死に様データベース
《誅殺》 《1443年》 《5月》 《18日》 《享年18歳》
建仁寺霊雲庵僧。
室町幕府奉行人布施貞基の子。
建仁寺霊雲庵では、
住持の跡継ぎをめぐって、
住持と門徒との間で、激しい争いが起きていた。
嘉吉2年(1442)、
幕府は、僧録海門承朝の指示にしたがうことを命じ、
いったんは落ち着いたかに見えたが、
水面下では、なおくすぶり続けていた。
嘉吉3年(1443)5月18日暁、
門徒側の血気にはやる僧たちが、
霊雲庵に乱入、放火。
住持の同宿にも、半死半生の深手を負わせるなど、
境内を暴れ回った。
その混乱のなかで、
住持の弟子真瑤侍者も、
「矢庭に」(『康富記』)殺されてしまった。
享年18歳。
「言語道断、未聞の儀なり。」(『康富記』)
真瑤の父布施貞基と旧知の間柄であった中原康富は、
不便(ふびん)申すばかりなし。
しきりに悲涙を催す。
如之何々々々。 (『康富記』)
と記している。
悪僧たちは、
所司代多賀高直の追捕の手をかわして、
逃げ散ったという。
翌6月18日には、
真瑤の弔いのため、
父貞基の同僚飯尾貞元の邸宅で、連歌会が催され、
貞基らが、
浪にしく花は蓮のうてなかな 貞元
むすふは玉か夏草の露 貞基 (『康富記』)
と詠んだ。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 4 看聞御記 下』 (続群書類従完成会 1930年)
『増補史料大成 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
『大日本古記録 建内記 6』 (岩波書店 1974年)
建仁寺霊雲庵僧。
室町幕府奉行人布施貞基の子。
建仁寺霊雲庵では、
住持の跡継ぎをめぐって、
住持と門徒との間で、激しい争いが起きていた。
嘉吉2年(1442)、
幕府は、僧録海門承朝の指示にしたがうことを命じ、
いったんは落ち着いたかに見えたが、
水面下では、なおくすぶり続けていた。
嘉吉3年(1443)5月18日暁、
門徒側の血気にはやる僧たちが、
霊雲庵に乱入、放火。
住持の同宿にも、半死半生の深手を負わせるなど、
境内を暴れ回った。
その混乱のなかで、
住持の弟子真瑤侍者も、
「矢庭に」(『康富記』)殺されてしまった。
享年18歳。
「言語道断、未聞の儀なり。」(『康富記』)
真瑤の父布施貞基と旧知の間柄であった中原康富は、
不便(ふびん)申すばかりなし。
しきりに悲涙を催す。
如之何々々々。 (『康富記』)
と記している。
悪僧たちは、
所司代多賀高直の追捕の手をかわして、
逃げ散ったという。
翌6月18日には、
真瑤の弔いのため、
父貞基の同僚飯尾貞元の邸宅で、連歌会が催され、
貞基らが、
浪にしく花は蓮のうてなかな 貞元
むすふは玉か夏草の露 貞基 (『康富記』)
と詠んだ。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 4 看聞御記 下』 (続群書類従完成会 1930年)
『増補史料大成 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
『大日本古記録 建内記 6』 (岩波書店 1974年)
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《病死》 《1441年》 《5月》 《28日》 《享年26歳》
伏見宮貞成親王第一王女。
父貞成、45歳のときの、待望の第一子である。
三時智恩寺(入江殿)方丈。
嘉吉元年(1441)3月、
京都周辺で、疱瘡(天然痘)が流行。
後花園天皇や後崇光院伏見宮貞成親王の周辺でも、
感染者が相次いだ。
3月14日、性恵も感染し、
母庭田幸子の見舞いを受けた。
17日、病状が思いのほか重篤であるとして、
再び母の見舞いを受けたが、
「今日はいささかよき様なり」(『看聞日記』、以下同)
と、元気な様子を見せたらしい。
この日、
伏見宮家の仕女新大夫が、罹患のため宮亭を退出。
貞成親王の近臣庭田重賢もまだ癒えず、宮家に祗候していなかった。
性恵の実弟後花園天皇も罹っている。
21日にも、母幸子は娘性恵を見舞う。
病状は変わらず。
将軍足利義教から医師が遣わされ、
また父貞成親王も、医師和気茂成を遣わしている。
同日、後花園天皇が発疹して、大騒ぎになっている。
23日、幸子は息後花園の見舞いへ。
25日には、
性恵・後花園姉弟ともに、やや病状が落ち着いた。
27日、また幸子は娘を見舞ったが、
病状は再び悪化したようで、苦しげあったという。
一方の後花園は、次第に快方に向かっていった。
28日、性恵、小康。
こうして、性恵の病状は一進一退を繰り返す。
4月初旬、
疱瘡流行の猛威は、とどまることを知らず、
伏見宮家を襲う。
近衛局・春日局・右衛門督局・新大夫ら女中たちや、近臣西大路隆富が感染し、
貞成の次男・四女・五女も罹った。
宮亭には、竹田昌耆・小森頼豊ら医師が、
たびたび診察に訪れている。
性恵の病状はといえば、
4月3日、「いささかよき様」、
8日、「いささか本復」。
8日の快復具合は、なかなかのもので、
病床から出て、父貞成の御所を訪れるほどのものであった。
しかし、
19日、「再発か」。
「本復念願無極」の言葉には、
父貞成の落胆と切なる祈りが感じられる。
21日、病状変わらず。
23日から29日まで、快復を祈って、
陰陽師土御門有重によって泰山府君祭が行われた。
初日に早速験があったらしく、
「昨日よりいささかまたよき様の気色と云々」、
結願日にも、
「今日いささかよき御事と云々」。
30日、ほぼ変わらずながら、
「いささかよき分也」。
こう記す父貞成の日記からは、
せめて気休めでも…
という想いすらうかがえる。
5月に入っても、病状は変わらなかった。
5月12日、容態はさらに悪化。
「方丈(性恵)の御式(容態)、猶ご窮屈の様たのみなし。
祈療のほかはたのむところなし。
祈念無極。」
この「祈療」、すなわち祈祷と治療が、しきりに行われた。
父貞成は、巷の僧や陰陽師にも祈祷を命じており、
三時智恩寺からも、新伊勢社や御香宮社に、
参拝の使者が派遣された。
15日、「いささかよき様」、
18日、「おなじ御式」。
なお、一進一退。
20日頃、貞成周辺で再び感染が相次ぐ。
新大夫、貞成の四女ちよちよ、大進局、庭田重賢が罹患。
「毎事恐怖無極」。
22日夜、
性恵は重態に陥り、
三時智恩寺からは、もしもの時のことを告げられた。
触穢を避けてのことだろう、
見舞う時はこっそりと、とのことであった。
しかし、医師は、
まだ悪い脈が出ていないので、今夜は大丈夫だろう、
と言うので、父貞成も母幸子も見舞いには行かなかった。
だが、性恵は、
この夜は特に苦しげで、
暁になってようやく静まり、寝付いたという。
23日未明、
性恵は安居院に移された。
父貞成がこっそりと見舞うと、
辛そうな様子で寝ており、
「前後を知らず惘然の式」
すなわち、人事不省に陥っていた。
顔色は、邪気のせいか、
死相はなく、平生のとおりであった。
同日夜、父が再び見舞うと、
朝と同じ様子だったが、
いささか意識を取り戻したようであった。
目を見開き、父の姿を見、
やがてまた寝入ってしまった。
25日、
熱が下がり、性恵の容態は、やや快復。
この一事でも、父貞成は、
「心安く、喜悦」
と喜んでいる。
そして、28日早朝、
性恵の息は、徐々に細くなり、
やがて、絶えた。
享年26歳。
性恵危篤の報を聞いた母幸子らは、急ぎ駆けつけようとしたが、
臨終の際には間に合わなかった。
「老体の親に先立たるるの条、老少不定、今更驚かる」
「ただ悲歎のほか惘然のみ」
70歳の父にとって、
娘の死はどれほどの重さであったろうか。
6月5日、泉涌寺竹園院にて荼毘。
前日の27日には、
貞成の義母東御方が没したばかりであった。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 6』 (宮内庁書陵部 2012年)
伏見宮貞成親王第一王女。
父貞成、45歳のときの、待望の第一子である。
三時智恩寺(入江殿)方丈。
嘉吉元年(1441)3月、
京都周辺で、疱瘡(天然痘)が流行。
後花園天皇や後崇光院伏見宮貞成親王の周辺でも、
感染者が相次いだ。
3月14日、性恵も感染し、
母庭田幸子の見舞いを受けた。
17日、病状が思いのほか重篤であるとして、
再び母の見舞いを受けたが、
「今日はいささかよき様なり」(『看聞日記』、以下同)
と、元気な様子を見せたらしい。
この日、
伏見宮家の仕女新大夫が、罹患のため宮亭を退出。
貞成親王の近臣庭田重賢もまだ癒えず、宮家に祗候していなかった。
性恵の実弟後花園天皇も罹っている。
21日にも、母幸子は娘性恵を見舞う。
病状は変わらず。
将軍足利義教から医師が遣わされ、
また父貞成親王も、医師和気茂成を遣わしている。
同日、後花園天皇が発疹して、大騒ぎになっている。
23日、幸子は息後花園の見舞いへ。
25日には、
性恵・後花園姉弟ともに、やや病状が落ち着いた。
27日、また幸子は娘を見舞ったが、
病状は再び悪化したようで、苦しげあったという。
一方の後花園は、次第に快方に向かっていった。
28日、性恵、小康。
こうして、性恵の病状は一進一退を繰り返す。
4月初旬、
疱瘡流行の猛威は、とどまることを知らず、
伏見宮家を襲う。
近衛局・春日局・右衛門督局・新大夫ら女中たちや、近臣西大路隆富が感染し、
貞成の次男・四女・五女も罹った。
宮亭には、竹田昌耆・小森頼豊ら医師が、
たびたび診察に訪れている。
性恵の病状はといえば、
4月3日、「いささかよき様」、
8日、「いささか本復」。
8日の快復具合は、なかなかのもので、
病床から出て、父貞成の御所を訪れるほどのものであった。
しかし、
19日、「再発か」。
「本復念願無極」の言葉には、
父貞成の落胆と切なる祈りが感じられる。
21日、病状変わらず。
23日から29日まで、快復を祈って、
陰陽師土御門有重によって泰山府君祭が行われた。
初日に早速験があったらしく、
「昨日よりいささかまたよき様の気色と云々」、
結願日にも、
「今日いささかよき御事と云々」。
30日、ほぼ変わらずながら、
「いささかよき分也」。
こう記す父貞成の日記からは、
せめて気休めでも…
という想いすらうかがえる。
5月に入っても、病状は変わらなかった。
5月12日、容態はさらに悪化。
「方丈(性恵)の御式(容態)、猶ご窮屈の様たのみなし。
祈療のほかはたのむところなし。
祈念無極。」
この「祈療」、すなわち祈祷と治療が、しきりに行われた。
父貞成は、巷の僧や陰陽師にも祈祷を命じており、
三時智恩寺からも、新伊勢社や御香宮社に、
参拝の使者が派遣された。
15日、「いささかよき様」、
18日、「おなじ御式」。
なお、一進一退。
20日頃、貞成周辺で再び感染が相次ぐ。
新大夫、貞成の四女ちよちよ、大進局、庭田重賢が罹患。
「毎事恐怖無極」。
22日夜、
性恵は重態に陥り、
三時智恩寺からは、もしもの時のことを告げられた。
触穢を避けてのことだろう、
見舞う時はこっそりと、とのことであった。
しかし、医師は、
まだ悪い脈が出ていないので、今夜は大丈夫だろう、
と言うので、父貞成も母幸子も見舞いには行かなかった。
だが、性恵は、
この夜は特に苦しげで、
暁になってようやく静まり、寝付いたという。
23日未明、
性恵は安居院に移された。
父貞成がこっそりと見舞うと、
辛そうな様子で寝ており、
「前後を知らず惘然の式」
すなわち、人事不省に陥っていた。
顔色は、邪気のせいか、
死相はなく、平生のとおりであった。
同日夜、父が再び見舞うと、
朝と同じ様子だったが、
いささか意識を取り戻したようであった。
目を見開き、父の姿を見、
やがてまた寝入ってしまった。
25日、
熱が下がり、性恵の容態は、やや快復。
この一事でも、父貞成は、
「心安く、喜悦」
と喜んでいる。
そして、28日早朝、
性恵の息は、徐々に細くなり、
やがて、絶えた。
享年26歳。
性恵危篤の報を聞いた母幸子らは、急ぎ駆けつけようとしたが、
臨終の際には間に合わなかった。
「老体の親に先立たるるの条、老少不定、今更驚かる」
「ただ悲歎のほか惘然のみ」
70歳の父にとって、
娘の死はどれほどの重さであったろうか。
6月5日、泉涌寺竹園院にて荼毘。
前日の27日には、
貞成の義母東御方が没したばかりであった。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 6』 (宮内庁書陵部 2012年)
《誅殺》 《1437年》 《11月》 《6日》 《享年不明》
将軍足利義教の召仕、
遁世者。
永享9年(1437)11月6日、
室町殿足利義教に祗候する女房東御方と少弁の、スキャンダルが発生した。
相国寺僧や行道らとの密通が露顕したのである。
東御方と少弁は流罪、
密通相手の相国寺僧4名は、刎首。
また、
少弁の密通相手で、これを庇おうとした佐阿弥も、
斬首された。
追っ手を逃れて、行方をくらました者もいた。
なお、この東御方は、
長慶天皇の孫であったという。
このスキャンダルに相前後して、
室町御所内の暗部が、芋づる式に明るみに出たらしい。
阿野実治の娘二条局は、髪を切られて、追い出され、
その他の関係者も片っ端から処罰されて、
切腹させられる者もいたという。
同じ頃、
義教の室正親町三条尹子の病悩も、
天狗の所行との噂も流れた。
底の見えない不祥事の数々に対する不信感と、
それへの苛烈な追及に対する恐怖が、
人ならぬ者の存在まで生んだのであろう。
スキャンダルが、
左遷でも、丸刈りでも、降板でも済まされなかったのは、
中世ゆえでもあるとも言えるが、
ときの将軍の個性にもよっている。
当時は、将軍足利義教の恐怖政治の最盛期であり、
10月にも、徳大寺公有や、楽人豊原久秋ら一党7人が、
次々と突鼻(失脚、出仕停止)されている。
まさしく、
「薄氷をふむ時節、恐怖無極、」(『看聞日記』)
の日々であった。
とある比丘尼が、
伊勢神宮参詣の帰路に、狂気を発して述べた託宣には、
「すべては悪将軍ゆえ」(『看聞日記』)
というが、
悪将軍の恐怖政治は、義教本人が弑されるまで、
まだ3年以上続く。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 6』 (宮内庁書陵部 2012年)
東京大学史料編纂所データベース
将軍足利義教の召仕、
遁世者。
永享9年(1437)11月6日、
室町殿足利義教に祗候する女房東御方と少弁の、スキャンダルが発生した。
相国寺僧や行道らとの密通が露顕したのである。
東御方と少弁は流罪、
密通相手の相国寺僧4名は、刎首。
また、
少弁の密通相手で、これを庇おうとした佐阿弥も、
斬首された。
追っ手を逃れて、行方をくらました者もいた。
なお、この東御方は、
長慶天皇の孫であったという。
このスキャンダルに相前後して、
室町御所内の暗部が、芋づる式に明るみに出たらしい。
阿野実治の娘二条局は、髪を切られて、追い出され、
その他の関係者も片っ端から処罰されて、
切腹させられる者もいたという。
同じ頃、
義教の室正親町三条尹子の病悩も、
天狗の所行との噂も流れた。
底の見えない不祥事の数々に対する不信感と、
それへの苛烈な追及に対する恐怖が、
人ならぬ者の存在まで生んだのであろう。
スキャンダルが、
左遷でも、丸刈りでも、降板でも済まされなかったのは、
中世ゆえでもあるとも言えるが、
ときの将軍の個性にもよっている。
当時は、将軍足利義教の恐怖政治の最盛期であり、
10月にも、徳大寺公有や、楽人豊原久秋ら一党7人が、
次々と突鼻(失脚、出仕停止)されている。
まさしく、
「薄氷をふむ時節、恐怖無極、」(『看聞日記』)
の日々であった。
とある比丘尼が、
伊勢神宮参詣の帰路に、狂気を発して述べた託宣には、
「すべては悪将軍ゆえ」(『看聞日記』)
というが、
悪将軍の恐怖政治は、義教本人が弑されるまで、
まだ3年以上続く。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 6』 (宮内庁書陵部 2012年)
東京大学史料編纂所データベース
《戦死》 《1336年》 《11月》 《3日》 《享年不明》
下野佐野荘を本領とする国人領主。
佐野惣領家ではなく、
有力庶子家の出身だったようである。
建武2年(1335)、
鎌倉にあった足利尊氏が、
後醍醐天皇の建武政権からの決別を明らかにすると、
佐野義綱も、佐野にあって尊氏方へついた。
11月末から、
東海道にて、尊氏方と後醍醐方の戦端が開かれる。
当初は三河・遠江・駿河で、
尊氏の弟直義・高師泰が敗退するなど、
後醍醐方が優勢であったが、
12月中旬、箱根・竹ノ下の合戦で、
尊氏が新田義貞を破って以降、形勢は逆転する。
それから間もない12月19日、
義綱は、同族の阿曽沼朝綱に本領佐野荘へ乱入されたが、
佐野河原にてこれを追いかえした。
同月27日には、
足利氏一族の小俣少輔次郎に属して、
上野男山合戦に参戦。
28日、下野足利町河原合戦では、
敵2人を討ち取る。
この間の12月22日、
陸奥の北畠顕家が、大軍を率いて南下し、
鎌倉を攻撃しているから、
それにともなう戦争が、
関東各地で起きていたものと思われる。
年明けて建武3年(1336)正月9日、
上野新田城を攻め落とし、
笠懸原合戦では、敵1人を討ち取りつつ、乗馬を斬られた。
3月10日、
上野中野館でも、敵1人を討ち取り、
若党清弥九郎も、2人を討ち取った。
その後も義綱は、足利方に属して、
関東にて数々の戦功を立てた。
4月22日、上野利根川渡河戦では、
一族佐野清綱とともに、敵陣に先駆けし、
敵方阿代氏の被官五郎兵衛尉経政を討ち取る。
翌23日、上野板鼻合戦では、敵2人を討ち取りつつ、
乗馬を斬られる。
28日には、
父とともに、感状を与えられた。
29日、
下野沼和田合戦では、
旗差しの孫三郎が負傷。
6月20日、
下野古江山合戦で、
阿曽沼朝綱の被官土淵又六の肘を斬り落とす戦功。
8月9日にも、
下野天命堀籠で宿敵阿曽沼朝綱と戦い、
その家人飯土井四郎を斬った。
11月3日の宇都宮発向に際しては、
桃井直信麾下にあって、下野犬飼・栗崎合戦で先駆け、
武者1人、ほか2人を討ち取った。
だが、
敵の再襲を受け、義綱は討死。
翌月、
義綱の遺児安房一王丸は、父の戦功を室町幕府に訴え、
認められた。
「凡そ悲歎無極といえども、家名至極せしむるものや。」(「落合文書」)
元服前の幼い身とはいえ、安房一王丸にとって、
父の戦死を嘆き悲しんでいる暇などなかったのである。
関東の南北朝内乱は、
義綱の死後、なお20年近く続く。
この佐野義綱の戦死は、
山内経之のように、時代の渦に巻き込まれた末の死のようにも見える。
だが、
本領佐野荘が隣接する阿曽沼郷の阿曽沼朝綱との幾度の争いというように、
近隣領主間の抗争という側面もあった。
南北朝内乱が、
上位権力(足利尊氏や後醍醐天皇など)の戦争であった半面、
実質的には、各地の領主たちの所領・境界をめぐる抗争という面も、
濃厚に有していたことを、示している。
〔参考〕
『南北朝遺文 関東編 1』 (東京堂出版 2007年)
櫻井彦『南北朝内乱と東国 (動乱の東国史)
』 (吉川弘文館 2012年)
下野佐野荘を本領とする国人領主。
佐野惣領家ではなく、
有力庶子家の出身だったようである。
建武2年(1335)、
鎌倉にあった足利尊氏が、
後醍醐天皇の建武政権からの決別を明らかにすると、
佐野義綱も、佐野にあって尊氏方へついた。
11月末から、
東海道にて、尊氏方と後醍醐方の戦端が開かれる。
当初は三河・遠江・駿河で、
尊氏の弟直義・高師泰が敗退するなど、
後醍醐方が優勢であったが、
12月中旬、箱根・竹ノ下の合戦で、
尊氏が新田義貞を破って以降、形勢は逆転する。
それから間もない12月19日、
義綱は、同族の阿曽沼朝綱に本領佐野荘へ乱入されたが、
佐野河原にてこれを追いかえした。
同月27日には、
足利氏一族の小俣少輔次郎に属して、
上野男山合戦に参戦。
28日、下野足利町河原合戦では、
敵2人を討ち取る。
この間の12月22日、
陸奥の北畠顕家が、大軍を率いて南下し、
鎌倉を攻撃しているから、
それにともなう戦争が、
関東各地で起きていたものと思われる。
年明けて建武3年(1336)正月9日、
上野新田城を攻め落とし、
笠懸原合戦では、敵1人を討ち取りつつ、乗馬を斬られた。
3月10日、
上野中野館でも、敵1人を討ち取り、
若党清弥九郎も、2人を討ち取った。
その後も義綱は、足利方に属して、
関東にて数々の戦功を立てた。
4月22日、上野利根川渡河戦では、
一族佐野清綱とともに、敵陣に先駆けし、
敵方阿代氏の被官五郎兵衛尉経政を討ち取る。
翌23日、上野板鼻合戦では、敵2人を討ち取りつつ、
乗馬を斬られる。
28日には、
父とともに、感状を与えられた。
29日、
下野沼和田合戦では、
旗差しの孫三郎が負傷。
6月20日、
下野古江山合戦で、
阿曽沼朝綱の被官土淵又六の肘を斬り落とす戦功。
8月9日にも、
下野天命堀籠で宿敵阿曽沼朝綱と戦い、
その家人飯土井四郎を斬った。
11月3日の宇都宮発向に際しては、
桃井直信麾下にあって、下野犬飼・栗崎合戦で先駆け、
武者1人、ほか2人を討ち取った。
だが、
敵の再襲を受け、義綱は討死。
翌月、
義綱の遺児安房一王丸は、父の戦功を室町幕府に訴え、
認められた。
「凡そ悲歎無極といえども、家名至極せしむるものや。」(「落合文書」)
元服前の幼い身とはいえ、安房一王丸にとって、
父の戦死を嘆き悲しんでいる暇などなかったのである。
関東の南北朝内乱は、
義綱の死後、なお20年近く続く。
この佐野義綱の戦死は、
山内経之のように、時代の渦に巻き込まれた末の死のようにも見える。
だが、
本領佐野荘が隣接する阿曽沼郷の阿曽沼朝綱との幾度の争いというように、
近隣領主間の抗争という側面もあった。
南北朝内乱が、
上位権力(足利尊氏や後醍醐天皇など)の戦争であった半面、
実質的には、各地の領主たちの所領・境界をめぐる抗争という面も、
濃厚に有していたことを、示している。
〔参考〕
『南北朝遺文 関東編 1』 (東京堂出版 2007年)
櫻井彦『南北朝内乱と東国 (動乱の東国史)
《病死》 《1447年》 《4月》 《29日》 《享年44歳》
正四位下、参議、右近中将。
文安4年(1447)4月28日亥の刻(夜10時頃)、
滋野井実益は脳卒中を起こし、重態に陥った。
深夜になって、心停止。
翌29日朝、死穢に備えてか、大夫将監某の屋敷に移される。
あわてて駆けつけた中原師郷は、
寝ている人のようにいびきをあげている実益の姿を見るばかりであった。
すでに駆けつけていた正親町三条実雅は、「周章の体」。
前日、日が沈むまで雑談していた相手が、
翌朝にはこのような有り様になってしまう。
「無常転変の理」(『師郷記』)を感じずにはいられなかったという。
29日申の刻(夕方4時頃)、ついにこときれた。
44歳。
実雅は、何かにつけて実益を頼っていた。
「かの心中誠に察せらるるところ也、」(『師郷記』)
と、師郷も実雅に同情を寄せている。
「寝たる人の如くいびきのごとくなる声あるばかり也、」(『師郷記』)
典型的な脳卒中の症状。
〔参考〕
『史料纂集 師郷記 4』 (続群書類従完成会 1987年)
正四位下、参議、右近中将。
文安4年(1447)4月28日亥の刻(夜10時頃)、
滋野井実益は脳卒中を起こし、重態に陥った。
深夜になって、心停止。
翌29日朝、死穢に備えてか、大夫将監某の屋敷に移される。
あわてて駆けつけた中原師郷は、
寝ている人のようにいびきをあげている実益の姿を見るばかりであった。
すでに駆けつけていた正親町三条実雅は、「周章の体」。
前日、日が沈むまで雑談していた相手が、
翌朝にはこのような有り様になってしまう。
「無常転変の理」(『師郷記』)を感じずにはいられなかったという。
29日申の刻(夕方4時頃)、ついにこときれた。
44歳。
実雅は、何かにつけて実益を頼っていた。
「かの心中誠に察せらるるところ也、」(『師郷記』)
と、師郷も実雅に同情を寄せている。
「寝たる人の如くいびきのごとくなる声あるばかり也、」(『師郷記』)
典型的な脳卒中の症状。
〔参考〕
『史料纂集 師郷記 4』 (続群書類従完成会 1987年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
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没年 1400~1429
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没年 1430~1459
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没年 1460~1499
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享年 ~40代
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