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死に様データベース
《戦死》 《1467年》 《7月》 《25日》 《享年不明》


加賀半国守護赤松氏の家臣。
加賀守護代。


応仁・文明の乱が勃発したばかりの応仁元年(1467)6月25日、
東軍の赤松政則らは、西軍の斯波義廉の屋敷に押し寄せ、
あちこちに火をかけて、攻めかかった。
この洛中の火災は、
摂津之親や西園寺実遠の屋敷などを焼き、
もと関白近衛房嗣邸のすぐ近くまで迫ったという。

7月11日、
再び東軍諸将は、斯波義廉邸を攻める。
守る斯波方も、粗略ながら櫓を立て、また朝倉孝景らの奮戦もあり、
容易に勝敗はつかなかった。

同月25日、再び合戦があり、
攻め手の間島河内守は、櫓の下まで攻め寄せたが、
上から大石を落とされ、
兜ごと打ち砕かれて、討死したという。


なんとも、痛々しい。
討死としては、特に珍しい例ではないけれど。



〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅰ』 (石川県 2008)
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《誅殺》 《1455年》 《11月》 《21日》 《享年不明》


加賀守護富樫氏の家臣。
加賀守護代。


同族間の争いが絶えない加賀守護富樫氏にあって、
本折越前守は、一方の当主成春を支える実力者であった。


越前守は、
宝徳2年(1450)8月、対立する弟主計允を謀殺し、
享徳4年(1455)4月には、同僚槻橋・矢橋氏を殺害する。
背景にどういった経緯があったか不明だが、
不安定な富樫家にあって、
目的のためならば、手段を選ばぬ男であった。

京都政界においても、ある程度の力を持っていたらしく、
享徳3年(1454)頃からの、
畠山氏の家督をめぐる義就・弥三郎の争乱では、
他家の人間でありながら、義就に味方し、
大和・河内を転戦して活躍した。
越前守は「無双の勇士」であったが、
大和で多くの寺院や仏像を焼いた、「悪人」でもあった。


康正元年(1455)11月20日、
河内より帰洛。
翌21日、
主人富樫成春の屋敷において、
成春自らの手によって誅殺された。

粛清の鬼は、自らも主人の手で粛清されたのである。



〔参考〕
『加能史料 室町Ⅳ』 (石川県 2007)
《誅殺》 《1450年》 《8月》 《13日》 《享年不明》


加賀守護富樫氏の家臣。


本折主計允は、 兄で加賀守護代であった本折越前守と対立、
義絶していた。
そのため、主人富樫氏のもとを離れ、
数年間、流浪の生活を送っていたが、
宝徳2年(1450)頃、
細川氏の家臣鵜高氏の食客となり、
甘露寺親長の屋敷に、隠れ住んでいた。

宝徳2年(1450)8月13日、
その住まいで、どうやら女と寝ていたところ、
兄越前守の手の賊に踏み込まれ、
首を斬られたらしい。

ぶっそうきわまりない。


兄の本折越前守は、
享徳4年(1455)4月には、傍輩の槻橋・矢橋氏らも、
自宅において手にかけている。
これには、将軍足利義政の命があったらしいが、
とんだ仕掛人である。



〔参考〕
『加能史料 室町Ⅲ』 (石川県 2005)
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