死に様データベース
《自害》 《1447年》 《某月》 《某日》 《享年15歳》
二階堂治部大輔の娘、二階堂為氏の妻。
同時代史料で存在を確かめられる人物でないが、
陸奥南部の領主須賀川二階堂氏の興亡を描いた軍記物『藤葉栄衰記』などから、
その三千代姫をめぐる物語を見てみたい。
藤原姓二階堂氏の一族で、陸奥国岩瀬郡(現・福島県中通り中南部)を所領とする一流は、
当主が鎌倉で鎌倉公方に仕えつつ、
一族が須賀川(現・同須賀川市)に入って岩瀬郡を治めていた。
この岩瀬二階堂氏は、永享の乱で鎌倉公方足利持氏に与し、一時没落の憂き目を見たが、
嘉吉3年(1443)、二階堂為氏がわずか12歳で当主となり、
家の存亡はその幼い双肩にかけられた。
ところが、
須賀川に入っていた一族の治部大輔は、本家の為氏を軽んじて専横を重ね、
鎌倉への年貢運上も怠ったうえ、新たな課役を勝手にかけるなど、
領民からの搾取も行ったという。
為氏は、叔父の民部大輔を須賀川に派遣し、治部大輔を詰問させたが、
民部大輔はかえって丸め込まれ、治部大輔に饗応を受ける始末だった。
そればかりか、
治部大輔の妹で「容色世にすぐれ、嬋媚類いなかりける」といわれた千歳御前を妻に迎え、
すっかり本来の責務を忘れるありさまだった。
治部大輔の驕慢さはとどまることを知らず、
ついに、為氏みずから須賀川に下り、治部大輔を譴責することとした。
文安元年(1444)3月、為氏は一族・宿老以下400余騎を引き連れて鎌倉を発ち、
岩瀬に着いて、須賀川に討ち入ろうとしたが、
治部大輔も防備を固めていたために攻めあぐね、
南東方の和田城に留まらざるを得なかった。
治部大輔も、いまさら降伏したとて命はないものとわかっており、
必死の抵抗をしたのである。
治部大輔には、12歳になる愛娘がいた。
これまた「楊貴妃・西施も粧を恥じん容顔美麗にして、世に並びなし」といわれ、
また書や歌にも通じ、孝心も愛敬も廉直さも備えた娘だったという。
『藤葉栄衰記』にその名は示されていないが、
所伝によれば三千代姫といったという。
二階堂家のゆくすえを危ぶんだ宿老たちは、
この三千代姫を為氏の正妻とし、
為氏と治部大輔を聟・舅の間柄とすることで、
争いを収めようと画策した。
岩瀬郡の周辺には侵食を狙う勢力もあり、
いつまでも内輪もめを続けているわけにはいかなかったのである。
為氏も治部大輔もこの提案を受け入れ、3年の後、ようやく為氏と三千代姫の婚儀がなった。
『藤葉栄衰記』は、祝言に臨んだ三千代姫の姿を、
帳の隙よりこの御前の御容を密かに見たてまつるに、
漢の李夫人を写せし画も、是を画かば、ついに筆の及ばざることを怪しみ、
一度笑める眸には、金谷千樹の華、薫りを恥じて四方の嵐に誘われ、
風に見たる容貌は、銀漢万里の月も、粧いを妬みて五更の霧に沈むべし
(読み下し、一部修正)
と、『太平記』「北野通夜物語事」の楊貴妃をたたえることばそのままに、褒めそやしている。
為氏も三千代姫にすっかり心を許し、ふたりは睦まじく暮らしたという。
文安4年(1447)頃のこと。為氏は16歳、三千代姫は15歳であった。
ところが、
治部大輔は岩瀬郡を為氏に明け渡して隠居するという約束を反故にし、
須賀川城に居座って為氏を軽んじ続けた。
為氏は三千代姫を慮って、強硬策をとらなかったが、
為氏の宿老たちは、国を傾けた楊貴妃や西施の例をあげ、
三千代姫を須賀川に送り返して、治部大輔を追討すべきだと主張した。
彼らの必死の諫言に、為氏もついに了承し、
三千代姫を離縁して、宗像越中らの使者を添えて須賀川へ送り出した。
その動きを察知していた治部大輔も黙ってはいない。
道中の岩間あたりに兵を潜ませて、一行を襲わせた。
伏兵は、使者の倭文半内・宍草与市郎らを討ち取り、護衛の兵たちを逃げ散らせた。
だが、にわかの落雷に遭って、三千代姫を確保せずに須賀川に逃げ帰ってしまった。
三千代姫の乗った輿は、
須賀川城手前の栗谷沢(「暮谷沢」)のあたりに打ち捨てられた。
三千代姫は、須賀川へ向かうことも和田へ戻ることもせず、
ここで自らの死を覚悟したという。
お付きの女房たちを呼び寄せ、
「この唐鏡は母へ、金泥観音経と阿弥陀経は父治部大輔へ、
藤原定家筆の古今和歌集と伊勢物語は、おばの千歳御前へ」
とそれぞれ形見を託し、
手箱や小袖なども女房たちに分け与えた。
また、譜代の岩桐藤内左衛門に懐中の守刀の粟田口吉光を与え、
自分の命日に拈香を捧げてくれるよう頼んだ。
女房や乳母たちは涙にむせび、三千代姫に殉じようとしたが、
「独り来たり独り帰る道なれば、伴うことなし。死して益なきことなり。
汝らおのおの命を全うして、須賀川へ行きて形見の物を捧げて、
かくのごとき有り様をも申し、
念仏の一返も回向して、後世を弔わんこと第一の忠孝なるべし。」
と三千代姫にとどめられた。
まもなく、輿のうちより「南無」と唱える声がかすかに聞こえたかと思うと、
三千代姫は脇差しを自らの体に突き立てて自害した。
輿のうちには、
思ひきや問はば岩間の涙橋ながさで暇くれやさわとは
(「人問はば岩間の下の涙橋流さでいとま暮谷沢とは」とも)
限りある心の月の雲晴れて光とともにいる西のそら
という辞世の二首が記されてあったという。
三千代姫の死を見届けた乳母は、
三千代姫が自刃に用いた脇差しを口に含んで自害を図ったが、果たせず、
肩に突き立て直して絶命した。
それを見た岩桐藤内左衛門は、
「女儀なれども自害の様こそ清けれ。
我男と生まれ、いかでか女の心に劣るべし。
たといこのたび命生きて、須賀川の御城に立て籠もり、
為氏公の御勢に向かい、比類なき働きを仕りたりとも、
我何の面目あって、人に面を見することを得ん。
人たとい言わずとも、我独り心に愧じず。
また心も発さぬ出家入道も見苦しかるべし。
今は浮世に思い置くことなし。」
と思い直し、声高に念仏を十遍唱えて、腹を十文字に搔き破り、
さらに喉を搔き切って、座ったまま絶命した。
取り残された女房たちは、泣く泣く形見の物を抱えて須賀川に行き、
三千代姫と乳母と藤内左衛門の自害のさまを報告した。
このことは和田城にも伝わり、為氏はひどく消沈したという。
為氏と治部大輔の抗争が本格化するのは、まもなくのことであった。
冒頭でも述べたとおり、
いずれも同時代史料から確認できる話ではなく、
為氏や三千代姫の存在すら定かでない。
これらを伝える『藤葉栄衰記』は、二階堂家旧臣のうちの所伝をもとに、
近世初期までに成立した作品とされる。
三千代姫や千歳御前の容貌をことさら取り上げる語り口。
夫為氏に離縁され、父治部大輔にも厄介者扱いをされ、挙げ句に雑兵に置き捨てられて、
よすがを失い、死を選ぶほかなかった三千代姫の絶望。
「男に生まれて女に劣ってなるものか」という岩桐藤内左衛門の観念や虚栄。
いずれも中世末期から近世初期のジェンダー観をたしかに映している。
須賀川市栗谷沢には、三千代姫を弔う三千代姫堂が建っている。
〔参考〕
『続群書類従 第22輯上』(続群書類従完成会、1943年)
『須賀川市史 中世―二階堂領時代―』(福島県須賀川市教育委員会、1973年)
垣内和孝「須賀川二階堂氏の成立」(『室町期南奥の政治秩序と抗争』岩田書院、2006年、初出2005年)
二階堂治部大輔の娘、二階堂為氏の妻。
同時代史料で存在を確かめられる人物でないが、
陸奥南部の領主須賀川二階堂氏の興亡を描いた軍記物『藤葉栄衰記』などから、
その三千代姫をめぐる物語を見てみたい。
藤原姓二階堂氏の一族で、陸奥国岩瀬郡(現・福島県中通り中南部)を所領とする一流は、
当主が鎌倉で鎌倉公方に仕えつつ、
一族が須賀川(現・同須賀川市)に入って岩瀬郡を治めていた。
この岩瀬二階堂氏は、永享の乱で鎌倉公方足利持氏に与し、一時没落の憂き目を見たが、
嘉吉3年(1443)、二階堂為氏がわずか12歳で当主となり、
家の存亡はその幼い双肩にかけられた。
ところが、
須賀川に入っていた一族の治部大輔は、本家の為氏を軽んじて専横を重ね、
鎌倉への年貢運上も怠ったうえ、新たな課役を勝手にかけるなど、
領民からの搾取も行ったという。
為氏は、叔父の民部大輔を須賀川に派遣し、治部大輔を詰問させたが、
民部大輔はかえって丸め込まれ、治部大輔に饗応を受ける始末だった。
そればかりか、
治部大輔の妹で「容色世にすぐれ、嬋媚類いなかりける」といわれた千歳御前を妻に迎え、
すっかり本来の責務を忘れるありさまだった。
治部大輔の驕慢さはとどまることを知らず、
ついに、為氏みずから須賀川に下り、治部大輔を譴責することとした。
文安元年(1444)3月、為氏は一族・宿老以下400余騎を引き連れて鎌倉を発ち、
岩瀬に着いて、須賀川に討ち入ろうとしたが、
治部大輔も防備を固めていたために攻めあぐね、
南東方の和田城に留まらざるを得なかった。
治部大輔も、いまさら降伏したとて命はないものとわかっており、
必死の抵抗をしたのである。
治部大輔には、12歳になる愛娘がいた。
これまた「楊貴妃・西施も粧を恥じん容顔美麗にして、世に並びなし」といわれ、
また書や歌にも通じ、孝心も愛敬も廉直さも備えた娘だったという。
『藤葉栄衰記』にその名は示されていないが、
所伝によれば三千代姫といったという。
二階堂家のゆくすえを危ぶんだ宿老たちは、
この三千代姫を為氏の正妻とし、
為氏と治部大輔を聟・舅の間柄とすることで、
争いを収めようと画策した。
岩瀬郡の周辺には侵食を狙う勢力もあり、
いつまでも内輪もめを続けているわけにはいかなかったのである。
為氏も治部大輔もこの提案を受け入れ、3年の後、ようやく為氏と三千代姫の婚儀がなった。
『藤葉栄衰記』は、祝言に臨んだ三千代姫の姿を、
帳の隙よりこの御前の御容を密かに見たてまつるに、
漢の李夫人を写せし画も、是を画かば、ついに筆の及ばざることを怪しみ、
一度笑める眸には、金谷千樹の華、薫りを恥じて四方の嵐に誘われ、
風に見たる容貌は、銀漢万里の月も、粧いを妬みて五更の霧に沈むべし
(読み下し、一部修正)
と、『太平記』「北野通夜物語事」の楊貴妃をたたえることばそのままに、褒めそやしている。
為氏も三千代姫にすっかり心を許し、ふたりは睦まじく暮らしたという。
文安4年(1447)頃のこと。為氏は16歳、三千代姫は15歳であった。
ところが、
治部大輔は岩瀬郡を為氏に明け渡して隠居するという約束を反故にし、
須賀川城に居座って為氏を軽んじ続けた。
為氏は三千代姫を慮って、強硬策をとらなかったが、
為氏の宿老たちは、国を傾けた楊貴妃や西施の例をあげ、
三千代姫を須賀川に送り返して、治部大輔を追討すべきだと主張した。
彼らの必死の諫言に、為氏もついに了承し、
三千代姫を離縁して、宗像越中らの使者を添えて須賀川へ送り出した。
その動きを察知していた治部大輔も黙ってはいない。
道中の岩間あたりに兵を潜ませて、一行を襲わせた。
伏兵は、使者の倭文半内・宍草与市郎らを討ち取り、護衛の兵たちを逃げ散らせた。
だが、にわかの落雷に遭って、三千代姫を確保せずに須賀川に逃げ帰ってしまった。
三千代姫の乗った輿は、
須賀川城手前の栗谷沢(「暮谷沢」)のあたりに打ち捨てられた。
三千代姫は、須賀川へ向かうことも和田へ戻ることもせず、
ここで自らの死を覚悟したという。
お付きの女房たちを呼び寄せ、
「この唐鏡は母へ、金泥観音経と阿弥陀経は父治部大輔へ、
藤原定家筆の古今和歌集と伊勢物語は、おばの千歳御前へ」
とそれぞれ形見を託し、
手箱や小袖なども女房たちに分け与えた。
また、譜代の岩桐藤内左衛門に懐中の守刀の粟田口吉光を与え、
自分の命日に拈香を捧げてくれるよう頼んだ。
女房や乳母たちは涙にむせび、三千代姫に殉じようとしたが、
「独り来たり独り帰る道なれば、伴うことなし。死して益なきことなり。
汝らおのおの命を全うして、須賀川へ行きて形見の物を捧げて、
かくのごとき有り様をも申し、
念仏の一返も回向して、後世を弔わんこと第一の忠孝なるべし。」
と三千代姫にとどめられた。
まもなく、輿のうちより「南無」と唱える声がかすかに聞こえたかと思うと、
三千代姫は脇差しを自らの体に突き立てて自害した。
輿のうちには、
思ひきや問はば岩間の涙橋ながさで暇くれやさわとは
(「人問はば岩間の下の涙橋流さでいとま暮谷沢とは」とも)
限りある心の月の雲晴れて光とともにいる西のそら
という辞世の二首が記されてあったという。
三千代姫の死を見届けた乳母は、
三千代姫が自刃に用いた脇差しを口に含んで自害を図ったが、果たせず、
肩に突き立て直して絶命した。
それを見た岩桐藤内左衛門は、
「女儀なれども自害の様こそ清けれ。
我男と生まれ、いかでか女の心に劣るべし。
たといこのたび命生きて、須賀川の御城に立て籠もり、
為氏公の御勢に向かい、比類なき働きを仕りたりとも、
我何の面目あって、人に面を見することを得ん。
人たとい言わずとも、我独り心に愧じず。
また心も発さぬ出家入道も見苦しかるべし。
今は浮世に思い置くことなし。」
と思い直し、声高に念仏を十遍唱えて、腹を十文字に搔き破り、
さらに喉を搔き切って、座ったまま絶命した。
取り残された女房たちは、泣く泣く形見の物を抱えて須賀川に行き、
三千代姫と乳母と藤内左衛門の自害のさまを報告した。
このことは和田城にも伝わり、為氏はひどく消沈したという。
為氏と治部大輔の抗争が本格化するのは、まもなくのことであった。
冒頭でも述べたとおり、
いずれも同時代史料から確認できる話ではなく、
為氏や三千代姫の存在すら定かでない。
これらを伝える『藤葉栄衰記』は、二階堂家旧臣のうちの所伝をもとに、
近世初期までに成立した作品とされる。
三千代姫や千歳御前の容貌をことさら取り上げる語り口。
夫為氏に離縁され、父治部大輔にも厄介者扱いをされ、挙げ句に雑兵に置き捨てられて、
よすがを失い、死を選ぶほかなかった三千代姫の絶望。
「男に生まれて女に劣ってなるものか」という岩桐藤内左衛門の観念や虚栄。
いずれも中世末期から近世初期のジェンダー観をたしかに映している。
須賀川市栗谷沢には、三千代姫を弔う三千代姫堂が建っている。
〔参考〕
『続群書類従 第22輯上』(続群書類従完成会、1943年)
『須賀川市史 中世―二階堂領時代―』(福島県須賀川市教育委員会、1973年)
垣内和孝「須賀川二階堂氏の成立」(『室町期南奥の政治秩序と抗争』岩田書院、2006年、初出2005年)
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死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
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