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死に様データベース
《誅殺》 《1454年》 《12月》 《27日》 《享年不明》


山内上杉家の重臣長尾実景の
武蔵国人安保憲祐の
名は伝わらない。


関東管領山内上杉家の重臣、長尾実景のとして生まれ、
北武蔵の有力国人安保宗繁の嫡男憲祐のとなった。

舅の宗繁と夫の憲祐は、
永享の乱や結城合戦で上杉方として立ち回り、
嘉吉元年(1441)の上杉方による佐竹討伐でも、
病身の宗繁に代わって憲祐が常陸へ出陣した。
「憲祐」の名も、山内上杉憲実から一字を与えられたものとすれば、
上杉氏と安保氏の蜜月は相当なものであったと思われる。
重臣長尾家のが輿入れしたのも、その表れだろう。


しかし、そうした関係の深さが安保氏の運命を左右した。
足利万寿王丸(成氏)によって鎌倉公方が復興され、上杉氏との対立が再燃すると、
夫憲祐も再び戦乱にまきこまれ、
享徳2年(1453)8月24日、
上野某所での敗退を受けて、自害してしまった。
夫を喪ったは、婚家を離れて実家の長尾家に戻ったようである。


とはいえ、
上杉家の重臣長尾家が、この抗争と無縁でいられるはずもない。
とくに父実景は、前任の長尾景仲に替わって山内上杉家の家宰となり、
重臣の筆頭として、年若い山内上杉憲忠を支える立場にあった。

享徳3年(1454)12月27日、
鎌倉公方足利成氏は、関東管領山内上杉憲忠を御所へ召し出して、殺害した。
主君憲忠に随行していたのだろう、家宰長尾実景とその嫡男景住も、同じく御所内で殺された。
さらに成氏方の一手は、山内上杉氏の本邸鎌倉山内も急襲した。
この争乱のさなかに、実景のも命を落としたという。
父実景が42歳だったというから、
娘は長じても20歳前後だったろうか。
巻き添えの死か、あるいは命を狙われてのものか、定かでない。

東国武士の家で、
夫の死後に、妻が婚家を離れて実家に身を寄せていたことを示す、希少な例でもある。


ただし、
このことを記す「長林寺本長尾系図」の記述には、曖昧な点もあり、
なお検討を要するか。



〔参考〕
黒田基樹編『シリーズ・中世関東武士の研究 1 長尾景春』(戎光祥出版、2010年)
史料纂集 古文書編 安保文書』(八木書店、2022年)
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