忍者ブログ
死に様データベース
《病死》 《1466年》 《閏2月》 《6日》 《享年57歳》


関東管領。
山内上杉氏当主。


応永17年(1410)、
越後守護上杉房方の三男として生まれた上杉憲実は、
若くして没した関東管領山内上杉憲基の養子となり、
応永25年(1418)、
9歳で越後から鎌倉に入った。


おりしも関東は、
上杉禅秀の乱が終息した直後であり、
鎌倉公方足利持氏による同乱の残党狩りが、
新たな戦乱の種を生みつつあった。
さらに、
そうした公方持氏の強硬姿勢が、室町幕府の不信を買い、
やがて京都・鎌倉の対立へと進んでゆく。
その難局に、幼い憲実は放り込まれたこととなる。

若き憲実は、主君持氏の命にしたがい、
反鎌倉公方派の討伐に発向するなどしたが、
長じるにつれて、
公方持氏と幕府の和睦を斡旋したり、
示威行動である将軍義教の富士下向を、延期するよう要請したりするなど、
幕府と鎌倉府の調整役という関東管領の本分を、発揮するようになる。
こうした憲実の活動は、
主君持氏の活動を抑止するものとなり、
主従の政治的関係を、微妙なものにしていった。


永享9年(1437)、
持氏憲実の対立はついに決定的となり、
翌10年(1438)、
憲実討伐の兵を挙げた持氏に対して、
憲実は幕府と謀って、これと戦うこととなった。
幕府と上杉の軍勢を前に、ほどなく持氏は降じて、
蟄居、剃髪。
憲実は、持氏の助命を願ったが、
結局、将軍義教に押し切られ、持氏を自害させた。

主君を死に追いやった憲実は、
一時は、自害を図ったりもして、
翌永享11年(1439)、伊豆国清寺に退き、
剃髪。
時に30歳。
後事を弟清方に託し、政界から引退した。


しかし、時節はそれを許さなかった。
永享12年(1440)、
下総の結城氏朝らが持氏の遺児を担いで挙兵。
これを鎮圧することとなった幕府は、
憲実へ帰参を命令。
憲実はこれに服して、
8月、下野小山に赴き、
弟清方とともに結城城攻めにあたった。
翌嘉吉元年(1441)4月、結城城陥落。
結城氏朝以下は討死し、
持氏遺児の幼い安王丸・春王丸兄弟は、
護送途中に美濃で誅殺された。

二度までも主家を死へ至らしめた憲実は、
再び隠遁を強く望んだ。

それも束の間、
同年6月、将軍義教は嘉吉の変で斃れた。
東西の混乱期に、
東国の重鎮憲実への期待は弥増したのである。


そうしたなかで、
憲実は、隠退への準備や子供たちの行く末について、
着々とことを進めている。
関東のことは清方に任せて、
長男竜忠は、僧籍に入れて、
万一還俗した場合には、義絶するとし、
また、
次男竜春には、越後・西国の所領を譲って京都奉公させることとした。
自分の子らが、関東政界にかかわることを拒絶したのである。


しかし、
再び時節が憲実の復帰を要することとなる。
ほどなく清方が没し、
関東管領が空席となってしまい、
さらに、
持氏遺児をして鎌倉府を再建させることとなり、
東国情勢に通じた補佐役の存在が不可欠となったのである。

文安4年(1447)、幕府は、
後花園天皇の綸旨まで出して、憲実の帰参を強請。
だが、
2度目とあって、
憲実は頑なに復任を辞した。
このとき、
すでに伊豆狩野に退いている。

憲実の辞意が固いと見るや、
幕府は、
すでに家臣に担がれて還俗していた、憲実の長男竜忠(憲忠)を、
関東管領とすることとした。
憲実に、父として関東管領憲忠を補佐させることで、
関東政界にかかわらせることとしたのだが、
憲実は、憲忠はすでに義絶しているとして、これも拒否。


僧となり、政治の世界に決別を告げた憲実(号長棟)は、
主家を討った罪報の全国行脚に出る。
文安5年(1448)には京都を経て、さらに西へ西へ、
享徳元年(1452)には、
関東から遠く離れた本州の西の端、長門国に至り、
深川の大寧寺に入ったとされる。
ここで、大寧寺住持竹居正猷の弟子となり、
槎留軒に住して、儒と禅に没頭した。
長棟43歳。

この間、
幕府は東国情勢安定のため、
なおも憲実帰参のことを繰り返していた。
しかし、享徳3年(1454)末、
新たな鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉憲忠のもとでは、
安定を見なかった東国情勢は、
公方成氏による管領憲忠の謀殺という、最悪の結果を招き、
享徳の乱を勃発させた。
さらに、
憲忠の跡には、
憲実が京都奉公を命じた次男房顕(竜春)が擁せられ、
公方成氏に対抗する上杉方の大将に立てられたが、
寛正7年(1466)2月、武蔵五十子での陣中で病没。


その次男の死を聞いたかどうか、
翌閏2月の6日、
長棟は大寧寺槎留軒でその生涯を閉じた。
享年57歳。

画僧小栗宗湛は、次のように評している。

 人皆その風を望む。
 敬せざるなし。
 忽ち逝去を聞き、
 感ずべき慕うべきなり。(『蔭涼軒日録』)


幕府の命とはいえ、主家を二度までも死に至らしめ、
さらには、
子息を世俗の争いの犠牲として喪った。
俗世の身分を捨て、復帰を頑なに拒み、
仏道にのめり込むには十分であろう。

大寧寺境内に、
憲実の墓と伝えられる石塔が、ひっそりと立っている。
大寧寺は、中国地方の戦国大名大内義隆自害の地としても知られている。





〔参考〕
田辺久子『上杉憲顕(人物叢書)』 (吉川弘文館 1999年)
小国浩寿『鎌倉府と室町幕府』 (吉川弘文館 2013年)
則竹雄一『古河公方と伊勢宗瑞』 (吉川弘文館 2012年)
PR
Comment
Name:
Title:
Color:
Mail:
URL:
Comment:
Pass:   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
148  147  146  145  144  143  142  141  140  139  138 
ブログ内検索
死因
病死

 :病気やその他体調の変化による死去。
戦死

 :戦場での戦闘による落命。
誅殺

 :処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害

 :切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死

 :事故・災害等による不慮の死。
不詳

 :謎の死。
本サイトについて
 本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
 当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
 内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
最新コメント
[10/20 世良 康雄]
[08/18 記主]
[09/05 記主]
[04/29 記主]
[03/07 記主]
[01/24 記主]
[03/18 記主]
[03/20 記主]
[07/19 記主]
[06/13 記主]
アクセス解析
忍者アナライズ
P R
Admin / Write
忍者ブログ [PR]