死に様データベース
《病死》 《1342年》 《12月》 《23日》 《享年74歳》
上杉頼重の娘。
父の奉公先である足利家に仕え、
嘉元3年(1305)、36歳の年、当主貞氏との間に、息子高氏を、
その翌々年、次男高国を産んだ。
貞氏には別に正妻がおり、その間には嫡男も生まれていたが、
その嫡男が早世してしまったことから、高氏が足利家の跡取りとなり、
清子も当主の母となった。
いわずもがな、
その高氏こそ、室町幕府初代将軍足利尊氏その人であり、
次男高国改め直義が、草創期足利政権の立役者であることも、多言を要すまい。
清子はその二人の母として、「大方殿」「大方禅尼」と呼ばれ、
丁重に遇された。
あわせて、清子の兄憲房や甥の重能・朝定・憲顕らも、政権中枢で活躍し、
上杉氏繁栄の礎をなした。
60代半ばを過ぎての身辺の急変を、
清子はどのように受け止めたのだろうか。
当時の史料からは、
清子が京都錦小路に居を構え、
宣政門院(後醍醐の娘、光厳院室)らと交わり、
宮廷歌壇にもかかわったことがうかがえる。
また、建武5年(1338)5月27日付けの清子書状では、
5月22日、天王寺(大阪市天王寺区)と和泉堺(堺市堺区)で、
陸奥国司北畠顕家が討たれ、その首級が京都に運ばれました。
この合戦に、八幡神や住吉大神のご加勢があったことは明らかで、
不思議なことに、船が6艘も焼けて沈んだそうです。
ひとえに神々の思し召しであるでしょう。
今後もたのもしい限りです。
…細川兵部少輔(顕氏)と武蔵守(高師直)の高名とのことで、
南朝の紀伊の軍勢も敗走したそうです。
この2人だからこそのことでしょう。(「上杉家文書」)
と、畿内の戦況を伝えている。
関東にいる親族の上杉一族に宛てたものと思われ、
女性が合戦のようすを伝えた、珍しいものとされている。
都鄙の連絡に、清子も重要な役割を果たしていた、といえようか。
康永元年(1342)12月23日、京都にて病没。
74歳とされる。
法名は雪庭。
はじめ等持院殿と追号されたが、
その後、この号は息子尊氏に転用され、
清子は果証院殿と改められた。
法要には、竺仙梵僊など名だたる高僧が列した。
北朝では、喪に服して30日間雑訴を停止し、
正月行事の節会も、鳴り物を中止した。
将軍実母の死去に、
各地の足利方諸将も、弔問に上洛したらしい。
ただ、越後出陣中の甥憲顕は、戦陣を離れることができず、
代わりに嫡男憲将を上洛させて、主君直義に慰められている。
南朝方は、足利方の動きが鈍くなったこの機を逃すまいと、
特に、奥羽での動きを活発化させており、
越後ではその対応のため、緊迫した状況が続いたようだ。
翌年3月、
清子に従二位が追贈された。
貞和4年(1348)、七回忌に行われた等持院の法華八講も、
佐々木導誉・二階堂時綱・長井広秀以下幕府の重臣5名が奉行をつとめるなど、
盛大に行われた。
没後に編纂された勅撰集『風雅和歌集』には、
次の清子の歌が収められている。
空にのみ散る計りにて今日幾か日をふる雪の積らざるらん
〔参考〕
東京大学史料編纂所データベース
清水克行『〈人を歩く〉足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013年)
山家浩樹「無外如大と無着」(『金沢文庫研究』301、1998年)
GERHART Karen M., "Reconstructing the Life of Uesugi Kiyoko", Japan review: Journal of the International Research Center for Japanese Studies, 31(2017)
上杉頼重の娘。
父の奉公先である足利家に仕え、
嘉元3年(1305)、36歳の年、当主貞氏との間に、息子高氏を、
その翌々年、次男高国を産んだ。
貞氏には別に正妻がおり、その間には嫡男も生まれていたが、
その嫡男が早世してしまったことから、高氏が足利家の跡取りとなり、
清子も当主の母となった。
いわずもがな、
その高氏こそ、室町幕府初代将軍足利尊氏その人であり、
次男高国改め直義が、草創期足利政権の立役者であることも、多言を要すまい。
清子はその二人の母として、「大方殿」「大方禅尼」と呼ばれ、
丁重に遇された。
あわせて、清子の兄憲房や甥の重能・朝定・憲顕らも、政権中枢で活躍し、
上杉氏繁栄の礎をなした。
60代半ばを過ぎての身辺の急変を、
清子はどのように受け止めたのだろうか。
当時の史料からは、
清子が京都錦小路に居を構え、
宣政門院(後醍醐の娘、光厳院室)らと交わり、
宮廷歌壇にもかかわったことがうかがえる。
また、建武5年(1338)5月27日付けの清子書状では、
5月22日、天王寺(大阪市天王寺区)と和泉堺(堺市堺区)で、
陸奥国司北畠顕家が討たれ、その首級が京都に運ばれました。
この合戦に、八幡神や住吉大神のご加勢があったことは明らかで、
不思議なことに、船が6艘も焼けて沈んだそうです。
ひとえに神々の思し召しであるでしょう。
今後もたのもしい限りです。
…細川兵部少輔(顕氏)と武蔵守(高師直)の高名とのことで、
南朝の紀伊の軍勢も敗走したそうです。
この2人だからこそのことでしょう。(「上杉家文書」)
と、畿内の戦況を伝えている。
関東にいる親族の上杉一族に宛てたものと思われ、
女性が合戦のようすを伝えた、珍しいものとされている。
都鄙の連絡に、清子も重要な役割を果たしていた、といえようか。
康永元年(1342)12月23日、京都にて病没。
74歳とされる。
法名は雪庭。
はじめ等持院殿と追号されたが、
その後、この号は息子尊氏に転用され、
清子は果証院殿と改められた。
法要には、竺仙梵僊など名だたる高僧が列した。
北朝では、喪に服して30日間雑訴を停止し、
正月行事の節会も、鳴り物を中止した。
将軍実母の死去に、
各地の足利方諸将も、弔問に上洛したらしい。
ただ、越後出陣中の甥憲顕は、戦陣を離れることができず、
代わりに嫡男憲将を上洛させて、主君直義に慰められている。
南朝方は、足利方の動きが鈍くなったこの機を逃すまいと、
特に、奥羽での動きを活発化させており、
越後ではその対応のため、緊迫した状況が続いたようだ。
翌年3月、
清子に従二位が追贈された。
貞和4年(1348)、七回忌に行われた等持院の法華八講も、
佐々木導誉・二階堂時綱・長井広秀以下幕府の重臣5名が奉行をつとめるなど、
盛大に行われた。
没後に編纂された勅撰集『風雅和歌集』には、
次の清子の歌が収められている。
空にのみ散る計りにて今日幾か日をふる雪の積らざるらん
〔参考〕
東京大学史料編纂所データベース
清水克行『〈人を歩く〉足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013年)
山家浩樹「無外如大と無着」(『金沢文庫研究』301、1998年)
GERHART Karen M., "Reconstructing the Life of Uesugi Kiyoko", Japan review: Journal of the International Research Center for Japanese Studies, 31(2017)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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