死に様データベース
《戦死》 《1355年》 《3月》 《12日》 《享年不明》
那須資藤は、
下野の豪族那須氏の一族であるが、
惣領ではなく、有力な庶流ではないかとされている。
観応3年(1352)、
足利尊氏は、弟直義との対立に決着をつけたものの、
この間に、雌伏していた南朝方が息を吹き返し、
さらには、
敗れた旧直義党が、南朝方と手を組んだため、
戦争はなお収まることがなかった。
ことに、
京都をめぐる南朝方と足利方(北朝方)の争いは、激しさを増しており、
一時は、
光厳・光明・崇光三上皇と東宮直仁親王を、南朝方に拉致されるなど、
北朝は苦境に陥っている。
尊氏・義詮と南朝・旧直義党の京都争奪戦は、
苛烈をきわめたのであった。
文和3年末、
南朝方と旧直義党の軍勢が京に迫った。
尊氏とその子義詮は、
防衛に不向きな京都を去り、
それぞれ近江・播磨に移り、挟撃の態勢をとった。
翌文和4年(1355)正月、
からっぽの京都に、
旧直義党の桃井直常・斯波氏頼らが入った。
ついで、
足利直冬と山名時氏・石塔頼房らも入京。
観応3年(1352)、文和2年(1353)、そして今回と、
南朝方、実に3度目の京都占領であった。
尊氏・義詮は、東西からじりじりと包囲の輪を縮め、
対する京都側は、
東寺実相院に足利直冬、
石清水八幡宮の男山に楠木正儀、
西山に山名時氏が陣を張り、
防衛線を構築した。
2月6日、
摂津芥川・山崎・神無山辺で、
義詮軍の赤松則祐・佐々木導誉らと楠木勢が衝突。
この激戦で南朝方を破った義詮は、京都に迫り、
戦場は市街地に移っていった。
尊氏も、西坂本より東山、ついで清水坂へ陣を移し、
洛中の南朝方を背後から脅かした。
この頃、
京都ではあちこちで、小競り合いや遭遇戦が起きている。
3月12日、
新日吉に陣し、洛中への橋頭堡を確保した尊氏は、
南朝方の本陣東寺へ、京都奪回の総攻撃をしかけた。
尊氏方は数千の大軍であったが、
南朝方は東寺八幡宮に立て籠もり、激戦となった。
雌雄は容易に決せず、
所々にあがった火の手は、京都の空を煙で覆い、
未の刻の初め(午後1時頃)でも真っ暗だったという。
この激戦の中、
那須資藤は尊氏の陣中にあった。
以下、『太平記』。
この陣の寄せ手、ややもすれば懸け立てらるる体に見えければ、
将軍(尊氏)より使者を立てられて、
「那須五郎(資藤)を罷り向かうべし。」と仰せられける。
那須は、この合戦に打ち出でけるはじめ、
故郷の老母の許へ、人を下して、
「今度の合戦にもし討死仕らば、親に先立つ身となりて、
草の陰、苔の下までもお歎きあらんを、
見奉らんずることこそ、思いやるも悲しく存じ候え。」
と、申し遣わしたりければ、
老母泣く泣く委細に返事を書きて、申し送りけるは、
「いにしえより今に至るまで、
武士の家に生まるる人、名を惜しみて命を惜しまず、
皆これ妻子に名残を慕い、父母に別れを悲しむといえども、
家を思い、嘲りを恥ずるゆえに、
惜しかるべき命を捨つるものなり。
はじめ身体髪膚を我に受けて、損ない破らざりしかば、
その孝すでに顕れぬ。
今また身を立ちて、道を行うて、名を後の世に揚げるは、
これ孝の終りたるべし。
されば、今度の合戦に相構えて、
身命を軽んじて、先祖の名を失うべからず。
これは元暦のいにしえ、曩祖那須与一資高は、
屋島の合戦のとき、扇を射て名を揚げたりしときの母衣なり。」
とて、
薄紅の母衣を、錦の袋に入れてぞ送りたりける。
さらでだに戦場に臨みて、いつも命を軽んずる那須五郎が、
老母に義を勧められて、いよいよ気を励ましけるところに、
将軍より別して使いを立てられ、
「この陣の戦い難儀に及ぶ。向かいて敵を払え。」
と、余儀もなく仰せられければ、
那須、かつて一儀も申さず、畏まって領状す。
ただいま味方の大勢ども、立つ足もなくまくり立てられ、
敵みな勇み進める真ん中へ、会釈もなく懸け入りて、
兄弟二人一族郎従三十六騎、一足もひかず討死しける。
一方で、『源威集』の記述。
夜になりて帰陣すべしとて、
手勢ばかり錣(しころ)を傾けて、ならび居たりしところに、
もとの油小路より一手、後ろ塩小路より一手、
大勢寄せ来たる間、
当手ばかりにて、火を散じ、一足もひかず、
資藤・忠資叔父甥、そのほか一族家人、
討死手負い数輩なり。
敵も手強く戦う間、討死手負い同前なり。
敵本陣におさまりしかば、
七条合戦は、やぶれにけり。
資藤、息の下少しく通しければ、
《金+崔》をもおろさず、母衣懸けながら、
広戸にかい載せられて、
将軍(尊氏)の御前へ参りたりければ、
じかに数ヶ所の疵をご覧ぜられて、
今度の振る舞い神妙の由、御感ありければ、
忝くもお詞耳に入るかと覚えて、
目をはたと見開き、
血の付いたる手を合わせて、胸に置き、
恐れ入りたるていにて、うちうなずきうちうなずき、
命をおとしける。
武将(尊氏)これをご覧ぜられて、
お泪を浮かぶ。
建武三、九州御下向の時、
東国に一人の味方なかりしに、
この資藤が父資忠一人、高館に籠りて、
忠節せしことまで仰せられしぞ、忝し。
難戦への突入を「余儀もなく」命じた尊氏と、
瀕死の資藤の手をとり、涙ながらに軍功を褒する尊氏。
かたや親子の情を描きつつ、
一方では、主従の絆の話になっている。
死は、
その後の演出次第。
13日寅の刻(午前4時頃)、
多大な損害をこうむった南朝方は、
東寺から陣をひき、淀や石清水方面へ没落していった。
以降、南朝方が京都を占領することはない。
〔参考〕
『大日本史料』第6編 第19冊
江田郁夫「鎌倉・南北朝時代の那須惣領家」 (『中世東国の街道と武士団』 岩田書院 2010年)
那須資藤は、
下野の豪族那須氏の一族であるが、
惣領ではなく、有力な庶流ではないかとされている。
観応3年(1352)、
足利尊氏は、弟直義との対立に決着をつけたものの、
この間に、雌伏していた南朝方が息を吹き返し、
さらには、
敗れた旧直義党が、南朝方と手を組んだため、
戦争はなお収まることがなかった。
ことに、
京都をめぐる南朝方と足利方(北朝方)の争いは、激しさを増しており、
一時は、
光厳・光明・崇光三上皇と東宮直仁親王を、南朝方に拉致されるなど、
北朝は苦境に陥っている。
尊氏・義詮と南朝・旧直義党の京都争奪戦は、
苛烈をきわめたのであった。
文和3年末、
南朝方と旧直義党の軍勢が京に迫った。
尊氏とその子義詮は、
防衛に不向きな京都を去り、
それぞれ近江・播磨に移り、挟撃の態勢をとった。
翌文和4年(1355)正月、
からっぽの京都に、
旧直義党の桃井直常・斯波氏頼らが入った。
ついで、
足利直冬と山名時氏・石塔頼房らも入京。
観応3年(1352)、文和2年(1353)、そして今回と、
南朝方、実に3度目の京都占領であった。
尊氏・義詮は、東西からじりじりと包囲の輪を縮め、
対する京都側は、
東寺実相院に足利直冬、
石清水八幡宮の男山に楠木正儀、
西山に山名時氏が陣を張り、
防衛線を構築した。
2月6日、
摂津芥川・山崎・神無山辺で、
義詮軍の赤松則祐・佐々木導誉らと楠木勢が衝突。
この激戦で南朝方を破った義詮は、京都に迫り、
戦場は市街地に移っていった。
尊氏も、西坂本より東山、ついで清水坂へ陣を移し、
洛中の南朝方を背後から脅かした。
この頃、
京都ではあちこちで、小競り合いや遭遇戦が起きている。
3月12日、
新日吉に陣し、洛中への橋頭堡を確保した尊氏は、
南朝方の本陣東寺へ、京都奪回の総攻撃をしかけた。
尊氏方は数千の大軍であったが、
南朝方は東寺八幡宮に立て籠もり、激戦となった。
雌雄は容易に決せず、
所々にあがった火の手は、京都の空を煙で覆い、
未の刻の初め(午後1時頃)でも真っ暗だったという。
この激戦の中、
那須資藤は尊氏の陣中にあった。
以下、『太平記』。
この陣の寄せ手、ややもすれば懸け立てらるる体に見えければ、
将軍(尊氏)より使者を立てられて、
「那須五郎(資藤)を罷り向かうべし。」と仰せられける。
那須は、この合戦に打ち出でけるはじめ、
故郷の老母の許へ、人を下して、
「今度の合戦にもし討死仕らば、親に先立つ身となりて、
草の陰、苔の下までもお歎きあらんを、
見奉らんずることこそ、思いやるも悲しく存じ候え。」
と、申し遣わしたりければ、
老母泣く泣く委細に返事を書きて、申し送りけるは、
「いにしえより今に至るまで、
武士の家に生まるる人、名を惜しみて命を惜しまず、
皆これ妻子に名残を慕い、父母に別れを悲しむといえども、
家を思い、嘲りを恥ずるゆえに、
惜しかるべき命を捨つるものなり。
はじめ身体髪膚を我に受けて、損ない破らざりしかば、
その孝すでに顕れぬ。
今また身を立ちて、道を行うて、名を後の世に揚げるは、
これ孝の終りたるべし。
されば、今度の合戦に相構えて、
身命を軽んじて、先祖の名を失うべからず。
これは元暦のいにしえ、曩祖那須与一資高は、
屋島の合戦のとき、扇を射て名を揚げたりしときの母衣なり。」
とて、
薄紅の母衣を、錦の袋に入れてぞ送りたりける。
さらでだに戦場に臨みて、いつも命を軽んずる那須五郎が、
老母に義を勧められて、いよいよ気を励ましけるところに、
将軍より別して使いを立てられ、
「この陣の戦い難儀に及ぶ。向かいて敵を払え。」
と、余儀もなく仰せられければ、
那須、かつて一儀も申さず、畏まって領状す。
ただいま味方の大勢ども、立つ足もなくまくり立てられ、
敵みな勇み進める真ん中へ、会釈もなく懸け入りて、
兄弟二人一族郎従三十六騎、一足もひかず討死しける。
一方で、『源威集』の記述。
夜になりて帰陣すべしとて、
手勢ばかり錣(しころ)を傾けて、ならび居たりしところに、
もとの油小路より一手、後ろ塩小路より一手、
大勢寄せ来たる間、
当手ばかりにて、火を散じ、一足もひかず、
資藤・忠資叔父甥、そのほか一族家人、
討死手負い数輩なり。
敵も手強く戦う間、討死手負い同前なり。
敵本陣におさまりしかば、
七条合戦は、やぶれにけり。
資藤、息の下少しく通しければ、
《金+崔》をもおろさず、母衣懸けながら、
広戸にかい載せられて、
将軍(尊氏)の御前へ参りたりければ、
じかに数ヶ所の疵をご覧ぜられて、
今度の振る舞い神妙の由、御感ありければ、
忝くもお詞耳に入るかと覚えて、
目をはたと見開き、
血の付いたる手を合わせて、胸に置き、
恐れ入りたるていにて、うちうなずきうちうなずき、
命をおとしける。
武将(尊氏)これをご覧ぜられて、
お泪を浮かぶ。
建武三、九州御下向の時、
東国に一人の味方なかりしに、
この資藤が父資忠一人、高館に籠りて、
忠節せしことまで仰せられしぞ、忝し。
難戦への突入を「余儀もなく」命じた尊氏と、
瀕死の資藤の手をとり、涙ながらに軍功を褒する尊氏。
かたや親子の情を描きつつ、
一方では、主従の絆の話になっている。
死は、
その後の演出次第。
13日寅の刻(午前4時頃)、
多大な損害をこうむった南朝方は、
東寺から陣をひき、淀や石清水方面へ没落していった。
以降、南朝方が京都を占領することはない。
〔参考〕
『大日本史料』第6編 第19冊
江田郁夫「鎌倉・南北朝時代の那須惣領家」 (『中世東国の街道と武士団』 岩田書院 2010年)
PR
《誅殺》 《1403年》 《4月》 《25日》 《享年不明》
南朝方新田氏の一族。
相模守を称す。
神奈川県足柄下郡箱根町、
箱根彫刻の森美術館の敷地を貫く一本道の奥に、
「新田塚」と呼ばれる場所がある。
木の鳥居の内側に土まんじゅうが2つ、
その奥に江戸時代のものとおぼしき石碑が2本立っている。
この地で没した新田義則を弔うものとされている。
新田義則については、詳らかでない。
実名は、義則以外にも、義陸、義隆とも、
また、法名は行啓とも伝えられる。
系譜関係も定見はなく、
新田義貞の嫡男義宗の子とする説や、
義貞の弟脇屋義助の孫(脇屋義治の子)とするものもある。
観応3年(1352)閏2月から3月、武蔵野合戦にて、
新田義宗・義興兄弟や、その従兄弟脇屋義治らが、足利尊氏に敗れてのち、
東国の南朝方新田一族はほとんど壊滅し、
足利方に対する組織的な抵抗は、しえなくなっていた。
そして、
義宗や義興が非業の死を遂げたのち、
新田一族は、嫡流とおぼしき武蔵守某や義則を中心に、
信濃や上野、武蔵、越後に潜伏しながら、
再起のときをうかがっていた。
永徳元年(1381)、
下野の小山義政が反鎌倉府の兵を挙げると、
これにあわせて、新田一族も武蔵国内で蜂起。
だが、武蔵岩付や太田荘で、鎌倉府軍に敗退。
至徳2年(1385)3月、
義則は、上野・武蔵に密書を廻らせて、味方を募り、
蜂起のときをはかったという。
しかし、
事前に鎌倉府の察知するところとなり、
使者は捕えられてしまった。
応永3年(1396)には、
義政の子若犬丸が南陸奥で蜂起すると、
義則とその子刑部少輔も、
これを好機と、陸奥白河で挙兵した。
このとき、
上野・武蔵にひそんでいた南朝残党が、
義則のもとに集まったという。
だが、
鎌倉公方足利氏満みずから率いる鎌倉府軍を前に、
またしても敗れ去った。
確実な史料に見えることはわずかであり、
たしかなことはわからないが、
新田一族が、単独では行えないながら、
なおも、反鎌倉府闘争を続けていたことがうかがえる。
その後、義則は、
関東各所を転々としながら、
味方勢力の糾合につとめたらしい。
そうして、
義則とその子刑部少輔は、
相模箱根の木賀彦六という者を頼って、
山深い相模底倉に隠れ住んだ。
だが、
いつしかそこも、余人の知るところとなり、
応永10年(1403)4月25日、
鎌倉府方の追っ手に踏み込まれ、討ち取られた。
子の刑部少輔は、たまたま出かけており、
落ち延びたという。
『鎌倉大草紙』によれば、
駿河竹ノ下の藤田という者が、
義則のひそんでいることを聞き及び、
これを討ち取ったという。
藤田は、恩賞として箱根底倉・木賀の地を拝領し、
安藤と改名して、関東管領犬懸上杉朝宗に仕えたという。
〔参考〕
『新編埼玉県史 資料編8 中世4 記録2』 (埼玉県 1986年)
『神奈川県史編集資料集 4 鎌倉大日記』 (神奈川県企画調査部県史編集室 1972年)
沼田頼輔編『箱根に於ける南朝の将裔新田相州』 (蔦屋旅館 1923年)
→近代デジタルライブラリー
江田郁夫「東国の元中年号文書と新田一族」 (『室町幕府東国支配の研究』 高志書院 2008年)
江田郁夫「新田武蔵守某について―室町時代初頭の東国南朝勢力―」 (『栃木県立博物館研究紀要―人文―』31 2014年)
石橋一展「小山氏の乱」 (黒田基樹編『足利氏満とその時代』 戎光祥出版 2014年)
南朝方新田氏の一族。
相模守を称す。
神奈川県足柄下郡箱根町、
箱根彫刻の森美術館の敷地を貫く一本道の奥に、
「新田塚」と呼ばれる場所がある。
木の鳥居の内側に土まんじゅうが2つ、
その奥に江戸時代のものとおぼしき石碑が2本立っている。
この地で没した新田義則を弔うものとされている。
新田義則については、詳らかでない。
実名は、義則以外にも、義陸、義隆とも、
また、法名は行啓とも伝えられる。
系譜関係も定見はなく、
新田義貞の嫡男義宗の子とする説や、
義貞の弟脇屋義助の孫(脇屋義治の子)とするものもある。
観応3年(1352)閏2月から3月、武蔵野合戦にて、
新田義宗・義興兄弟や、その従兄弟脇屋義治らが、足利尊氏に敗れてのち、
東国の南朝方新田一族はほとんど壊滅し、
足利方に対する組織的な抵抗は、しえなくなっていた。
そして、
義宗や義興が非業の死を遂げたのち、
新田一族は、嫡流とおぼしき武蔵守某や義則を中心に、
信濃や上野、武蔵、越後に潜伏しながら、
再起のときをうかがっていた。
永徳元年(1381)、
下野の小山義政が反鎌倉府の兵を挙げると、
これにあわせて、新田一族も武蔵国内で蜂起。
だが、武蔵岩付や太田荘で、鎌倉府軍に敗退。
至徳2年(1385)3月、
義則は、上野・武蔵に密書を廻らせて、味方を募り、
蜂起のときをはかったという。
しかし、
事前に鎌倉府の察知するところとなり、
使者は捕えられてしまった。
応永3年(1396)には、
義政の子若犬丸が南陸奥で蜂起すると、
義則とその子刑部少輔も、
これを好機と、陸奥白河で挙兵した。
このとき、
上野・武蔵にひそんでいた南朝残党が、
義則のもとに集まったという。
だが、
鎌倉公方足利氏満みずから率いる鎌倉府軍を前に、
またしても敗れ去った。
確実な史料に見えることはわずかであり、
たしかなことはわからないが、
新田一族が、単独では行えないながら、
なおも、反鎌倉府闘争を続けていたことがうかがえる。
その後、義則は、
関東各所を転々としながら、
味方勢力の糾合につとめたらしい。
そうして、
義則とその子刑部少輔は、
相模箱根の木賀彦六という者を頼って、
山深い相模底倉に隠れ住んだ。
だが、
いつしかそこも、余人の知るところとなり、
応永10年(1403)4月25日、
鎌倉府方の追っ手に踏み込まれ、討ち取られた。
子の刑部少輔は、たまたま出かけており、
落ち延びたという。
『鎌倉大草紙』によれば、
駿河竹ノ下の藤田という者が、
義則のひそんでいることを聞き及び、
これを討ち取ったという。
藤田は、恩賞として箱根底倉・木賀の地を拝領し、
安藤と改名して、関東管領犬懸上杉朝宗に仕えたという。
〔参考〕
『新編埼玉県史 資料編8 中世4 記録2』 (埼玉県 1986年)
『神奈川県史編集資料集 4 鎌倉大日記』 (神奈川県企画調査部県史編集室 1972年)
沼田頼輔編『箱根に於ける南朝の将裔新田相州』 (蔦屋旅館 1923年)
→近代デジタルライブラリー
江田郁夫「東国の元中年号文書と新田一族」 (『室町幕府東国支配の研究』 高志書院 2008年)
江田郁夫「新田武蔵守某について―室町時代初頭の東国南朝勢力―」 (『栃木県立博物館研究紀要―人文―』31 2014年)
石橋一展「小山氏の乱」 (黒田基樹編『足利氏満とその時代』 戎光祥出版 2014年)
《誅殺》 《1334年》 《12月》 《28日》 《享年68歳》
鎌倉幕府政所執事、
建武政権雑訴決断所所衆。
法名、道蘊。
鎌倉幕府の高官二階堂貞藤は、才覚優れた人として知られていたようだが、
「我が口において賢人と称する」(『金沢文庫文書』)
といわれたように、
驕るようなふるまいもあったらしい。
貞藤は幕府の重臣として、正中の変などの対応に当たり、
激化する持明院・大覚寺両皇統の対立に際しては、
元徳元年(1329)に、幕府の使者として上洛し、
その調停につとめた。
ただし、
幕府の指示に従わず、独断専行もあったらしく、
不仲の金沢貞顕からは、
「言語道断」(『金沢文庫文書』)
と批判されている。
元徳3年(1331)にも、後醍醐天皇に譲位を勧める使者として上洛。
その後の元弘の乱では、
楠木正成の拠る千早城攻めにも参加した。
鎌倉幕府崩壊後、
「朝敵の最一」(『太平記』)であったが、
「賢才」(同)により死罪一等を減じられ、
雑訴決断所の一員として、建武政権に加わった。
だが、それからわずか1年あまりのち、
陰謀加担の嫌疑がかけられ、
建武元年(1334)12月28日、
京都六条河原にて、子兼藤・孫3人とともに斬られた。
68歳。一説に62歳。
僧日静は、
「誠に以って不慮の外に候」(『上総藻原寺所蔵金剛集第六巻裏書』)
と述べている。
〔参考〕
『大日本史料 第6編之2』 (東京大学出版会 1968年)
『鎌倉遺文 古文書編 39』 (東京堂出版 1989年)
『南北朝遺文 関東編 1』 (東京堂出版 2007年)
『国史大辞典 10 (と-にそ)』 (吉川弘文館 1989年)
永井晋『金沢貞顕』 (吉川弘文館 2003年)
鎌倉幕府政所執事、
建武政権雑訴決断所所衆。
法名、道蘊。
鎌倉幕府の高官二階堂貞藤は、才覚優れた人として知られていたようだが、
「我が口において賢人と称する」(『金沢文庫文書』)
といわれたように、
驕るようなふるまいもあったらしい。
貞藤は幕府の重臣として、正中の変などの対応に当たり、
激化する持明院・大覚寺両皇統の対立に際しては、
元徳元年(1329)に、幕府の使者として上洛し、
その調停につとめた。
ただし、
幕府の指示に従わず、独断専行もあったらしく、
不仲の金沢貞顕からは、
「言語道断」(『金沢文庫文書』)
と批判されている。
元徳3年(1331)にも、後醍醐天皇に譲位を勧める使者として上洛。
その後の元弘の乱では、
楠木正成の拠る千早城攻めにも参加した。
鎌倉幕府崩壊後、
「朝敵の最一」(『太平記』)であったが、
「賢才」(同)により死罪一等を減じられ、
雑訴決断所の一員として、建武政権に加わった。
だが、それからわずか1年あまりのち、
陰謀加担の嫌疑がかけられ、
建武元年(1334)12月28日、
京都六条河原にて、子兼藤・孫3人とともに斬られた。
68歳。一説に62歳。
僧日静は、
「誠に以って不慮の外に候」(『上総藻原寺所蔵金剛集第六巻裏書』)
と述べている。
〔参考〕
『大日本史料 第6編之2』 (東京大学出版会 1968年)
『鎌倉遺文 古文書編 39』 (東京堂出版 1989年)
『南北朝遺文 関東編 1』 (東京堂出版 2007年)
『国史大辞典 10 (と-にそ)』 (吉川弘文館 1989年)
永井晋『金沢貞顕』 (吉川弘文館 2003年)
《自害》 《1418年》 《2月》 《10日》 《享年42歳》
正二位、権大納言。
応永25年(1418)2月、
中院通守は、朝廷より春日祭の上卿を命じられた。
しかし、
経済的な困窮状態にあった通守は、務められないとこれを辞退。
朝廷はなおも厳命を下すが、
通守は、再三辞退した。
かくして、通守は、
とても窮困の身には、朝廷にお仕えすることはできない。
かくなる上は、ただもう自害したい。
と、常日頃からこぼしていた。
よほど追い詰められていたものと見える。
10日、酒宴の後、
通守は持仏堂にこもって、
小刀でのどを掻き切った。
この「狂気」(『看聞日記』)の沙汰を、
人々はみな噂し合った。
公卿すら貧窮により自殺する時代。
27日の春日祭では、
代わって今出川公富が上卿を務めた。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
正二位、権大納言。
応永25年(1418)2月、
中院通守は、朝廷より春日祭の上卿を命じられた。
しかし、
経済的な困窮状態にあった通守は、務められないとこれを辞退。
朝廷はなおも厳命を下すが、
通守は、再三辞退した。
かくして、通守は、
とても窮困の身には、朝廷にお仕えすることはできない。
かくなる上は、ただもう自害したい。
と、常日頃からこぼしていた。
よほど追い詰められていたものと見える。
10日、酒宴の後、
通守は持仏堂にこもって、
小刀でのどを掻き切った。
この「狂気」(『看聞日記』)の沙汰を、
人々はみな噂し合った。
公卿すら貧窮により自殺する時代。
27日の春日祭では、
代わって今出川公富が上卿を務めた。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
《病死》 《1337年》 《3月》 《27日》 《享年不明》
下総神崎荘多賀郷・常陸南郡大枝郷栗俣村の領主。
14世紀前半、全国的に展開した南北朝の動乱は、
あらゆる人々を、戦乱の渦に巻き込んでいった。
その渦中の最も中心に近いところに、
戦闘を職能とする集団である武士がいたことは、
いうまでもない。
建武2年(1335)、
足利尊氏が鎌倉にて、後醍醐天皇に叛旗を翻すと、
東国武士野本朝行も、これに随った。
12月11日、
後醍醐方と衝突した伊豆愛沢原合戦で先駆けを果たし、
同日の中山合戦では、
味方劣勢ながら、若党10余騎を率いて、
結城朝祐勢とともに敵陣に駆け入り、
敵1騎を斬り倒した。
首を取ろうとしたが、
大将山名時氏に、
「首を取らずに、先へ進め」
と命じられ、
討った敵を川端へ追い落として、進んだ。
箱根・竹ノ下の戦いとしても有名な、この一連の合戦で、
足利尊氏は、後醍醐方の新田義貞を追い散らし、
京都を目指して東海道をひた走ってゆく。
12月12日、
伊豆国府合戦で、
中間平五郎を喪う。
翌建武3年(1336)正月3日、
近江伊幾寿宮合戦で、
朝行の若党岩瀬信経は、敵城に攻め入ったが、
左右の頬を射抜かれてしまった。
他の若党丸山為時・片切成義も、負傷。
正月8日、
若党岩瀬信経らは、結城朝祐の手勢とともに、
山城石清水八幡の敵を追い落とし、
木津川の橋を渡る敵に対して、
橋上の櫓を打ち破り、橋桁を踏み落とすという活躍を見せた。
ただ、若党の一人岩瀬胤経は、負傷。
正月16日、
若党岩瀬信経・光家らは、
京都法勝寺脇に、残敵を追い詰め、
纐纈の直垂を着る、身分の高そうな武士を1騎、討ち取った。
正月27日、
この日も、若党信経・光家らが、
中賀茂の西にて、敵方の鞍馬法師3人を生け捕りにする。
だが、
その後の戦闘で、信経は乗馬を射られてしまった。
正月30日、
京都法成寺西門前の戦闘で、
朝行の郎等杉本吉弘が、
敵方結城親光の家人関孫五郎を組み伏せ、
首を取った。
これらの合戦で、
尊氏方は、いったんは京都を奪うも、
後醍醐方の来援が相次いだことで、これを放棄し、
瀬戸内を西走する。
2月1日、
朝行は、足利尊氏に随って、
丹波篠村経由で、摂津兵庫に至る。
2月10日、
摂津西宮合戦では、
尊氏の弟直義の勢に属した。
2月11日、
摂津豊島河原合戦では、河原に陣を取るも、
直義がにわかに兵庫へ帰ったことで、
朝行もこれに随った。
2月12日、
窮地の足利方は、皆決戦での討死を覚悟したが、
直義は、夜陰に船に乗って出港してしまった。
それを知らず、供奉できなかった失意の朝行は、
敵が近いこともあって、
密かに京都に入り、その人波に身を隠す。
2月30日、
その京都も脱出し、本国関東を目指す。
その途次、三河などで、
野臥の襲撃に遭うことは何度もあった。
また、
後醍醐方の遠江井伊城攻めに加わったりもしたらしい。
その後は、関東の戦乱に活動場所を移す。
後醍醐方の北畠顕家の南進の際には、
一族とともに、下野小山城に籠城し、これと戦った。
11月3日、
下野横田・毛原合戦で、敵の首1つをとる。
また、郎等大淵彦九郎入道が、負傷している。
建武4年(1337)3月10日、
後醍醐方の小田治久・益戸虎法師丸が、
常陸府中に攻めてきたときには、
若党岩瀬信経が、朝行の代官として出陣。
敵1人を討った。
それからわずか17日後、
3月27日、朝行他界。
おそらくは、戦死ではなく、病死と思われる。
「合戦の静謐を待っていた折」(「熊谷家文書」)であった。
最期の数年間、戦場に身を置いて、
ときに、仲間が傷付き、死んでゆくのを見る朝行の苦悩は、
いかほどのものであったろう。
上記の軍功のほとんどが、
朝行本人のものではなく、若党の活躍ばかりなのも、
そんな思いを反映しているのかもしれない。
戦場で落命しなかった分、
まだ幸せだったと見るべきだろうか。
朝行の死後、
子の鶴寿丸が、幼少ながら若党らを率いて戦場に出た。
建武4年(1337)7月8日、
常陸関城合戦では、
鶴寿丸の代官の1人として出陣した新妻胤重や、
一族の野本高宣以下、若党4人が、討死。
また、
野本家の所領である下総神崎荘多賀郷には、
後醍醐方の千葉貞胤が乱入し、
野本家の代官と連日合戦を行った。
常陸の所領大枝郷栗俣村にも、
後醍醐方の小田治久らが攻め入って、
代官らが焼け出され、
その家族は、山林に逃げ込んだという。
「合戦静謐」(「熊谷家文書」)を待つ、
平和を待ち望む思いは、
時代を問わない。
〔参考〕
『南北朝遺文 関東編 第1巻』 (東京堂出版 2007年)
下総神崎荘多賀郷・常陸南郡大枝郷栗俣村の領主。
14世紀前半、全国的に展開した南北朝の動乱は、
あらゆる人々を、戦乱の渦に巻き込んでいった。
その渦中の最も中心に近いところに、
戦闘を職能とする集団である武士がいたことは、
いうまでもない。
建武2年(1335)、
足利尊氏が鎌倉にて、後醍醐天皇に叛旗を翻すと、
東国武士野本朝行も、これに随った。
12月11日、
後醍醐方と衝突した伊豆愛沢原合戦で先駆けを果たし、
同日の中山合戦では、
味方劣勢ながら、若党10余騎を率いて、
結城朝祐勢とともに敵陣に駆け入り、
敵1騎を斬り倒した。
首を取ろうとしたが、
大将山名時氏に、
「首を取らずに、先へ進め」
と命じられ、
討った敵を川端へ追い落として、進んだ。
箱根・竹ノ下の戦いとしても有名な、この一連の合戦で、
足利尊氏は、後醍醐方の新田義貞を追い散らし、
京都を目指して東海道をひた走ってゆく。
12月12日、
伊豆国府合戦で、
中間平五郎を喪う。
翌建武3年(1336)正月3日、
近江伊幾寿宮合戦で、
朝行の若党岩瀬信経は、敵城に攻め入ったが、
左右の頬を射抜かれてしまった。
他の若党丸山為時・片切成義も、負傷。
正月8日、
若党岩瀬信経らは、結城朝祐の手勢とともに、
山城石清水八幡の敵を追い落とし、
木津川の橋を渡る敵に対して、
橋上の櫓を打ち破り、橋桁を踏み落とすという活躍を見せた。
ただ、若党の一人岩瀬胤経は、負傷。
正月16日、
若党岩瀬信経・光家らは、
京都法勝寺脇に、残敵を追い詰め、
纐纈の直垂を着る、身分の高そうな武士を1騎、討ち取った。
正月27日、
この日も、若党信経・光家らが、
中賀茂の西にて、敵方の鞍馬法師3人を生け捕りにする。
だが、
その後の戦闘で、信経は乗馬を射られてしまった。
正月30日、
京都法成寺西門前の戦闘で、
朝行の郎等杉本吉弘が、
敵方結城親光の家人関孫五郎を組み伏せ、
首を取った。
これらの合戦で、
尊氏方は、いったんは京都を奪うも、
後醍醐方の来援が相次いだことで、これを放棄し、
瀬戸内を西走する。
2月1日、
朝行は、足利尊氏に随って、
丹波篠村経由で、摂津兵庫に至る。
2月10日、
摂津西宮合戦では、
尊氏の弟直義の勢に属した。
2月11日、
摂津豊島河原合戦では、河原に陣を取るも、
直義がにわかに兵庫へ帰ったことで、
朝行もこれに随った。
2月12日、
窮地の足利方は、皆決戦での討死を覚悟したが、
直義は、夜陰に船に乗って出港してしまった。
それを知らず、供奉できなかった失意の朝行は、
敵が近いこともあって、
密かに京都に入り、その人波に身を隠す。
2月30日、
その京都も脱出し、本国関東を目指す。
その途次、三河などで、
野臥の襲撃に遭うことは何度もあった。
また、
後醍醐方の遠江井伊城攻めに加わったりもしたらしい。
その後は、関東の戦乱に活動場所を移す。
後醍醐方の北畠顕家の南進の際には、
一族とともに、下野小山城に籠城し、これと戦った。
11月3日、
下野横田・毛原合戦で、敵の首1つをとる。
また、郎等大淵彦九郎入道が、負傷している。
建武4年(1337)3月10日、
後醍醐方の小田治久・益戸虎法師丸が、
常陸府中に攻めてきたときには、
若党岩瀬信経が、朝行の代官として出陣。
敵1人を討った。
それからわずか17日後、
3月27日、朝行他界。
おそらくは、戦死ではなく、病死と思われる。
「合戦の静謐を待っていた折」(「熊谷家文書」)であった。
最期の数年間、戦場に身を置いて、
ときに、仲間が傷付き、死んでゆくのを見る朝行の苦悩は、
いかほどのものであったろう。
上記の軍功のほとんどが、
朝行本人のものではなく、若党の活躍ばかりなのも、
そんな思いを反映しているのかもしれない。
戦場で落命しなかった分、
まだ幸せだったと見るべきだろうか。
朝行の死後、
子の鶴寿丸が、幼少ながら若党らを率いて戦場に出た。
建武4年(1337)7月8日、
常陸関城合戦では、
鶴寿丸の代官の1人として出陣した新妻胤重や、
一族の野本高宣以下、若党4人が、討死。
また、
野本家の所領である下総神崎荘多賀郷には、
後醍醐方の千葉貞胤が乱入し、
野本家の代官と連日合戦を行った。
常陸の所領大枝郷栗俣村にも、
後醍醐方の小田治久らが攻め入って、
代官らが焼け出され、
その家族は、山林に逃げ込んだという。
「合戦静謐」(「熊谷家文書」)を待つ、
平和を待ち望む思いは、
時代を問わない。
〔参考〕
『南北朝遺文 関東編 第1巻』 (東京堂出版 2007年)
ブログ内検索
人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 ~1299
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
6歳 | ||
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
享年 50代~
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
最新コメント
[08/26 記主]
[01/18 記主]
[01/16 記主]
[10/20 世良 康雄]
[08/18 記主]
[09/05 記主]
[04/29 記主]
[03/07 記主]
[01/24 記主]
[03/18 記主]
アクセス解析
忍者アナライズ
P R