死に様データベース
《病死》 《1441年》 《某月》 《某日》 《享年不明》
*****拷問の内容を含む記事です。閲覧にご注意ください。*****
鎌倉府女房。
「妻殿(めどの)」はすなわち乳母(めのと)で、
足利春王丸・安王丸の乳母であったか。
4代鎌倉公方足利持氏の遺児春王丸・安王丸兄弟は、
父の旧臣岩松持国・桃井憲義や下総の結城氏朝に擁されて、
下総結城城(現・茨城県結城市)で室町幕府・上杉氏を相手に戦ったが、
挙兵から約1年の嘉吉元年(1441)4月、
ついに落城のときを迎えつつあった。
この結城合戦を描いた数多くの軍記物のひとつ、
『鎌倉殿物語』(長享2年〈1488〉以前に成立)から、
そのときのようすを見てみよう。
(以下、引用は読みやすいように用字等を改めた。)
落城を悟った結城方は、
籠城している10人ほどの女房たちを哀れに思い、
落城前に彼女らを退去させようと、寄せ手に協力を頼んだ。
寄せ手の越後勢も「明日は我が身の上」と承知したため、
輿7張に女房たちを乗せて、城外に出した。
このなかに、女房に扮した春王丸と安王丸も紛れており、
どこかへ落ち延びさせるてはずとなっていたが、
寄せ手の兵も察していたのか、輿のなかを探され、
瞬く間に見つかってしまった。
このとき、後ろの輿に乗っていた妻殿女房は、
驚いて飛び降り、敵兵を制止しようとしたが、
やむなく京都へ護送される兄弟に付き従った。
京都へ向かう道中、妻殿女房は春王丸ら兄弟をさまざまに励まし、慰めている。
箱根・足柄のあたりでは、春王丸が、
夏の夜は臥すかとすればほととぎす鳴く音に明けるしのゝめの空
と詠むと、
妻殿も答えて、
箱根山ふたゝび見んと思はねば明けやすき夜ぞ殊に悲しき
と詠み、
春王丸はまた、
箱根山ふたり闇路に迷へるをたれかは知らん明けやすき空
と答えて涙した。
兄の春王丸もまた、道みち弟の安王丸を励ましたという。
春王丸ら護送の一行が、美濃赤坂宿(現・岐阜県大垣市)を過ぎるころ、
京都から、春王丸・安王丸を誅殺せよとの密命が下った。
一行は美濃垂井宿(現・同垂井町)に入り、
ことを察した春王丸ら兄弟は、
父持氏とも馴染みのあった同地の金蓮寺の聖人に面会して、
最期の酒宴を催し、
その5月16日の晩、警固の越後長尾実景の配下、服部隼人に斬首された。
何も知らない妻殿女房は、寺から響いてくる宴の鼓の音を聞いて、
その楽しげなようすに安堵し、宿所で寝入っていた。
その夜の妻殿女房の夢に、旧主足利持氏と春王丸・安王丸の親子が現れた。
妻殿がかつて仕えていた鎌倉公方の御所のようなところで、
近習たちの姿はなく、独りうちひしがれたようすの持氏の前に、
春王丸・安王丸兄弟が参上すると、
持氏ははらはらと涙を流し、
「我が命が消えることは、つゆほども惜しくはない。
だが、おまえたちのことは、未来永劫、草葉の陰から守ってきたが、
その甲斐なく、あまりのことになってしまった。
こうして今出会えているのも、本望ではないが、
親子は一世かぎりの契りであるので、
出会えているのも歎きのうちの喜びである」
と、兄弟の髪をかきなでていた。
夢から覚めた妻殿は、
京都が近いこともあって、しきりと胸騒ぎがし、
兄弟のためにひたすら読経して祈るしかなかった。
翌朝、胸騒ぎの収まらない妻殿女房は、
輿のなかの兄弟に話しかけようとしたが、
警固の者に「急ぐので後にせよ」と退けられ、
ただ従うしかなかった。
近江小野宿(現・滋賀県彦根市)の昼休憩に、
ようやく妻殿は兄弟の輿に近寄り、あれこれと話しかけたが、
いくら話しかけても一向に返事がない。
不思議に思って簾を上げてみると、
そこには小さな桶がふたつ並んで、布が懸けてあるばかりであった。
布をのけて覗いてみると、
幼い若君兄弟が、首だけになって入っていた。
妻殿女房は悲しみのあまり、号泣の果てに気絶した。
妻殿女房を介抱した幕吏は、
尋問のために彼女を京都へ連行した。
幕府の奉行所に着くと、幕吏は、
そのほかの春王丸の兄弟たちがどこへ潜伏しているのか、反乱の与同者は誰なのか、
ありのままに申せば命ばかりは助けてやる、
と妻殿を尋問したが、
彼女は、
「私は女の身ゆえに、どうして与同者のことなど知っているでしょう。
若君のことについては、二人いらっしゃったけれども、
かわいそうなことに亡くなってしまわれた。
ほかの若君のことは、天下に隠れないことならば、
尋問されるまでもないでしょう。
私のことは、今は命も惜しくありません。
どのように尋問されても、申すことはありません」
と供述を拒否。
すると幕吏は、
「膝を爍し、指を切り、爪を起こし、火水を以て」という凄惨な拷問を加え、
ついには「大なる蛇を喉ヘ入れ」るまでして、
白状させようとした。
息も絶え絶えの妻殿女房は、
自ら舌を食いちぎり、吐き出した。
これには幕吏も、舌がなければ何も喋れまい、と観念して、
ついに彼女を放逐した。
京都を後にした妻殿女房は、
垂井の春王丸・安王丸兄弟の荼毘所に赴き、
念仏をあげようとしたが、舌がないために叶わず、
硯を取り寄せて「南無阿弥陀仏」の六字の名号を百遍記し、
その奥に次の本願意趣を書き記した。
一切衆生、別しては二人の尊霊等
同じく三途の苦患を免れ、供に九品の蓮台に生まれん。
そもそも、周恩皆発の花の色は、春王、各霊の袖に勤む。
極楽円満の月の光は、安王、菩提の暗路を照らし給え、となり。
なかんずく、三州の雲厚く掩いて、三毒悲想の都を忘れ、
五障の霧深く立ちて、五道輪縁の巷に迷えり。
あまつさえ、臨終眼を閉じ、
今、舌根不具にして読経叶わず、証名に絶えたり。
安然として、手尽きぬ。
願わくば、大慈大悲、弥陀如来、
宝号を唱えざれども、書写の志を哀れみて、
安楽世界に向かい給うべしとて、
かくばかり消え終わる命惜しきにあらねども、
物言わぬ身と成るぞ悲しき。
書き上げるとまもなく、妻殿女房は息絶えた。
そのとき、紫雲がたなびき、音楽が天に満ちたといい、
妻殿女房はまさしく往生を遂げたのであった。
以上は、念仏への帰依を説く軍記物に描かれた、鎌倉府女房の姿である。
もとより虚構の作中であり、すぐさま史実とは見なしがたいが、
しかし、東国の内乱のもとにいた女房たちの存在を思わせるに余りある描写である。
凄絶な拷問を受けながら、主家の廻向によって往生を遂げるとは、
あまりに都合のよい話ではあるが、
文学作品に描かれた貴重な室町期東国の女性の姿とその死のありようとして、
見過ごすべきものではないだろう。
〔参考〕
植田真平「鎌倉府女房衆の基礎的研究」(『歴史評論』898号、2025年)
『結城市史 第1巻 古代中世史料編』(結城市、1977年)
*****拷問の内容を含む記事です。閲覧にご注意ください。*****
鎌倉府女房。
「妻殿(めどの)」はすなわち乳母(めのと)で、
足利春王丸・安王丸の乳母であったか。
4代鎌倉公方足利持氏の遺児春王丸・安王丸兄弟は、
父の旧臣岩松持国・桃井憲義や下総の結城氏朝に擁されて、
下総結城城(現・茨城県結城市)で室町幕府・上杉氏を相手に戦ったが、
挙兵から約1年の嘉吉元年(1441)4月、
ついに落城のときを迎えつつあった。
この結城合戦を描いた数多くの軍記物のひとつ、
『鎌倉殿物語』(長享2年〈1488〉以前に成立)から、
そのときのようすを見てみよう。
(以下、引用は読みやすいように用字等を改めた。)
落城を悟った結城方は、
籠城している10人ほどの女房たちを哀れに思い、
落城前に彼女らを退去させようと、寄せ手に協力を頼んだ。
寄せ手の越後勢も「明日は我が身の上」と承知したため、
輿7張に女房たちを乗せて、城外に出した。
このなかに、女房に扮した春王丸と安王丸も紛れており、
どこかへ落ち延びさせるてはずとなっていたが、
寄せ手の兵も察していたのか、輿のなかを探され、
瞬く間に見つかってしまった。
このとき、後ろの輿に乗っていた妻殿女房は、
驚いて飛び降り、敵兵を制止しようとしたが、
やむなく京都へ護送される兄弟に付き従った。
京都へ向かう道中、妻殿女房は春王丸ら兄弟をさまざまに励まし、慰めている。
箱根・足柄のあたりでは、春王丸が、
夏の夜は臥すかとすればほととぎす鳴く音に明けるしのゝめの空
と詠むと、
妻殿も答えて、
箱根山ふたゝび見んと思はねば明けやすき夜ぞ殊に悲しき
と詠み、
春王丸はまた、
箱根山ふたり闇路に迷へるをたれかは知らん明けやすき空
と答えて涙した。
兄の春王丸もまた、道みち弟の安王丸を励ましたという。
春王丸ら護送の一行が、美濃赤坂宿(現・岐阜県大垣市)を過ぎるころ、
京都から、春王丸・安王丸を誅殺せよとの密命が下った。
一行は美濃垂井宿(現・同垂井町)に入り、
ことを察した春王丸ら兄弟は、
父持氏とも馴染みのあった同地の金蓮寺の聖人に面会して、
最期の酒宴を催し、
その5月16日の晩、警固の越後長尾実景の配下、服部隼人に斬首された。
何も知らない妻殿女房は、寺から響いてくる宴の鼓の音を聞いて、
その楽しげなようすに安堵し、宿所で寝入っていた。
その夜の妻殿女房の夢に、旧主足利持氏と春王丸・安王丸の親子が現れた。
妻殿がかつて仕えていた鎌倉公方の御所のようなところで、
近習たちの姿はなく、独りうちひしがれたようすの持氏の前に、
春王丸・安王丸兄弟が参上すると、
持氏ははらはらと涙を流し、
「我が命が消えることは、つゆほども惜しくはない。
だが、おまえたちのことは、未来永劫、草葉の陰から守ってきたが、
その甲斐なく、あまりのことになってしまった。
こうして今出会えているのも、本望ではないが、
親子は一世かぎりの契りであるので、
出会えているのも歎きのうちの喜びである」
と、兄弟の髪をかきなでていた。
夢から覚めた妻殿は、
京都が近いこともあって、しきりと胸騒ぎがし、
兄弟のためにひたすら読経して祈るしかなかった。
翌朝、胸騒ぎの収まらない妻殿女房は、
輿のなかの兄弟に話しかけようとしたが、
警固の者に「急ぐので後にせよ」と退けられ、
ただ従うしかなかった。
近江小野宿(現・滋賀県彦根市)の昼休憩に、
ようやく妻殿は兄弟の輿に近寄り、あれこれと話しかけたが、
いくら話しかけても一向に返事がない。
不思議に思って簾を上げてみると、
そこには小さな桶がふたつ並んで、布が懸けてあるばかりであった。
布をのけて覗いてみると、
幼い若君兄弟が、首だけになって入っていた。
妻殿女房は悲しみのあまり、号泣の果てに気絶した。
妻殿女房を介抱した幕吏は、
尋問のために彼女を京都へ連行した。
幕府の奉行所に着くと、幕吏は、
そのほかの春王丸の兄弟たちがどこへ潜伏しているのか、反乱の与同者は誰なのか、
ありのままに申せば命ばかりは助けてやる、
と妻殿を尋問したが、
彼女は、
「私は女の身ゆえに、どうして与同者のことなど知っているでしょう。
若君のことについては、二人いらっしゃったけれども、
かわいそうなことに亡くなってしまわれた。
ほかの若君のことは、天下に隠れないことならば、
尋問されるまでもないでしょう。
私のことは、今は命も惜しくありません。
どのように尋問されても、申すことはありません」
と供述を拒否。
すると幕吏は、
「膝を爍し、指を切り、爪を起こし、火水を以て」という凄惨な拷問を加え、
ついには「大なる蛇を喉ヘ入れ」るまでして、
白状させようとした。
息も絶え絶えの妻殿女房は、
自ら舌を食いちぎり、吐き出した。
これには幕吏も、舌がなければ何も喋れまい、と観念して、
ついに彼女を放逐した。
京都を後にした妻殿女房は、
垂井の春王丸・安王丸兄弟の荼毘所に赴き、
念仏をあげようとしたが、舌がないために叶わず、
硯を取り寄せて「南無阿弥陀仏」の六字の名号を百遍記し、
その奥に次の本願意趣を書き記した。
一切衆生、別しては二人の尊霊等
同じく三途の苦患を免れ、供に九品の蓮台に生まれん。
そもそも、周恩皆発の花の色は、春王、各霊の袖に勤む。
極楽円満の月の光は、安王、菩提の暗路を照らし給え、となり。
なかんずく、三州の雲厚く掩いて、三毒悲想の都を忘れ、
五障の霧深く立ちて、五道輪縁の巷に迷えり。
あまつさえ、臨終眼を閉じ、
今、舌根不具にして読経叶わず、証名に絶えたり。
安然として、手尽きぬ。
願わくば、大慈大悲、弥陀如来、
宝号を唱えざれども、書写の志を哀れみて、
安楽世界に向かい給うべしとて、
かくばかり消え終わる命惜しきにあらねども、
物言わぬ身と成るぞ悲しき。
書き上げるとまもなく、妻殿女房は息絶えた。
そのとき、紫雲がたなびき、音楽が天に満ちたといい、
妻殿女房はまさしく往生を遂げたのであった。
以上は、念仏への帰依を説く軍記物に描かれた、鎌倉府女房の姿である。
もとより虚構の作中であり、すぐさま史実とは見なしがたいが、
しかし、東国の内乱のもとにいた女房たちの存在を思わせるに余りある描写である。
凄絶な拷問を受けながら、主家の廻向によって往生を遂げるとは、
あまりに都合のよい話ではあるが、
文学作品に描かれた貴重な室町期東国の女性の姿とその死のありようとして、
見過ごすべきものではないだろう。
〔参考〕
植田真平「鎌倉府女房衆の基礎的研究」(『歴史評論』898号、2025年)
『結城市史 第1巻 古代中世史料編』(結城市、1977年)
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《病死》 《1338年》 《11月》 《7日》 《享年不明》
内大臣中院通重の娘。
後二条天皇の皇孫で「禅林寺宮」と呼ばれた木寺宮康仁親王に仕えて、その鍾愛を受けた。
「南御方」は、女房名のうちでも最高位のひとつであり、
その遇されようがうかがえる。
康仁親王とともに、参議六条有光の邸に住んだという。
建武5年(1338)7月、
南御方の懐妊が判明し、
25日未の刻(午後2時頃)、実家中院家のもとで着帯の儀が行われた。
帯の加持は、兄弟の真光院成助がつとめた。
子の父親の康仁親王は、元弘元年(1331)に、
両統迭立を遵守する鎌倉幕府によって持明院統光厳天皇の皇太子に立てられたが、
翌々年、倒幕を果たした大叔父後醍醐天皇によって廃太子された経歴をもつ。
南北両朝が併立してからは、大覚寺統ながら親北朝(持明院統)の立場をとったが、
そうした一筋縄ではいかない事情もあってか、
着帯の儀は内々に略儀をもって行われたようである。
ところが、4ヶ月余りのち(閏7月をはさむ)の11月7日、
南御方は、難産のすえに死去してしまった。
康仁親王は当時19歳であったから、
さほど歳が離れていないとすれば、10代後半から20歳前後であったろうか。
子の行く末も知られないから、死産か夭逝であったとみられる。
甥の権中納言中院通冬は、
おそらく年下の叔母の死を、「悲歎比類なきものなり」(『中院一品記』)と惜しんでいる。
通冬は縁者として軽度の喪に服することとなったが、
おりしも北朝は直後に光明天皇の大嘗会をひかえており、
現任公卿の通冬は、一連の儀式に出仕しなければならなかった。
同じころ、関白一条経通の北政所洞院綸子が逝去していたが、
その兄洞院実夏は大嘗会の清暑堂御神楽への参勤を命じられており、
同様に通冬の出仕も問題ないとされた。
とはいうものの、通冬は希望していた役に選ばれなかったとして、出仕を見送っている。
人の死が生者にもたらすのは、哀惜と服喪ばかりではない。
参議六条有光は、邸内で南御方が死去したために、触穢となったが、
大嘗会の官司行幸に供奉して、剣璽を持つ役をつとめ、
璽の箱を取り落とすという失態を犯した。
触穢なのに供奉したからとして、
希代の珍事なり。
頗る先代未聞の怪異なり。
不信の至り不可説と云々。(『中院一品記』)
と、通冬の非難は手厳しい。
この不始末によって、有光は参議を罷免された。
なお、歴史物語の『増鏡』によれば、
中院通重の娘が、康仁の父邦良親王に仕えて王子を産んだけれども、
ほどなく母子ともに死んでしまった、としている。
邦良・康仁の混同や、南御方逝去の誤伝など、なんらかの錯誤があるかもしれないが、
もし事実とすれば、
南御方の姉と南御方が、邦良・康仁父子にそれぞれ仕えたものの、
どちらも産褥死してしまった、ということになる。
暦応3年(1340)11月7日、中院家では南御方の三回忌を営んでいる。
〔参考〕
『大日本古記録 中院一品記 上』(岩波書店、2018年)
内大臣中院通重の娘。
後二条天皇の皇孫で「禅林寺宮」と呼ばれた木寺宮康仁親王に仕えて、その鍾愛を受けた。
「南御方」は、女房名のうちでも最高位のひとつであり、
その遇されようがうかがえる。
康仁親王とともに、参議六条有光の邸に住んだという。
建武5年(1338)7月、
南御方の懐妊が判明し、
25日未の刻(午後2時頃)、実家中院家のもとで着帯の儀が行われた。
帯の加持は、兄弟の真光院成助がつとめた。
子の父親の康仁親王は、元弘元年(1331)に、
両統迭立を遵守する鎌倉幕府によって持明院統光厳天皇の皇太子に立てられたが、
翌々年、倒幕を果たした大叔父後醍醐天皇によって廃太子された経歴をもつ。
南北両朝が併立してからは、大覚寺統ながら親北朝(持明院統)の立場をとったが、
そうした一筋縄ではいかない事情もあってか、
着帯の儀は内々に略儀をもって行われたようである。
ところが、4ヶ月余りのち(閏7月をはさむ)の11月7日、
南御方は、難産のすえに死去してしまった。
康仁親王は当時19歳であったから、
さほど歳が離れていないとすれば、10代後半から20歳前後であったろうか。
子の行く末も知られないから、死産か夭逝であったとみられる。
甥の権中納言中院通冬は、
おそらく年下の叔母の死を、「悲歎比類なきものなり」(『中院一品記』)と惜しんでいる。
通冬は縁者として軽度の喪に服することとなったが、
おりしも北朝は直後に光明天皇の大嘗会をひかえており、
現任公卿の通冬は、一連の儀式に出仕しなければならなかった。
同じころ、関白一条経通の北政所洞院綸子が逝去していたが、
その兄洞院実夏は大嘗会の清暑堂御神楽への参勤を命じられており、
同様に通冬の出仕も問題ないとされた。
とはいうものの、通冬は希望していた役に選ばれなかったとして、出仕を見送っている。
人の死が生者にもたらすのは、哀惜と服喪ばかりではない。
参議六条有光は、邸内で南御方が死去したために、触穢となったが、
大嘗会の官司行幸に供奉して、剣璽を持つ役をつとめ、
璽の箱を取り落とすという失態を犯した。
触穢なのに供奉したからとして、
希代の珍事なり。
頗る先代未聞の怪異なり。
不信の至り不可説と云々。(『中院一品記』)
と、通冬の非難は手厳しい。
この不始末によって、有光は参議を罷免された。
なお、歴史物語の『増鏡』によれば、
中院通重の娘が、康仁の父邦良親王に仕えて王子を産んだけれども、
ほどなく母子ともに死んでしまった、としている。
邦良・康仁の混同や、南御方逝去の誤伝など、なんらかの錯誤があるかもしれないが、
もし事実とすれば、
南御方の姉と南御方が、邦良・康仁父子にそれぞれ仕えたものの、
どちらも産褥死してしまった、ということになる。
暦応3年(1340)11月7日、中院家では南御方の三回忌を営んでいる。
〔参考〕
『大日本古記録 中院一品記 上』(岩波書店、2018年)
《自害》 《1475年》 《10月》 《某日》 《享年53歳》
南方の海のかなたには、
「補陀落」と呼ばれる観音の浄土がある、とされた。
浄土を目指す人々は、熊野や土佐の海岸から船に乗り、補陀落に向かった。
古来より幾人もの人々が、黒潮の荒い太平洋に小舟で漕ぎ出で、
「補陀落渡海」を遂げたのである。
さて、万里小路冬房。
従一位、准大臣。
万里小路時房の嫡男。
はじめは成房と名乗った。
伝奏として公武の間で活躍した父時房と同じく、
冬房もまた弁官や蔵人頭を経て、伝奏もつとめ、
後花園上皇や室町殿足利義政の信任を得ていたと思しい。
妻は、同じく伝奏をつとめた広橋兼郷の娘。
応仁元年(1467)9月、
おりからの洛中の戦乱(応仁・文明の乱)を前に、
世を儚んだ後花園上皇が突然の出家を遂げると、
従一位、准大臣に叙されたばかりの冬房も、
その他の上皇の近臣たちとともに出家を果たした。
法名を弘房、あるいは弘円としたという。
万里小路家は、甘露寺家から迎えた養子の春房が継ぐこととなったが、
この春房も、数年後に出奔、出家をしている。
出家後の冬房の足取りはよくわからない。
出家から9年後の文明8年(1476)のこと、
3月27日の夜、女官の権大納言典侍(万里小路命子)が、
「父冬房が去年の10月頃、補陀落山に参詣した」(『実隆公記』)として、籠居した。
同じ年の6月中旬、
春房に代わる万里小路家の跡取り、阿子丸(のちの賢房)の除服(忌明け)について、
公家たちの間で調整がなされている(『親長卿記』)。
義姉権大納言典侍と同じく、養父冬房の死により服喪していたのだろう。
『尊卑分脈』が記すとおり、
どうやら冬房は、「菩提心」により熊野那智より「補陀落渡海」を遂げたようだ。
隠遁後とはいえ、もと公卿の補陀落渡海は希有なことだろう。
なお、
『尊卑分脈』には、文明17年(1476)12月21日のことと年次に混乱があり、
『続史愚抄』には、文明7年(1475)11月22日のこととあるが、
本頁では、上記の『実隆公記』によって10月某日とした。
〔参考文献〕
根井浄『補陀落渡海史』 (法蔵館 2001年)
根井浄『観音浄土に船出した人びと―熊野と補陀落渡海―』 (歴史文化ライブラリー 吉川弘文館 2008年)
『増補史料大成 親長卿記 2』 (臨川書店 1985年)
東京大学史料編纂所データベース
南方の海のかなたには、
「補陀落」と呼ばれる観音の浄土がある、とされた。
浄土を目指す人々は、熊野や土佐の海岸から船に乗り、補陀落に向かった。
古来より幾人もの人々が、黒潮の荒い太平洋に小舟で漕ぎ出で、
「補陀落渡海」を遂げたのである。
さて、万里小路冬房。
従一位、准大臣。
万里小路時房の嫡男。
はじめは成房と名乗った。
伝奏として公武の間で活躍した父時房と同じく、
冬房もまた弁官や蔵人頭を経て、伝奏もつとめ、
後花園上皇や室町殿足利義政の信任を得ていたと思しい。
妻は、同じく伝奏をつとめた広橋兼郷の娘。
応仁元年(1467)9月、
おりからの洛中の戦乱(応仁・文明の乱)を前に、
世を儚んだ後花園上皇が突然の出家を遂げると、
従一位、准大臣に叙されたばかりの冬房も、
その他の上皇の近臣たちとともに出家を果たした。
法名を弘房、あるいは弘円としたという。
万里小路家は、甘露寺家から迎えた養子の春房が継ぐこととなったが、
この春房も、数年後に出奔、出家をしている。
出家後の冬房の足取りはよくわからない。
出家から9年後の文明8年(1476)のこと、
3月27日の夜、女官の権大納言典侍(万里小路命子)が、
「父冬房が去年の10月頃、補陀落山に参詣した」(『実隆公記』)として、籠居した。
同じ年の6月中旬、
春房に代わる万里小路家の跡取り、阿子丸(のちの賢房)の除服(忌明け)について、
公家たちの間で調整がなされている(『親長卿記』)。
義姉権大納言典侍と同じく、養父冬房の死により服喪していたのだろう。
『尊卑分脈』が記すとおり、
どうやら冬房は、「菩提心」により熊野那智より「補陀落渡海」を遂げたようだ。
隠遁後とはいえ、もと公卿の補陀落渡海は希有なことだろう。
なお、
『尊卑分脈』には、文明17年(1476)12月21日のことと年次に混乱があり、
『続史愚抄』には、文明7年(1475)11月22日のこととあるが、
本頁では、上記の『実隆公記』によって10月某日とした。
〔参考文献〕
根井浄『補陀落渡海史』 (法蔵館 2001年)
根井浄『観音浄土に船出した人びと―熊野と補陀落渡海―』 (歴史文化ライブラリー 吉川弘文館 2008年)
『増補史料大成 親長卿記 2』 (臨川書店 1985年)
東京大学史料編纂所データベース
《誅殺》 《1374年》 《2月》 《11日》 《享年33歳》
修理権大夫藤原親尹の子。
後光厳上皇の側近。
後光厳上皇が崩じて二七日も過ぎない、
応安7年(1374)2月11日の暁時、
上皇の旧居仙洞柳原殿の南土門脇にて、
男の斬殺死体が見つかった。
死体の主は、備前守藤原懐国(やすくに)、33歳。
犯人は不詳。
懐国は、代々徳大寺家の家人の家に生まれたが、
自身は、主家と疎遠になっており、
むしろ、北朝の後光厳院に近仕した。
在位時には、六位蔵人として長く仕え、
退位のおりに、五位にのぼり、
その後も、上北面として院に仕えたのである。
しかし、そのうちに懐国は、
後光厳の寵愛を受けた二位局(日野宣子)と密通し、
その権威をかさに、傍若無人のふるまいをなした。
あまりの行状に、後光厳の叡慮にも違うことも起こすようになり、
しだいに御前より遠ざけられたという。
当時の公家の日記も、
「彼局(日野宣子)最愛の間、権威を募り、毎時誇張、
ほとんど傍若無人の体なり。」(『後愚昧記』)
「朝恩を誇り、年来過分の振る舞い、諸人目を側む。
二品局(日野宣子)しきりに引汲の間、
いよいよ傍若無人の思いを成すと云々。」(『愚管記』)
と、懐国評は手厳しい。
とかく、敵が多い人物だったらしい。
犯人についても、その後取り沙汰されていない。
懐国によって不遇をかこった人物の犯行だったのだろう。
専横を恣にしたすえの横死に、
周囲は「因果応報」「さもありなん」といった具合だったのだろうか。
しかし、
彼を知る者は、その死を悼んでいる。
「年少より見及ぶ者なり。
不便々々(ふびんふびん)。」(『愚管記』)
「二七日中横死の条、不便々々。
…たとい古敵たりといえども、情類あり。
このときもっとも斟酌すべきものか。」(『保光卿記』)
もっとも、土御門保光のほうは、
複雑な心境であったようだが…。
〔参考〕
東京大学史料編纂所データベース
修理権大夫藤原親尹の子。
後光厳上皇の側近。
後光厳上皇が崩じて二七日も過ぎない、
応安7年(1374)2月11日の暁時、
上皇の旧居仙洞柳原殿の南土門脇にて、
男の斬殺死体が見つかった。
死体の主は、備前守藤原懐国(やすくに)、33歳。
犯人は不詳。
懐国は、代々徳大寺家の家人の家に生まれたが、
自身は、主家と疎遠になっており、
むしろ、北朝の後光厳院に近仕した。
在位時には、六位蔵人として長く仕え、
退位のおりに、五位にのぼり、
その後も、上北面として院に仕えたのである。
しかし、そのうちに懐国は、
後光厳の寵愛を受けた二位局(日野宣子)と密通し、
その権威をかさに、傍若無人のふるまいをなした。
あまりの行状に、後光厳の叡慮にも違うことも起こすようになり、
しだいに御前より遠ざけられたという。
当時の公家の日記も、
「彼局(日野宣子)最愛の間、権威を募り、毎時誇張、
ほとんど傍若無人の体なり。」(『後愚昧記』)
「朝恩を誇り、年来過分の振る舞い、諸人目を側む。
二品局(日野宣子)しきりに引汲の間、
いよいよ傍若無人の思いを成すと云々。」(『愚管記』)
と、懐国評は手厳しい。
とかく、敵が多い人物だったらしい。
犯人についても、その後取り沙汰されていない。
懐国によって不遇をかこった人物の犯行だったのだろう。
専横を恣にしたすえの横死に、
周囲は「因果応報」「さもありなん」といった具合だったのだろうか。
しかし、
彼を知る者は、その死を悼んでいる。
「年少より見及ぶ者なり。
不便々々(ふびんふびん)。」(『愚管記』)
「二七日中横死の条、不便々々。
…たとい古敵たりといえども、情類あり。
このときもっとも斟酌すべきものか。」(『保光卿記』)
もっとも、土御門保光のほうは、
複雑な心境であったようだが…。
〔参考〕
東京大学史料編纂所データベース
《病死》 《1416年》 《7月》 《20日》 《享年不明》
今出川公直の妻。
今出川公行の母。
応永23年(1416)7月12日、
西谷にある亡き夫今出川公直の墓所へ、
焼香へ行った南向は、
その帰邸後、痢病に罹り、
16日、重篤に陥った。
老体には堪えたらしい。
17日夜、
いよいよ臨終かとなって、末期の水をとらせようとしたところ、
わずかに息を吹き返した。
このとき、医師丹波頼直は、
早朝のためか、駆けつけることができなかった。
20日午の刻(正午0時頃)、
出家の後、逝去。
23日、東山法幢寺にて、荼毘に付される。
幼いころより今出川家で養育されていた伏見宮貞成王は、
南向を育ての母と思ってきた。
貞成が伏見宮邸に戻って以降、無沙汰となっていたが、
南向は、最後まで貞成のことを気にかけており、
これを知った貞成は、
「かたがたもって哀懃無極、」「哀傷少なからず、」(『看聞日記』)
と嘆き、悔やんでいる。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
今出川公直の妻。
今出川公行の母。
応永23年(1416)7月12日、
西谷にある亡き夫今出川公直の墓所へ、
焼香へ行った南向は、
その帰邸後、痢病に罹り、
16日、重篤に陥った。
老体には堪えたらしい。
17日夜、
いよいよ臨終かとなって、末期の水をとらせようとしたところ、
わずかに息を吹き返した。
このとき、医師丹波頼直は、
早朝のためか、駆けつけることができなかった。
20日午の刻(正午0時頃)、
出家の後、逝去。
23日、東山法幢寺にて、荼毘に付される。
幼いころより今出川家で養育されていた伏見宮貞成王は、
南向を育ての母と思ってきた。
貞成が伏見宮邸に戻って以降、無沙汰となっていたが、
南向は、最後まで貞成のことを気にかけており、
これを知った貞成は、
「かたがたもって哀懃無極、」「哀傷少なからず、」(『看聞日記』)
と嘆き、悔やんでいる。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
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1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
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1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
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没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
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1441 | 1443 | |
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1447 | 1448 | 1449 |
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1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
6歳 | ||
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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