死に様データベース
《病死》 《1568年》 《8月》 《1日》 《享年55歳》
房総の戦国大名里見義堯の正妻。
上総万喜城主土岐為頼の娘ともされるが、
世代等が合わず定かでない。
夫の里見義堯は、
父実堯の仇である従兄弟の里見義豊を討って、天文の内乱を克服し、
房総里見氏を統一して、戦国大名としての礎を築いた人物として知られる。
正蓮は、14歳の大永7年(1527)頃、7歳上の義堯と婚姻した。
里見家が天文の内乱に陥る前のことであり、夫婦でその苦難を乗り越えたのである。
ふたりの間に実子はなかったようで、
婚姻前に生まれていた義堯の妾腹の息子義弘を、正蓮は我が子同然に養育したらしい。
夫義堯は、正蓮との婚姻後はその側妾を里へ帰し、以後一切側妻を置かなかったという。
正蓮の死は、
安房妙本寺(現・千葉県安房郡鋸南町)の前住持日我が記した、
『里見義堯室追善記』によって知られる。
日我は正蓮の夫義堯と同年代で親しく、夫妻の信仰を支えた師僧であった。
なお、「正蓮」の名は、日我が追善のために付けた名であり、生前の名ではないが、
「御台所」等以外に呼び名が伝わらず、今ひとまず正蓮と呼んでおきたい。
(以下、引用は『里見義堯室追善記』で、読みやすいように適宜用字等を改めた。)
永禄11年(1568)8月1日早朝、
正蓮は55歳でこの世を去った。
一番鶏と二番鶏が鳴く間というから、午前3時頃だったろうか。
終世夫義堯と同居していたとすれば、
臨終の地は上総久留里城(現・千葉県君津市)の御殿だっただろう。
戒名は、妙光院殿貞室梵善大姉。
訃報を聞いた日我は、正蓮を「国母」と称え、
恩恵難忘旧主悁 黒衣紅涙若深淵
人間五十五年夢 人破秋風月一天
ながむれば月すみわたる大空に雲吹きつくすわしの山風
思ひには言の葉もなし言の葉はまたなをざりのなげきなりけり
等々と詠んでその死を悼んだ。
翌2日、里見氏の菩提寺の安房延命寺(現・千葉県南房総市)で葬儀が営まれた。
安房・上総両国から駆けつけた人々が、その死を嘆き、
その泣き声は谷間や峰々に響き渡って、
草木や石、風や水面までもが悲しんでいるようであったという。
なかでも、夫義堯とその息子義弘の絶え焦がれようは、例えようもないほどで、
戦場を駆ける大の武将、それも房総を切り従える里見家の当主父子が、
声をあげて涙にむせぶ姿を、参列者に見せていた。
義堯62歳、義弘44歳。
日我曰く、「夫婦・親子の恩愛の中ほど、哀れなることは世にあらじ」。
これほどまで夫婦の仲が睦まじかったのは、
「道をわきまえ、義を知り、志深くして、孝行の旨」をわかっていたからだ、
と、日我はいう。
正蓮に近仕した女房衆の悲しみようもまた、
「人をも見分け給わず泣き悲しみ給う」
「嘆きおめき叫び泣きもだえ給うこと、天地も響くばかり也」
というようすであった。
日我は、これもまた王后と女官との君臣の道に叶うものだとしている。
42年の夫婦生活のすえ、妻に先立たれた義堯の悲しみは、日に増して募ったらしい。
体調も崩しがちで、食も細くなっていた。
日我は、義堯が一夫一婦を貫いたことを褒めたたえ、
「かくのごとく別心なく、亀鶴の契り、比翼連理の語らい、四十年に余り給えば」
恋慕の思いは無理もない、として、
『源氏物語』より、
かぎりとて別るゝ道の悲しきにいかまほしきは命なりけり
尋ねゆく幻もがなつてにても魂のありかをそこと知るべし(ママ)
雲の上も涙はくるゝ秋の月いかにすむらん蓬生の宿(ママ)
等の歌を添えている。
義堯の嘆きようなど、日我の書きぶりはいささかおおげさにも感じるが、
そこには、
夫婦愛に満ち、信仰にも篤く、徳の高い支配者として義堯を称揚する、
という側面があることを見逃してはならない。
極論すれば、日我にとって正蓮は、夫に仕える“良妻”という義堯の引き立て役であって、
夫婦の道を修めた賢妻の姿はあれ、
正蓮その人に、どこまで日我の目が向けられていたか、
疑問を抱かずにはおれない。
日我は、正蓮からもらった手紙の数々を、裏打ちして妙本寺に奉納したというが、
肝心の『里見義堯室追善記』からは、生前の正蓮の声が聞こえてこないのである。
とはいえ、正蓮の存在を過小に評価する必要もないだろう。
延命寺での正蓮=妙光院殿の追善は、曾孫の代にも続き、
先祖供養として重視されていたことがうかがえる。
その背景に、領民に慕われた正蓮の姿を思い描くことも、的外れではあるまい。
夫義堯が死去したのは、それから6年後、
天正2年(1574)6月1日のことであった。
日我は妙本寺の裏山に、夫婦の供養塔を並べて建てた。
〔参考〕
『千葉県の歴史 資料編 中世3(県内文書2)』(千葉県、2001年)
佐藤博信『安房妙本寺日我一代記』(思文閣出版、2007年)
同 「日我と里見義堯室正蓮―「里見義堯室追善記」を読む」(『中世東国日蓮宗寺院の研究』東京大学出版会、2003年)
同 「東国大名里見氏の歴史的性格―支配理念の側面から」(『中世東国の権力と構造』校倉書房、2013年)
滝川恒昭『里見義堯〈人物叢書〉』(吉川弘文館、2022年)
房総の戦国大名里見義堯の正妻。
上総万喜城主土岐為頼の娘ともされるが、
世代等が合わず定かでない。
夫の里見義堯は、
父実堯の仇である従兄弟の里見義豊を討って、天文の内乱を克服し、
房総里見氏を統一して、戦国大名としての礎を築いた人物として知られる。
正蓮は、14歳の大永7年(1527)頃、7歳上の義堯と婚姻した。
里見家が天文の内乱に陥る前のことであり、夫婦でその苦難を乗り越えたのである。
ふたりの間に実子はなかったようで、
婚姻前に生まれていた義堯の妾腹の息子義弘を、正蓮は我が子同然に養育したらしい。
夫義堯は、正蓮との婚姻後はその側妾を里へ帰し、以後一切側妻を置かなかったという。
正蓮の死は、
安房妙本寺(現・千葉県安房郡鋸南町)の前住持日我が記した、
『里見義堯室追善記』によって知られる。
日我は正蓮の夫義堯と同年代で親しく、夫妻の信仰を支えた師僧であった。
なお、「正蓮」の名は、日我が追善のために付けた名であり、生前の名ではないが、
「御台所」等以外に呼び名が伝わらず、今ひとまず正蓮と呼んでおきたい。
(以下、引用は『里見義堯室追善記』で、読みやすいように適宜用字等を改めた。)
永禄11年(1568)8月1日早朝、
正蓮は55歳でこの世を去った。
一番鶏と二番鶏が鳴く間というから、午前3時頃だったろうか。
終世夫義堯と同居していたとすれば、
臨終の地は上総久留里城(現・千葉県君津市)の御殿だっただろう。
戒名は、妙光院殿貞室梵善大姉。
訃報を聞いた日我は、正蓮を「国母」と称え、
恩恵難忘旧主悁 黒衣紅涙若深淵
人間五十五年夢 人破秋風月一天
ながむれば月すみわたる大空に雲吹きつくすわしの山風
思ひには言の葉もなし言の葉はまたなをざりのなげきなりけり
等々と詠んでその死を悼んだ。
翌2日、里見氏の菩提寺の安房延命寺(現・千葉県南房総市)で葬儀が営まれた。
安房・上総両国から駆けつけた人々が、その死を嘆き、
その泣き声は谷間や峰々に響き渡って、
草木や石、風や水面までもが悲しんでいるようであったという。
なかでも、夫義堯とその息子義弘の絶え焦がれようは、例えようもないほどで、
戦場を駆ける大の武将、それも房総を切り従える里見家の当主父子が、
声をあげて涙にむせぶ姿を、参列者に見せていた。
義堯62歳、義弘44歳。
日我曰く、「夫婦・親子の恩愛の中ほど、哀れなることは世にあらじ」。
これほどまで夫婦の仲が睦まじかったのは、
「道をわきまえ、義を知り、志深くして、孝行の旨」をわかっていたからだ、
と、日我はいう。
正蓮に近仕した女房衆の悲しみようもまた、
「人をも見分け給わず泣き悲しみ給う」
「嘆きおめき叫び泣きもだえ給うこと、天地も響くばかり也」
というようすであった。
日我は、これもまた王后と女官との君臣の道に叶うものだとしている。
42年の夫婦生活のすえ、妻に先立たれた義堯の悲しみは、日に増して募ったらしい。
体調も崩しがちで、食も細くなっていた。
日我は、義堯が一夫一婦を貫いたことを褒めたたえ、
「かくのごとく別心なく、亀鶴の契り、比翼連理の語らい、四十年に余り給えば」
恋慕の思いは無理もない、として、
『源氏物語』より、
かぎりとて別るゝ道の悲しきにいかまほしきは命なりけり
尋ねゆく幻もがなつてにても魂のありかをそこと知るべし(ママ)
雲の上も涙はくるゝ秋の月いかにすむらん蓬生の宿(ママ)
等の歌を添えている。
義堯の嘆きようなど、日我の書きぶりはいささかおおげさにも感じるが、
そこには、
夫婦愛に満ち、信仰にも篤く、徳の高い支配者として義堯を称揚する、
という側面があることを見逃してはならない。
極論すれば、日我にとって正蓮は、夫に仕える“良妻”という義堯の引き立て役であって、
夫婦の道を修めた賢妻の姿はあれ、
正蓮その人に、どこまで日我の目が向けられていたか、
疑問を抱かずにはおれない。
日我は、正蓮からもらった手紙の数々を、裏打ちして妙本寺に奉納したというが、
肝心の『里見義堯室追善記』からは、生前の正蓮の声が聞こえてこないのである。
とはいえ、正蓮の存在を過小に評価する必要もないだろう。
延命寺での正蓮=妙光院殿の追善は、曾孫の代にも続き、
先祖供養として重視されていたことがうかがえる。
その背景に、領民に慕われた正蓮の姿を思い描くことも、的外れではあるまい。
夫義堯が死去したのは、それから6年後、
天正2年(1574)6月1日のことであった。
日我は妙本寺の裏山に、夫婦の供養塔を並べて建てた。
〔参考〕
『千葉県の歴史 資料編 中世3(県内文書2)』(千葉県、2001年)
佐藤博信『安房妙本寺日我一代記』(思文閣出版、2007年)
同 「日我と里見義堯室正蓮―「里見義堯室追善記」を読む」(『中世東国日蓮宗寺院の研究』東京大学出版会、2003年)
同 「東国大名里見氏の歴史的性格―支配理念の側面から」(『中世東国の権力と構造』校倉書房、2013年)
滝川恒昭『里見義堯〈人物叢書〉』(吉川弘文館、2022年)
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死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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