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死に様データベース
《自害》 《1382年》 《4月》 《13日》 《享年不明》


関東の大名。
下野守護。

小山氏は、俵藤太藤原秀郷の末裔で、
源頼朝の時代以来の、関東の雄族である。


康暦2年(1380)5月16日、
下野裳原において、
小山義政宇都宮基綱の軍勢が衝突した。
小山方は、宇都宮方の3倍近い200名以上の犠牲者を出しながら、
当主基綱を討ち取ることに成功した。
両者は、所領や下野の守護支配をめぐって、
以前から対立していたらしい。

これに怒った鎌倉公方足利氏満は、
すぐさま東国中に小山義政討伐の命を発し、
自身も武蔵府中、村岡、ついで下野足利に出陣した。

同年8月には、下野小山周辺で戦闘が始まり、
同月末、討伐軍は義政の本拠に迫った。
9月19日、公方氏満のもとに、義政の使者が訪れ、
降服を申し出た。
義政、最初の降服。


しかし、
義政はなお、鎌倉府に反抗的だったらしく、
翌永徳元年(1381)、公方氏満は再度義政討伐に乗り出す。

6月中旬、討伐軍は下野本沢河原で、巴波川の渡河点を突破、
8月には、義政の籠る小山鷲城に迫った。
だが、討伐軍は堅固な鷲城を攻めあぐね、
11月16日に至って、ようやく外郭を陥した。
12月8日、耐えきれなくなった義政は、ついに降服。
鷲城を明け渡して、小山祇園城に退き、
家督を子息若犬丸に譲り、出家した。
義政、2度目の降服。


ところが、なおも義政は諦めない。
翌永徳2年(1382)3月22日、
父子ともに祇園城を自焼、脱出し、
下野糟尾山に立て籠もった。
義政、3度目の反抗。

これまで、義政の命ばかりは助けてきた公方氏満であったが、
「願わくば目の当りに義政が逆頸を見ん」(『頼印僧正行状絵詞』)
と、義政を討ち取る以外に決着はないと、すでに考えていたらしく、
この蜂起を、むしろ好機と喜んでいる。

3月29日、討伐軍は鎌倉を発し、
4月5日より、周辺諸城を次々と陥していった。
4月12日、最後の砦の櫃沢城も落ち、
義政父子は夜陰に乗じて脱出した。
4月13日巳の刻(午前10時頃)、
山中で追っ手に囲まれ、進退窮まった義政は、
ついに自害した。

子の若犬丸は、戦場を脱出し、
この後も、父と同じく反鎌倉府闘争を展開していく。


義政を執拗に闘争に駆り立てたものは、何だったのか。
また、
公方氏満を執拗に討滅に駆り立てたものは、何だったのか。
当の本人たちにしかわからない、
と片付けたのでは、あまりにつまらない、
壮絶な史実である。



〔参考〕
『小山市史 史料編・中世』 (小山市 1980)
『群馬県史 資料編6 中世2 (編年史料1)』 (群馬県 1984)
佐久間弘行「小山義政の乱と鷲城・祇園城」
  (橋本澄朗・千田孝明編『知られざる下野の中世』随想舎 2005)
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