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死に様データベース
《戦死》 《1340年》 《某月》 《某日》 《享年不明》


武蔵国人。
多西郡土淵郷の地頭。


現東京都日野市の高幡不動(高幡山金剛寺)の不動堂本尊不動明王坐像胎内から、
古文書の束が発見されたのは、1920年代半ば。
その後、ながらく放置されていたが、
1985年に最初の調査がなされ、
1990年代に入り、本格的な精密調査がされるに至った。
その文書群は、
地元多西郡土淵郷の地頭山内経之が、
戦場から妻や子に宛てた手紙の束であった。
そこから、
これまであまり知られていなかった、南北朝期の武士の姿や、戦場の光景が、
まざまざと映し出されることとなるのである。

文書自体、痛みがはげしく、欠損が多いが、
ここで、その一端を紹介したい。


暦応元年(1338)9月、
南朝の北畠親房が、常陸東条浦に来着。
12月には、小田治久に迎えられて常陸小田城に入り、
常総地域や南奥に、南朝支持勢力を拡げていった。

対する足利尊氏は、
翌暦応2年(1339)4月、
対親房戦の大将として、高師冬を関東に派遣。
6月、鎌倉に到着した師冬は、
しばらくここにとどまり、出陣の準備を行った。
山内経之も、鎌倉に馳せ参じ、
出陣を待つ。


7月か 子息又けさ宛てか

 …従者の五郎を、先日そちらに帰しました。
 それでも、こちらには人が多いと思っていましたが、
 最近になって、身辺に遣える者が乏しく、
 今更ながら、帰したことを心許なく思っています。
 来月11日には、必ず常陸へ出陣します。…

月日不明 妻宛てか

 …従者の彦三郎を、常陸出陣までの間、そちらに帰そうとしましたが、
 五郎が帰りたいと望むので、五郎を帰しました。
 以前から言っているとおり、
 所領のことは、親しい新井殿に万事相談して、
 他人には、心を許すことのないようにしてください。

8月 宛先不明

 …常陸出陣が、このように延期になっており、
 みな長期の鎌倉滞在を嘆いています。
 13日には出発かと思っていましたが、
 今日になって、まだ出発しません。
 高幡殿も出陣するようです。…

月日不明 関戸観音堂住職宛て

 …常陸出陣にあたり、兵糧米を1・2駄欲しいので、
 万事お頼み申します。…

8月か 関戸観音堂住職宛て

 出陣も、今日明日かと言っていましたが、
 いつものことで、
 まるで出陣する気配がありません。
 恐縮ですが、
 新井殿の方にも、こちらからお願いしておりますけれど、
 銭を送っていただけるよう、お取り計らいいただけませんでしょうか。
 出陣は、16日と承っています。

8月か 子息又けさ宛てか

 …出発が近いなどと言われており、
 この7・8日ではないにせよ、幾日もないかと思われます。
 三河殿(高師冬)の武蔵下向も、20日頃のことでしょう。
 大変でしょうが、それまでに銭を2貫ばかり用意しておいてください。
 どのようにでも取り計らって、在家を売るなどして…

8月か 妻宛てか

 …近日出発と言っておりましたが、
 8月15日の鶴岡社放生会との調整がつきません。
 まずは出発しないことには、と、
 三河殿(高師冬)の出発も、20日と決定しました。
 まず、武蔵国府までお供します。
 …在家を1軒売ってください。
 それで小袖を送ってくれたら、すぐに常陸へ向かいます。
 以前言ったように、
 2・3着は用意しなければなりません。
 茶染めの地のものが欲しいです。
 もし、そちらで小袖を染めたいのであれば…

8月16日 子息又けさ宛てか

 …三河殿(高師冬)の出陣も近くなり、
 私もお供して、武蔵まで下る予定です。
 又けさには鎌倉へ来てほしかったのですが、
 あまり見苦しいまねもできないので、呼びませんでした。
 田舎で留守を守るのも、耐え難いことかと思います。
 五郎も、疲れているとは思うけれど、こちらに随行させます。
 …訴訟で獲得した在家を、送ります。
 もし費用が残ったら、受け取って、
 弓を買って、送ってください。
 この旨、母御にも伝えてください。…

8月下旬、
山内経之らを率いた高師冬軍は、
ようやく鎌倉を出発する。
鎌倉街道を北上して、
9月、武蔵村岡に着陣。
ここで、軍勢を整え、
北東へ向かって進軍する。

月日不明 子息又けさ宛てか

 …滞納していた宿賃1貫あまりを、
 新井殿に肩替わりして支払ってもらいました。…
 …早くもそちらの生活費が、残り少なくなってきたようですが、
 留守の間のことは、いつものこととはいえ、痛ましく思っています。
 ですが、
 こちらにも、何とかやりくりして銭を送ってください。
 …柿・浅黄は100文、二重ものは100余文、染めるのにかかります。
 送った帷子も染めたかったのですが、
 費用がなかったので…

9月上旬 宛先不明

 方々からの早馬の知らせでは、
 下総下河辺へ出陣して、すぐに合戦がありそうです。
 今はまだ決まってませんが、
 下河辺に14・15日には出陣せよとの命令があり…
 …16・17日頃には下河辺に…

月日不明 某僧・一族山内六郎治清宛てか

 …下総下河辺荘の対岸に着きました。
 出陣しない人は皆、所領を没収されると聞きました。
 そのほか、噂によれば、
 訴状を提出して異議を唱える人は、
 本領を没収されるそうです。
 武蔵高麗郡笠幡北方の渋江殿も、この処置に遭い、
 その闕所を、皆に配分するとのことです。
 忠節を尽くす者の行く末は、決まりました。
 どうにかしてでも、費用2・3貫が欲しいです。
 大進房に言って、費用5貫を借りてください。…

10月12日か 妻宛てか

 …便りが絶えてしまっても、返事は早々に、
 何事も詳しく書いてくれねば、心許なく思います。
 こちらは10日に“なかへ”に着き、
 今日12日の状況に応じて、下河辺に向かいます。
 いずれにせよ、明日はしっかりやらねばなりません。
 …今日は昼にも出立するかもしれません。
 もし延期になっても、明日は必ず発つでしょう。
 早くも恋しい思いをしています。

10月13日 子息又けさ宛てか

 …容器を2つ送りました。
 1つには、古葉の茶の苦くないものを、
 寺へ言ってもらって、送ってください。
 もう1つにも、茶などを入れて、送ってください。
 干柿・搗栗を少し買って、送ってください。


10月初旬には、早くも、
足利方先鋒部隊と南朝方との間で、戦闘が開始されていたが、
師冬軍は、
10月中旬に至って、ようやく太日川を渡河。
下総下河辺荘に入り、
敵の前線基地常陸駒城を目の前にする、
下総山川に着陣した。


10月16日 子息又けさ宛て 下総山川の陣より

 …百姓らに何とでも命じて、鞍・具足を借りて、
 馬に乗せて送ってください。
 鞍・具足がないならば、
 徒歩ででも、馬を牽いて連れてきてください。
 何事も、母御の言うことを聞き、
 もう幼くないのだから、がんばってください。

10月28日 子息又けさ宛て 下総山川の陣より

 …合戦のことといい、留守のことといい、
 心苦しさは、言い様もありません。
 逃亡した陪臣の人数を、書き送ります。
 この者たちを、一人残らず捕まえて、
 こちらに送り返してください。
 少しでもこれを違えるならば、
 今後親子とは思いません。
 越中八郎の家人、谷の家人、紀平次の家人、
 彼らを捕らえてください。
 …もし、この者たちが来ないならば、
 その親を遣わしてください。
 大久保の弥三郎や、まだ参陣していない者は、
 しばらくしたら来るように言ってください。


10月下旬、
師冬軍は、敵の前線基地である常陸駒城を包囲。
敵の防御は堅く、苦戦を強いられる。
長陣により、厭戦気分が漂い、
逃亡する者もあったようだ。


11月2日 子息又けさ宛て

 …佐藤三郎の童を参陣させる旨を、
 奥にも伝えてください。
 先日述べた、逃亡した陪臣どもを、
 早く、一人残らず捕まえて、送ってください。
 留守の間のことを思うにつけ、心配です。…

11月某日 子息又けさ宛てか

 …馬が欲しく、戦死者の遺物であった馬を、
 ゑひ殿に言って、いただきました。
 兜も、最近は他人が貸してくれるので、
 それを着用して、合戦に行っています。
 人がこれほど討ち死にしたり、負傷したりしているのに、
 私は今まで何事もありませんので、
 合戦がどのようなものかなどと、心許なく思わないでください。…

12月下旬か 子息又けさ宛て

 使者小三郎が持ってきた手紙を読みました。
 おっしゃるとおり、今まで変わったことはありません。
 この城(常陸駒城)は、今年中に落ちそうにないので、
 暇をもらって、帰郷しようと思っています。
 …今後はだんだん肌寒くなってきます。…

月日不明 子息又けさ宛てか

 …おっしゃるとおり、
 留守の間、頼りになる者が一人もいないことは、
 心許なく思います。
 …先日、この合戦での働きを、
 三河殿(高師冬)も大いに褒めてくださいました。
 …もし私が死んでも、
 大将や一揆の人々がいるので、安心です。

月日不明 子息又けさ宛てか

 …おっしゃるとおり、
 こちらの辛苦は言い様もありませんが、
 ただ、こちらのことは以前より覚悟していたことです。
 それよりも、
 留守に頼りになる者がいないことこそ、
 心配に思います。
 何事も、しっかりと大人として、
 母御と相談し、
 百姓らにも、あまり無沙汰にせぬよう、
 がんばってください。…

月日不明 宛先不明

 …先日、常陸塩本に向かいました。
 いずれも戦場であることには変わりませんが、
 塩本は苦戦を強いられているところであり、
 味方も小勢ですので、
 覚悟はしています。
 今のところは、異常はありません。
 新井殿の方へも、手紙を送りたいのですが、
 たいしたこともありませんし、
 昨夜、こちらの城へ敵襲があるということで、
 用心しています。
 …何事も、ご心配なさらず。…

月日不明 子息又けさ宛てか

 …合戦が延びているので、
 暇をもらって帰郷したいけれども、
 敵城も近く、なかなか難しそうです。
 今度の合戦では、生きて帰れるとも思えず、
 留守宅に、頼もしい者が一人もないことが、
 かえすがえすも、心許なく思います。…


留守宅の心配、
身のまわりの困窮、
妻への恋情、
家臣たちの逃亡、
厳しい戦場の様子。
紹介したのは、ごく一部であるが、
山内経之の手紙には、
これらが、連々と綴られている。
そこには、
勇壮なイメージとはかけ離れた、武士の姿がある。
それは、山内経之に限ったものではなく、
当時の武士の、普遍的な姿だっただろう。


これらを残して、
経之の手紙は、ふつりと途絶える。
手紙の消滅は、すなわち、
書き手の死を意味している。
駒城攻めの激戦の中で、
暦応3年(1340)2・3月頃、
経之は、討ち死にしたものと思われる。

留守にした家を案じつつ、
経済的にも不自由な中で、戦場に立った経之は、
死の瞬間、いかほどの思いであったろうか。


なお、高師冬の足利方は、
暦応3年(1340)5月末、
7ヶ月にわたる攻防戦の末に、
ようやく常陸駒城を陥したが、
すぐに、南朝方の猛反撃により、奪回された。
師冬軍は、
下野宇都宮を迂回して、常陸瓜連城に入り、
暦応4年(1341)5月、
態勢を整えて、小田城に迫った。
激戦の末、
11月、小田治久が足利方に投降。
北畠親房は、関宗祐の関城に移り、
関・大宝の2城を拠点に、戦闘を継続する。
暦応4年(1341)12月、
師冬軍は、関・大宝城の攻撃を開始し、
康永2年(1343)11月、
ついに両城を陥して、親房を大和吉野へ潰走させた。

こうして、
4年以上に及ぶ常陸合戦は、ようやく幕を下ろす。



〔参考〕
『日野市史 史料編 高幡不動胎内文書編』 (日野市史編さん委員会 1993)
峰岸純夫「高幡不動胎内文書」 (『中世東国の荘園公領と宗教』 吉川弘文館 2006)
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《誅殺》 《1363年》 《7月》 《19日》 《享年不明》


佐々木導誉(京極高氏)の筆頭家臣。
出雲守護代。


貞治2年(1363)7月19日戌の刻(夜8時頃)、
導誉邸から自宅に帰る途中、
京都四条京極の常阿弥堂前にて、暗殺された。
下手人は、侍所所司代若宮左衛門尉。


吉田秀仲が、
導誉の嗣子高秀の廃嫡、導誉の幼い曾孫秀頼の擁立を画策していたため、
侍所所司であった高秀が、その誅殺を命じたのであった。

これにより、
高秀は父導誉の譴責を受けた。
父子の間は、その後怪しいものとなっている。


とはいえ、
下手人の所司代若宮は、
それまで将軍義詮邸におり、
事件後、ふたたび義詮のもとへ行って、
事件を報告したというから、
義詮も了承済みのことだったのだろう。



〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十五』 (1931)
『国史大辞典 6 (こま-しと)』 (1985)
《病死》 《1364年》 《2月》 《13日》 《享年87歳》


室町幕府2代将軍足利義詮に、召仕として仕えていた。
出自等は未詳。


貞治3年(1364)2月13日酉の刻(夕方6時頃)、
矢部尼、他界。

すこし前から、急に体調を崩して、
将軍邸を退いていたという。


中原師守は日記に、
「老病か」(『師守記』)
と記しているから、
老衰だろうか。


「中世人今際図巻」、長寿記録更新。



〔参考〕
『大日本史料 第六之二十六』 (1933)
《誅殺》 《1475年》 《正月》 《23日》 《享年不明》


前内大臣日野勝光の青侍。

文明7年(1475)正月23日戌の下の刻(夜9時頃)、
山形勝宗は、京都裏辻の北の辺りで、何者かに殺された。
理由も不明。

辻斬りだろうか、
あるいは、
前将軍足利義政の義兄、かつ将軍足利義尚の舅として権勢をふるった、
主人日野勝光を怨む者に殺されたのだろうか。



〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅱ』 (石川県 2000)
《誅殺》 《1463年》 《8月》 《25日》 《享年不明》


東寺領 備中新見荘領家方の代官。


備中守護細川氏に委任支配されていた、東寺領の新見荘領家方であったが、
細川氏代官の横暴に苦しんだ荘民たちは、
寛正2年(1461)6月、
ついに一揆して、細川氏代官を追放し、
東寺の直接支配に復することに成功した。
そうして、
東寺より代官として派遣されてきたのが、
祐清である。


寛正3年(1462)7月26日、
祐清は供を連れて京都を出発し、
8月5日、新見荘に入った。
すぐに、祐清による代官支配が始まるが、
荘民の期待に反して、
祐清の支配は、なかなかに苛烈なものだった。
祐清は、たびたび荘内を巡検して、
未納の年貢などを厳しく取り立てたのである。


寛正4年(1463)8月25日、
この日も祐清は、兵衛二郎と彦四郎の2人の従者を連れて、
荘内の巡検に出発した。
未の刻(午後2時頃)、
地頭方の名主谷内の、新造中の屋敷の前を通りかかったところ、
「あの代官、下馬をしないじゃないか」
と、谷内の家の者に見咎められ、追い詰められた。
祐清は、
「谷内の家と知らなかったのだ。下馬せず、すまなかった。」
と、馬を下りて、非礼を詫びた。
しかし、
谷内家の者たちは大勢ひきつれて、抜刀して祐清らを取り囲んだ。
そうなると、祐清も刀を抜かざるを得ず、
両者じりじりと対峙する格好となった。

と、そこへ、
谷内本人と、その同輩の名主横見が駆けつけ、
「刀をお収めください」と仲裁に入ったため、
祐清も、「ならばともかく」と刀を収めた。
すると突然、
横見と谷内が抜刀して、祐清に斬りかかり、
従者兵衛二郎もろとも、殺してしまった。


酉の刻(午後6時頃)、
辛くもその凄惨な現場を脱した祐清の従者彦四郎は、
領家方の荘官金子衡氏・福本盛吉・宮田家高に、事態を報告した。
谷内らの仕打ちに怒った金子らと、領家方の荘民たちは、
すぐさま谷内の屋敷に馳せ向かい、
報復として、
谷内の屋敷、次いですぐ隣の地頭方政所を焼き打ちして、
掠奪を行った。


谷内・横見の行いは、祐清に成敗された領家方名主豊岡の敵討ちだ、という説や、
下馬咎めなどという不当な言いがかりこそ問題だ、というような主張が、
事件の後に飛び交ったが、
根本には、
新見荘内における地頭方と領家方の潜在的な対立があったらしい。


そして、この事件には後日談がもうひとつ。

京都より派遣されてきた祐清であったが、
赴任先の新見荘に妻を持った。
荘官福本盛吉の妹で、名を“たまがき”といった。

たまがきは、夫祐清の横死後、
領主東寺に向けて、以下のような上申書を送った。

 諸事、お取り計らいいただきたく、
 かように一筆進上いたします。
 さて、祐清があのようなことになったことは、
 非常においたわしいことであります。
 そのとき、私は政所におりましたが、
 その後事について、恥を忍んで申し上げます。
 祐清の遺品については、
 記録をとって、荘官らに差し上げましたので、
 きっと荘官らから報告があるでしょう。
 そのうち、
 祐清の着物は、事件の際に斬られて、遺失しました。
 また、残ったものも、
 その後、いろいろ尽力してくれた僧に与えたり、
 葬礼の費用に宛てたりしました。
 詳しい明細は、別途報告いたします。
 祐清とわたくしとは、生前親しくしておりました。
 祐清の持ち物を少々、形見としていただければ、
 どんなに嬉しいことでしょう。
 重ねて、このことは荘官らにも申し上げます。
 祐清の遺品は、
 すべて荘官らに差し上げましたが、
 別の書き付けのとおりにいただければ、
 こんなに嬉しいことはございません。
 あなかしく。

 ・所持金1貫文 後事にいろいろ使用しました。
 ・青小袖1つ 僧に与えました。
 ・抜手綿2つ 同じく僧に与えました。
 ・帷子1つ 同じく僧に与えました。
 ・畳表5枚 売って後事のことに宛てました。
 以上のものは、それぞれそのように使用しました。
 そのことについては、お詫び申し上げます。
 ・白い小袖1つ
 ・紬の表1つ
 ・布子1つ
 この3つを祐清の形見にいただければ、
 どんなに嬉しいでしょう。

原文かな書きのこの文書は、
たまがき自筆のものといい、
夫を喪った女性の悲痛な手紙とされている。
特に、中世において農村女性の手紙は珍しく、
貴重な例とされている。

しかし、
内容は形見わけや、葬礼等の費用に関するもので、
「悲痛」とまでいえるかどうか。
また、筆跡は男性のそれに近く、
兄福本盛吉の意向が強くはたらいたもの、とする見解もある。
はたして如何に。



〔参考〕
『新見庄 生きている中世』 (備北民報社 1983)
辰田芳雄「祐清殺害事件新論」 (『日本史研究』492 2003)
渡邊太祐「新見荘祐清殺害事件と豊岡成敗」 (『日本歴史』718 2008)
清水克行「新見荘祐清殺害事件の真相」
 (東寺文書研究会編『東寺文書と中世の諸相』 思文閣出版 2011)
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