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死に様データベース
《誅殺》 《1463年》 《8月》 《25日》 《享年不明》


東寺領 備中新見荘領家方の代官。


備中守護細川氏に委任支配されていた、東寺領の新見荘領家方であったが、
細川氏代官の横暴に苦しんだ荘民たちは、
寛正2年(1461)6月、
ついに一揆して、細川氏代官を追放し、
東寺の直接支配に復することに成功した。
そうして、
東寺より代官として派遣されてきたのが、
祐清である。


寛正3年(1462)7月26日、
祐清は供を連れて京都を出発し、
8月5日、新見荘に入った。
すぐに、祐清による代官支配が始まるが、
荘民の期待に反して、
祐清の支配は、なかなかに苛烈なものだった。
祐清は、たびたび荘内を巡検して、
未納の年貢などを厳しく取り立てたのである。


寛正4年(1463)8月25日、
この日も祐清は、兵衛二郎と彦四郎の2人の従者を連れて、
荘内の巡検に出発した。
未の刻(午後2時頃)、
地頭方の名主谷内の、新造中の屋敷の前を通りかかったところ、
「あの代官、下馬をしないじゃないか」
と、谷内の家の者に見咎められ、追い詰められた。
祐清は、
「谷内の家と知らなかったのだ。下馬せず、すまなかった。」
と、馬を下りて、非礼を詫びた。
しかし、
谷内家の者たちは大勢ひきつれて、抜刀して祐清らを取り囲んだ。
そうなると、祐清も刀を抜かざるを得ず、
両者じりじりと対峙する格好となった。

と、そこへ、
谷内本人と、その同輩の名主横見が駆けつけ、
「刀をお収めください」と仲裁に入ったため、
祐清も、「ならばともかく」と刀を収めた。
すると突然、
横見と谷内が抜刀して、祐清に斬りかかり、
従者兵衛二郎もろとも、殺してしまった。


酉の刻(午後6時頃)、
辛くもその凄惨な現場を脱した祐清の従者彦四郎は、
領家方の荘官金子衡氏・福本盛吉・宮田家高に、事態を報告した。
谷内らの仕打ちに怒った金子らと、領家方の荘民たちは、
すぐさま谷内の屋敷に馳せ向かい、
報復として、
谷内の屋敷、次いですぐ隣の地頭方政所を焼き打ちして、
掠奪を行った。


谷内・横見の行いは、祐清に成敗された領家方名主豊岡の敵討ちだ、という説や、
下馬咎めなどという不当な言いがかりこそ問題だ、というような主張が、
事件の後に飛び交ったが、
根本には、
新見荘内における地頭方と領家方の潜在的な対立があったらしい。


そして、この事件には後日談がもうひとつ。

京都より派遣されてきた祐清であったが、
赴任先の新見荘に妻を持った。
荘官福本盛吉の妹で、名を“たまがき”といった。

たまがきは、夫祐清の横死後、
領主東寺に向けて、以下のような上申書を送った。

 諸事、お取り計らいいただきたく、
 かように一筆進上いたします。
 さて、祐清があのようなことになったことは、
 非常においたわしいことであります。
 そのとき、私は政所におりましたが、
 その後事について、恥を忍んで申し上げます。
 祐清の遺品については、
 記録をとって、荘官らに差し上げましたので、
 きっと荘官らから報告があるでしょう。
 そのうち、
 祐清の着物は、事件の際に斬られて、遺失しました。
 また、残ったものも、
 その後、いろいろ尽力してくれた僧に与えたり、
 葬礼の費用に宛てたりしました。
 詳しい明細は、別途報告いたします。
 祐清とわたくしとは、生前親しくしておりました。
 祐清の持ち物を少々、形見としていただければ、
 どんなに嬉しいことでしょう。
 重ねて、このことは荘官らにも申し上げます。
 祐清の遺品は、
 すべて荘官らに差し上げましたが、
 別の書き付けのとおりにいただければ、
 こんなに嬉しいことはございません。
 あなかしく。

 ・所持金1貫文 後事にいろいろ使用しました。
 ・青小袖1つ 僧に与えました。
 ・抜手綿2つ 同じく僧に与えました。
 ・帷子1つ 同じく僧に与えました。
 ・畳表5枚 売って後事のことに宛てました。
 以上のものは、それぞれそのように使用しました。
 そのことについては、お詫び申し上げます。
 ・白い小袖1つ
 ・紬の表1つ
 ・布子1つ
 この3つを祐清の形見にいただければ、
 どんなに嬉しいでしょう。

原文かな書きのこの文書は、
たまがき自筆のものといい、
夫を喪った女性の悲痛な手紙とされている。
特に、中世において農村女性の手紙は珍しく、
貴重な例とされている。

しかし、
内容は形見わけや、葬礼等の費用に関するもので、
「悲痛」とまでいえるかどうか。
また、筆跡は男性のそれに近く、
兄福本盛吉の意向が強くはたらいたもの、とする見解もある。
はたして如何に。



〔参考〕
『新見庄 生きている中世』 (備北民報社 1983)
辰田芳雄「祐清殺害事件新論」 (『日本史研究』492 2003)
渡邊太祐「新見荘祐清殺害事件と豊岡成敗」 (『日本歴史』718 2008)
清水克行「新見荘祐清殺害事件の真相」
 (東寺文書研究会編『東寺文書と中世の諸相』 思文閣出版 2011)
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