる露の面影(『親長卿記』)
「私の寿像など描き残して何になろう」という、
弟の行いに対するいささか皮肉めいたものを感じる。
なお、下の句は一説に「草葉にやどる露の面影」(『実隆公記』)であったとされるが、
面影も消えたほうが皮肉が効いていようか。
そうして、長享3年(1489)3月10日朝、逝去。
78歳とも79歳とも。
上の寿像と辞世の話を後土御門天皇から聞いた三条西実隆は、
「老病のうち、優美のことなり」(『実隆公記』)と記している。
〔参考〕
『実隆公記 巻2』(1932年) →該当記事(国立国会図書館デジタルコレクション)
『増補史料大成 親長卿記 3』(臨川書店、1965年)
《病死》 《1477年》 《正月》 《10日》 《享年42歳》
永享8年(1436)生まれ。出自は未詳。
はじめ三条西家の女房、
のち、内裏の右衛門内侍の女房。
三条西実隆が3歳か4歳のころ、
つまり長禄元年(1457)か同2年(1458)ごろ、
小督は三条西亭にあって、実隆の父公保に仕えていた。
小督が22、23歳のことである。
当時は別の女房名で呼ばれていたか。
長禄4年(1460)正月、主の公保が死んでしまうと、
その妻(実隆の母、甘露寺房長の娘)の計らいにより、
その年の秋より、内裏の右衛門内侍こと四辻春子に仕えることとなった。
文正元年(1466)4月、春子は勾当内侍に就任するが、
小督は有能な女官として、春子を支え続けたようである。
実隆との交流も続いたが、
小督にしてみれば、実隆はいつまでも昔の主家の坊ちゃんだっただろう。
文明8年(1476)12月13日、小督は母を亡くし、内裏を一時退去した。
実はこのとき、小督は妊娠していた。
権大納言庭田雅行とひそかに関係をもっていたらしい。
翌9年(1477)正月6日、ひどい難産のすえに女児を出産したが、
その子はまもなく死んでしまった。
難産は、小督自身の体も傷めた。
小督の産後の回復は思わしくなく、
正月10日子の下刻(夜0~1時頃)、逝去。
42歳であった。
中世の時代としては、かなりの高齢出産であっただろう。
勤続18年に及んだ小督の死に、春子の悲嘆ぶりはいかばかりか、
と実隆は同情しつつ、
自身も、日ごろのつきあいは浅からず、
「当時(いま)歎嗟の思い、忍びがたきのみ。
有為の世界厭うべし。
悲しむべし悲しむべし。」(『実隆公記』)
と、悲嘆に暮れている。
戒名は、玉峯珪蓮。
正月28日、小督の供養のため、実隆は法華経の提婆達多品を卒塔婆に記してたむけた。
「多年官女の好、近来交友の睦、
誠にもって忘れがたきものなり。
よって寸丹の志を抽んずるのみ。」(『実隆公記』)
〔参考〕
『実隆公記 巻1』(1931年)
吉野芳恵「室町時代の禁裏の女房―勾当内侍を中心として―」(『國學院大學大學院紀要―文学研究科―』13、1982年)
松薗斉『中世禁裏女房の研究』(思文閣出版、2018年)
永享8年(1436)生まれ。出自は未詳。
はじめ三条西家の女房、
のち、内裏の右衛門内侍の女房。
三条西実隆が3歳か4歳のころ、
つまり長禄元年(1457)か同2年(1458)ごろ、
小督は三条西亭にあって、実隆の父公保に仕えていた。
小督が22、23歳のことである。
当時は別の女房名で呼ばれていたか。
長禄4年(1460)正月、主の公保が死んでしまうと、
その妻(実隆の母、甘露寺房長の娘)の計らいにより、
その年の秋より、内裏の右衛門内侍こと四辻春子に仕えることとなった。
文正元年(1466)4月、春子は勾当内侍に就任するが、
小督は有能な女官として、春子を支え続けたようである。
実隆との交流も続いたが、
小督にしてみれば、実隆はいつまでも昔の主家の坊ちゃんだっただろう。
文明8年(1476)12月13日、小督は母を亡くし、内裏を一時退去した。
実はこのとき、小督は妊娠していた。
権大納言庭田雅行とひそかに関係をもっていたらしい。
翌9年(1477)正月6日、ひどい難産のすえに女児を出産したが、
その子はまもなく死んでしまった。
難産は、小督自身の体も傷めた。
小督の産後の回復は思わしくなく、
正月10日子の下刻(夜0~1時頃)、逝去。
42歳であった。
中世の時代としては、かなりの高齢出産であっただろう。
勤続18年に及んだ小督の死に、春子の悲嘆ぶりはいかばかりか、
と実隆は同情しつつ、
自身も、日ごろのつきあいは浅からず、
「当時(いま)歎嗟の思い、忍びがたきのみ。
有為の世界厭うべし。
悲しむべし悲しむべし。」(『実隆公記』)
と、悲嘆に暮れている。
戒名は、玉峯珪蓮。
正月28日、小督の供養のため、実隆は法華経の提婆達多品を卒塔婆に記してたむけた。
「多年官女の好、近来交友の睦、
誠にもって忘れがたきものなり。
よって寸丹の志を抽んずるのみ。」(『実隆公記』)
〔参考〕
『実隆公記 巻1』(1931年)
吉野芳恵「室町時代の禁裏の女房―勾当内侍を中心として―」(『國學院大學大學院紀要―文学研究科―』13、1982年)
松薗斉『中世禁裏女房の研究』(思文閣出版、2018年)
《病死》 《1345年》 《8月》 《23日》 《享年57歳》
大外記中原師右の妻、
中原師茂・師守らの母。
康永4年(1345)の2月6日に、夫師右を亡くしたその妻は、
同月19日に出家して尼となり、顕心と号した。
その後も、子どもたちと夫の供養に勤しんでいたが、
翌3月の21日、いささか体調を崩した。
27日には、医師伊賀入道本寂の診察を受け、「大事ない」と診断されており、
次男師守は「心中悦喜のほか他事なし」と安堵して、
兄師茂と酒を飲んでいる(『師守記』、以下同)。
3月30日、師茂・師守兄弟は、父の喪明けで職務に復帰した。
4月3日、顕心の病はやや回復したようで、次男師守はまた喜んでいるが、
この日の未の刻(午後2時頃)、
顕心の暮らしている北面対屋の北東の柱に、羽蟻が涌くという変事があった。
陰陽師に相談したところ、
「重慎」であり、祈祷の必要があるとのことであった。
「口舌」(諍い)の災いがあるが、祈祷をすれば吉事に転じるとのことであった。
おそらく、陰陽師による祈祷がなされたであろう。
結局、顕心の具合は横ばいのままで、
5日、再び医師本寂の診察を受け、
やはり大事ないと診断されたものの、薬を処方された。
14日、重ねて本寂に診てもらい、
「御風」(風邪)と診断されて、五積散という薬を出されている。
17日、亡夫師右の跡を継いだ長男師茂が、大外記に任じられて、
名実ともに一家の当主となった。
このころ、師茂家では代替わりにともなう居宅の改築を計画していたが、
顕心の体調を慮って、改築を師茂の部屋周りにとどめている。
顕心は亡夫の部屋を使っていた。
20日、顕心の前で、新当主師茂が亡父師右の譲状を開封する儀が行われた。
長女や次男師守に宛てられたものもあり、
皆、師右を偲んで涙に暮れたようである。
26日、改築がなって引っ越しが行われ、
師右没後、顕心が管理していた南北文庫の鎰が、師茂に渡された。
師右から顕心を経て師茂への代替わりが着々と進んでいたことが、
次男師守の日記『師守記』に、刻々と記されている。
そのころの本寂による顕心の診断は、以下のとおり。
4月26日、「虚労」。薬を処方。
5月6日、「病状は変わらないが大事ない」。
5月11日、「やや快方にあるか」。
4月27日に支払われた薬代は、1貫100文(11万円ほどか)にのぼった。
5月17日、顕心は病をおして、夫師右の百ヶ日忌を執り行っている。
6月1日、
次男師守は、月が改まれば母の病気も癒えるはず、と期待をかけている。
しかし、6月4日のようすでは、顕心の具合はやはり思わしくなく、
毎日母のようすを見ていた師守は、
一向に快方に向かわないことを嘆き、仏神に祈っている。
また本寂の見立て。
6月6日、「やや回復している」。薬を処方。
6月18日、「安心してよい」。
6月25日、「大事ない」。
次男師守はその都度一喜一憂しているが、
気休めの診断を下される顕心自身は、どう思っていたろうか。
このころ、長男師茂も体調を崩し、
8月には、「瘧病」を起こして、医師の伊藤六郎や本寂の診察を受け、
僧侶に祈祷もしてもらっている。
なお、本寂の診察料は高額だったのか、
師守やその家族の診察は、もっぱら伊藤六郎がしている。
7月18日にも、顕心は本寂より薬を処方され、
薬代100疋(10万円ほどか)であった。
しかし、顕心の病状は悪化の一途をたどり、
日に日に食欲を失い、体のむくみもひどくなっていった。
22日、次男師守は、もはや回復は望めないものと悲嘆している。
26日、医師本寂はついに「期待はできない」と診断した。
8月1日、
師守は再び、月の改まりに母と兄の平癒に望みを託している。
7日ごろ、兄師茂の「瘧病」は治ったようだが、
顕心は、
14日には、師守とともに来客の対応もしたものの、
21日、容態が急変し、危篤に陥った。
23日酉の刻(夕方6時頃)、入滅。57歳。
3月下旬に体調を崩してから、5ヶ月。
臨終正念、閉眼の間際まで念仏を42遍唱えての往生であった。
師守ら兄弟姉妹にとっては、半年ばかりを隔てて父母を相次いで喪ったのである。
遺体は、亥の刻(夜10時頃)、ひそかに持蔵堂に移され、そこから霊山殿に運ばれて、
僧侶の手により葬儀が行われた。
師守らも密々これに随行している。
師茂家から支払われた葬儀代は、2貫500文(25万円ほどか)。
先例では土葬だったが、火葬されたようである。
師茂家は人々の弔問を受け、
なかには見舞いのつもりで訪れたところ、他界を知って引き返した者もいた。
29日の初七日法要は、悪日のためやはり僧侶によってなされたが、
二七日以降の法要は、師茂家でなされた。
9月4日、師守は、黒染めの狩衣を着て、霊山殿へ最初の墓参りをし、
10月5日には、七七日に書写した般若心経を墓前に供えている。
この日、師茂・師守兄弟は、喪明けでもとの官職に復したが、
10月23日、月忌始め、12月3日、百日忌と、
供養を怠らずに執り行っている。
〔参考〕
『史料纂集 師守記 第3』(続群書類従完成会、1969年)
大外記中原師右の妻、
中原師茂・師守らの母。
康永4年(1345)の2月6日に、夫師右を亡くしたその妻は、
同月19日に出家して尼となり、顕心と号した。
その後も、子どもたちと夫の供養に勤しんでいたが、
翌3月の21日、いささか体調を崩した。
27日には、医師伊賀入道本寂の診察を受け、「大事ない」と診断されており、
次男師守は「心中悦喜のほか他事なし」と安堵して、
兄師茂と酒を飲んでいる(『師守記』、以下同)。
3月30日、師茂・師守兄弟は、父の喪明けで職務に復帰した。
4月3日、顕心の病はやや回復したようで、次男師守はまた喜んでいるが、
この日の未の刻(午後2時頃)、
顕心の暮らしている北面対屋の北東の柱に、羽蟻が涌くという変事があった。
陰陽師に相談したところ、
「重慎」であり、祈祷の必要があるとのことであった。
「口舌」(諍い)の災いがあるが、祈祷をすれば吉事に転じるとのことであった。
おそらく、陰陽師による祈祷がなされたであろう。
結局、顕心の具合は横ばいのままで、
5日、再び医師本寂の診察を受け、
やはり大事ないと診断されたものの、薬を処方された。
14日、重ねて本寂に診てもらい、
「御風」(風邪)と診断されて、五積散という薬を出されている。
17日、亡夫師右の跡を継いだ長男師茂が、大外記に任じられて、
名実ともに一家の当主となった。
このころ、師茂家では代替わりにともなう居宅の改築を計画していたが、
顕心の体調を慮って、改築を師茂の部屋周りにとどめている。
顕心は亡夫の部屋を使っていた。
20日、顕心の前で、新当主師茂が亡父師右の譲状を開封する儀が行われた。
長女や次男師守に宛てられたものもあり、
皆、師右を偲んで涙に暮れたようである。
26日、改築がなって引っ越しが行われ、
師右没後、顕心が管理していた南北文庫の鎰が、師茂に渡された。
師右から顕心を経て師茂への代替わりが着々と進んでいたことが、
次男師守の日記『師守記』に、刻々と記されている。
そのころの本寂による顕心の診断は、以下のとおり。
4月26日、「虚労」。薬を処方。
5月6日、「病状は変わらないが大事ない」。
5月11日、「やや快方にあるか」。
4月27日に支払われた薬代は、1貫100文(11万円ほどか)にのぼった。
5月17日、顕心は病をおして、夫師右の百ヶ日忌を執り行っている。
6月1日、
次男師守は、月が改まれば母の病気も癒えるはず、と期待をかけている。
しかし、6月4日のようすでは、顕心の具合はやはり思わしくなく、
毎日母のようすを見ていた師守は、
一向に快方に向かわないことを嘆き、仏神に祈っている。
また本寂の見立て。
6月6日、「やや回復している」。薬を処方。
6月18日、「安心してよい」。
6月25日、「大事ない」。
次男師守はその都度一喜一憂しているが、
気休めの診断を下される顕心自身は、どう思っていたろうか。
このころ、長男師茂も体調を崩し、
8月には、「瘧病」を起こして、医師の伊藤六郎や本寂の診察を受け、
僧侶に祈祷もしてもらっている。
なお、本寂の診察料は高額だったのか、
師守やその家族の診察は、もっぱら伊藤六郎がしている。
7月18日にも、顕心は本寂より薬を処方され、
薬代100疋(10万円ほどか)であった。
しかし、顕心の病状は悪化の一途をたどり、
日に日に食欲を失い、体のむくみもひどくなっていった。
22日、次男師守は、もはや回復は望めないものと悲嘆している。
26日、医師本寂はついに「期待はできない」と診断した。
8月1日、
師守は再び、月の改まりに母と兄の平癒に望みを託している。
7日ごろ、兄師茂の「瘧病」は治ったようだが、
顕心は、
14日には、師守とともに来客の対応もしたものの、
21日、容態が急変し、危篤に陥った。
23日酉の刻(夕方6時頃)、入滅。57歳。
3月下旬に体調を崩してから、5ヶ月。
臨終正念、閉眼の間際まで念仏を42遍唱えての往生であった。
師守ら兄弟姉妹にとっては、半年ばかりを隔てて父母を相次いで喪ったのである。
遺体は、亥の刻(夜10時頃)、ひそかに持蔵堂に移され、そこから霊山殿に運ばれて、
僧侶の手により葬儀が行われた。
師守らも密々これに随行している。
師茂家から支払われた葬儀代は、2貫500文(25万円ほどか)。
先例では土葬だったが、火葬されたようである。
師茂家は人々の弔問を受け、
なかには見舞いのつもりで訪れたところ、他界を知って引き返した者もいた。
29日の初七日法要は、悪日のためやはり僧侶によってなされたが、
二七日以降の法要は、師茂家でなされた。
9月4日、師守は、黒染めの狩衣を着て、霊山殿へ最初の墓参りをし、
10月5日には、七七日に書写した般若心経を墓前に供えている。
この日、師茂・師守兄弟は、喪明けでもとの官職に復したが、
10月23日、月忌始め、12月3日、百日忌と、
供養を怠らずに執り行っている。
〔参考〕
『史料纂集 師守記 第3』(続群書類従完成会、1969年)
《誅殺》 《1381年》 《10月》 《27日》 《享年不明》
鴨社の前社務。
記録には「祐-」(『後愚昧記』)と記されているのみで、
いまその名は詳らかにしえない。
なお、「祐」は社務家の通字であり、みな「祐○」と名乗っている。
永徳元年(1381)10月27日夜、
この男は実相院の坊官祐栄の家へ忍び入り、
鞍を盗み出そうとした。
うまく盗みおおせたのか、あるいはしくじって感づかれたのか、
逃亡しようとしたところ、
京都四辻今出川あたりで見つかって囲まれ、討ち取られた。
窃盗の常習犯であったというが、余罪は明らかでない。
〔参考〕
『大日本古記録 後愚昧記 3』(岩波書店、1988年)
鴨社の前社務。
記録には「祐-」(『後愚昧記』)と記されているのみで、
いまその名は詳らかにしえない。
なお、「祐」は社務家の通字であり、みな「祐○」と名乗っている。
永徳元年(1381)10月27日夜、
この男は実相院の坊官祐栄の家へ忍び入り、
鞍を盗み出そうとした。
うまく盗みおおせたのか、あるいはしくじって感づかれたのか、
逃亡しようとしたところ、
京都四辻今出川あたりで見つかって囲まれ、討ち取られた。
窃盗の常習犯であったというが、余罪は明らかでない。
〔参考〕
『大日本古記録 後愚昧記 3』(岩波書店、1988年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 ~1299
| 1084 | ||
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| 1103 | ||
| 1105 | ||
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| 1227 | ||
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| 1234 | ||
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| 1245 | ||
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没年 1350~1399
| 1350 | ||
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| 1374 | ||
| 1378 | 1379 | |
| 1380 | ||
| 1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
| 1400 | ||
| 1402 | 1403 | |
| 1405 | ||
| 1408 | ||
| 1412 | ||
| 1414 | 1415 | 1416 |
| 1417 | 1418 | 1419 |
| 1420 | ||
| 1421 | 1422 | 1423 |
| 1424 | 1425 | 1426 |
| 1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
| 1430 | ||
| 1431 | 1432 | 1433 |
| 1434 | 1435 | 1436 |
| 1437 | 1439 | |
| 1441 | 1443 | |
| 1444 | 1446 | |
| 1447 | 1448 | 1449 |
| 1450 | ||
| 1453 | ||
| 1454 | 1455 | |
| 1459 |
没年 1460~1499
没日
| 1日 | 2日 | 3日 |
| 4日 | 5日 | 6日 |
| 7日 | 8日 | 9日 |
| 10日 | 11日 | 12日 |
| 13日 | 14日 | 15日 |
| 16日 | 17日 | 18日 |
| 19日 | 20日 | 21日 |
| 22日 | 23日 | 24日 |
| 25日 | 26日 | 27日 |
| 28日 | 29日 | 30日 |
| 某日 |
享年 ~30代
| ~9歳 | ||
| 6歳 | ||
| 9歳 | ||
| 10代 | 10歳 | |
| 11歳 | ||
| 15歳 | ||
| 18歳 | 19歳 | |
| 20代 | 20歳 | |
| 22歳 | ||
| 24歳 | 25歳 | 26歳 |
| 27歳 | 28歳 | 29歳 |
| 30代 | 30歳 | |
| 31歳 | 32歳 | 33歳 |
| 34歳 | 35歳 | |
| 37歳 | 38歳 | 39歳 |
享年 40代~60代
| 40代 | 40歳 | |
| 41歳 | 42歳 | 43歳 |
| 44歳 | 45歳 | 46歳 |
| 47歳 | 48歳 | 49歳 |
| 50代 | 50歳 | |
| 52歳 | 53歳 | |
| 55歳 | ||
| 57歳 | 58歳 | |
| 60代 | 60歳 | |
| 61歳 | 62歳 | 63歳 |
| 66歳 | ||
| 68歳 | 69歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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