死に様データベース
《誅殺》 《1225年》 《10月》 《10日》 《享年不明》
賀茂社の祢宜。
承久3年(1221)7月末、
賀茂社の祢宜賀茂祐綱は、承久の乱に加担したかどで六波羅探題に捕らえられた。
甲斐に流罪となった祐綱に代わって、祢宜に任命されたのが、
祐綱の異母兄で、賀茂社の摂社河合社の祢宜だった賀茂祐頼であった。
ちなみに、
かつて祐頼の父祐兼が、庶子の祐頼を河合社祢宜の座に押し込んだ際、
その対立候補だったのが鴨長明だったという。
長明はその敗北を機に出家して、のちに『方丈記』を編むこととなる。
閑話休題。
弟祐綱のつまづきによって、
幸運にも賀茂社祢宜の座に入れた祐頼だったが、
その最期もまたあえないものだった。
4年後の嘉禄元年(1225)10月10日正午ごろ、
摂社の巡拝を行っていた祐頼は、
河合社の北あたりで、黒染めの衣に笠をかぶった法体の男に襲われた。
周囲の田んぼからも、賊の仲間5、6人が飛び出てきて、
祐頼の供の者たちは逃げ散ってしまい、
残された祐頼は、あっけなく斬り殺されてしまった。
白昼のできごとであった。
下手人たちは東のほうに逃げて行ったというが、行方を知る者はなかった。
12日夜、
犯人不明のまま、祐頼の遺骸は船岡(現・京都市北区)あたりに葬られた。
この奇怪な事件について、人々が噂しあったのはいうまでもない。
黒幕としてまず疑われたのが、
祢宜を罷免され流罪となっていた異母弟の祐綱と、
その祐綱の同母弟で、権祢宜の祐道らである。
腹違いの兄弟間で、祢宜の座をめぐる対立があったというのだ。
実際に、祐頼の跡には権祢宜祐道が祢宜に補任されたという。
さらに数日後には、
社務を引き継いだ祐道が、伝来の文書等も引き継ごうとしたところ、
祐頼の息子祐高らが武装して抵抗した、との騒動もあったらしい。
また、
事件の前日に祐頼が境内の櫨の木を伐採したことの、罰が当たったのだ、
という噂もあったという。
結局、
祐道と祐高の争いは、六波羅探題の法廷に持ち込まれた。
11月16日に行われた裁判では、
祐道の裏で流罪中の祐綱が糸を引いていた、との理解に傾き、
翌嘉禄2年(1226)2月ごろには、証拠ありとして、
祐綱が鎌倉幕府によって再び禁錮に処されることとなり、
陰陽師の漏刻博士賀茂宣知も、共犯者として六波羅探題に拘束された。
祐高に優位に事態が動いたのは、
祐道よりも多額の賄賂が効いたのかもしれないが、
なにより、祐高の妻が有力御家人の三浦義村の縁者だったことによるようだ。
事件から5か月後の3月21日、
祐高は、鎌倉幕府の推挙によって、賀茂社の祢宜に任命された。
ところが、これで決着と思いきや、
4月以降も六波羅探題の詮議は続いた。
下手人の山法師も捕えられて、犯行を自白し、
一方の祐高による策謀も発覚したというが、
それはまた別の話。
〔参考〕
東京大学史料編纂所データベース
『冷泉家時雨亭文庫 別巻3 翻刻 明月記 2』(朝日新聞出版 2014年)
賀茂社の祢宜。
承久3年(1221)7月末、
賀茂社の祢宜賀茂祐綱は、承久の乱に加担したかどで六波羅探題に捕らえられた。
甲斐に流罪となった祐綱に代わって、祢宜に任命されたのが、
祐綱の異母兄で、賀茂社の摂社河合社の祢宜だった賀茂祐頼であった。
ちなみに、
かつて祐頼の父祐兼が、庶子の祐頼を河合社祢宜の座に押し込んだ際、
その対立候補だったのが鴨長明だったという。
長明はその敗北を機に出家して、のちに『方丈記』を編むこととなる。
閑話休題。
弟祐綱のつまづきによって、
幸運にも賀茂社祢宜の座に入れた祐頼だったが、
その最期もまたあえないものだった。
4年後の嘉禄元年(1225)10月10日正午ごろ、
摂社の巡拝を行っていた祐頼は、
河合社の北あたりで、黒染めの衣に笠をかぶった法体の男に襲われた。
周囲の田んぼからも、賊の仲間5、6人が飛び出てきて、
祐頼の供の者たちは逃げ散ってしまい、
残された祐頼は、あっけなく斬り殺されてしまった。
白昼のできごとであった。
下手人たちは東のほうに逃げて行ったというが、行方を知る者はなかった。
12日夜、
犯人不明のまま、祐頼の遺骸は船岡(現・京都市北区)あたりに葬られた。
この奇怪な事件について、人々が噂しあったのはいうまでもない。
黒幕としてまず疑われたのが、
祢宜を罷免され流罪となっていた異母弟の祐綱と、
その祐綱の同母弟で、権祢宜の祐道らである。
腹違いの兄弟間で、祢宜の座をめぐる対立があったというのだ。
実際に、祐頼の跡には権祢宜祐道が祢宜に補任されたという。
さらに数日後には、
社務を引き継いだ祐道が、伝来の文書等も引き継ごうとしたところ、
祐頼の息子祐高らが武装して抵抗した、との騒動もあったらしい。
また、
事件の前日に祐頼が境内の櫨の木を伐採したことの、罰が当たったのだ、
という噂もあったという。
結局、
祐道と祐高の争いは、六波羅探題の法廷に持ち込まれた。
11月16日に行われた裁判では、
祐道の裏で流罪中の祐綱が糸を引いていた、との理解に傾き、
翌嘉禄2年(1226)2月ごろには、証拠ありとして、
祐綱が鎌倉幕府によって再び禁錮に処されることとなり、
陰陽師の漏刻博士賀茂宣知も、共犯者として六波羅探題に拘束された。
祐高に優位に事態が動いたのは、
祐道よりも多額の賄賂が効いたのかもしれないが、
なにより、祐高の妻が有力御家人の三浦義村の縁者だったことによるようだ。
事件から5か月後の3月21日、
祐高は、鎌倉幕府の推挙によって、賀茂社の祢宜に任命された。
ところが、これで決着と思いきや、
4月以降も六波羅探題の詮議は続いた。
下手人の山法師も捕えられて、犯行を自白し、
一方の祐高による策謀も発覚したというが、
それはまた別の話。
〔参考〕
東京大学史料編纂所データベース
『冷泉家時雨亭文庫 別巻3 翻刻 明月記 2』(朝日新聞出版 2014年)
PR
Comment
ブログ内検索
人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
最新コメント
[10/20 世良 康雄]
[08/18 記主]
[09/05 記主]
[04/29 記主]
[03/07 記主]
[01/24 記主]
[03/18 記主]
[03/20 記主]
[07/19 記主]
[06/13 記主]
アクセス解析
忍者アナライズ
P R