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死に様データベース
《自害》 《1475年》 《10月》 《某日》 《享年53歳》


南方の海のかなたには、
「補陀落」と呼ばれる観音の浄土がある、とされた。
浄土を目指す人々は、熊野や土佐の海岸から船に乗り、補陀落に向かった。
古来より幾人もの人々が、黒潮の荒い太平洋に小舟で漕ぎ出で、
「補陀落渡海」を遂げたのである。


さて、万里小路冬房

従一位、准大臣。
万里小路時房の嫡男。
はじめは成房と名乗った。

伝奏として公武の間で活躍した父時房と同じく、
冬房もまた弁官や蔵人頭を経て、伝奏もつとめ、
後花園上皇や室町殿足利義政の信任を得ていたと思しい。
妻は、同じく伝奏をつとめた広橋兼郷の娘。


応仁元年(1467)9月、
おりからの洛中の戦乱(応仁・文明の乱)を前に、
世を儚んだ後花園上皇が突然の出家を遂げると、
従一位、准大臣に叙されたばかりの冬房も、
その他の上皇の近臣たちとともに出家を果たした。
法名を弘房、あるいは弘円としたという。

万里小路家は、甘露寺家から迎えた養子の春房が継ぐこととなったが、
この春房も、数年後に出奔、出家をしている。


出家後の冬房の足取りはよくわからない。


出家から9年後の文明8年(1476)のこと、
3月27日の夜、女官の権大納言典侍(万里小路命子)が、
「父冬房が去年の10月頃、補陀落山に参詣した」(『実隆公記』)として、籠居した。
同じ年の6月中旬、
春房に代わる万里小路家の跡取り、阿子丸(のちの賢房)の除服(忌明け)について、
公家たちの間で調整がなされている(『親長卿記』)
義姉権大納言典侍と同じく、養父冬房の死により服喪していたのだろう。

『尊卑分脈』が記すとおり、
どうやら冬房は、「菩提心」により熊野那智より「補陀落渡海」を遂げたようだ。
隠遁後とはいえ、もと公卿の補陀落渡海は希有なことだろう。

なお、
『尊卑分脈』には、文明17年(1476)12月21日のことと年次に混乱があり、
『続史愚抄』には、文明7年(1475)11月22日のこととあるが、
本頁では、上記の『実隆公記』によって10月某日とした。



〔参考文献〕
根井浄『補陀落渡海史』 (法蔵館 2001年)
根井浄『観音浄土に船出した人びと―熊野と補陀落渡海―』 (歴史文化ライブラリー 吉川弘文館 2008年)
『増補史料大成 親長卿記 2』 (臨川書店 1985年)
東京大学史料編纂所データベース
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