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死に様データベース
《誅殺》 《1435年》 《9月》 《11日》 《享年不明》


室町幕府の御膳奉行。


永享7年(1435)9月3日、
室町殿足利義教は思い立って、伊勢神宮へ参拝に出かけた。
供には、広橋兼郷・飛鳥井雅世・正親町三条実雅ら昵近の公卿たちも従い、
最高権力者の一行は、仰々しく京都を出発したことだろう。


室町殿の食膳を担当する御膳奉行の進士某も、
義教に旅の食事を供するために一行に加わっていた。
ところが、往路の旅程中の食事に、義教のお気に召さないことがあったらしい。
途中で一行からはずされ、京都に追い返された。

それでも、
一行が帰京したら赦免の沙汰があるといわれており、
進士は9日の義教の帰京を、落ち着かない思いで待ったに違いない。


そして、義教が京都に戻ったあとの10日頃、
進士は、義教の近臣細川持春の屋形に呼び出された。
当然、義教の怒りが解けて赦されるものと思っただろう。
しかし、進士を待っていたのは、思いも寄らない運命だった。
細川の屋形に赴いた進士は、その場で捕らえられ、
そのまま近衛河原にひきすえられて、首をはねられた。

再帰の期待は、あまりに残酷なかたちで裏切られたのである。


連座させられることを怖れた進士の息子は、すぐに姿をくらましたが、
捜索されて、やはり誅殺されたとかなんとか。


およそ為政者のすることではない。


〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 5』(宮内庁書陵部 2010年)
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《誅殺》 《1434年》 《7月》 《17日》 《享年不明》


建仁寺の僧。
正首座」とも。
「首座」は、禅宗寺院での役職名で、
*昌」「*正」(*はなんらかの1字)という名であったと思われる。


永享6年(1434)7月9日頃、
京都に不穏な事件が起こった。
建仁寺の昌首座という僧が、
白昼、幸首座という同僚の僧を捕まえて、
双岡にて首を斬って殺害したのだ。

室町幕府はただちに犯人の昌首座を捕縛して、尋問したところ、
共謀する者たちの名を述べたという。
そこには、
京極持高や四条上杉教房、細川持有らの家臣の名も含まれていたというが、
共謀の内容も真偽も明らかでない。


そして、翌10日、
またしても物騒な事件が起きた。
今度は、相国寺で大徳院の老僧が喝食を殺害したのだ。
殺害された喝食は、
山名持豊の親類であったという。


7月17日、
幕府侍所は、この2人の犯人の処刑を執行した。
両僧を裸にして、車に乗せて手足をしばりつけ、
一条大路から引き回して、
相国寺・建仁寺それぞれの境内に移して、さらし者にした。

建仁寺では、鐘を鳴らして境内中に知らせ、
寺内の多くの人びとがこれを見物したという。

夕刻、両人は群衆が見物するなか、
六条河原で斬首に処せられた。
人びとは、
この両人の悪行にこの仕置きでは、まだ足らないと言い合ったという。

伏見宮貞成曰く、「重罪いうに及ばざる事か」(『看聞日記』)
三宝院満済曰く、「前代未聞の事どもなり」(『満済准后日記』)



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 5』 (宮内庁書陵部 2010年)
『続群書類従 補遺 満済准后日記 下』 (群書類従完成会 1928年)
『史料纂集 師郷記 1』 (続群書類従完成会 1985年)
《誅殺》 《1443年》 《5月》 《18日》 《享年18歳》


建仁寺霊雲庵僧。
室町幕府奉行人布施貞基の子。


建仁寺霊雲庵では、
住持の跡継ぎをめぐって、
住持と門徒との間で、激しい争いが起きていた。
嘉吉2年(1442)、
幕府は、僧録海門承朝の指示にしたがうことを命じ、
いったんは落ち着いたかに見えたが、
水面下では、なおくすぶり続けていた。


嘉吉3年(1443)5月18日暁、
門徒側の血気にはやる僧たちが、
霊雲庵に乱入、放火。
住持の同宿にも、半死半生の深手を負わせるなど、
境内を暴れ回った。
その混乱のなかで、
住持の弟子真瑤侍者も、
「矢庭に」(『康富記』)殺されてしまった。
享年18歳。
「言語道断、未聞の儀なり。」(『康富記』)


真瑤の父布施貞基と旧知の間柄であった中原康富は、
 不便(ふびん)申すばかりなし。
 しきりに悲涙を催す。
 如之何々々々。 (『康富記』)
と記している。


悪僧たちは、
所司代多賀高直の追捕の手をかわして、
逃げ散ったという。


翌6月18日には、
真瑤の弔いのため、
父貞基の同僚飯尾貞元の邸宅で、連歌会が催され、
貞基らが、
 浪にしく花は蓮のうてなかな  貞元
 むすふは玉か夏草の露     貞基 (『康富記』)
と詠んだ。


〔参考〕
『続群書類従 補遺 4 看聞御記 下』 (続群書類従完成会 1930年)
『増補史料大成 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
『大日本古記録 建内記 6』 (岩波書店 1974年)
《病死》 《1441年》 《5月》 《28日》 《享年26歳》


伏見宮貞成親王第一王女。
父貞成、45歳のときの、待望の第一子である。
三時智恩寺(入江殿)方丈。


嘉吉元年(1441)3月、
京都周辺で、疱瘡(天然痘)が流行。
後花園天皇や後崇光院伏見宮貞成親王の周辺でも、
感染者が相次いだ。

3月14日、性恵も感染し、
母庭田幸子の見舞いを受けた。
17日、病状が思いのほか重篤であるとして、
再び母の見舞いを受けたが、
「今日はいささかよき様なり」(『看聞日記』、以下同)
と、元気な様子を見せたらしい。

この日、
伏見宮家の仕女新大夫が、罹患のため宮亭を退出。
貞成親王の近臣庭田重賢もまだ癒えず、宮家に祗候していなかった。
性恵の実弟後花園天皇も罹っている。


21日にも、母幸子は娘性恵を見舞う。
病状は変わらず。
将軍足利義教から医師が遣わされ、
また父貞成親王も、医師和気茂成を遣わしている。

同日、後花園天皇が発疹して、大騒ぎになっている。
23日、幸子は息後花園の見舞いへ。


25日には、
性恵・後花園姉弟ともに、やや病状が落ち着いた。
27日、また幸子は娘を見舞ったが、
病状は再び悪化したようで、苦しげあったという。
一方の後花園は、次第に快方に向かっていった。
28日、性恵、小康。
こうして、性恵の病状は一進一退を繰り返す。


4月初旬、
疱瘡流行の猛威は、とどまることを知らず、
伏見宮家を襲う。
近衛局・春日局・右衛門督局・新大夫ら女中たちや、近臣西大路隆富が感染し、
貞成の次男・四女・五女も罹った。
宮亭には、竹田昌耆・小森頼豊ら医師が、
たびたび診察に訪れている。


性恵の病状はといえば、
4月3日、「いささかよき様」、
8日、「いささか本復」。
8日の快復具合は、なかなかのもので、
病床から出て、父貞成の御所を訪れるほどのものであった。

しかし、
19日、「再発か」。
「本復念願無極」の言葉には、
父貞成の落胆と切なる祈りが感じられる。
21日、病状変わらず。
23日から29日まで、快復を祈って、
陰陽師土御門有重によって泰山府君祭が行われた。
初日に早速験があったらしく、
「昨日よりいささかまたよき様の気色と云々」、
結願日にも、
「今日いささかよき御事と云々」。
30日、ほぼ変わらずながら、
「いささかよき分也」。

こう記す父貞成の日記からは、
 せめて気休めでも…
という想いすらうかがえる。


5月に入っても、病状は変わらなかった。

5月12日、容態はさらに悪化。
「方丈(性恵)の御式(容態)、猶ご窮屈の様たのみなし。
 祈療のほかはたのむところなし。
 祈念無極。」
この「祈療」、すなわち祈祷と治療が、しきりに行われた。
父貞成は、巷の僧や陰陽師にも祈祷を命じており、
三時智恩寺からも、新伊勢社や御香宮社に、
参拝の使者が派遣された。

15日、「いささかよき様」、
18日、「おなじ御式」。
なお、一進一退。


20日頃、貞成周辺で再び感染が相次ぐ。
新大夫、貞成の四女ちよちよ、大進局、庭田重賢が罹患。
「毎事恐怖無極」。


22日夜、
性恵は重態に陥り、
三時智恩寺からは、もしもの時のことを告げられた。
触穢を避けてのことだろう、
見舞う時はこっそりと、とのことであった。
しかし、医師は、
 まだ悪い脈が出ていないので、今夜は大丈夫だろう、
と言うので、父貞成も母幸子も見舞いには行かなかった。

だが、性恵は、
この夜は特に苦しげで、
暁になってようやく静まり、寝付いたという。

23日未明、
性恵は安居院に移された。
父貞成がこっそりと見舞うと、
辛そうな様子で寝ており、
「前後を知らず惘然の式」
すなわち、人事不省に陥っていた。
顔色は、邪気のせいか、
死相はなく、平生のとおりであった。

同日夜、父が再び見舞うと、
朝と同じ様子だったが、
いささか意識を取り戻したようであった。
目を見開き、父の姿を見、
やがてまた寝入ってしまった。


25日、
熱が下がり、性恵の容態は、やや快復。
この一事でも、父貞成は、
「心安く、喜悦」
と喜んでいる。


そして、28日早朝、
性恵の息は、徐々に細くなり、
やがて、絶えた。
享年26歳。
性恵危篤の報を聞いた母幸子らは、急ぎ駆けつけようとしたが、
臨終の際には間に合わなかった。

「老体の親に先立たるるの条、老少不定、今更驚かる」
「ただ悲歎のほか惘然のみ」

70歳の父にとって、
娘の死はどれほどの重さであったろうか。


6月5日、泉涌寺竹園院にて荼毘。


前日の27日には、
貞成の義母東御方が没したばかりであった。


〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 6』 (宮内庁書陵部 2012年)
《誅殺》 《1437年》 《11月》 《6日》 《享年不明》


将軍足利義教の召仕、
遁世者。


永享9年(1437)11月6日、
室町殿足利義教に祗候する女房東御方と少弁の、スキャンダルが発生した。
相国寺僧や行道らとの密通が露顕したのである。
東御方と少弁は流罪、
密通相手の相国寺僧4名は、刎首。
また、
少弁の密通相手で、これを庇おうとした佐阿弥も、
斬首された。
追っ手を逃れて、行方をくらました者もいた。

なお、この東御方は、
長慶天皇の孫であったという。


このスキャンダルに相前後して、
室町御所内の暗部が、芋づる式に明るみに出たらしい。
阿野実治の娘二条局は、髪を切られて、追い出され、
その他の関係者も片っ端から処罰されて、
切腹させられる者もいたという。

同じ頃、
義教の室正親町三条尹子の病悩も、
天狗の所行との噂も流れた。
底の見えない不祥事の数々に対する不信感と、
それへの苛烈な追及に対する恐怖が、
人ならぬ者の存在まで生んだのであろう。


スキャンダルが、
左遷でも、丸刈りでも、降板でも済まされなかったのは、
中世ゆえでもあるとも言えるが、
ときの将軍の個性にもよっている。

当時は、将軍足利義教の恐怖政治の最盛期であり、
10月にも、徳大寺公有や、楽人豊原久秋ら一党7人が、
次々と突鼻(失脚、出仕停止)されている。
まさしく、
「薄氷をふむ時節、恐怖無極、」(『看聞日記』)
の日々であった。


とある比丘尼が、
伊勢神宮参詣の帰路に、狂気を発して述べた託宣には、
「すべては悪将軍ゆえ」(『看聞日記』)
というが、
悪将軍の恐怖政治は、義教本人が弑されるまで、
まだ3年以上続く。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 6』 (宮内庁書陵部 2012年)
東京大学史料編纂所データベース
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