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死に様データベース
《病死》 《1368年》 《9月》 《29日》 《享年不明》


鎌倉公方家の上﨟女房。
初代鎌倉公方足利基氏の乳母。
その嫡男金王丸(のちの足利氏満)の介添え役。
清江」はおそらく法名で、女房名等は未詳。


清江夫人の出自は明らかでないが、
上﨟女房であることからすると、
ある程度身分の高い家の出身だったと考えられる。
あるいは、足利一門の出だったろうか。

清江は、京都生まれの足利基氏に乳母として仕え、
基氏が9歳で鎌倉に下るのに従ったと考えられる。


基氏の実母は赤橋登子であり、
足利尊氏の正室、その嫡男義詮の実母として、
貞治4年(1365)に没するまで京都で暮らしていた。
清江の周辺を見ていると、
鎌倉不在の基氏の実母に擬されて、
公方御所のひとつである西御門御所の別殿に住まい、
丁重に遇されていたようにも思われる。


ただ、実子にも等しい基氏は、
貞治6年(1367)4月26日、
28歳で先立ってしまった。
清江が悲しみに暮れたことは想像に難くない。


それから1年半をまたない応安元年(1368)9月29日、
清江も逝去した。
50歳前後と推測される。
10月5日、基氏の菩提寺である鎌倉瑞泉寺で荼毘にふされ、
基氏以下の信頼の厚かった義堂周信が、仏事を主導した。
そして、清江の遺言により、
住まいであった西御門御所の別殿を寺院にして、「保寿院」と名付けられた。
四十九日の法要も、この保寿院でされたという。


かくして、
保寿院は鎌倉公方家にとって重要な寺院となった。
12月には、金王丸とその母清渓尼の命により、
義堂周信が保寿院主となっている。

約半世紀後、
金王丸の腹心のが、金王丸のに当院の前で謀叛の兵を挙げるのは、
また別の話。


〔参考〕
蔭木英雄『訓注 空華日用工夫略集―中世禅僧の生活と文学―』(思文閣出版、1982年)
『神奈川県史編集資料集 第4集 鎌倉大日記』(神奈川県企画調査部県史編集室、1972年)
貫達人・川副武胤『鎌倉廃寺事典』(有隣堂、1980年)
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