死に様データベース
《誅殺》 《1403年》 《4月》 《25日》 《享年不明》
南朝方新田氏の一族。
相模守を称す。
神奈川県足柄下郡箱根町、
箱根彫刻の森美術館の敷地を貫く一本道の奥に、
「新田塚」と呼ばれる場所がある。
木の鳥居の内側に土まんじゅうが2つ、
その奥に江戸時代のものとおぼしき石碑が2本立っている。
この地で没した新田義則を弔うものとされている。
新田義則については、詳らかでない。
実名は、義則以外にも、義陸、義隆とも、
また、法名は行啓とも伝えられる。
系譜関係も定見はなく、
新田義貞の嫡男義宗の子とする説や、
義貞の弟脇屋義助の孫(脇屋義治の子)とするものもある。
観応3年(1352)閏2月から3月、武蔵野合戦にて、
新田義宗・義興兄弟や、その従兄弟脇屋義治らが、足利尊氏に敗れてのち、
東国の南朝方新田一族はほとんど壊滅し、
足利方に対する組織的な抵抗は、しえなくなっていた。
そして、
義宗や義興が非業の死を遂げたのち、
新田一族は、嫡流とおぼしき武蔵守某や義則を中心に、
信濃や上野、武蔵、越後に潜伏しながら、
再起のときをうかがっていた。
永徳元年(1381)、
下野の小山義政が反鎌倉府の兵を挙げると、
これにあわせて、新田一族も武蔵国内で蜂起。
だが、武蔵岩付や太田荘で、鎌倉府軍に敗退。
至徳2年(1385)3月、
義則は、上野・武蔵に密書を廻らせて、味方を募り、
蜂起のときをはかったという。
しかし、
事前に鎌倉府の察知するところとなり、
使者は捕えられてしまった。
応永3年(1396)には、
義政の子若犬丸が南陸奥で蜂起すると、
義則とその子刑部少輔も、
これを好機と、陸奥白河で挙兵した。
このとき、
上野・武蔵にひそんでいた南朝残党が、
義則のもとに集まったという。
だが、
鎌倉公方足利氏満みずから率いる鎌倉府軍を前に、
またしても敗れ去った。
確実な史料に見えることはわずかであり、
たしかなことはわからないが、
新田一族が、単独では行えないながら、
なおも、反鎌倉府闘争を続けていたことがうかがえる。
その後、義則は、
関東各所を転々としながら、
味方勢力の糾合につとめたらしい。
そうして、
義則とその子刑部少輔は、
相模箱根の木賀彦六という者を頼って、
山深い相模底倉に隠れ住んだ。
だが、
いつしかそこも、余人の知るところとなり、
応永10年(1403)4月25日、
鎌倉府方の追っ手に踏み込まれ、討ち取られた。
子の刑部少輔は、たまたま出かけており、
落ち延びたという。
『鎌倉大草紙』によれば、
駿河竹ノ下の藤田という者が、
義則のひそんでいることを聞き及び、
これを討ち取ったという。
藤田は、恩賞として箱根底倉・木賀の地を拝領し、
安藤と改名して、関東管領犬懸上杉朝宗に仕えたという。
〔参考〕
『新編埼玉県史 資料編8 中世4 記録2』 (埼玉県 1986年)
『神奈川県史編集資料集 4 鎌倉大日記』 (神奈川県企画調査部県史編集室 1972年)
沼田頼輔編『箱根に於ける南朝の将裔新田相州』 (蔦屋旅館 1923年)
→近代デジタルライブラリー
江田郁夫「東国の元中年号文書と新田一族」 (『室町幕府東国支配の研究』 高志書院 2008年)
江田郁夫「新田武蔵守某について―室町時代初頭の東国南朝勢力―」 (『栃木県立博物館研究紀要―人文―』31 2014年)
石橋一展「小山氏の乱」 (黒田基樹編『足利氏満とその時代』 戎光祥出版 2014年)
南朝方新田氏の一族。
相模守を称す。
神奈川県足柄下郡箱根町、
箱根彫刻の森美術館の敷地を貫く一本道の奥に、
「新田塚」と呼ばれる場所がある。
木の鳥居の内側に土まんじゅうが2つ、
その奥に江戸時代のものとおぼしき石碑が2本立っている。
この地で没した新田義則を弔うものとされている。
新田義則については、詳らかでない。
実名は、義則以外にも、義陸、義隆とも、
また、法名は行啓とも伝えられる。
系譜関係も定見はなく、
新田義貞の嫡男義宗の子とする説や、
義貞の弟脇屋義助の孫(脇屋義治の子)とするものもある。
観応3年(1352)閏2月から3月、武蔵野合戦にて、
新田義宗・義興兄弟や、その従兄弟脇屋義治らが、足利尊氏に敗れてのち、
東国の南朝方新田一族はほとんど壊滅し、
足利方に対する組織的な抵抗は、しえなくなっていた。
そして、
義宗や義興が非業の死を遂げたのち、
新田一族は、嫡流とおぼしき武蔵守某や義則を中心に、
信濃や上野、武蔵、越後に潜伏しながら、
再起のときをうかがっていた。
永徳元年(1381)、
下野の小山義政が反鎌倉府の兵を挙げると、
これにあわせて、新田一族も武蔵国内で蜂起。
だが、武蔵岩付や太田荘で、鎌倉府軍に敗退。
至徳2年(1385)3月、
義則は、上野・武蔵に密書を廻らせて、味方を募り、
蜂起のときをはかったという。
しかし、
事前に鎌倉府の察知するところとなり、
使者は捕えられてしまった。
応永3年(1396)には、
義政の子若犬丸が南陸奥で蜂起すると、
義則とその子刑部少輔も、
これを好機と、陸奥白河で挙兵した。
このとき、
上野・武蔵にひそんでいた南朝残党が、
義則のもとに集まったという。
だが、
鎌倉公方足利氏満みずから率いる鎌倉府軍を前に、
またしても敗れ去った。
確実な史料に見えることはわずかであり、
たしかなことはわからないが、
新田一族が、単独では行えないながら、
なおも、反鎌倉府闘争を続けていたことがうかがえる。
その後、義則は、
関東各所を転々としながら、
味方勢力の糾合につとめたらしい。
そうして、
義則とその子刑部少輔は、
相模箱根の木賀彦六という者を頼って、
山深い相模底倉に隠れ住んだ。
だが、
いつしかそこも、余人の知るところとなり、
応永10年(1403)4月25日、
鎌倉府方の追っ手に踏み込まれ、討ち取られた。
子の刑部少輔は、たまたま出かけており、
落ち延びたという。
『鎌倉大草紙』によれば、
駿河竹ノ下の藤田という者が、
義則のひそんでいることを聞き及び、
これを討ち取ったという。
藤田は、恩賞として箱根底倉・木賀の地を拝領し、
安藤と改名して、関東管領犬懸上杉朝宗に仕えたという。
〔参考〕
『新編埼玉県史 資料編8 中世4 記録2』 (埼玉県 1986年)
『神奈川県史編集資料集 4 鎌倉大日記』 (神奈川県企画調査部県史編集室 1972年)
沼田頼輔編『箱根に於ける南朝の将裔新田相州』 (蔦屋旅館 1923年)
→近代デジタルライブラリー
江田郁夫「東国の元中年号文書と新田一族」 (『室町幕府東国支配の研究』 高志書院 2008年)
江田郁夫「新田武蔵守某について―室町時代初頭の東国南朝勢力―」 (『栃木県立博物館研究紀要―人文―』31 2014年)
石橋一展「小山氏の乱」 (黒田基樹編『足利氏満とその時代』 戎光祥出版 2014年)
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《誅殺》 《1334年》 《12月》 《28日》 《享年68歳》
鎌倉幕府政所執事、
建武政権雑訴決断所所衆。
法名、道蘊。
鎌倉幕府の高官二階堂貞藤は、才覚優れた人として知られていたようだが、
「我が口において賢人と称する」(『金沢文庫文書』)
といわれたように、
驕るようなふるまいもあったらしい。
貞藤は幕府の重臣として、正中の変などの対応に当たり、
激化する持明院・大覚寺両皇統の対立に際しては、
元徳元年(1329)に、幕府の使者として上洛し、
その調停につとめた。
ただし、
幕府の指示に従わず、独断専行もあったらしく、
不仲の金沢貞顕からは、
「言語道断」(『金沢文庫文書』)
と批判されている。
元徳3年(1331)にも、後醍醐天皇に譲位を勧める使者として上洛。
その後の元弘の乱では、
楠木正成の拠る千早城攻めにも参加した。
鎌倉幕府崩壊後、
「朝敵の最一」(『太平記』)であったが、
「賢才」(同)により死罪一等を減じられ、
雑訴決断所の一員として、建武政権に加わった。
だが、それからわずか1年あまりのち、
陰謀加担の嫌疑がかけられ、
建武元年(1334)12月28日、
京都六条河原にて、子兼藤・孫3人とともに斬られた。
68歳。一説に62歳。
僧日静は、
「誠に以って不慮の外に候」(『上総藻原寺所蔵金剛集第六巻裏書』)
と述べている。
〔参考〕
『大日本史料 第6編之2』 (東京大学出版会 1968年)
『鎌倉遺文 古文書編 39』 (東京堂出版 1989年)
『南北朝遺文 関東編 1』 (東京堂出版 2007年)
『国史大辞典 10 (と-にそ)』 (吉川弘文館 1989年)
永井晋『金沢貞顕』 (吉川弘文館 2003年)
鎌倉幕府政所執事、
建武政権雑訴決断所所衆。
法名、道蘊。
鎌倉幕府の高官二階堂貞藤は、才覚優れた人として知られていたようだが、
「我が口において賢人と称する」(『金沢文庫文書』)
といわれたように、
驕るようなふるまいもあったらしい。
貞藤は幕府の重臣として、正中の変などの対応に当たり、
激化する持明院・大覚寺両皇統の対立に際しては、
元徳元年(1329)に、幕府の使者として上洛し、
その調停につとめた。
ただし、
幕府の指示に従わず、独断専行もあったらしく、
不仲の金沢貞顕からは、
「言語道断」(『金沢文庫文書』)
と批判されている。
元徳3年(1331)にも、後醍醐天皇に譲位を勧める使者として上洛。
その後の元弘の乱では、
楠木正成の拠る千早城攻めにも参加した。
鎌倉幕府崩壊後、
「朝敵の最一」(『太平記』)であったが、
「賢才」(同)により死罪一等を減じられ、
雑訴決断所の一員として、建武政権に加わった。
だが、それからわずか1年あまりのち、
陰謀加担の嫌疑がかけられ、
建武元年(1334)12月28日、
京都六条河原にて、子兼藤・孫3人とともに斬られた。
68歳。一説に62歳。
僧日静は、
「誠に以って不慮の外に候」(『上総藻原寺所蔵金剛集第六巻裏書』)
と述べている。
〔参考〕
『大日本史料 第6編之2』 (東京大学出版会 1968年)
『鎌倉遺文 古文書編 39』 (東京堂出版 1989年)
『南北朝遺文 関東編 1』 (東京堂出版 2007年)
『国史大辞典 10 (と-にそ)』 (吉川弘文館 1989年)
永井晋『金沢貞顕』 (吉川弘文館 2003年)
《自害》 《1418年》 《2月》 《10日》 《享年42歳》
正二位、権大納言。
応永25年(1418)2月、
中院通守は、朝廷より春日祭の上卿を命じられた。
しかし、
経済的な困窮状態にあった通守は、務められないとこれを辞退。
朝廷はなおも厳命を下すが、
通守は、再三辞退した。
かくして、通守は、
とても窮困の身には、朝廷にお仕えすることはできない。
かくなる上は、ただもう自害したい。
と、常日頃からこぼしていた。
よほど追い詰められていたものと見える。
10日、酒宴の後、
通守は持仏堂にこもって、
小刀でのどを掻き切った。
この「狂気」(『看聞日記』)の沙汰を、
人々はみな噂し合った。
公卿すら貧窮により自殺する時代。
27日の春日祭では、
代わって今出川公富が上卿を務めた。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
正二位、権大納言。
応永25年(1418)2月、
中院通守は、朝廷より春日祭の上卿を命じられた。
しかし、
経済的な困窮状態にあった通守は、務められないとこれを辞退。
朝廷はなおも厳命を下すが、
通守は、再三辞退した。
かくして、通守は、
とても窮困の身には、朝廷にお仕えすることはできない。
かくなる上は、ただもう自害したい。
と、常日頃からこぼしていた。
よほど追い詰められていたものと見える。
10日、酒宴の後、
通守は持仏堂にこもって、
小刀でのどを掻き切った。
この「狂気」(『看聞日記』)の沙汰を、
人々はみな噂し合った。
公卿すら貧窮により自殺する時代。
27日の春日祭では、
代わって今出川公富が上卿を務めた。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
《病死》 《1337年》 《3月》 《27日》 《享年不明》
下総神崎荘多賀郷・常陸南郡大枝郷栗俣村の領主。
14世紀前半、全国的に展開した南北朝の動乱は、
あらゆる人々を、戦乱の渦に巻き込んでいった。
その渦中の最も中心に近いところに、
戦闘を職能とする集団である武士がいたことは、
いうまでもない。
建武2年(1335)、
足利尊氏が鎌倉にて、後醍醐天皇に叛旗を翻すと、
東国武士野本朝行も、これに随った。
12月11日、
後醍醐方と衝突した伊豆愛沢原合戦で先駆けを果たし、
同日の中山合戦では、
味方劣勢ながら、若党10余騎を率いて、
結城朝祐勢とともに敵陣に駆け入り、
敵1騎を斬り倒した。
首を取ろうとしたが、
大将山名時氏に、
「首を取らずに、先へ進め」
と命じられ、
討った敵を川端へ追い落として、進んだ。
箱根・竹ノ下の戦いとしても有名な、この一連の合戦で、
足利尊氏は、後醍醐方の新田義貞を追い散らし、
京都を目指して東海道をひた走ってゆく。
12月12日、
伊豆国府合戦で、
中間平五郎を喪う。
翌建武3年(1336)正月3日、
近江伊幾寿宮合戦で、
朝行の若党岩瀬信経は、敵城に攻め入ったが、
左右の頬を射抜かれてしまった。
他の若党丸山為時・片切成義も、負傷。
正月8日、
若党岩瀬信経らは、結城朝祐の手勢とともに、
山城石清水八幡の敵を追い落とし、
木津川の橋を渡る敵に対して、
橋上の櫓を打ち破り、橋桁を踏み落とすという活躍を見せた。
ただ、若党の一人岩瀬胤経は、負傷。
正月16日、
若党岩瀬信経・光家らは、
京都法勝寺脇に、残敵を追い詰め、
纐纈の直垂を着る、身分の高そうな武士を1騎、討ち取った。
正月27日、
この日も、若党信経・光家らが、
中賀茂の西にて、敵方の鞍馬法師3人を生け捕りにする。
だが、
その後の戦闘で、信経は乗馬を射られてしまった。
正月30日、
京都法成寺西門前の戦闘で、
朝行の郎等杉本吉弘が、
敵方結城親光の家人関孫五郎を組み伏せ、
首を取った。
これらの合戦で、
尊氏方は、いったんは京都を奪うも、
後醍醐方の来援が相次いだことで、これを放棄し、
瀬戸内を西走する。
2月1日、
朝行は、足利尊氏に随って、
丹波篠村経由で、摂津兵庫に至る。
2月10日、
摂津西宮合戦では、
尊氏の弟直義の勢に属した。
2月11日、
摂津豊島河原合戦では、河原に陣を取るも、
直義がにわかに兵庫へ帰ったことで、
朝行もこれに随った。
2月12日、
窮地の足利方は、皆決戦での討死を覚悟したが、
直義は、夜陰に船に乗って出港してしまった。
それを知らず、供奉できなかった失意の朝行は、
敵が近いこともあって、
密かに京都に入り、その人波に身を隠す。
2月30日、
その京都も脱出し、本国関東を目指す。
その途次、三河などで、
野臥の襲撃に遭うことは何度もあった。
また、
後醍醐方の遠江井伊城攻めに加わったりもしたらしい。
その後は、関東の戦乱に活動場所を移す。
後醍醐方の北畠顕家の南進の際には、
一族とともに、下野小山城に籠城し、これと戦った。
11月3日、
下野横田・毛原合戦で、敵の首1つをとる。
また、郎等大淵彦九郎入道が、負傷している。
建武4年(1337)3月10日、
後醍醐方の小田治久・益戸虎法師丸が、
常陸府中に攻めてきたときには、
若党岩瀬信経が、朝行の代官として出陣。
敵1人を討った。
それからわずか17日後、
3月27日、朝行他界。
おそらくは、戦死ではなく、病死と思われる。
「合戦の静謐を待っていた折」(「熊谷家文書」)であった。
最期の数年間、戦場に身を置いて、
ときに、仲間が傷付き、死んでゆくのを見る朝行の苦悩は、
いかほどのものであったろう。
上記の軍功のほとんどが、
朝行本人のものではなく、若党の活躍ばかりなのも、
そんな思いを反映しているのかもしれない。
戦場で落命しなかった分、
まだ幸せだったと見るべきだろうか。
朝行の死後、
子の鶴寿丸が、幼少ながら若党らを率いて戦場に出た。
建武4年(1337)7月8日、
常陸関城合戦では、
鶴寿丸の代官の1人として出陣した新妻胤重や、
一族の野本高宣以下、若党4人が、討死。
また、
野本家の所領である下総神崎荘多賀郷には、
後醍醐方の千葉貞胤が乱入し、
野本家の代官と連日合戦を行った。
常陸の所領大枝郷栗俣村にも、
後醍醐方の小田治久らが攻め入って、
代官らが焼け出され、
その家族は、山林に逃げ込んだという。
「合戦静謐」(「熊谷家文書」)を待つ、
平和を待ち望む思いは、
時代を問わない。
〔参考〕
『南北朝遺文 関東編 第1巻』 (東京堂出版 2007年)
下総神崎荘多賀郷・常陸南郡大枝郷栗俣村の領主。
14世紀前半、全国的に展開した南北朝の動乱は、
あらゆる人々を、戦乱の渦に巻き込んでいった。
その渦中の最も中心に近いところに、
戦闘を職能とする集団である武士がいたことは、
いうまでもない。
建武2年(1335)、
足利尊氏が鎌倉にて、後醍醐天皇に叛旗を翻すと、
東国武士野本朝行も、これに随った。
12月11日、
後醍醐方と衝突した伊豆愛沢原合戦で先駆けを果たし、
同日の中山合戦では、
味方劣勢ながら、若党10余騎を率いて、
結城朝祐勢とともに敵陣に駆け入り、
敵1騎を斬り倒した。
首を取ろうとしたが、
大将山名時氏に、
「首を取らずに、先へ進め」
と命じられ、
討った敵を川端へ追い落として、進んだ。
箱根・竹ノ下の戦いとしても有名な、この一連の合戦で、
足利尊氏は、後醍醐方の新田義貞を追い散らし、
京都を目指して東海道をひた走ってゆく。
12月12日、
伊豆国府合戦で、
中間平五郎を喪う。
翌建武3年(1336)正月3日、
近江伊幾寿宮合戦で、
朝行の若党岩瀬信経は、敵城に攻め入ったが、
左右の頬を射抜かれてしまった。
他の若党丸山為時・片切成義も、負傷。
正月8日、
若党岩瀬信経らは、結城朝祐の手勢とともに、
山城石清水八幡の敵を追い落とし、
木津川の橋を渡る敵に対して、
橋上の櫓を打ち破り、橋桁を踏み落とすという活躍を見せた。
ただ、若党の一人岩瀬胤経は、負傷。
正月16日、
若党岩瀬信経・光家らは、
京都法勝寺脇に、残敵を追い詰め、
纐纈の直垂を着る、身分の高そうな武士を1騎、討ち取った。
正月27日、
この日も、若党信経・光家らが、
中賀茂の西にて、敵方の鞍馬法師3人を生け捕りにする。
だが、
その後の戦闘で、信経は乗馬を射られてしまった。
正月30日、
京都法成寺西門前の戦闘で、
朝行の郎等杉本吉弘が、
敵方結城親光の家人関孫五郎を組み伏せ、
首を取った。
これらの合戦で、
尊氏方は、いったんは京都を奪うも、
後醍醐方の来援が相次いだことで、これを放棄し、
瀬戸内を西走する。
2月1日、
朝行は、足利尊氏に随って、
丹波篠村経由で、摂津兵庫に至る。
2月10日、
摂津西宮合戦では、
尊氏の弟直義の勢に属した。
2月11日、
摂津豊島河原合戦では、河原に陣を取るも、
直義がにわかに兵庫へ帰ったことで、
朝行もこれに随った。
2月12日、
窮地の足利方は、皆決戦での討死を覚悟したが、
直義は、夜陰に船に乗って出港してしまった。
それを知らず、供奉できなかった失意の朝行は、
敵が近いこともあって、
密かに京都に入り、その人波に身を隠す。
2月30日、
その京都も脱出し、本国関東を目指す。
その途次、三河などで、
野臥の襲撃に遭うことは何度もあった。
また、
後醍醐方の遠江井伊城攻めに加わったりもしたらしい。
その後は、関東の戦乱に活動場所を移す。
後醍醐方の北畠顕家の南進の際には、
一族とともに、下野小山城に籠城し、これと戦った。
11月3日、
下野横田・毛原合戦で、敵の首1つをとる。
また、郎等大淵彦九郎入道が、負傷している。
建武4年(1337)3月10日、
後醍醐方の小田治久・益戸虎法師丸が、
常陸府中に攻めてきたときには、
若党岩瀬信経が、朝行の代官として出陣。
敵1人を討った。
それからわずか17日後、
3月27日、朝行他界。
おそらくは、戦死ではなく、病死と思われる。
「合戦の静謐を待っていた折」(「熊谷家文書」)であった。
最期の数年間、戦場に身を置いて、
ときに、仲間が傷付き、死んでゆくのを見る朝行の苦悩は、
いかほどのものであったろう。
上記の軍功のほとんどが、
朝行本人のものではなく、若党の活躍ばかりなのも、
そんな思いを反映しているのかもしれない。
戦場で落命しなかった分、
まだ幸せだったと見るべきだろうか。
朝行の死後、
子の鶴寿丸が、幼少ながら若党らを率いて戦場に出た。
建武4年(1337)7月8日、
常陸関城合戦では、
鶴寿丸の代官の1人として出陣した新妻胤重や、
一族の野本高宣以下、若党4人が、討死。
また、
野本家の所領である下総神崎荘多賀郷には、
後醍醐方の千葉貞胤が乱入し、
野本家の代官と連日合戦を行った。
常陸の所領大枝郷栗俣村にも、
後醍醐方の小田治久らが攻め入って、
代官らが焼け出され、
その家族は、山林に逃げ込んだという。
「合戦静謐」(「熊谷家文書」)を待つ、
平和を待ち望む思いは、
時代を問わない。
〔参考〕
『南北朝遺文 関東編 第1巻』 (東京堂出版 2007年)
《病死》 《1514年》 《8月》 《24日》 《享年72歳》
白井長尾氏。
武蔵鉢形・日野城主。
長尾景春の祖父、長尾景仲は、
関東管領山内上杉氏の家宰をつとめた人物で、
上杉氏勢力の中核として、
鎌倉公方足利成氏(のち古河公方)と対立し、
享徳の大乱を原因をつくったひとりであった。
景仲ののち、鎌倉長尾実景を経て、
山内上杉氏の家宰職は、
景仲の嫡子景信が継承した。
景信は、父と同じく、
古河公方足利成氏と戦い続けた。
文明5年(1473)6月、
景信が死ぬと、
山内上杉氏の家宰職は、
景信の嫡子景春が継ぐはずだった。
ところが、
若き主人山内上杉顕定や、宿老寺尾憲明・海野佐渡守の談合によって、
家宰職は、
景信の弟(景春の叔父)惣社長尾忠景が継ぐこととなってしまった。
この恨みが、
景春を飽くなき闘争へと駆り立てることとなる。
文明6年(1474)頃、
景春は、上杉氏の本拠武蔵五十子陣の糧道を塞いで、
上杉方を困窮させた。
翌文明7年(1475)、
この、上杉方内部分裂の危機に、
扇谷上杉氏の家宰太田道灌が仲介に入るが、
その甲斐なく、不穏な状況が続く。
そして、文明8年(1476)、
景春は、ついに五十子陣を退去し、
武蔵鉢形城を築いて、立て籠もった。
山内上杉氏内部には、
当主顕定や家宰惣社長尾忠景らに不満を抱く者が、少なからずいたようで、
景春与党は、2、3000人に上った。
文明9年(1477)正月18日、
景春は、鉢形城より、眼下の五十子陣を急襲。
五十子陣は崩壊し、
主人山内上杉顕定・扇谷上杉定正・長尾忠景・太田道灌らは、
北方の上野へ退いた。
下剋上である。
景春は、鉢形城を拠点に、
与党を武蔵・相模全土に募り、
さらに、古河公方足利成氏の支援も得て、
上杉方を窮地に追い込んだ。
だが、
太田道灌の東奔西走、
および、上杉方と足利成氏の停戦協定によって、
徐々に掃討されていった。
景春は、反上杉の強硬派千葉孝胤と結び、
なおも反抗を続けたが、
文明10年(1478)7月には、
足利成氏も、景春討伐に協力するに至った。
武蔵秩父で、細々とゲリラ戦を展開していた景春は、
文明12年(1480)1月、
武蔵児玉で、ふたたび蜂起。
ここにきて、足利成氏がふたたび景春を支援に動く。
成氏は、景春を交渉役として、
対立していた室町幕府との和睦を模索しつつ、
景春を軍事的に支援したが、
6月24日、
景春の本拠秩父日野城を、太田道灌に陥され、
景春は没落した。
ここに、景春の最初の反抗が終息する。
没落した景春は、
しばらく古河公方足利成氏のもとにあったとされる。
その間、
成氏と幕府の和睦による、享徳の大乱の終結、
太田道灌の憤死を経て、
関東は、山内上杉氏と扇谷上杉氏の対立(長享の乱)という、
新たな戦乱に突入した。
古河公方足利氏が、この対立に定見なく介入したため、
戦乱はより複雑・長期化していく。
長享2年(1488)、
景春は、扇谷上杉氏・古河公方方として、長享の乱に参加。
6月7日の武蔵須賀谷原合戦、
11月15日の武蔵高見原合戦で、
景春は、古河公方足利政氏(成氏の子)の部将として、
扇谷上杉定正とともに、旧主山内上杉顕定と戦い、活躍した。
ところが、
明応3年(1494)、
古河公方足利政氏が、山内上杉氏支援に転じると、
景春は、政氏から離れて、扇谷方に留まった。
あくまで山内上杉氏には与さない、
という、頑なな姿勢である。
景春の嫡子景英は、山内方に従ったため、
父子は相争うこととなった。
上野・武蔵・相模で繰り広げられた長享の乱は、
永正2年(1505)3月、
扇谷方の敗北によって終結。
これにより、
景春は、およそ30年ぶりに山内上杉顕定に帰参。
2度目の反抗、終わり。
永正3年(1506)、
今度は、古河公方足利政氏・高基父子の対立(永正の乱)が、
関東を戦乱の渦に巻き込んだ。
山内・扇谷上杉氏は、足利政氏に味方したが、
永正4年(1507)、
越後で、長尾為景が、
山内上杉顕定の弟越後上杉房能を、下剋上で討ち、
永正6年(1509)
伊豆の伊勢宗瑞が、長尾為景と結んで、
扇谷上杉氏より離叛、相模・武蔵へ侵攻。
そして、永正7年(1510)、
長尾景春は、
長尾為景・伊勢宗瑞と組んで、山内上杉氏から離叛した。
景春、3度目の反抗。
為景や宗瑞と連携しつつ、
景春は、相模や武蔵、上野で、山内・扇谷上杉氏と戦った。
永正8年(1511)、
敗走先の甲斐都留より、武蔵に進攻するも、
また敗れて、駿河の伊勢宗瑞のもとにに退去した。
永正11年(1514)8月24日、
執念の鬼、不死鳥のごとき景春も、ついに死す。
72歳。
場所は伝わらないが、退去先の何処かとされている。
3度も主家に反抗して、
関東を戦乱にひきずりこみながら、
景春は、畳の上で死んだ。
かつての宿敵、太田道灌とは、ずいぶん対照的である。
死に様が、必ずしも生き様を映すとは限らない。
しかし、世が戦国の世へと進んでいくなかで、
景春は、下剋上を成功させながら、
長尾為景(上杉謙信の父)や、伊勢宗瑞(後北条氏の祖)と異なり、
戦国大名へと脱皮することはできなかった。
独立的な権力、まとまった“領国”を、持つことができなかったのである。
景春が、そのことをどう考えていたのか、
今日知るすべはない。
〔参考〕
黒田基樹編『長尾景春 (シリーズ・中世関東武士の研究)』 (戎光祥出版 2010)
白井長尾氏。
武蔵鉢形・日野城主。
長尾景春の祖父、長尾景仲は、
関東管領山内上杉氏の家宰をつとめた人物で、
上杉氏勢力の中核として、
鎌倉公方足利成氏(のち古河公方)と対立し、
享徳の大乱を原因をつくったひとりであった。
景仲ののち、鎌倉長尾実景を経て、
山内上杉氏の家宰職は、
景仲の嫡子景信が継承した。
景信は、父と同じく、
古河公方足利成氏と戦い続けた。
文明5年(1473)6月、
景信が死ぬと、
山内上杉氏の家宰職は、
景信の嫡子景春が継ぐはずだった。
ところが、
若き主人山内上杉顕定や、宿老寺尾憲明・海野佐渡守の談合によって、
家宰職は、
景信の弟(景春の叔父)惣社長尾忠景が継ぐこととなってしまった。
この恨みが、
景春を飽くなき闘争へと駆り立てることとなる。
文明6年(1474)頃、
景春は、上杉氏の本拠武蔵五十子陣の糧道を塞いで、
上杉方を困窮させた。
翌文明7年(1475)、
この、上杉方内部分裂の危機に、
扇谷上杉氏の家宰太田道灌が仲介に入るが、
その甲斐なく、不穏な状況が続く。
そして、文明8年(1476)、
景春は、ついに五十子陣を退去し、
武蔵鉢形城を築いて、立て籠もった。
山内上杉氏内部には、
当主顕定や家宰惣社長尾忠景らに不満を抱く者が、少なからずいたようで、
景春与党は、2、3000人に上った。
文明9年(1477)正月18日、
景春は、鉢形城より、眼下の五十子陣を急襲。
五十子陣は崩壊し、
主人山内上杉顕定・扇谷上杉定正・長尾忠景・太田道灌らは、
北方の上野へ退いた。
下剋上である。
景春は、鉢形城を拠点に、
与党を武蔵・相模全土に募り、
さらに、古河公方足利成氏の支援も得て、
上杉方を窮地に追い込んだ。
だが、
太田道灌の東奔西走、
および、上杉方と足利成氏の停戦協定によって、
徐々に掃討されていった。
景春は、反上杉の強硬派千葉孝胤と結び、
なおも反抗を続けたが、
文明10年(1478)7月には、
足利成氏も、景春討伐に協力するに至った。
武蔵秩父で、細々とゲリラ戦を展開していた景春は、
文明12年(1480)1月、
武蔵児玉で、ふたたび蜂起。
ここにきて、足利成氏がふたたび景春を支援に動く。
成氏は、景春を交渉役として、
対立していた室町幕府との和睦を模索しつつ、
景春を軍事的に支援したが、
6月24日、
景春の本拠秩父日野城を、太田道灌に陥され、
景春は没落した。
ここに、景春の最初の反抗が終息する。
没落した景春は、
しばらく古河公方足利成氏のもとにあったとされる。
その間、
成氏と幕府の和睦による、享徳の大乱の終結、
太田道灌の憤死を経て、
関東は、山内上杉氏と扇谷上杉氏の対立(長享の乱)という、
新たな戦乱に突入した。
古河公方足利氏が、この対立に定見なく介入したため、
戦乱はより複雑・長期化していく。
長享2年(1488)、
景春は、扇谷上杉氏・古河公方方として、長享の乱に参加。
6月7日の武蔵須賀谷原合戦、
11月15日の武蔵高見原合戦で、
景春は、古河公方足利政氏(成氏の子)の部将として、
扇谷上杉定正とともに、旧主山内上杉顕定と戦い、活躍した。
ところが、
明応3年(1494)、
古河公方足利政氏が、山内上杉氏支援に転じると、
景春は、政氏から離れて、扇谷方に留まった。
あくまで山内上杉氏には与さない、
という、頑なな姿勢である。
景春の嫡子景英は、山内方に従ったため、
父子は相争うこととなった。
上野・武蔵・相模で繰り広げられた長享の乱は、
永正2年(1505)3月、
扇谷方の敗北によって終結。
これにより、
景春は、およそ30年ぶりに山内上杉顕定に帰参。
2度目の反抗、終わり。
永正3年(1506)、
今度は、古河公方足利政氏・高基父子の対立(永正の乱)が、
関東を戦乱の渦に巻き込んだ。
山内・扇谷上杉氏は、足利政氏に味方したが、
永正4年(1507)、
越後で、長尾為景が、
山内上杉顕定の弟越後上杉房能を、下剋上で討ち、
永正6年(1509)
伊豆の伊勢宗瑞が、長尾為景と結んで、
扇谷上杉氏より離叛、相模・武蔵へ侵攻。
そして、永正7年(1510)、
長尾景春は、
長尾為景・伊勢宗瑞と組んで、山内上杉氏から離叛した。
景春、3度目の反抗。
為景や宗瑞と連携しつつ、
景春は、相模や武蔵、上野で、山内・扇谷上杉氏と戦った。
永正8年(1511)、
敗走先の甲斐都留より、武蔵に進攻するも、
また敗れて、駿河の伊勢宗瑞のもとにに退去した。
永正11年(1514)8月24日、
執念の鬼、不死鳥のごとき景春も、ついに死す。
72歳。
場所は伝わらないが、退去先の何処かとされている。
3度も主家に反抗して、
関東を戦乱にひきずりこみながら、
景春は、畳の上で死んだ。
かつての宿敵、太田道灌とは、ずいぶん対照的である。
死に様が、必ずしも生き様を映すとは限らない。
しかし、世が戦国の世へと進んでいくなかで、
景春は、下剋上を成功させながら、
長尾為景(上杉謙信の父)や、伊勢宗瑞(後北条氏の祖)と異なり、
戦国大名へと脱皮することはできなかった。
独立的な権力、まとまった“領国”を、持つことができなかったのである。
景春が、そのことをどう考えていたのか、
今日知るすべはない。
〔参考〕
黒田基樹編『長尾景春 (シリーズ・中世関東武士の研究)』 (戎光祥出版 2010)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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