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死に様データベース
《病死》 《1504年》 《正月》 《14日》 《享年70歳》


内裏(後花園・後土御門天皇)の女房。勾当内侍、民部卿典侍。
藤原南家の高倉家の出身。高倉範綱の娘で、四辻季春の養女となった。

春子は文亀3年(1503)末ごろより病に臥し、
翌4年(1504)正月8日夜、内裏を退去した。
このころ、内裏女房のうちで体をこわす者が多く、
新大納言典侍(勧修寺藤子)も、正月5日夜に内裏を退去、
伊予局(半井就子)、大納言典侍(広橋守子)も病により役目を負えなくなっていた。
流行病があったのだろうか。
正月12日、新大納言典侍は無事回復して内裏に復帰したが、
14日戌の刻(夜8時頃)、春子は帰らぬ人となった。
70歳。


永享7年(1435)生まれの春子は、10歳を過ぎた頃には宮仕えを始め、
文正元年(1466)4月、勾当内侍として従五位上に叙された。
文亀元年(1501)2月に、勾当内侍を辞して典侍に昇っている。
50年以上にわたる宮仕えは、応仁・文明の乱などにより、
およそ安泰とはいえないものだっただろう。
それでも高齢まで、しかも他界の直前までつとめあげたことは、好運だったといえようか。


なお、実家の高倉家は、春子の兄弟範音の代でひとたび断絶したが、
春子の義兄弟四辻季経の息子範久が相続することで、一応の再興を見た。



〔参考〕
『大日本古記録 二水記 1』(岩波書店、1989年)
吉野芳恵「室町時代の禁裏の女房―勾当内侍を中心として―」(『國學院大學大學院紀要―文学研究科―』13、1982年)
松薗斉『中世禁裏女房の研究』(思文閣出版、2018年)
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《病死》 《1329年》 《9月》 《24日》 《享年不明》


北条実時(金沢家2代)の側妻、金沢北条家の女房。
出自は未詳。

将軍宗尊親王の女房で、同じく実時の側妻のひとりであった帥局の養女となったとされる。
谷殿(やつどの)」の呼称は、居所にちなんだものとおぼしく、
建治2年(1276)の夫実時の没に際して、出家して法名永忍を号したか。

その後、鎌倉極楽寺の近くに庵室を構えたようだが、
徳治元年(1306)ごろ、
極楽寺の火災により延焼する不遇に見舞われている。


永忍に子はなかったようで、
慈眼房なる僧侶を養子にしたが、正和4年(1315)ごろに先立たれ、
のち、実時の孫金沢貞顕を養子とした。
下総国下河辺荘の河妻・前林両郷(現・茨城県五霞町・古河市)や、
信濃国太田荘の石村・大倉両郷(現・長野市)を領し、これらを貞顕に譲った。


元徳元年(1329)9月24日、病没。
実時との関係からすれば、若くても70歳前後だったと思われる。
4年後の貞顕やその他北条一門の運命など、知らずによかったというべきか。

養子の貞顕は富士大宮司に諮問して、120日の間、養母の喪に服した。
貞顕がそのことを、六波羅探題南方だった息子の貞将かに伝えた書状(「金沢文庫文書」)には、
正中の変にもかかわった土岐頼員の誅殺事件についても触れられており、
当時の不穏な世相をうかがわせる。

翌月から翌年にかけて、
貞顕はたびたび永忍の菩提を弔う法要を行っている。
称名寺所蔵(神奈川県立金沢文庫保管)の「称名寺絵図」によれば、
谷殿の墓は、金沢北条氏の菩提寺だった同寺境内北東の実時の墓に並んで建てられている。



〔参考〕
永井晋『金沢北条氏の研究』(八木書店、2006年)
同「[史料紹介]称名寺所蔵『聖天 五』紙背文書について」(『東京大学史料編纂所研究紀要』24、2014年)
『特別展 よみがえる中世のアーカイブズ―いまふたたび出会う古文書たち―』(神奈川県立金沢文庫、2021年)
《不詳》 《1428年》 《某月》 《某日》 《享年不明》


真言僧。


正長2年(1429)2月のとある日、
武蔵国のある僧侶が、律師の位を望んでいるという話が、
京都に伝わった。

これを聞いた参議中山定親は、さっそく、
頭右大弁甘露寺忠長をとおして、後花園天皇に奏上した。
まもなく、その僧侶を律師に任じる口宣案が発給され、
定親はそれを、話を届けてきた人物に送った。

律師になるのを望んだのは、宥海という名の僧で、
前年、真言灌頂を遂げたとのことであった。
話を届けてきた人物も、真言僧で、
当の宥海と同門であるという。


ところが、
その後よくよく話を聞いてみると、
意外なことが明らかになった。
なんと、この宥海は、
すでにこの世の人ではないというのである。

宥海は、
昨年、真言灌頂を遂げたのち、
修行のため、武蔵国に下ったが、
ほどなく入滅してしまった。

その後、人々の夢の中に現れ、
「生前無官であったから、今、冥途で座次(席次)が定まらず、大変困っている」
と嘆き訴えた。
多くの人々がこの夢を見たため、
このたびの僧官申請に至ったという。


口宣案の発給まで話をとおしてしまった中山定親は、
事情も調べず差配をしてしまったことを、後悔している。



〔参考〕
『大日本古記録 薩戒記 4』(岩波書店 2009年)
《誅殺》 《1422年》 《3月》 《8日》 《享年不明》


正四位下、左近衛中将。


応永29年(1422)3月8日夜、
楊梅兼英は、
洛中の路上において、何者かに襲われ、命を奪われた。
同行していた子兼興も、負傷。

当時、兼英は弟兼豊と対立しており、
その差し金ではないかと、人々は噂した。


6月30日、
噂どおり、弟兼豊の犯行が明らかとなり、
流罪となった。


なお、
襲撃を受けながらも、一命をとりとめた兼興(のち兼重)は、
永享3年(1431)2月、内裏女官との密通を犯し、
所領没収の憂き目に遭った。

ぐだぐだで先細りの楊梅家は、
その後廃絶。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004)
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006)
《病死》 《1350年》 《2月》 《22日》 《享年74歳》


正三位、権中納言。
後醍醐天皇の重臣吉田定房の弟。


吉田隆長は、鎌倉末期には、
比叡山に訴えられて、阿波に流されたこともあった。

南北朝分立後は、
兄定房と異なり、京都に残って北朝に仕えた。
定房の子宗房と、吉田家の家督を争ったこともあったらしい。


高齢のゆえか、体調を崩しがちであったらしい隆長は、
貞和5年(1349)6月、
鹿肉を食して、やや体力を取り戻した。
だが、数日後にはまた悪くなり、
食欲も減退。
息子の甘露寺藤長は、
の容態を思って、「歎息」(『園太暦』)している。

翌貞和6年(1350)2月6日、
さらに容態が悪化し、
何も食べることができず、
どうにもならないような状況に陥った。
そうして、
22日、他界。
74歳。


翌23日、
隆長の娘婿坊城俊実も、相次いで没した。
人々は、世の無常を嘆いた。



〔参考〕
『大日本史料 第六編之十三』 (1914)
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死因
病死

 :病気やその他体調の変化による死去。
戦死

 :戦場での戦闘による落命。
誅殺

 :処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害

 :切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死

 :事故・災害等による不慮の死。
不詳

 :謎の死。
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