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死に様データベース
《病死》 《1433年》 《閏7月》 《13日》 《享年39歳》


足利義満の娘。
母は寧福院(源春子)。
大慈院門主。

父義満の寵愛を受けた栄山聖久(幼名未詳)は、
父の正妻日野康子の猶子となったのち、
崇賢門院(広橋仲子、後光厳院室、後円融院母)の猶子となり、
その遺産を継ぐことが約束された。
北山殿の愛娘として、貴族社会でも厚く遇され、
ふたりの養母の没後は、
予定どおり、康子の邸宅南御所と、崇賢門院が建てた大慈院を継承し、
「南御所」あるいは「大慈院殿」と呼ばれた。

尼門跡となった大慈院には、
聖久とその同母妹聖紹以下、将軍家の娘が入れられ、
聖久には姪にあたる、義持の娘と義教の娘も、
それぞれ聖久の弟子として入寺した。
ただし、このうち義教の娘は、
永享3年(1431)に3歳で夭逝してしまっている。


永享5年(1433)秋、痢病に苦しんでいた聖久は、
閏7月初旬ごろから危篤に陥り、
13日朝、息を引き取った。
39歳。

当時の室町殿は、聖久の異母兄足利義教である。
本来ならば、室町殿の妹が身罷ったということで、
諸人が弔問に訪れるところだが、
入寺していた義教の娘が夭折していたことで、
兄妹の関係は微妙なものになっていたらしい。
そのため、義教はもとより、ほかの兄弟たちも弔問に赴かず、
生前の盛んなころに比べれば、実に寂しい没後であった。
義教の命令により、中陰も早々に切り上げられたという。


大慈院の所領は、3,000貫分と莫大なものであり、
その継承のゆくえも注目されたが、
義教の命を待つこととなり、
結局、聖久の妹聖紹ののち、義持の娘が継いだようである。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 4』(宮内庁書陵部、2008年)
臼井信義『足利義満〈人物叢書〉』(吉川弘文館、1960年)
湯之上隆「足利氏の女性たちと比丘尼御所」(『日本中世の政治権力と仏教』思文閣出版、2001年)
小川剛生『足利義満 公武に君臨した室町将軍』(中公新書、2012年)
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