死に様データベース
《病死》 《1096年》 《8月》 《7日》 《享年21歳》
名は媞子。内親王。
父は白河天皇。母は中宮藤原賢子。
承保3年(1076)4月5日、白河天皇の第一皇女として生まれて、
まもなく内親王となり、
承暦2年(1078)3月16日、3歳で准三后となって、
同年8月2日、伊勢斎王となることが決まった。
承暦4年(1080)9月、5歳で伊勢へ赴くも、
応徳元年(1084)9月、母の死去により斎宮を退いて、同年中に帰京した。
京都に戻った媞子は、
寛治元年(1087)12月16日、
12歳で同母弟堀河天皇9歳の母になぞらえられて、入内し、
寛治5年(1091)正月22日、
16歳でその中宮に立てられた。
そして、寛治7年(1093)正月19日、
18歳で女院号を与えられて、郁芳門院と号した。
擬制的ながら、実弟の妻であり母であるという女性の立場に当てられたのである。
不婚の内親王が天皇の准母となるのは、この郁芳門院媞子が初例であり、
白河上皇が、皇統のライバルであった異母弟輔仁親王を牽制して、
自身とその子らの正統性を補強するために実行した、とされている。
媞子は白河上皇最愛の娘であり、
「天下の威権、ただこの人にあり」(『中右記』)といわれるほどであった。
だが、それに驕ることはなかったようで、
「進退美麗、風容甚だ盛ん。
性もとより寛仁、接心、好施」(同前)
であったという。
立ち居振る舞いが美しく、華があり、
性格も穏やかで慈悲深かった、といったところか。
しかし、京都で暮らす媞子の身は、病魔に冒されていた。
寛治3年(1089)頃から、媞子は春になるたびに「邪気」に襲われ、
そのつど神仏への祈禱がしきりになされたが、効果はなかった。
嘉保3年(1096)の春は、比較的平安に過ごしたようだが、
7月下旬より発熱などの症状があらわれた。
これにより、朝廷は儀式の一部を停止し、
父上皇は毎日読経をした。
だが、
8月7日寅の刻(午前4時頃)、六条殿の寝殿で薨去。
21歳であった。
母娘ともども、若くして「邪気」に命を奪われたのである。
「生死無常、誠に春夢のごときか。仰天伏地、歎いて余りあり。」(『中右記』)
と、左中弁藤原宗忠は嘆いているが、
なにより悲嘆に暮れたのは、父の白河上皇であった。
「上皇こののち御神心迷乱。
東西を知らしめ給はずと云々。」(同前)
右も左もおぼつかないほどのうろたえようだったのである。
翌8日、入棺。
この日、郁芳門院の乳母子の左衛門大夫藤原知信が出家した。
9日、白河上皇も、周囲の制止を聞かずに出家。
16日戌の刻(夜8時頃)、日中の小雨が夜半に本降りとなるなか、
郁芳門院の棺は車に乗せられ、六条殿を出た。
当時、弔いの念仏は出棺後に始めるのが習わしだったが、
父の白河上皇は、それに反して出棺前から念仏を始めたという。
棺は東洞院大路、五条大路、大宮大路を通って、船岡山の北へ運ばれ、火葬された。
遺灰は、叔父で院司だった右近衛少将源顕雅が運び、
母賢子と同じ醍醐寺円光院に納められた。
9月26日の四十九日を迎えるまで、
父上皇によって多くの仏事が営まれた。
その後、郁芳門院の同母妹令子内親王が、
白河上皇の孫鳥羽天皇の准母に立てられたが、
このとき白河上皇は、
郁芳門院を強引に立后したことが、その若すぎる死を招いた、と悔い、
令子立后の主導を避けた。
〔参考〕
『大日本古記録 中右記 3』(岩波書店、1999年)
栗山圭子『中世王家の成立と院政』(吉川弘文館、2012年)
山田彩起子『中世前期女性院宮の研究』(思文閣出版、2010年)
名は媞子。内親王。
父は白河天皇。母は中宮藤原賢子。
承保3年(1076)4月5日、白河天皇の第一皇女として生まれて、
まもなく内親王となり、
承暦2年(1078)3月16日、3歳で准三后となって、
同年8月2日、伊勢斎王となることが決まった。
承暦4年(1080)9月、5歳で伊勢へ赴くも、
応徳元年(1084)9月、母の死去により斎宮を退いて、同年中に帰京した。
京都に戻った媞子は、
寛治元年(1087)12月16日、
12歳で同母弟堀河天皇9歳の母になぞらえられて、入内し、
寛治5年(1091)正月22日、
16歳でその中宮に立てられた。
そして、寛治7年(1093)正月19日、
18歳で女院号を与えられて、郁芳門院と号した。
擬制的ながら、実弟の妻であり母であるという女性の立場に当てられたのである。
不婚の内親王が天皇の准母となるのは、この郁芳門院媞子が初例であり、
白河上皇が、皇統のライバルであった異母弟輔仁親王を牽制して、
自身とその子らの正統性を補強するために実行した、とされている。
媞子は白河上皇最愛の娘であり、
「天下の威権、ただこの人にあり」(『中右記』)といわれるほどであった。
だが、それに驕ることはなかったようで、
「進退美麗、風容甚だ盛ん。
性もとより寛仁、接心、好施」(同前)
であったという。
立ち居振る舞いが美しく、華があり、
性格も穏やかで慈悲深かった、といったところか。
しかし、京都で暮らす媞子の身は、病魔に冒されていた。
寛治3年(1089)頃から、媞子は春になるたびに「邪気」に襲われ、
そのつど神仏への祈禱がしきりになされたが、効果はなかった。
嘉保3年(1096)の春は、比較的平安に過ごしたようだが、
7月下旬より発熱などの症状があらわれた。
これにより、朝廷は儀式の一部を停止し、
父上皇は毎日読経をした。
だが、
8月7日寅の刻(午前4時頃)、六条殿の寝殿で薨去。
21歳であった。
母娘ともども、若くして「邪気」に命を奪われたのである。
「生死無常、誠に春夢のごときか。仰天伏地、歎いて余りあり。」(『中右記』)
と、左中弁藤原宗忠は嘆いているが、
なにより悲嘆に暮れたのは、父の白河上皇であった。
「上皇こののち御神心迷乱。
東西を知らしめ給はずと云々。」(同前)
右も左もおぼつかないほどのうろたえようだったのである。
翌8日、入棺。
この日、郁芳門院の乳母子の左衛門大夫藤原知信が出家した。
9日、白河上皇も、周囲の制止を聞かずに出家。
16日戌の刻(夜8時頃)、日中の小雨が夜半に本降りとなるなか、
郁芳門院の棺は車に乗せられ、六条殿を出た。
当時、弔いの念仏は出棺後に始めるのが習わしだったが、
父の白河上皇は、それに反して出棺前から念仏を始めたという。
棺は東洞院大路、五条大路、大宮大路を通って、船岡山の北へ運ばれ、火葬された。
遺灰は、叔父で院司だった右近衛少将源顕雅が運び、
母賢子と同じ醍醐寺円光院に納められた。
9月26日の四十九日を迎えるまで、
父上皇によって多くの仏事が営まれた。
その後、郁芳門院の同母妹令子内親王が、
白河上皇の孫鳥羽天皇の准母に立てられたが、
このとき白河上皇は、
郁芳門院を強引に立后したことが、その若すぎる死を招いた、と悔い、
令子立后の主導を避けた。
〔参考〕
『大日本古記録 中右記 3』(岩波書店、1999年)
栗山圭子『中世王家の成立と院政』(吉川弘文館、2012年)
山田彩起子『中世前期女性院宮の研究』(思文閣出版、2010年)
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《病死》 《1491年》 《4月》 《3日》 《享年57歳》
堀越公方。
6代将軍足利義教の子、8代将軍足利義政の兄。
享徳3年(1454)12月、
5代鎌倉公方足利成氏が、関東管領上杉憲忠を謀殺して享徳の乱を起こすと、
これを室町幕府に対する叛逆とみた将軍足利義政は、
長禄元年(1457)末、
天龍寺香厳院にいた庶兄清久を還俗させて、政知と名乗らせ、
成氏に代わる鎌倉公方として、関東に遣わすこととした。
当初、政知は、
成氏が失陥した鎌倉に入り、新たな鎌倉公方として東国に君臨するはずだった。
しかし、不安定な関東の情勢は、それを許さず、
長禄2年(1458)の東下以来、
箱根の山も越えずに、伊豆堀越(現・静岡県伊豆の国市)に長く留まった。
堀越公方と呼ばれる所以である。
それでも、堀越公方政知の登場は、成氏陣営に少なからぬ動揺を与えたが、
同時に上杉方にも混乱をもたらし、情勢を決定づけるには至らなかった。
さらに、文明14年(1482)に締結された義政と成氏の和睦で、
公方の地位は成氏に認められたため、
政知の地位は宙ぶらりんとなってしまった。
妥協案として、政知には伊豆一国の支配権と多少の直轄領のみが与えられ、
堀越御所が政知の終の棲家となった。
政知は、延徳3年(1491)正月頃より病気がちになり、
4月3日、永眠。享年57。
院号は勝幢院、道号は九山、法諱は未詳(『蔭凉軒日録』)。
臨終の際の様子を、伝え聞いた権大納言三条西実隆が日記に記している。
鎌倉殿〈左兵衛督政知、慈照院殿同甲子(年齢)御舎弟〉、
去んぬる四月三日、薨じ給う。
正月より御不食と云々。
…獲麟(死去)の時刻の儀、もってのほかの事どもなり。
すなわち寝殿西方の庭に土葬すと云々。
事の儀、記すに能わず。(『実隆公記』)
実隆は、ふた月ほど経とうという5月28日、
前権大納言冷泉為富から得た情報として、このことを記している。
「もってのほかの事ども(とんでもないことなど)」と、
政知の死に際して、何かただならぬことが起こったかのような書きぶりだが、
具体的なことは、「記すに能わず」と書き留めるのを放棄している。
また、貴人の葬法は、火葬と菩提寺への納骨が一般的であった当時、
すぐさま御所内の庭園に土葬されたというのも、どうにも奇妙である。
早々に埋葬を済ませねばならぬほど、特異な死に方であったのか、
それとも、死去の事実を秘匿せねばならない不安定な状況があったのか。
政知の死に何があったのか、今日に知るすべはないが、
3ヶ月後、政知の長男茶々丸が異母弟潤童子とその母を殺害し、
さらにその2年後には、
政知の次男義高を新将軍に立てた京都のクーデター(明応の政変)に連動して、
伊勢宗瑞が茶々丸を攻めて、伊豆への侵攻を開始した。
政知の不可解な死を合図とするかのように、
関東はさらなる動乱の時代へと進んでゆくことになる。
※本記事の内容は、K氏の情報提供による。記して深謝す。
〔参考〕
『実隆公記 巻2』(1932年) →該当箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)
久保健一郎『列島の戦国史 1 享徳の乱と戦国時代』(吉川弘文館、2020年)
則竹雄一『動乱の東国史 6 古河公方と伊勢宗瑞』(吉川弘文館、2013年)
堀越公方。
6代将軍足利義教の子、8代将軍足利義政の兄。
享徳3年(1454)12月、
5代鎌倉公方足利成氏が、関東管領上杉憲忠を謀殺して享徳の乱を起こすと、
これを室町幕府に対する叛逆とみた将軍足利義政は、
長禄元年(1457)末、
天龍寺香厳院にいた庶兄清久を還俗させて、政知と名乗らせ、
成氏に代わる鎌倉公方として、関東に遣わすこととした。
当初、政知は、
成氏が失陥した鎌倉に入り、新たな鎌倉公方として東国に君臨するはずだった。
しかし、不安定な関東の情勢は、それを許さず、
長禄2年(1458)の東下以来、
箱根の山も越えずに、伊豆堀越(現・静岡県伊豆の国市)に長く留まった。
堀越公方と呼ばれる所以である。
それでも、堀越公方政知の登場は、成氏陣営に少なからぬ動揺を与えたが、
同時に上杉方にも混乱をもたらし、情勢を決定づけるには至らなかった。
さらに、文明14年(1482)に締結された義政と成氏の和睦で、
公方の地位は成氏に認められたため、
政知の地位は宙ぶらりんとなってしまった。
妥協案として、政知には伊豆一国の支配権と多少の直轄領のみが与えられ、
堀越御所が政知の終の棲家となった。
政知は、延徳3年(1491)正月頃より病気がちになり、
4月3日、永眠。享年57。
院号は勝幢院、道号は九山、法諱は未詳(『蔭凉軒日録』)。
臨終の際の様子を、伝え聞いた権大納言三条西実隆が日記に記している。
鎌倉殿〈左兵衛督政知、慈照院殿同甲子(年齢)御舎弟〉、
去んぬる四月三日、薨じ給う。
正月より御不食と云々。
…獲麟(死去)の時刻の儀、もってのほかの事どもなり。
すなわち寝殿西方の庭に土葬すと云々。
事の儀、記すに能わず。(『実隆公記』)
実隆は、ふた月ほど経とうという5月28日、
前権大納言冷泉為富から得た情報として、このことを記している。
「もってのほかの事ども(とんでもないことなど)」と、
政知の死に際して、何かただならぬことが起こったかのような書きぶりだが、
具体的なことは、「記すに能わず」と書き留めるのを放棄している。
また、貴人の葬法は、火葬と菩提寺への納骨が一般的であった当時、
すぐさま御所内の庭園に土葬されたというのも、どうにも奇妙である。
早々に埋葬を済ませねばならぬほど、特異な死に方であったのか、
それとも、死去の事実を秘匿せねばならない不安定な状況があったのか。
政知の死に何があったのか、今日に知るすべはないが、
3ヶ月後、政知の長男茶々丸が異母弟潤童子とその母を殺害し、
さらにその2年後には、
政知の次男義高を新将軍に立てた京都のクーデター(明応の政変)に連動して、
伊勢宗瑞が茶々丸を攻めて、伊豆への侵攻を開始した。
政知の不可解な死を合図とするかのように、
関東はさらなる動乱の時代へと進んでゆくことになる。
※本記事の内容は、K氏の情報提供による。記して深謝す。
〔参考〕
『実隆公記 巻2』(1932年) →該当箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)
久保健一郎『列島の戦国史 1 享徳の乱と戦国時代』(吉川弘文館、2020年)
則竹雄一『動乱の東国史 6 古河公方と伊勢宗瑞』(吉川弘文館、2013年)
《不明》 《1202年》 《某月》 《某日》 《享年不明》
建仁2年(1202)の春頃、
鎌倉では将軍家2代の源頼家の御所で、
連日のように蹴鞠会が催されていた。
3月8日にも、蹴鞠会があり、
その後の宴席は、比企能員邸の庭木の花が見頃だとのことで、
将軍家の御所から場所を移して開催された。
その宴席に、京都から下ってきたという微妙という名の舞女が候じた。
歌舞もよく、頼家もご満悦だったようだが、
亭主能員によれば、この微妙には愁訴の旨があって、山河を越えて鎌倉に来たのだという。
頼家が尋ねると、微妙は泣きながら、途切れがちにこう訴えた。
「去る建久年中(1190~99)、
父の右兵衛尉為成は、他人の讒言に遭って捕らえられ、
右京の獄舎に入れられました。
その後、同所の囚人は陸奥へ移送することとなり、
鎌倉将軍家の雑色に引き渡されましたが、
父為成もそのうちにおりました。
母は悲嘆の余りに世を去り、7歳であった私は、頼るべき兄弟もなく、
長く孤独の恨みに沈んでおりましたが、
父への想いを抑えきれず、その安否をたしかめたいと、
今こうして宴曲の芸を身につけて、東路を越えてきたのです。」(『吾妻鏡』、以下同)
これを聞いて涙しない者はなく、
頼家はさっそく陸奥へ使者を遣わして、為成の行方を捜させた。
この話は、尼御台北条政子の耳にも届き、
3月15日、政子が頼家の御所を訪れた際に、微妙も召され、
その巧みな芸を披露した。
微妙の父を想う志に感じ入った政子もまた、陸奥へ使者を遣って為成を捜させた。
さらに、
使者が鎌倉に戻った際には、政子のもとへ直接報告に来るよう命じている。
その後もたびたび微妙は頼家に召され、宴席に候じたが、
陸奥から使者が帰ったのは、5ヶ月後の8月5日。
その報告は、為成の死去を知らせるものであった。
これを聞いた微妙は、「涕泣、悶絶躄地」(もだえ苦しみ、転げ回ること)。
10日後の15日夜、
微妙は鎌倉亀谷の栄西の禅坊に入って、出家を遂げた。
法名は持蓮。
父の夢後を弔うためであったのはいうまでもない。
憐れんだ政子は、微妙改め持蓮に鎌倉西郊の深沢にに居所を用意して与え、
政子の持仏堂にも参じるよう言い含めたという。
微妙の姿は、父を想うけなげな女性像として称賛されたようで、
戦前には「列女伝」の類や修身の教科書などに、多く取り上げられたようである。
ただ、この父娘の孝行譚にはおまけがつく。
鎌倉滞在中の微妙は、
古郡保忠という御家人と浅からぬ仲になっていた。
ふたりは「比翼連理の契り」をしていたが、
微妙は、保忠が本国の甲斐に帰っている間、その帰りを待たずに出家したのである。
3月24日、鎌倉に戻った古郡保忠は、微妙の出家を知る。
微妙が、栄西の門弟祖達の房にいることを聞いた保忠は、そこへ押しかけ、
微妙に会わせよと迫った。
その剣幕におそれおののいた祖達は、将軍御所に駆け込み、
鬱憤休まらざる保忠は、従僧らを打擲したため、
亀谷一帯はたちまち騒動になった。
まもなく鎮静したが、政子は平賀朝光を遣わして保忠を宥めている。
結局、27日なって保忠は将軍頼家の勘気を蒙り、
政子からも「理不尽の所行、奇怪」と叱責を受けた。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 前篇』(吉川弘文館、1964年)
建仁2年(1202)の春頃、
鎌倉では将軍家2代の源頼家の御所で、
連日のように蹴鞠会が催されていた。
3月8日にも、蹴鞠会があり、
その後の宴席は、比企能員邸の庭木の花が見頃だとのことで、
将軍家の御所から場所を移して開催された。
その宴席に、京都から下ってきたという微妙という名の舞女が候じた。
歌舞もよく、頼家もご満悦だったようだが、
亭主能員によれば、この微妙には愁訴の旨があって、山河を越えて鎌倉に来たのだという。
頼家が尋ねると、微妙は泣きながら、途切れがちにこう訴えた。
「去る建久年中(1190~99)、
父の右兵衛尉為成は、他人の讒言に遭って捕らえられ、
右京の獄舎に入れられました。
その後、同所の囚人は陸奥へ移送することとなり、
鎌倉将軍家の雑色に引き渡されましたが、
父為成もそのうちにおりました。
母は悲嘆の余りに世を去り、7歳であった私は、頼るべき兄弟もなく、
長く孤独の恨みに沈んでおりましたが、
父への想いを抑えきれず、その安否をたしかめたいと、
今こうして宴曲の芸を身につけて、東路を越えてきたのです。」(『吾妻鏡』、以下同)
これを聞いて涙しない者はなく、
頼家はさっそく陸奥へ使者を遣わして、為成の行方を捜させた。
この話は、尼御台北条政子の耳にも届き、
3月15日、政子が頼家の御所を訪れた際に、微妙も召され、
その巧みな芸を披露した。
微妙の父を想う志に感じ入った政子もまた、陸奥へ使者を遣って為成を捜させた。
さらに、
使者が鎌倉に戻った際には、政子のもとへ直接報告に来るよう命じている。
その後もたびたび微妙は頼家に召され、宴席に候じたが、
陸奥から使者が帰ったのは、5ヶ月後の8月5日。
その報告は、為成の死去を知らせるものであった。
これを聞いた微妙は、「涕泣、悶絶躄地」(もだえ苦しみ、転げ回ること)。
10日後の15日夜、
微妙は鎌倉亀谷の栄西の禅坊に入って、出家を遂げた。
法名は持蓮。
父の夢後を弔うためであったのはいうまでもない。
憐れんだ政子は、微妙改め持蓮に鎌倉西郊の深沢にに居所を用意して与え、
政子の持仏堂にも参じるよう言い含めたという。
微妙の姿は、父を想うけなげな女性像として称賛されたようで、
戦前には「列女伝」の類や修身の教科書などに、多く取り上げられたようである。
ただ、この父娘の孝行譚にはおまけがつく。
鎌倉滞在中の微妙は、
古郡保忠という御家人と浅からぬ仲になっていた。
ふたりは「比翼連理の契り」をしていたが、
微妙は、保忠が本国の甲斐に帰っている間、その帰りを待たずに出家したのである。
3月24日、鎌倉に戻った古郡保忠は、微妙の出家を知る。
微妙が、栄西の門弟祖達の房にいることを聞いた保忠は、そこへ押しかけ、
微妙に会わせよと迫った。
その剣幕におそれおののいた祖達は、将軍御所に駆け込み、
鬱憤休まらざる保忠は、従僧らを打擲したため、
亀谷一帯はたちまち騒動になった。
まもなく鎮静したが、政子は平賀朝光を遣わして保忠を宥めている。
結局、27日なって保忠は将軍頼家の勘気を蒙り、
政子からも「理不尽の所行、奇怪」と叱責を受けた。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 前篇』(吉川弘文館、1964年)
《病死》 《1505年》 《11月》 《7日》 《享年40代》
三条西家の下女。
文明初年(1470前後)のころから、三条西家に仕えていたらしい。
永正2年(1505)11月6日の夜、
梅枝は中風(脳卒中の類)を発し、人事不省に陥った。
主の三条西実隆は、「不便々々(ふびんふびん)」と言いつつも、
瀕死の梅枝の身を自邸から出して、今出川辺りの民家に移した(『実隆公記』)。
自身に死穢が及ぶことを避けたためであろう。
翌7日、絶命。
30余年にわたって三条西家に仕えたというから、
40代半ば~後半であったろうか。
主の実隆は、「正直者であった」とその死を悼んでいる(『実隆公記』)。
〔参考〕
『実隆公記 巻4』(太洋社、1935年) →該当箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)
三条西家の下女。
文明初年(1470前後)のころから、三条西家に仕えていたらしい。
永正2年(1505)11月6日の夜、
梅枝は中風(脳卒中の類)を発し、人事不省に陥った。
主の三条西実隆は、「不便々々(ふびんふびん)」と言いつつも、
瀕死の梅枝の身を自邸から出して、今出川辺りの民家に移した(『実隆公記』)。
自身に死穢が及ぶことを避けたためであろう。
翌7日、絶命。
30余年にわたって三条西家に仕えたというから、
40代半ば~後半であったろうか。
主の実隆は、「正直者であった」とその死を悼んでいる(『実隆公記』)。
〔参考〕
『実隆公記 巻4』(太洋社、1935年) →該当箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)
《自害》 《1408年》 《5月》 《25日》 《享年不明》
慧春尼は南北朝末期から室町初期のひとだが、
その生涯は、江戸時代に編まれた高僧の伝記集、「重続日域洞上諸祖伝」巻2と「日本洞上聯灯録」巻4に詳しい。
多分に伝説化している面もあろうが、
以下、これによりつつその事績をたどりたい。
*****以下、性的加害の描写があります。閲覧に十分ご注意ください。*****
曹洞宗の尼僧。
相模の糟谷氏出身。
兄は、相模足柄の大雄山最乗寺(現・神奈川県南足柄市)を開いた了庵慧明。
類いまれな容姿をもっていた慧春は、俗世に生きることを好まず、
30歳を過ぎるころ、兄了庵に師事して出家しようとした。
しかし、了庵は、
「出家は大丈夫(成人男性)のなすことであり、
女子供は、自律できずに流されやすい。
安易に女人を出家させて、法門を汚す者が多い」
と妹の望みを却けた。
そこで慧春は、焼けた火箸を自らの顔に押し当てて容貌を変じ、再び出家を望んだ。
そのため、了庵はやむをえず出家を認めた。
慧春は大雄山で禅に励んで了庵の印可を得、やがてその力量を広く知られるようになった。
あるとき、了庵が鎌倉円覚寺に使者を派遣しようとしたところ、
弟子の男僧たちは、エリートの円覚寺僧との禅問答を嫌がって行こうとしなかった。
そこで、慧春が使者の役を買って出て、鎌倉へ赴いた。
慧春の俊英ぶりを知っていた円覚寺の僧たちは、虚を突いてその気を挫こうと企て、
ひとりの男僧が石段の途中で慧春を待ち構えた。
やってきた慧春に、その僧は衣の裾をからげて「陰を怒らせて」立ちふさがり、
「老僧の物三尺」
と言った。
そこで慧春もすかさず衣の裾をからげて、「牝戸」を開いて見せながら、
「尼の物底なし」
と応じた。
僧は恥じ入って、どこかへ退散してしまった。
山上に至り、住持に対面すると、
侍者が手洗い用の鉢に茶を点てて持ってきた。
慧春は動じず、
「これは和尚の日用の茶碗でしょう。どうぞお飲みください」
と返した。
住持は答えに窮し、応じえなかった。
これらの問答により、慧春の名望はさらにあがったという。
火箸で顔を焼いたとはいえ、慧春の容貌に心を動かすものは少なくなく、
あるとき、ひとりの男僧が慧春に「その情」を密かに告げ、「その欲」を遂げることを求めた。
慧春は「たやすいことだ」と応じ、ただ約束を違えないよう伝えたため、
その僧は「願いを聞き届けてくれるなら、湯火も辞さないどころではない」と喜んだ。
ところが、
ある日、師の了庵が堂に僧衆を集めたおり、
慧春は一糸まとわぬ「赤赤裸裸」の姿で「傲然」と現れ、
声高にその僧を呼び、
「汝と約あり。すみやかに来りて我につき汝の欲をほしいままにすべし」
と言った。
仰天したその僧は、ほどなく寺から逐電した。
慧春は晩年、大雄山の麓に摂取庵という庵をむすび、往来の人々に応対したという。
応永15年(1408)5月25日、
慧春は大雄山の三門前の盤石に、薪を積んで柴棚を作り、
自ら点火して火焔のうちに入滅した。
火と煙の勢いが増していくおり、兄で師の了庵が「熱いか」と尋ねると、
燃えさかる炎のなかで、慧春は声をあげて次のように答えたという。
冷熱は生道人の知るところに非ず。
そうして、慧春は平然として火焔のなかで遷化し、
人々はその遺骨を拾って摂取庵に塔をつくり、弔ったとされる。
大雄山最乗寺の境内の片隅には、今も慧春尼堂が建っている。
慧春が生前、男僧から受けた仕打ちの数々は、慧春の高潔さを示す挿話として描かれているが、
その実、寺院という男性社会において女性が活動することの困難さを表している。
近世の創作だとしても、近世の寺院社会におけるジェンダー観を示すものにほかならない。
そもそも優れた容貌の持ち主だったというのも、
これら暴力の要因を慧春に転嫁し、
男僧の加害を“しかたのないもの”と見せるための方便に過ぎない。
その容貌を自ら傷つけたのも、
そこまでしなければ女性の決心が伝わらないという、コミュニケーション上の格差や、
女性は男性の宗教活動を妨げる存在であり、主体たりえないという、立場の断絶など、
性差別を克服するために取らざるをえなかった行為とされている。
慧春は、挿話に描かれるとおり強く賢かったからこそ、
男性中心の寺院社会でも生き延び、大悟しえたのかもしれないが、
彼女を取り巻いていたものの異様さにこそ、目を向けざるをえない。
〔参考〕
仏教刊行会編『大日本仏教全書』110(仏教刊行会、1914年)
藤谷俊雄「慧春尼伝」(『日本史研究』39、1958年)
三山進『太平寺滅亡―鎌倉尼五山秘話』(有隣新書、有隣堂、1979年)
前田昌宏『慧春尼伝』(献書刊行会、1988年)
東隆真『禅と女性たち』(青山社、2000年)
瀬野美佐「顔を灼く女たち―慧春尼伝説に見る性のアンビバレンツ―」(『教化研修』47、2003年)
西山美香「顔を焼く女たち」(奥田勲編『日本文学 女性へのまなざし』風間書房、2004年)
竹下ルッジェリ・アンナ「ジェンダーに対する江戸時代の臨済宗―白隠禅師を中心として―」(南山宗教文化研究所『研究所報』31、2021年)
慧春尼は南北朝末期から室町初期のひとだが、
その生涯は、江戸時代に編まれた高僧の伝記集、「重続日域洞上諸祖伝」巻2と「日本洞上聯灯録」巻4に詳しい。
多分に伝説化している面もあろうが、
以下、これによりつつその事績をたどりたい。
*****以下、性的加害の描写があります。閲覧に十分ご注意ください。*****
曹洞宗の尼僧。
相模の糟谷氏出身。
兄は、相模足柄の大雄山最乗寺(現・神奈川県南足柄市)を開いた了庵慧明。
類いまれな容姿をもっていた慧春は、俗世に生きることを好まず、
30歳を過ぎるころ、兄了庵に師事して出家しようとした。
しかし、了庵は、
「出家は大丈夫(成人男性)のなすことであり、
女子供は、自律できずに流されやすい。
安易に女人を出家させて、法門を汚す者が多い」
と妹の望みを却けた。
そこで慧春は、焼けた火箸を自らの顔に押し当てて容貌を変じ、再び出家を望んだ。
そのため、了庵はやむをえず出家を認めた。
慧春は大雄山で禅に励んで了庵の印可を得、やがてその力量を広く知られるようになった。
あるとき、了庵が鎌倉円覚寺に使者を派遣しようとしたところ、
弟子の男僧たちは、エリートの円覚寺僧との禅問答を嫌がって行こうとしなかった。
そこで、慧春が使者の役を買って出て、鎌倉へ赴いた。
慧春の俊英ぶりを知っていた円覚寺の僧たちは、虚を突いてその気を挫こうと企て、
ひとりの男僧が石段の途中で慧春を待ち構えた。
やってきた慧春に、その僧は衣の裾をからげて「陰を怒らせて」立ちふさがり、
「老僧の物三尺」
と言った。
そこで慧春もすかさず衣の裾をからげて、「牝戸」を開いて見せながら、
「尼の物底なし」
と応じた。
僧は恥じ入って、どこかへ退散してしまった。
山上に至り、住持に対面すると、
侍者が手洗い用の鉢に茶を点てて持ってきた。
慧春は動じず、
「これは和尚の日用の茶碗でしょう。どうぞお飲みください」
と返した。
住持は答えに窮し、応じえなかった。
これらの問答により、慧春の名望はさらにあがったという。
火箸で顔を焼いたとはいえ、慧春の容貌に心を動かすものは少なくなく、
あるとき、ひとりの男僧が慧春に「その情」を密かに告げ、「その欲」を遂げることを求めた。
慧春は「たやすいことだ」と応じ、ただ約束を違えないよう伝えたため、
その僧は「願いを聞き届けてくれるなら、湯火も辞さないどころではない」と喜んだ。
ところが、
ある日、師の了庵が堂に僧衆を集めたおり、
慧春は一糸まとわぬ「赤赤裸裸」の姿で「傲然」と現れ、
声高にその僧を呼び、
「汝と約あり。すみやかに来りて我につき汝の欲をほしいままにすべし」
と言った。
仰天したその僧は、ほどなく寺から逐電した。
慧春は晩年、大雄山の麓に摂取庵という庵をむすび、往来の人々に応対したという。
応永15年(1408)5月25日、
慧春は大雄山の三門前の盤石に、薪を積んで柴棚を作り、
自ら点火して火焔のうちに入滅した。
火と煙の勢いが増していくおり、兄で師の了庵が「熱いか」と尋ねると、
燃えさかる炎のなかで、慧春は声をあげて次のように答えたという。
冷熱は生道人の知るところに非ず。
そうして、慧春は平然として火焔のなかで遷化し、
人々はその遺骨を拾って摂取庵に塔をつくり、弔ったとされる。
大雄山最乗寺の境内の片隅には、今も慧春尼堂が建っている。
慧春が生前、男僧から受けた仕打ちの数々は、慧春の高潔さを示す挿話として描かれているが、
その実、寺院という男性社会において女性が活動することの困難さを表している。
近世の創作だとしても、近世の寺院社会におけるジェンダー観を示すものにほかならない。
そもそも優れた容貌の持ち主だったというのも、
これら暴力の要因を慧春に転嫁し、
男僧の加害を“しかたのないもの”と見せるための方便に過ぎない。
その容貌を自ら傷つけたのも、
そこまでしなければ女性の決心が伝わらないという、コミュニケーション上の格差や、
女性は男性の宗教活動を妨げる存在であり、主体たりえないという、立場の断絶など、
性差別を克服するために取らざるをえなかった行為とされている。
慧春は、挿話に描かれるとおり強く賢かったからこそ、
男性中心の寺院社会でも生き延び、大悟しえたのかもしれないが、
彼女を取り巻いていたものの異様さにこそ、目を向けざるをえない。
〔参考〕
仏教刊行会編『大日本仏教全書』110(仏教刊行会、1914年)
藤谷俊雄「慧春尼伝」(『日本史研究』39、1958年)
三山進『太平寺滅亡―鎌倉尼五山秘話』(有隣新書、有隣堂、1979年)
前田昌宏『慧春尼伝』(献書刊行会、1988年)
東隆真『禅と女性たち』(青山社、2000年)
瀬野美佐「顔を灼く女たち―慧春尼伝説に見る性のアンビバレンツ―」(『教化研修』47、2003年)
西山美香「顔を焼く女たち」(奥田勲編『日本文学 女性へのまなざし』風間書房、2004年)
竹下ルッジェリ・アンナ「ジェンダーに対する江戸時代の臨済宗―白隠禅師を中心として―」(南山宗教文化研究所『研究所報』31、2021年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 ~1299
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没年 1350~1399
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没年 1400~1429
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没年 1430~1459
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没年 1460~1499
没日
| 1日 | 2日 | 3日 |
| 4日 | 5日 | 6日 |
| 7日 | 8日 | 9日 |
| 10日 | 11日 | 12日 |
| 13日 | 14日 | 15日 |
| 16日 | 17日 | 18日 |
| 19日 | 20日 | 21日 |
| 22日 | 23日 | 24日 |
| 25日 | 26日 | 27日 |
| 28日 | 29日 | 30日 |
| 某日 |
享年 ~30代
| ~9歳 | ||
| 6歳 | ||
| 9歳 | ||
| 10代 | 10歳 | |
| 11歳 | ||
| 15歳 | ||
| 18歳 | 19歳 | |
| 20代 | 20歳 | |
| 21歳 | 22歳 | |
| 24歳 | 25歳 | 26歳 |
| 27歳 | 28歳 | 29歳 |
| 30代 | 30歳 | |
| 31歳 | 32歳 | 33歳 |
| 34歳 | 35歳 | |
| 37歳 | 38歳 | 39歳 |
享年 40代~60代
| 40代 | 40歳 | |
| 41歳 | 42歳 | 43歳 |
| 44歳 | 45歳 | 46歳 |
| 47歳 | 48歳 | 49歳 |
| 50代 | 50歳 | |
| 52歳 | 53歳 | |
| 55歳 | ||
| 57歳 | 58歳 | |
| 60代 | 60歳 | |
| 61歳 | 62歳 | 63歳 |
| 66歳 | ||
| 68歳 | 69歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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