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死に様データベース
《誅殺》 《1417年》 《閏5月》 《13日》 《享年不明》


上野国人。上野新田荘領主。
新田氏惣領。


関東管領をつとめた上杉禅秀の娘を娶り、
父祖以来の鎌倉府上層部とのつながりを、さらに強固なものとした。

応永23年(1416)10月、
禅秀が、鎌倉公方足利持氏にクーデターを起こす。
岩松満純も、娘婿としてこれに参加し、
公方持氏の追い落としを成功させた。

クーデター成功後は、本国上野に戻り、
持氏方の関東管領上杉憲基勢と戦った。
反クーデター軍の掃討に乗り出したつもりなのかもしれないが、
敗北を重ね、
最終的に、応永24年(1417)正月、
持氏方の鎌倉回復・禅秀打倒を許した。


禅秀の自害後、
満純は、残党狩りの追っ手を逃れて、行方をくらます。
同年3月には、
本領から遥か遠い、陸奥白河周辺に潜んでいることが発覚し、
公方持氏からも室町幕府からも、軍勢が差し向けられたが、
その手もかいくぐって、なおも逃げた。


閏5月頃、満純に再起のときがくる。
満純は、本領の上野に戻り、与党を集めて蜂起した。
だが、
武蔵周辺まで出張ってきたところで、
討伐軍の上野国人舞木持広と合戦し、
あっけなく生け捕られた。
鎌倉に連行され、竜の口にて斬首。


江ノ島を眼前に望む竜の口は、
今日でこそ、風光明媚で観光客も集う土地であるが、
中世に処刑場であったのは、夙に有名な話。



〔参考〕
『神奈川県史 資料編3 古代中世(3上)』 (神奈川県 1975)
『新編埼玉県史 資料編8 中世4 記録2』 (埼玉県 1986)
植田真平「上杉禅秀の乱考」 (池享編『室町戦国期の社会構造』吉川弘文館 2010)
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