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死に様データベース
《誅殺》 《1353年》 《5月》 《17日》 《享年不明》


安芸小早川氏の一族か。


京都をめぐって足利方と南朝の攻防が続く文和2年(1353)の5月半ば、
洛中で不穏な計画の噂が流れた。
東下していた将軍足利尊氏に代わって京都の留守を守っていた嫡男の義詮を、
襲撃するというのだ。

情報を未然につかんだ室町幕府侍所所司代の土岐長山頼基は、
5月14日、某所に踏み込んで、首謀者12人のうち8人の身柄を拘束した。
尋問により、主犯格は小早川将監入道と判明し、
17日、将監入道はさらし首にされた。

洛中の武士の大半が、この計画に加担していたともいわれている。
室町幕府の京都支配がいまなお安定しない時代の一齣か。



〔参考〕
『園太暦 巻4』(続群書類従完成会、1971年)
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《誅殺》 《1489年》 《4月》 《29日》 《享年22歳》


従五位下、侍従。
父は正三位・権中納言の烏丸益光。


烏丸資敦は、
日野流烏丸家の当主益光の実子として、
烏丸家を相続するはずであった。
しかし、腰痛の持病を患ったため、
その器でないとして、仏門に入れられてしまった。

文明7年(1475)末、父益光が30代半ばで病没すると、
まだ存命であった祖父資任は、
日野本宗家の勝光の実子冬光を養子に迎え、
烏丸家を継がせた。


ところが、
それから10数年、資敦の腰病は本復する。
資敦は還俗し、
長享2年(1488)、元服を果たした。

そして、
烏丸家の当主冬光に所領の分割を要求し、
訴訟を起こしたのである。
訴えを受けた室町殿足利義政は、資敦の要求を認めて、
冬光に所領の分割を命じたが、
冬光は応じようとしなかった。

この間、無収入の資敦は、
京都正親町烏丸に「不思儀の小屋」(『宣胤卿記』)を借りて、
青侍や雑色と暮らしていたという。


延徳元年(1489)4月29日夜、
資敦は夜盗に襲われ、青侍と雑色とともに殺害された。
22歳という(一説に16歳)。
冬光の差し金だとしきりに噂されたが、
冬光が罰せられた様子はない。


翌年には、同じ日野流の竹屋治光の子が、
資敦の跡継ぎと称して出仕しようとしたが、
取り合われることはなかった。



〔参考〕
東京大学史料編纂所データベース
《病死》 《1422年》 《閏10月》 《某日》 《享年不明》


前関白近衛忠嗣「最愛」(『看聞日記』)の妻。
「北政所」(『満済准后日記』)とあるので、正室とわかる。
出自や実名などは不詳。


応永29年(1422)閏10月初旬、
前関白近衛忠嗣室北政所が他界した。

これを「最愛の妻室」としていた夫忠嗣は、
悲嘆のあまり切腹を図った。
しかし、
周囲に取り押さえられて、刀を奪われ、失敗。
そこで、忠嗣は髻を切ろうとするも、これも押しとどめられた。

そうして、同月10日、出家したという。


この思い余った忠嗣の行動は、
同時代人に相当な衝撃を与えたらしい。

伏見宮貞成親王は、
「頗る狂気か。
 悲歎といえども、かくのごとき儀、
 摂家いまだその例を聞かず。
 不可説なり。」(『看聞日記』)
と、
三宝院満済は、
「およそ不可説。
 以てのほかの次第の由、時宜なり。
 誠に以て沙汰のほか也。」(『満済准后日記』)
と記している。
いずれも「不可説」と手厳しい。



〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004年)
《誅殺》 《1419年》 《6月》 《20日》 《享年不明》


権大納言三条公光の青侍。


京都の街中に、とある元結い売りがいた。
元結いとは、髻を結う紐のこと。

応永26年(1419)頃のこと、
三条公光に仕える青侍掃部助は、
この元結い売りに、元結いを注文した。
ところが、
待てど暮らせど、なかなかできあがってこない。
しびれをきらした掃部助は、
下女を遣わして、元結い売りの遅延を責めさせた。

しかし、というべきか、案の定、というべきか、
下女の難詰に、店の者は激昂し、口論に発展。
ついには、
店の者が、下女に殴る蹴るの暴力をふるい、
その髪を切り落として、叩き出した。

この上ない屈辱を受けた下女は、主の掃部助のもとに走り帰り、
元結い売りの所業を訴えた。
怒った掃部助は、
さらに主人の三条公光のもとへ報告しに行こうとしたところ、
その途中、一条室町で、元結い売り一行に行き遭った。
あるいは、待ち伏せであったか。
一触即発、
元結い売りは、有無を言わさず矢を放った。
対する掃部助も、太刀を抜いて散々に斬りまわり、
2、3人を斬り伏せ、
両者は差し違えて死んだ。


これで終わらないのが、中世の喧嘩である。


この騒ぎに、
掃部助の同僚たち(三条家青侍)が駆けつけた。
一方の元結い売り方には、
その主人の幕府奉公衆関口氏(今川一族)のもとから、大勢馳せ集まった。
すでに、喧嘩の当人たちは死んでいるのに、である。
両者は京都市街地で衝突、合戦に及び、
数多の死傷者を出した。

元結い売り方・関口勢が優勢だったらしい。
勝ちにのった関口勢は、
さらに、三条公光亭に攻め寄せようとしたが、
抗する三条方には、
足利一門の吉良氏が合力したため、攻められず、
にらみ合いとなった。


ここで、
ようやく事態が室町殿足利義持の耳に達し、
お裁きが下る。
義持は、先に仕掛けた元結い売り・関口方を非とし、
関口を追放。
防戦した三条公光には感状を与えて、
青侍ら功名の者たちには、褒美を与えた。


応永26年(1419)6月20日のこと。


中世人のプライドの高さと、
それを共有する集団意識を示す事件とされている。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
清水克行『喧嘩両成敗の誕生』 (講談社 2006年)
《病死》 《1416年》 《8月》 《15日》 《享年38歳》


正二位、権大納言、右近衛大将。


応永23年(1416)8月11日、
花山院忠定は、
死の床にて、右近衛大将の宣下を受けた。
清華家花山院流藤原氏の嫡流として、
家格や体面を保つための処置であろう。

15日、逝去。
38歳。


だが、
忠定には子がなく、
家を相続する者がいなかった。


そこで、適当な相続人を探すこととなり、
11月9日、
南朝の関白近衛経家の子孫で12歳になる子に、白羽の矢が当たり、
南朝に仕えた別流の花山院家出身の僧耕雲(子晋明魏、俗名花山院長親)の猶子として、
花山院家を次がせるこことなった。
彼は、伏見宮家に仕える小上臈という女房の弟だという。


応永25年(1418)2月25日、
その子は、室町殿足利義持の加冠によって元服。
持忠と名乗る。


当主が死んでも、血が絶えても、
家だけは続く。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
『続群書類従 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1928年)
『国史大辞典 3 (か)』 (吉川弘文館 1983年)
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