死に様データベース
《病死》 《1426年》 《10月》 《16日》 《享年49歳》
室町幕府管領。
摂津・阿波・讃岐守護。
管領在任中には、
伊勢北畠満雅の討伐や、
関東の上杉禅秀の乱、
その後の鎌倉公方足利持氏との関係悪化、
対馬応永の外寇、といった地方の混乱や、
将軍連枝足利義嗣の出奔、
将軍近習富樫満成の失脚など、幕政の動揺もあったが、
将軍足利義持を支えて、乗り切っている。
応永33年(1426)10月上旬、
細川満元(法名道歓)は、腫物に悩まされていた。
それもやや悪性のものであったらしい。
宿老の病状を心配した室町殿足利義持は、見舞いにゆこうとし、
三宝院満済に、治癒の祈祷と併せて、
予め満元の様子を見てくることを命じた。
10月7日、
やってきた満済に面会した満元は、
それほど苦しそうな様子ではなかったが、
視界にやや不調があったという。
翌8日、
義持は満元を見舞い、腫物の様子を見た。
満元は、10月5日より、
家臣の安富宝城が「よく効く」として進上した薬を使用していたが、
どうもこれがよくなかったらしい、
という話が義持周辺で言われた。
医師の坂胤能が、
「この薬のこと、不審なり」(『満済准后日記』)
と疑義を呈したという。
こうした満元の病状に、幕府首脳は動揺したようである。
「およそ〈細川〉京兆入道(満元)のこと、
天下の重人なり。
ご政道等一方の意見者の間、
御所様(足利義持)かたがたご仰天か。」(『満済准后日記』)
14日、
満元の腫物は悪化した。
医師坂胤能は、「難儀」と診ている。
義持は、再び見舞いにゆこうとし、
またしても、先んじて満済を遣わした。
訪れた満済に、満元は起き上がって対面した。
意識等は変わりなかったが、
病状は相当なものであった。
まもなく訪れた義持は、
薬を違えたことを責めたが、
もはや後の祭りとせざるを得なかった。
この日、義持は、
嫡男持元へ、満元の跡目を安堵した。
15日、
すでに先が長くないことを悟ったか、
満元は辞世の歌を詠んでいる。
ことし又命の露のそめいだす
座のもみぢを人や見なれん (『満済准后日記』)
16日午後(午の刻の終わり〈午後1時頃〉とも、申の刻の初め〈夕方4時頃〉とも)、
満元は、
諸仏無増処
衆生又不滅 (『満済准后日記』)
の2句の偈をしたため、端座入滅。
享年49歳。
「平生一義神妙の仁か。
御所様(足利義持)もってのほかのご周章と云々。」(『満済准后日記』)
人々は、3日間遊興を慎んだという。
義持は、焼香にゆくつもりであった。
しかし、
義持が、焼香のために細川亭に入ると、
室町殿は30日間の触穢となる。
そこで、
公家や諸門跡には、室町殿に参入しないよう布達された。
ところが、比叡山から、
翌年正月の山門礼拝講で頭人をつとめる義持本人が、触穢になっては困る、
との訴えがあり、
義持自身の焼香も中止され、
荼毘への参列も取りやめとなった。
「天下の重人」「神妙の仁」(『満済准后日記』)
「執政の器」「古昔の大臣に異なるべからざるか」(『薩戒記』)
と評価の高い満元であったが、
死後の弔いは、現実的な問題で処理されている。
なんとも不憫であるような。
なお、
献じた薬が問題視され、義持の不興を買った安富宝城は、
つとめていた東寺領備中国新見荘の代官を辞め、
高野山に隠遁したという。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『大日本古記録 薩戒記 3』 (岩波書店 2006年)
東京大学史料編纂所データベース
室町幕府管領。
摂津・阿波・讃岐守護。
管領在任中には、
伊勢北畠満雅の討伐や、
関東の上杉禅秀の乱、
その後の鎌倉公方足利持氏との関係悪化、
対馬応永の外寇、といった地方の混乱や、
将軍連枝足利義嗣の出奔、
将軍近習富樫満成の失脚など、幕政の動揺もあったが、
将軍足利義持を支えて、乗り切っている。
応永33年(1426)10月上旬、
細川満元(法名道歓)は、腫物に悩まされていた。
それもやや悪性のものであったらしい。
宿老の病状を心配した室町殿足利義持は、見舞いにゆこうとし、
三宝院満済に、治癒の祈祷と併せて、
予め満元の様子を見てくることを命じた。
10月7日、
やってきた満済に面会した満元は、
それほど苦しそうな様子ではなかったが、
視界にやや不調があったという。
翌8日、
義持は満元を見舞い、腫物の様子を見た。
満元は、10月5日より、
家臣の安富宝城が「よく効く」として進上した薬を使用していたが、
どうもこれがよくなかったらしい、
という話が義持周辺で言われた。
医師の坂胤能が、
「この薬のこと、不審なり」(『満済准后日記』)
と疑義を呈したという。
こうした満元の病状に、幕府首脳は動揺したようである。
「およそ〈細川〉京兆入道(満元)のこと、
天下の重人なり。
ご政道等一方の意見者の間、
御所様(足利義持)かたがたご仰天か。」(『満済准后日記』)
14日、
満元の腫物は悪化した。
医師坂胤能は、「難儀」と診ている。
義持は、再び見舞いにゆこうとし、
またしても、先んじて満済を遣わした。
訪れた満済に、満元は起き上がって対面した。
意識等は変わりなかったが、
病状は相当なものであった。
まもなく訪れた義持は、
薬を違えたことを責めたが、
もはや後の祭りとせざるを得なかった。
この日、義持は、
嫡男持元へ、満元の跡目を安堵した。
15日、
すでに先が長くないことを悟ったか、
満元は辞世の歌を詠んでいる。
ことし又命の露のそめいだす
座のもみぢを人や見なれん (『満済准后日記』)
16日午後(午の刻の終わり〈午後1時頃〉とも、申の刻の初め〈夕方4時頃〉とも)、
満元は、
諸仏無増処
衆生又不滅 (『満済准后日記』)
の2句の偈をしたため、端座入滅。
享年49歳。
「平生一義神妙の仁か。
御所様(足利義持)もってのほかのご周章と云々。」(『満済准后日記』)
人々は、3日間遊興を慎んだという。
義持は、焼香にゆくつもりであった。
しかし、
義持が、焼香のために細川亭に入ると、
室町殿は30日間の触穢となる。
そこで、
公家や諸門跡には、室町殿に参入しないよう布達された。
ところが、比叡山から、
翌年正月の山門礼拝講で頭人をつとめる義持本人が、触穢になっては困る、
との訴えがあり、
義持自身の焼香も中止され、
荼毘への参列も取りやめとなった。
「天下の重人」「神妙の仁」(『満済准后日記』)
「執政の器」「古昔の大臣に異なるべからざるか」(『薩戒記』)
と評価の高い満元であったが、
死後の弔いは、現実的な問題で処理されている。
なんとも不憫であるような。
なお、
献じた薬が問題視され、義持の不興を買った安富宝城は、
つとめていた東寺領備中国新見荘の代官を辞め、
高野山に隠遁したという。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『大日本古記録 薩戒記 3』 (岩波書店 2006年)
東京大学史料編纂所データベース
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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