死に様データベース
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《誅殺》 《1403年》 《4月》 《25日》 《享年不明》
南朝方新田氏の一族。
相模守を称す。
神奈川県足柄下郡箱根町、
箱根彫刻の森美術館の敷地を貫く一本道の奥に、
「新田塚」と呼ばれる場所がある。
木の鳥居の内側に土まんじゅうが2つ、
その奥に江戸時代のものとおぼしき石碑が2本立っている。
この地で没した新田義則を弔うものとされている。
新田義則については、詳らかでない。
実名は、義則以外にも、義陸、義隆とも、
また、法名は行啓とも伝えられる。
系譜関係も定見はなく、
新田義貞の嫡男義宗の子とする説や、
義貞の弟脇屋義助の孫(脇屋義治の子)とするものもある。
観応3年(1352)閏2月から3月、武蔵野合戦にて、
新田義宗・義興兄弟や、その従兄弟脇屋義治らが、足利尊氏に敗れてのち、
東国の南朝方新田一族はほとんど壊滅し、
足利方に対する組織的な抵抗は、しえなくなっていた。
そして、
義宗や義興が非業の死を遂げたのち、
新田一族は、嫡流とおぼしき武蔵守某や義則を中心に、
信濃や上野、武蔵、越後に潜伏しながら、
再起のときをうかがっていた。
永徳元年(1381)、
下野の小山義政が反鎌倉府の兵を挙げると、
これにあわせて、新田一族も武蔵国内で蜂起。
だが、武蔵岩付や太田荘で、鎌倉府軍に敗退。
至徳2年(1385)3月、
義則は、上野・武蔵に密書を廻らせて、味方を募り、
蜂起のときをはかったという。
しかし、
事前に鎌倉府の察知するところとなり、
使者は捕えられてしまった。
応永3年(1396)には、
義政の子若犬丸が南陸奥で蜂起すると、
義則とその子刑部少輔も、
これを好機と、陸奥白河で挙兵した。
このとき、
上野・武蔵にひそんでいた南朝残党が、
義則のもとに集まったという。
だが、
鎌倉公方足利氏満みずから率いる鎌倉府軍を前に、
またしても敗れ去った。
確実な史料に見えることはわずかであり、
たしかなことはわからないが、
新田一族が、単独では行えないながら、
なおも、反鎌倉府闘争を続けていたことがうかがえる。
その後、義則は、
関東各所を転々としながら、
味方勢力の糾合につとめたらしい。
そうして、
義則とその子刑部少輔は、
相模箱根の木賀彦六という者を頼って、
山深い相模底倉に隠れ住んだ。
だが、
いつしかそこも、余人の知るところとなり、
応永10年(1403)4月25日、
鎌倉府方の追っ手に踏み込まれ、討ち取られた。
子の刑部少輔は、たまたま出かけており、
落ち延びたという。
『鎌倉大草紙』によれば、
駿河竹ノ下の藤田という者が、
義則のひそんでいることを聞き及び、
これを討ち取ったという。
藤田は、恩賞として箱根底倉・木賀の地を拝領し、
安藤と改名して、関東管領犬懸上杉朝宗に仕えたという。
〔参考〕
『新編埼玉県史 資料編8 中世4 記録2』 (埼玉県 1986年)
『神奈川県史編集資料集 4 鎌倉大日記』 (神奈川県企画調査部県史編集室 1972年)
沼田頼輔編『箱根に於ける南朝の将裔新田相州』 (蔦屋旅館 1923年)
→近代デジタルライブラリー
江田郁夫「東国の元中年号文書と新田一族」 (『室町幕府東国支配の研究』 高志書院 2008年)
江田郁夫「新田武蔵守某について―室町時代初頭の東国南朝勢力―」 (『栃木県立博物館研究紀要―人文―』31 2014年)
石橋一展「小山氏の乱」 (黒田基樹編『足利氏満とその時代』 戎光祥出版 2014年)
南朝方新田氏の一族。
相模守を称す。
神奈川県足柄下郡箱根町、
箱根彫刻の森美術館の敷地を貫く一本道の奥に、
「新田塚」と呼ばれる場所がある。
木の鳥居の内側に土まんじゅうが2つ、
その奥に江戸時代のものとおぼしき石碑が2本立っている。
この地で没した新田義則を弔うものとされている。
新田義則については、詳らかでない。
実名は、義則以外にも、義陸、義隆とも、
また、法名は行啓とも伝えられる。
系譜関係も定見はなく、
新田義貞の嫡男義宗の子とする説や、
義貞の弟脇屋義助の孫(脇屋義治の子)とするものもある。
観応3年(1352)閏2月から3月、武蔵野合戦にて、
新田義宗・義興兄弟や、その従兄弟脇屋義治らが、足利尊氏に敗れてのち、
東国の南朝方新田一族はほとんど壊滅し、
足利方に対する組織的な抵抗は、しえなくなっていた。
そして、
義宗や義興が非業の死を遂げたのち、
新田一族は、嫡流とおぼしき武蔵守某や義則を中心に、
信濃や上野、武蔵、越後に潜伏しながら、
再起のときをうかがっていた。
永徳元年(1381)、
下野の小山義政が反鎌倉府の兵を挙げると、
これにあわせて、新田一族も武蔵国内で蜂起。
だが、武蔵岩付や太田荘で、鎌倉府軍に敗退。
至徳2年(1385)3月、
義則は、上野・武蔵に密書を廻らせて、味方を募り、
蜂起のときをはかったという。
しかし、
事前に鎌倉府の察知するところとなり、
使者は捕えられてしまった。
応永3年(1396)には、
義政の子若犬丸が南陸奥で蜂起すると、
義則とその子刑部少輔も、
これを好機と、陸奥白河で挙兵した。
このとき、
上野・武蔵にひそんでいた南朝残党が、
義則のもとに集まったという。
だが、
鎌倉公方足利氏満みずから率いる鎌倉府軍を前に、
またしても敗れ去った。
確実な史料に見えることはわずかであり、
たしかなことはわからないが、
新田一族が、単独では行えないながら、
なおも、反鎌倉府闘争を続けていたことがうかがえる。
その後、義則は、
関東各所を転々としながら、
味方勢力の糾合につとめたらしい。
そうして、
義則とその子刑部少輔は、
相模箱根の木賀彦六という者を頼って、
山深い相模底倉に隠れ住んだ。
だが、
いつしかそこも、余人の知るところとなり、
応永10年(1403)4月25日、
鎌倉府方の追っ手に踏み込まれ、討ち取られた。
子の刑部少輔は、たまたま出かけており、
落ち延びたという。
『鎌倉大草紙』によれば、
駿河竹ノ下の藤田という者が、
義則のひそんでいることを聞き及び、
これを討ち取ったという。
藤田は、恩賞として箱根底倉・木賀の地を拝領し、
安藤と改名して、関東管領犬懸上杉朝宗に仕えたという。
〔参考〕
『新編埼玉県史 資料編8 中世4 記録2』 (埼玉県 1986年)
『神奈川県史編集資料集 4 鎌倉大日記』 (神奈川県企画調査部県史編集室 1972年)
沼田頼輔編『箱根に於ける南朝の将裔新田相州』 (蔦屋旅館 1923年)
→近代デジタルライブラリー
江田郁夫「東国の元中年号文書と新田一族」 (『室町幕府東国支配の研究』 高志書院 2008年)
江田郁夫「新田武蔵守某について―室町時代初頭の東国南朝勢力―」 (『栃木県立博物館研究紀要―人文―』31 2014年)
石橋一展「小山氏の乱」 (黒田基樹編『足利氏満とその時代』 戎光祥出版 2014年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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