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死に様データベース
《事故死》 《1186年》 《5月》 《11日》 《享年25歳》


正四位下、右近衛中将。
内大臣徳大寺実定の嫡男。


文治2年(1186)5月2日、
徳大寺公守は、宇治離宮の馬場にて、射笠懸をしていたところ、
落馬した。
このとき、左脚をしたたかに打ったようで、
くるぶしの上2寸ばかりのところを骨折した。

その後、種々の治療を試みたが、
みるみるうちに衰弱していき、
11日明け方、
帰らぬ人となった。


父実定は、源頼朝と結び、
朝廷内で影響力を増している人物であったが、
嫡男公守の死後、
幼い三男公継が残されるばかりであった。

摂政九条兼実はこう記す。
「人々翔不善、遂に以て斯くの如し」(『玉葉』)



〔参考〕
『図書寮創刊 九条家本 玉葉 10』 (宮内庁書陵部 2005年)
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《誅殺》 《1420年》 《10月》 《某日》 《享年不明》


医師。
高間とも書かれる。


応永27年(1420)8月下旬頃より、
室町殿足利義持は、体調を崩していた。

9月になっても、義持の病は癒えなかった。
食が進まず、苦しげであったという。
坂士仏と高天良覚という2人の医師が診察し、
士仏は「疫病」と診断し、薬は処方せず、
良覚は「シキ(病だれに食)」「傷風」(風邪の一種)と診断し、
薬を進上していった。
しかし、この良覚、なかなか怪しい人物だったようで、
当初から狐憑きとの噂が立っていた。


病状が日増しに悪化していた9月9日、
義持の御台日野栄子のもとで、験者が加持を行っていたところ、
狐2匹が、御所から脱走。
すぐさま捕獲されて殺されたが、
これが、狐憑きの呪詛に使われていたものだとして、
良覚による義持呪詛の露顕、と相成った。

翌10日朝、
良覚は、父や子弟3人とともに、
管領畠山満家に捕らえられた。
同日昼頃、
一味の陰陽師賀茂定棟も、
細川義之に召し捕らえられた。

尋問の末、
良覚は、狐憑きのことを白状。

13日、
良覚の身柄は、侍所に移され、
さらなる尋問により、
新たに、一味の医師・陰陽師・修験僧ら8人の関与が判明。
目薬師の松井や、宗福寺の長老、清水堂の坊主のほか、
二条家の諸大夫高階俊経も、含まれていた。
いずれも逮捕され、
23日にも、新たに僧2人が捕らえられた。


10月に入って、
義持の病状が快復に向かいはじめた頃、
良覚・賀茂定棟・高階俊経は、
それぞれ四国に配流されることが決まった。
8日、配流先の讃岐へと連行される途中、
良覚、某所にて殺害される。

この時代、
流罪とは、法の下の保護からの放逐を意味しており、
流人の生殺与奪は、流刑を執行する側に一切が握られていた。
生かすも殺すも自由、ということは、
流罪と死罪は、ほとんど同じことを意味していたのである。


なお、
一味とされた高階俊経は、秋野道場で出家を遂げて、誅殺を免れ、
賀茂定棟も、その後の存命がうかがえる。
処刑されたのは、良覚1人だったようである。
また、
良覚に代わって、義持の診察を独占した士仏は、
義持から褒美をたんまりと貰った。
「毎事人間の憂喜は定まらず、」(『看聞日記』)
とは、伏見宮貞成王の言。


釈放される前、
賀茂定棟は、獄中で次の歌を詠んだという。

 かゝるとも道の道たる御代ならば晴らでや雲の月は照らさむ(『康富記』)

身の無実を訴え、政道の理非を糺すこの歌からは、
覚えのないスキャンダルに巻き込まれたことの、
怨嗟の声が聞こえてくる。

侍医のなかでの主導権をめぐる争いに、
周囲が巻き込まれた、というあたりが実際のところだろうか。



〔参考〕
『増補史料大成 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2004年)
清水克行『室町社会の騒擾と秩序』 (吉川弘文館 2004年)
《病死》 《1453年》 《5月》 《12日》 《享年85歳》


従二位、前参議。

宇多源氏の田向・庭田家は、
田向経兼の叔母資子が、
崇光上皇に近侍して、栄仁親王を生んで以降、
伏見宮家の外戚、近習筆頭として、栄えた。

経兼(初名経良)も、その嫡流として、
山城伏見に住して、伏見宮栄仁治仁・貞成・貞常4代に仕えた。
貞成親王とは、3歳差と歳も近く、仲が良かったようで、
しょっちゅう一緒に、連歌会や饗宴で興じている。
また、一方で、
屋敷地や所領をめぐって、
従弟の庭田重有や同族の綾小路信俊と、度々争っており、
貞成から「軽忽」(『看聞日記』)とか「比興」(同)などと評されている。


正長元年(1428)、
貞成の長男彦仁王(後花園天皇)のところに、皇位が転がりこむ。
これにより、
伏見宮家近臣たちにも、躍進の道が拓かれたかに思われた。

しかし、そう簡単にいくものでもない。
永享2年(1430)7月、
経良は、将軍足利義教の右大将拝賀に供奉しなかったことから、
義教に嫌われる。
翌8月には、
義教の口出しにより、中納言昇進を取り消されている。

10月、
経良の「良」が、義教の「義」に音が通じるとして、これを憚り、
経兼と改名。
伏見宮貞成親王の室町殿訪問の際には、
京都までは供しながら、
「御意不快」(同)のため、室町殿には参じなかった。

12月、義教の伏見殿訪問の際にも、
経兼とその子長資・近衛局の3人は、
御前の出仕が差し控えられ、
義教の目には触れぬところで、
もっぱら供の大名や近習の饗応にあたった。


こうして、面目を失った経兼は、
「恐怖の余り」(同)
同月末、宮家近臣筆頭として掌握していた、伏見荘奉行職の辞意を表明。
これを受けた貞成親王も、
「軽々しく処理できないので、室町殿の御意をうかがってから」
と、している。
翌永享3年2月、
義教の許可も下り、伏見荘奉行は従弟の庭田重有に代わった。


その後も、浮かばれない日々が続いたらしい。
時折、貞成の許に参じているばかりである。
還暦を過ぎてからの不遇は、身に堪えたであろうが、
ただ、経兼が弱りを見せた様子は、あまりない。


永享7年(1435)8月、
貞成が義教の招きを受けて、洛中へ移住することが決まると、
ついていくことのできない経兼は、
貞成の許を離れて、家領の山城大野荘に隠棲した。
貞成も、
「不便(ふびん)無極、」(同)
と、別れを惜しんでいる。

だが、
根に持つ義教の追い打ちは、なお続く。
翌8年(1436)3月、
経兼の隠棲先の大野荘すら取り上げ、別人に与えてしまった。
進退窮まった経兼は、
4月26日、伏見法安寺にて出家。
息子隆経のいる仁和寺大教院に寓居した。
「昇進遂にもって所望を達せず、
 老後に面目を失うの条、
 不運の至極、不便の事なり、」(同)
嫡男長資も、伏見に在留したまま、
事態を見守るしかなかった。


当該期の貴族には、
失脚の失意のうちに、世を去る者が少なくないが、
経兼は、逼塞しながらも生き続けた。


嘉吉元年(1441)、
その義教が、嘉吉の変であっけなく犬死を遂げると、
義教に失脚させられた人々が、復権を果たす。
経兼もその一人であったようで、
この後上洛して、再び貞成親王に近侍。
失脚から一転、日の目を見るに至っている。
出家後の気楽な身分であったか、
伏見宮亭で、度々連歌や賭け事に興じている。


貞成親王に先んじること3年、
享徳2年(1453)5月12日、85歳で他界。
残念ながら、臨終の様は伝わらない。

生きていれば何とかなる、の例。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006年)
『図書寮叢刊 看聞日記 5』 (宮内庁書陵部 2010年)
『史料纂集 師郷記 5』 (続群書類従完成会 1988年)
『増補史料大成 康富記 4 親長卿記別記』 (臨川書店 1965年)』
村井章介「綾小路三位と綾小路前宰相」 (『文学』4-6 2003年)
村井章介「日記の人名比定と室町文化研究」 (『日本史研究』596 2012年)
《自害》 《1432年》 《9月》 《某日》 《享年85歳》


室町幕府直臣。


かつて室町将軍に仕えていた中条詮秀は、
6代将軍足利義教の頃には、老齢ゆえか、
本国の三河辺りにひきこもり、
在京奉公は子の満平に任せていた。

こうしたことなどが、
どうやら将軍義教の不興を買っていたようだが、
永享3年(1432)9月、義教が富士遊覧をした折、
詮秀が一向に参仕しなかったことが、
さらに義教の心証を害したらしい。


義教帰洛の後、
詮秀も上洛しようとしたが、
その途次、義教の命により、
尾張の道場において、若党3人・中間1人とともに自害。
85歳の老境に達していた。

同行していた9歳の孫は、この祖父の自害を見て、
「我も自害せん」(『満済准后日記』)と申し出た。
詮秀は自分が腹を切った刀を、孫に与えたが、
検使の尾張守護代織田某は、
「それまでは上意ではない」として、孫の自害を押し留めた。
見るものは涙を流したという。


その後、10月13日、
詮秀の子満平も、
将軍義教の拝賀の際の過失を責められ、
三河国内の所領を没収。
義教近習の一色持信らに分け与えられた。
満平は、高野山に遁世したという。


これまた義教の恐怖政治の一端を示す事件。



〔参考〕
『続群書類従 補遺 2 満済准后日記 下』 (続群書類従完成会 1928年)
『図書寮叢刊 看聞日記 4』 (宮内庁書陵部 2008年)
《病死》 《1480年》 《正月》 《25日》 《享年55歳》


室町幕府評定衆。


嘉吉の乱~応仁・文明の乱という困難な時期に、
摂津之親は幕府の中枢にあって、8代将軍足利義政に仕えた。
吏僚の家として、
評定奉行や大嘗会総奉行など諸奉行を歴任。


文明12年(1480)正月16日朝、
日頃の疲労からか、にわかに危篤に陥り、
急死。
過労死というべきか。


実子がなく、相続が問題となったが、
養子政親が継ぐ。



〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅰ』 (石川県 1998)
東京大学史料編纂所データベース
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