死に様データベース
《病死》 《1428年》 《正月》 《18日》 《享年43歳》
第4代室町幕府将軍。
至徳3年(1386)2月12日生まれ。
父義満の嫡子として、足利義持は、
応永元年(1394)12月17日、将軍となるも、
父の権威は未だ高く、
また父の寵愛を受ける弟義嗣の存在もあって、
その地位は不安定であった。
応永15年(1408)5月の義満没後、
ようやく権力の地歩を固めた。
その治世には、
後南朝の後亀山法皇の潜幸や、
飛騨国司姉小路氏・伊勢国司北畠氏らの叛乱、
弟義嗣の謀叛、
鎌倉公方足利持氏との対立等、
いろいろあったが、
細川満元・畠山満家ら幕閣にも恵まれ、
よくこれを収めた。
応永30年(1423)3月18日、
将軍職を嫡子義量に譲り、出家。
義量の早世後も、その後嗣を決めぬまま、
「室町殿」として君臨した。
応永35年(1428)正月、
義持は、三が日の予定を無事にすませた。
例年どおりの正月のはずであった。
正月7日、風呂場で尻のできものを掻き破ったためか、
義持は熱を出す。
9日、医師に診せ、大事ないと判断されたが、
傷跡は大きく腫れ上がっていたらしい。
10日、臣下に謁する予定であったが、
熱がひどく、延期した。
11日、評定始めの儀式には、無理をおして出席したが、
他人に手をひかれて登場し、
ほんの一時、顔を出したのみであった。
12日以降の予定も、延期したり、
また座ることもままならず、
寝たまま、形ばかりで済ませたり、という状況であった。
15日には、傷が腐りかけていたらしい。
16日、容体が急変し、
17日、いよいよ危うくなった。
管領畠山満家以下の幕閣が、
義持の護持僧で政治顧問でもあった三宝院満済のもとに集まり、
対策を講じた。
治療や祈祷のことなども議題に上ったが、
何にもまして最重要案件とされたのは、
未定のまま放置されていた、後継者のことであった。
義持の意向を確認する役となった満済が、御所へ赴くと、
義持は近習らを集めて、酒を与えているところだった。
別れの盃、末期の酒、といったところだろうか。
人払いしたのち、満済が意向をうかがうと、
義持は次のように語った。
もし仮に実子があったとしても、後嗣を定めることはしない。
実際には子もいないから、
ともかく皆で話し合って、うまく取り計らえ。
兄弟がいるから、そのうちから適性をもって決めればよい。
弟4人からくじ引きで決めるのもよいが、
自分が生きているうちは、決してくじを開いてはならない。・・・
義持が後継者について、
「たとえ指名したとしても、幕閣がその人を支持しないのであれば、
なんら意味がない」(『建内記』)
と、語ったということは、
室町幕府論の中では、つとに有名な話である。
結局、
その日のうちに満済がくじを作成し、
山名時煕が封をして、
畠山満家が深夜、石清水八幡宮の神前でそれを引き、
義持没後に開封することとなった。
そして、その日(17日)の酉半刻頃(夜6時頃)、
義持は危篤に陥る。
言葉を発することも聞き取ることもできず、
人々の顔を見ても判らないほどの重態となり、
人々は咽び泣いた。
公家・武家・僧俗みな御所の辺りに群れ集まり、
京都市中は騒然とした状況となった。
病状は一夜もち耐えたものの、
翌18日巳半刻(午前10時頃)、義持はついに息を引き取る。
禅僧が沐浴を済ませ、床上に安置して、
人々が焼香した。
23日、荼毘。
死の当日、
管領畠山満家がくじを開き、
後継者は、青蓮院門跡の義円と決まった。
のちの6代将軍足利義教である。
〔参考〕
『続群書類従 補遺一 満済准后日記(上)』 (続群書類従完成会 1928)
伊藤喜良『足利義持 (人物叢書)』 (吉川弘文館 2008)
桜井英治『日本の歴史 第12巻 室町人の精神』 (講談社 2001)
第4代室町幕府将軍。
至徳3年(1386)2月12日生まれ。
父義満の嫡子として、足利義持は、
応永元年(1394)12月17日、将軍となるも、
父の権威は未だ高く、
また父の寵愛を受ける弟義嗣の存在もあって、
その地位は不安定であった。
応永15年(1408)5月の義満没後、
ようやく権力の地歩を固めた。
その治世には、
後南朝の後亀山法皇の潜幸や、
飛騨国司姉小路氏・伊勢国司北畠氏らの叛乱、
弟義嗣の謀叛、
鎌倉公方足利持氏との対立等、
いろいろあったが、
細川満元・畠山満家ら幕閣にも恵まれ、
よくこれを収めた。
応永30年(1423)3月18日、
将軍職を嫡子義量に譲り、出家。
義量の早世後も、その後嗣を決めぬまま、
「室町殿」として君臨した。
応永35年(1428)正月、
義持は、三が日の予定を無事にすませた。
例年どおりの正月のはずであった。
正月7日、風呂場で尻のできものを掻き破ったためか、
義持は熱を出す。
9日、医師に診せ、大事ないと判断されたが、
傷跡は大きく腫れ上がっていたらしい。
10日、臣下に謁する予定であったが、
熱がひどく、延期した。
11日、評定始めの儀式には、無理をおして出席したが、
他人に手をひかれて登場し、
ほんの一時、顔を出したのみであった。
12日以降の予定も、延期したり、
また座ることもままならず、
寝たまま、形ばかりで済ませたり、という状況であった。
15日には、傷が腐りかけていたらしい。
16日、容体が急変し、
17日、いよいよ危うくなった。
管領畠山満家以下の幕閣が、
義持の護持僧で政治顧問でもあった三宝院満済のもとに集まり、
対策を講じた。
治療や祈祷のことなども議題に上ったが、
何にもまして最重要案件とされたのは、
未定のまま放置されていた、後継者のことであった。
義持の意向を確認する役となった満済が、御所へ赴くと、
義持は近習らを集めて、酒を与えているところだった。
別れの盃、末期の酒、といったところだろうか。
人払いしたのち、満済が意向をうかがうと、
義持は次のように語った。
もし仮に実子があったとしても、後嗣を定めることはしない。
実際には子もいないから、
ともかく皆で話し合って、うまく取り計らえ。
兄弟がいるから、そのうちから適性をもって決めればよい。
弟4人からくじ引きで決めるのもよいが、
自分が生きているうちは、決してくじを開いてはならない。・・・
義持が後継者について、
「たとえ指名したとしても、幕閣がその人を支持しないのであれば、
なんら意味がない」(『建内記』)
と、語ったということは、
室町幕府論の中では、つとに有名な話である。
結局、
その日のうちに満済がくじを作成し、
山名時煕が封をして、
畠山満家が深夜、石清水八幡宮の神前でそれを引き、
義持没後に開封することとなった。
そして、その日(17日)の酉半刻頃(夜6時頃)、
義持は危篤に陥る。
言葉を発することも聞き取ることもできず、
人々の顔を見ても判らないほどの重態となり、
人々は咽び泣いた。
公家・武家・僧俗みな御所の辺りに群れ集まり、
京都市中は騒然とした状況となった。
病状は一夜もち耐えたものの、
翌18日巳半刻(午前10時頃)、義持はついに息を引き取る。
禅僧が沐浴を済ませ、床上に安置して、
人々が焼香した。
23日、荼毘。
死の当日、
管領畠山満家がくじを開き、
後継者は、青蓮院門跡の義円と決まった。
のちの6代将軍足利義教である。
〔参考〕
『続群書類従 補遺一 満済准后日記(上)』 (続群書類従完成会 1928)
伊藤喜良『足利義持 (人物叢書)』 (吉川弘文館 2008)
桜井英治『日本の歴史 第12巻 室町人の精神』 (講談社 2001)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
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本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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