死に様データベース
《事故死》 《1212年》 《8月》 《16日》 《享年53歳》
前大膳大夫、正四位下。
もと後白河法皇の近臣。
建暦2年(1212)のころのことか、
平業忠は藤原忠綱と相撲をとった際、頸の骨を悪くした。
それ以来、回復しない日々が続き、
8月16日、他界。享年53。
病死ではあるが、病因より事故死に分類した。
業忠は、さほど出世には関心がなかったが、
15歳のときから毎日法華経を読むなど、信心深かったという。
〔参考〕
『冷泉家時雨亭叢書 別巻3 翻刻 明月記 2』 (朝日新聞出版 2014年)
『新訂増補国史大系 第32巻 吾妻鑑 前編』(国史大系刊行会 1932年)
前大膳大夫、正四位下。
もと後白河法皇の近臣。
建暦2年(1212)のころのことか、
平業忠は藤原忠綱と相撲をとった際、頸の骨を悪くした。
それ以来、回復しない日々が続き、
8月16日、他界。享年53。
病死ではあるが、病因より事故死に分類した。
業忠は、さほど出世には関心がなかったが、
15歳のときから毎日法華経を読むなど、信心深かったという。
〔参考〕
『冷泉家時雨亭叢書 別巻3 翻刻 明月記 2』 (朝日新聞出版 2014年)
『新訂増補国史大系 第32巻 吾妻鑑 前編』(国史大系刊行会 1932年)
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《誅殺》 《1353年》 《4月》 《5日》 《享年不明》
蔵人、刑部少輔。
従四位上刑部卿橘知任の子。
蔵人や上北面として北朝に仕えたほか、
諸大夫として西園寺家にも仕えた。
文和2年(1353)2月、失火により持明院殿が焼失してしまったため、
焼け出された広義門院(西園寺寧子、光厳・光明両上皇の母)と徽安門院(寿子内親王、花園天皇皇女)は、
参議今出川公直亭に避難していた。
4月5日、橘知兼がこの今出川亭へ参仕に行こうとしたところ、
門前において何者かに殺された。
犯人はおろか、理由なども不明。
京都周辺では、南朝の攻勢が続いており、
そうした政情不安を受けてか、洛中の治安も悪化していたらしい。
事件直前の3月末には、
洛中で数10人の人を攫い、子どもを殺害していた尼僧が、侍所に捕らえられている。
〔参考〕
『園太暦 巻4』(続群書類従完成会、1971年)
蔵人、刑部少輔。
従四位上刑部卿橘知任の子。
蔵人や上北面として北朝に仕えたほか、
諸大夫として西園寺家にも仕えた。
文和2年(1353)2月、失火により持明院殿が焼失してしまったため、
焼け出された広義門院(西園寺寧子、光厳・光明両上皇の母)と徽安門院(寿子内親王、花園天皇皇女)は、
参議今出川公直亭に避難していた。
4月5日、橘知兼がこの今出川亭へ参仕に行こうとしたところ、
門前において何者かに殺された。
犯人はおろか、理由なども不明。
京都周辺では、南朝の攻勢が続いており、
そうした政情不安を受けてか、洛中の治安も悪化していたらしい。
事件直前の3月末には、
洛中で数10人の人を攫い、子どもを殺害していた尼僧が、侍所に捕らえられている。
〔参考〕
『園太暦 巻4』(続群書類従完成会、1971年)
《誅殺》 《1402年》 《7月》 《6日》 《享年不明》
応永9年(1402)7月6日夜、
足利義満の側室高橋殿の御所にて、
角田近江次郎が何者かに殺害されるという事件が起こった。
御所は死穢に包まれることとなった。
神祇伯白川資忠は、
角田近江次郎が絶命する以前に、
高橋殿が死穢を逃れるために御所を離れたと聞いて、
高橋殿が死穢に触れていないと安心し、
9日、御所に高橋殿を見舞った。
しかし、
御所には穢れがあるとの風聞を聞くに及び、仰天。
神事に携わる身として不安になり、
遥拝などどうしたらよいか、
神祇大副吉田兼敦に諮問した。
兼敦は以下のように答えている。
仮に角田が絶命する前に高橋殿が御所を出ていたとしても、
高橋殿には縁者が大勢いるので、
穢れが高橋殿本人に届いているのは、間違いないだろう。
社頭の穢れにしても、今回のことにしても、
世間の不浄というものは、どうしようもないものである。
神事は中止し、行水を行い、
また、遥拝も中止するべきであろう。 (『吉田家日次記』)
資忠はこのとおりにしたという。
もはや殺された本人は蚊帳の外である。
塩をまけばいい、
という問題でもないのであった。
〔参考〕
『大日本史料』第7編第5冊
東京大学史料編纂所データベース
応永9年(1402)7月6日夜、
足利義満の側室高橋殿の御所にて、
角田近江次郎が何者かに殺害されるという事件が起こった。
御所は死穢に包まれることとなった。
神祇伯白川資忠は、
角田近江次郎が絶命する以前に、
高橋殿が死穢を逃れるために御所を離れたと聞いて、
高橋殿が死穢に触れていないと安心し、
9日、御所に高橋殿を見舞った。
しかし、
御所には穢れがあるとの風聞を聞くに及び、仰天。
神事に携わる身として不安になり、
遥拝などどうしたらよいか、
神祇大副吉田兼敦に諮問した。
兼敦は以下のように答えている。
仮に角田が絶命する前に高橋殿が御所を出ていたとしても、
高橋殿には縁者が大勢いるので、
穢れが高橋殿本人に届いているのは、間違いないだろう。
社頭の穢れにしても、今回のことにしても、
世間の不浄というものは、どうしようもないものである。
神事は中止し、行水を行い、
また、遥拝も中止するべきであろう。 (『吉田家日次記』)
資忠はこのとおりにしたという。
もはや殺された本人は蚊帳の外である。
塩をまけばいい、
という問題でもないのであった。
〔参考〕
『大日本史料』第7編第5冊
東京大学史料編纂所データベース
《事故死》 《1186年》 《5月》 《11日》 《享年25歳》
正四位下、右近衛中将。
内大臣徳大寺実定の嫡男。
文治2年(1186)5月2日、
徳大寺公守は、宇治離宮の馬場にて、射笠懸をしていたところ、
落馬した。
このとき、左脚をしたたかに打ったようで、
くるぶしの上2寸ばかりのところを骨折した。
その後、種々の治療を試みたが、
みるみるうちに衰弱していき、
11日明け方、
帰らぬ人となった。
父実定は、源頼朝と結び、
朝廷内で影響力を増している人物であったが、
嫡男公守の死後、
幼い三男公継が残されるばかりであった。
摂政九条兼実はこう記す。
「人々翔不善、遂に以て斯くの如し」(『玉葉』)
〔参考〕
『図書寮創刊 九条家本 玉葉 10』 (宮内庁書陵部 2005年)
正四位下、右近衛中将。
内大臣徳大寺実定の嫡男。
文治2年(1186)5月2日、
徳大寺公守は、宇治離宮の馬場にて、射笠懸をしていたところ、
落馬した。
このとき、左脚をしたたかに打ったようで、
くるぶしの上2寸ばかりのところを骨折した。
その後、種々の治療を試みたが、
みるみるうちに衰弱していき、
11日明け方、
帰らぬ人となった。
父実定は、源頼朝と結び、
朝廷内で影響力を増している人物であったが、
嫡男公守の死後、
幼い三男公継が残されるばかりであった。
摂政九条兼実はこう記す。
「人々翔不善、遂に以て斯くの如し」(『玉葉』)
〔参考〕
『図書寮創刊 九条家本 玉葉 10』 (宮内庁書陵部 2005年)
《誅殺》 《1420年》 《10月》 《某日》 《享年不明》
医師。
高間とも書かれる。
応永27年(1420)8月下旬頃より、
室町殿足利義持は、体調を崩していた。
9月になっても、義持の病は癒えなかった。
食が進まず、苦しげであったという。
坂士仏と高天良覚という2人の医師が診察し、
士仏は「疫病」と診断し、薬は処方せず、
良覚は「シキ(病だれに食)」「傷風」(風邪の一種)と診断し、
薬を進上していった。
しかし、この良覚、なかなか怪しい人物だったようで、
当初から狐憑きとの噂が立っていた。
病状が日増しに悪化していた9月9日、
義持の御台日野栄子のもとで、験者が加持を行っていたところ、
狐2匹が、御所から脱走。
すぐさま捕獲されて殺されたが、
これが、狐憑きの呪詛に使われていたものだとして、
良覚による義持呪詛の露顕、と相成った。
翌10日朝、
良覚は、父や子弟3人とともに、
管領畠山満家に捕らえられた。
同日昼頃、
一味の陰陽師賀茂定棟も、
細川義之に召し捕らえられた。
尋問の末、
良覚は、狐憑きのことを白状。
13日、
良覚の身柄は、侍所に移され、
さらなる尋問により、
新たに、一味の医師・陰陽師・修験僧ら8人の関与が判明。
目薬師の松井や、宗福寺の長老、清水堂の坊主のほか、
二条家の諸大夫高階俊経も、含まれていた。
いずれも逮捕され、
23日にも、新たに僧2人が捕らえられた。
10月に入って、
義持の病状が快復に向かいはじめた頃、
良覚・賀茂定棟・高階俊経は、
それぞれ四国に配流されることが決まった。
8日、配流先の讃岐へと連行される途中、
良覚、某所にて殺害される。
この時代、
流罪とは、法の下の保護からの放逐を意味しており、
流人の生殺与奪は、流刑を執行する側に一切が握られていた。
生かすも殺すも自由、ということは、
流罪と死罪は、ほとんど同じことを意味していたのである。
なお、
一味とされた高階俊経は、秋野道場で出家を遂げて、誅殺を免れ、
賀茂定棟も、その後の存命がうかがえる。
処刑されたのは、良覚1人だったようである。
また、
良覚に代わって、義持の診察を独占した士仏は、
義持から褒美をたんまりと貰った。
「毎事人間の憂喜は定まらず、」(『看聞日記』)
とは、伏見宮貞成王の言。
釈放される前、
賀茂定棟は、獄中で次の歌を詠んだという。
かゝるとも道の道たる御代ならば晴らでや雲の月は照らさむ(『康富記』)
身の無実を訴え、政道の理非を糺すこの歌からは、
覚えのないスキャンダルに巻き込まれたことの、
怨嗟の声が聞こえてくる。
侍医のなかでの主導権をめぐる争いに、
周囲が巻き込まれた、というあたりが実際のところだろうか。
〔参考〕
『増補史料大成 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2004年)
清水克行『室町社会の騒擾と秩序』 (吉川弘文館 2004年)
医師。
高間とも書かれる。
応永27年(1420)8月下旬頃より、
室町殿足利義持は、体調を崩していた。
9月になっても、義持の病は癒えなかった。
食が進まず、苦しげであったという。
坂士仏と高天良覚という2人の医師が診察し、
士仏は「疫病」と診断し、薬は処方せず、
良覚は「シキ(病だれに食)」「傷風」(風邪の一種)と診断し、
薬を進上していった。
しかし、この良覚、なかなか怪しい人物だったようで、
当初から狐憑きとの噂が立っていた。
病状が日増しに悪化していた9月9日、
義持の御台日野栄子のもとで、験者が加持を行っていたところ、
狐2匹が、御所から脱走。
すぐさま捕獲されて殺されたが、
これが、狐憑きの呪詛に使われていたものだとして、
良覚による義持呪詛の露顕、と相成った。
翌10日朝、
良覚は、父や子弟3人とともに、
管領畠山満家に捕らえられた。
同日昼頃、
一味の陰陽師賀茂定棟も、
細川義之に召し捕らえられた。
尋問の末、
良覚は、狐憑きのことを白状。
13日、
良覚の身柄は、侍所に移され、
さらなる尋問により、
新たに、一味の医師・陰陽師・修験僧ら8人の関与が判明。
目薬師の松井や、宗福寺の長老、清水堂の坊主のほか、
二条家の諸大夫高階俊経も、含まれていた。
いずれも逮捕され、
23日にも、新たに僧2人が捕らえられた。
10月に入って、
義持の病状が快復に向かいはじめた頃、
良覚・賀茂定棟・高階俊経は、
それぞれ四国に配流されることが決まった。
8日、配流先の讃岐へと連行される途中、
良覚、某所にて殺害される。
この時代、
流罪とは、法の下の保護からの放逐を意味しており、
流人の生殺与奪は、流刑を執行する側に一切が握られていた。
生かすも殺すも自由、ということは、
流罪と死罪は、ほとんど同じことを意味していたのである。
なお、
一味とされた高階俊経は、秋野道場で出家を遂げて、誅殺を免れ、
賀茂定棟も、その後の存命がうかがえる。
処刑されたのは、良覚1人だったようである。
また、
良覚に代わって、義持の診察を独占した士仏は、
義持から褒美をたんまりと貰った。
「毎事人間の憂喜は定まらず、」(『看聞日記』)
とは、伏見宮貞成王の言。
釈放される前、
賀茂定棟は、獄中で次の歌を詠んだという。
かゝるとも道の道たる御代ならば晴らでや雲の月は照らさむ(『康富記』)
身の無実を訴え、政道の理非を糺すこの歌からは、
覚えのないスキャンダルに巻き込まれたことの、
怨嗟の声が聞こえてくる。
侍医のなかでの主導権をめぐる争いに、
周囲が巻き込まれた、というあたりが実際のところだろうか。
〔参考〕
『増補史料大成 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2004年)
清水克行『室町社会の騒擾と秩序』 (吉川弘文館 2004年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 ~1299
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| 1093 | ||
| 1095 | ||
| 1097 | ||
| 1105 | ||
| 1138 | ||
| 1150 | ||
| 1151 | ||
| 1177 | 1178 | |
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| 1200 | ||
| 1207 | ||
| 1212 | 1213 | |
| 1225 | ||
| 1227 | ||
| 1230 | ||
| 1234 | ||
| 1242 | ||
| 1245 | ||
| 1250 | ||
| 1257 |
没年 1350~1399
| 1350 | ||
| 1351 | 1352 | 1353 |
| 1355 | ||
| 1357 | ||
| 1363 | ||
| 1364 | 1365 | 1366 |
| 1367 | 1368 | |
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| 1371 | 1372 | |
| 1374 | ||
| 1378 | 1379 | |
| 1380 | ||
| 1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
| 1400 | ||
| 1402 | 1403 | |
| 1405 | ||
| 1408 | ||
| 1412 | ||
| 1414 | 1415 | 1416 |
| 1417 | 1418 | 1419 |
| 1420 | ||
| 1421 | 1422 | 1423 |
| 1424 | 1425 | 1426 |
| 1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
| 1430 | ||
| 1431 | 1432 | 1433 |
| 1434 | 1435 | 1436 |
| 1437 | 1439 | |
| 1441 | 1443 | |
| 1444 | 1446 | |
| 1447 | 1448 | 1449 |
| 1450 | ||
| 1453 | ||
| 1454 | 1455 | |
| 1459 |
没年 1460~1499
没日
| 1日 | 2日 | 3日 |
| 4日 | 5日 | 6日 |
| 7日 | 8日 | 9日 |
| 10日 | 11日 | 12日 |
| 13日 | 14日 | 15日 |
| 16日 | 17日 | 18日 |
| 19日 | 20日 | 21日 |
| 22日 | 23日 | 24日 |
| 25日 | 26日 | 27日 |
| 28日 | 29日 | 30日 |
| 某日 |
享年 ~30代
| ~9歳 | ||
| 6歳 | ||
| 9歳 | ||
| 10代 | 10歳 | |
| 11歳 | ||
| 15歳 | ||
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享年 40代~60代
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本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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