忍者ブログ
死に様データベース
《自害》 《1443年》 《9月》 《22日》 《享年不明》


石見守護山名教清の若党。


嘉吉3年(1443)9月22日、
山名教清は、鞍馬参詣に行く。
家人たちは、市原野坂で主人を迎える準備をして、待っていたところ、
地元の郷民たちが、鹿狩りをしており、
手負いの鹿が、家人たちのもとへ走り込んできた。
家人たちは、これ幸いと鹿を自分たちのものにしようとしたが、
一矢射かけた郷民たちが、許すはずもない。
口論はたちまちに過熱して、射合いの喧嘩になった。

その戦闘で、
教清の一の若党村田某が、射られ、
その場で切腹。
息子も、射殺された。
死者は5人、怪我人は数十人にのぼったという。


怒った山名方は、惣領持豊を中心に一族数百騎が馳せ向かい、
さらには、あろうことか、
細川勝元・土岐持益・赤松貞村・大河内満政・有馬満弘・六角持綱や、
幕府奉行人たちが、これに加担し、
市原野に攻め込んで、家々を焼き払い、
日暮れまで郷民たちと合戦した。
その様は、
「大名大勢馳せ集まり、希代の見物と云々。」(『看聞日記』)

この、幕閣や将軍近習など権力者の手による所業に、
「併しながら天魔の所為か。」(『看聞日記』)
という伏見宮貞成親王の感想も、無理はない。


将軍の相次ぐ死、
頻発する徳政一揆、
そして、この2日後に禁闕の変。
混乱した時代を象徴する事件のひとつ。


なお、
当の山名教清は、
鞍馬の人々のおかげで、無事に帰京したとか。



〔参考〕
『続群書類従 補遺 4 看聞日記 下』(続群書類従完成会 1930年)
『増補史料大成 37 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
PR
《誅殺》 《1461年》 《5月》 《23日》 《享年不明》


室町幕府問注所執事・評定衆・神宮方頭人。


町野淳康の家は、
もと鎌倉府の吏僚として活躍していた一族であったが、
永享年間に室町幕府問注所が欠員となったため、
淳康の父増悦が、鎌倉から京都に呼ばれた、とされている。

父の跡を継いで、
室町幕府の吏僚として活躍していた淳康であったが、
寛正2年(1461)5月23日、
部下にあたる神宮奉行でもあった幕府奉行人飯尾之清の屋敷で、
例日の会合があり、
その酒の席で、亭主の之清と口論になって、
次第に双方熱くなったか、喧嘩に発展して、負傷した。
よほどの重傷であったらしく、
帰宅後、死去。

将軍足利義教は、
相手の飯尾之清に切腹を命じ、
翌24日、執行。


2人とも神宮方頭人・奉行として、
大神宮造営などに尽力し、
将軍義教のおぼえも悪くなかったというが、
たった一度の喧嘩で、
文字通り人生を失った。


この例といい、坊門信守の例といい、
何にせよ、酔った上での喧嘩というのは、危ない。



〔参考〕
『続史料大成 増補普及版 大乗院寺社雑事記 2』 (臨川書店 2001)
『蔭涼軒日録 巻1』 (史籍刊行会 1953)
榎原雅治ほか「宮内庁書陵部所蔵三条西本『宗賢卿記』」
  (榎原雅治編『古記録の史料学的な研究にもとづく室町文化の基層の解明』 2012)
木下聡「室町幕府・関東足利氏における町野氏」
  (佐藤博信編『関東足利氏と東国社会』 岩田書院 2012)
《誅殺》 《1245年》 《12月》 《7日》 《享年不明》


山城禅定寺の寄人。


寛元3年(1245)12月7日、
山城宇治の禅定寺の寄人6人が、
用あって上京した。

その途次、法性寺の辺りで、
山城木幡の住人8人と行き会い、
七条河原辺で、馬の走り競いをすることになった。
その際、禅定寺寄人方が、
跳ねて暴れる木幡住人方の馬を、牽き抑えた。

この行動が、木幡住人の怒りに触れたらしい。
寄人の尻を蹴り上げ、
首をつかんで散々に打ちつけた。
この仕打ちに、
寄人たちも野次馬も驚いたが、
衆寡敵せず、寄人たちは引き下がった。

まだ腹の虫がおさまらない木幡住人たちは、
木幡周辺で待ち伏せし、
帰路にあった寄人たちを襲撃。
乱闘の末、
深夜子の刻(8日深夜0時頃)、
寄人の美乃という名の男が、一坂にて死亡。
いま一人も、瀕死の重傷を負った。
木幡住人たちは、あろうことか、
寄人たちの金銭を奪い取って、山中へ逃亡した。


禅定寺は、憤慨して猛抗議。
本寺の宇治平等院も、摂関家に訴え出た。
犯人の身柄引き渡しを要求した禅定寺方は、
「木幡山において頸を切り懸くるべく候、」(『禅定寺文書』)
と、息巻いたが、
木幡住人の中六・藤三郎という男2人が、
検非違使庁に差し出され、禁獄、
というほかは、よくわからない。


中世人の沸点は低く、恐ろしい。



〔参考〕
古代学協会『禅定寺文書』 (吉川弘文館 1979年)
朝比奈新「摂関家領荘園の領域形成と地域」(歴史学研究会中世史部会報告レジュメ 2012年2月)
《誅殺》 《1574年》 《8月》 《某日》 《享年不明》


薩摩川辺の盗人。

天正2年(1574)8月、
薩摩鹿篭のとある夫婦の家に忍び込み、
馬や下人、その他諸々の物品を盗んだが、
その後、薩摩川辺で捕えられ、処刑された。


問題はそのあと。
犯行の現場となった鹿篭の城主島津忠長は、
孫左衛門の居住地であった川辺の城主平田宗張に、
孫左衛門の盗んだ物の引き渡しを要求。
この争いは、大名島津義久のもとに持ち込まれた。
平田宗張は、「そんなことは知らない」とつっぱねるが、
島津忠長はしつこく、「馬と下人を返せ」と迫り、
結局、島津義久の調停により、
「盗人を討ち取ったならば、
 盗んだ物は返さなくてもよい」
ということになった。
島津忠長は、自分の言い分が聞き届けられず、
鹿篭に帰ってしまい、
義久も仕方なく、平田宗張を川辺に帰すことにした。


戦国大名は、
こうしたような訴えや争いの調停におわれて、
苦悩していたらしい。


と、
孫左衛門本人の所業とは関係ない話になってしまったが、
物品ばかりでなく、馬や人といった盗んだものの規模や、
その後の話の拡がりから考えれば、
孫左衛門は、それなりの盗賊団の頭目だったということだろうか。



〔参考〕
『大日本古記録 上井覚兼日記 上』 岩波書店 1954
《戦死》 《1467年》 《7月》 《25日》 《享年不明》


加賀半国守護赤松氏の家臣。
加賀守護代。


応仁・文明の乱が勃発したばかりの応仁元年(1467)6月25日、
東軍の赤松政則らは、西軍の斯波義廉の屋敷に押し寄せ、
あちこちに火をかけて、攻めかかった。
この洛中の火災は、
摂津之親や西園寺実遠の屋敷などを焼き、
もと関白近衛房嗣邸のすぐ近くまで迫ったという。

7月11日、
再び東軍諸将は、斯波義廉邸を攻める。
守る斯波方も、粗略ながら櫓を立て、また朝倉孝景らの奮戦もあり、
容易に勝敗はつかなかった。

同月25日、再び合戦があり、
攻め手の間島河内守は、櫓の下まで攻め寄せたが、
上から大石を落とされ、
兜ごと打ち砕かれて、討死したという。


なんとも、痛々しい。
討死としては、特に珍しい例ではないけれど。



〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅰ』 (石川県 2008)
1  2  3 
ブログ内検索
死因
病死

 :病気やその他体調の変化による死去。
戦死

 :戦場での戦闘による落命。
誅殺

 :処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害

 :切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死

 :事故・災害等による不慮の死。
不詳

 :謎の死。
本サイトについて
 本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
 当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
 内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
最新コメント
[10/20 世良 康雄]
[08/18 記主]
[09/05 記主]
[04/29 記主]
[03/07 記主]
[01/24 記主]
[03/18 記主]
[03/20 記主]
[07/19 記主]
[06/13 記主]
アクセス解析
忍者アナライズ
P R
Admin / Write
忍者ブログ [PR]