死に様データベース
《病死》 《1441年》 《某月》 《某日》 《享年不明》
*****拷問の内容を含む記事です。閲覧にご注意ください。*****
鎌倉府女房。
「妻殿(めどの)」はすなわち乳母(めのと)で、
足利春王丸・安王丸の乳母であったか。
4代鎌倉公方足利持氏の遺児春王丸・安王丸兄弟は、
父の旧臣岩松持国・桃井憲義や下総の結城氏朝に擁されて、
下総結城城(現・茨城県結城市)で室町幕府・上杉氏を相手に戦ったが、
挙兵から約1年の嘉吉元年(1441)4月、
ついに落城のときを迎えつつあった。
この結城合戦を描いた数多くの軍記物のひとつ、
『鎌倉殿物語』(長享2年〈1488〉以前に成立)から、
そのときのようすを見てみよう。
(以下、引用は読みやすいように用字等を改めた。)
落城を悟った結城方は、
籠城している10人ほどの女房たちを哀れに思い、
落城前に彼女らを退去させようと、寄せ手に協力を頼んだ。
寄せ手の越後勢も「明日は我が身の上」と承知したため、
輿7張に女房たちを乗せて、城外に出した。
このなかに、女房に扮した春王丸と安王丸も紛れており、
どこかへ落ち延びさせるてはずとなっていたが、
寄せ手の兵も察していたのか、輿のなかを探され、
瞬く間に見つかってしまった。
このとき、後ろの輿に乗っていた妻殿女房は、
驚いて飛び降り、敵兵を制止しようとしたが、
やむなく京都へ護送される兄弟に付き従った。
京都へ向かう道中、妻殿女房は春王丸ら兄弟をさまざまに励まし、慰めている。
箱根・足柄のあたりでは、春王丸が、
夏の夜は臥すかとすればほととぎす鳴く音に明けるしのゝめの空
と詠むと、
妻殿も答えて、
箱根山ふたゝび見んと思はねば明けやすき夜ぞ殊に悲しき
と詠み、
春王丸はまた、
箱根山ふたり闇路に迷へるをたれかは知らん明けやすき空
と答えて涙した。
兄の春王丸もまた、道みち弟の安王丸を励ましたという。
春王丸ら護送の一行が、美濃赤坂宿(現・岐阜県大垣市)を過ぎるころ、
京都から、春王丸・安王丸を誅殺せよとの密命が下った。
一行は美濃垂井宿(現・同垂井町)に入り、
ことを察した春王丸ら兄弟は、
父持氏とも馴染みのあった同地の金蓮寺の聖人に面会して、
最期の酒宴を催し、
その5月16日の晩、警固の越後長尾実景の配下、服部隼人に斬首された。
何も知らない妻殿女房は、寺から響いてくる宴の鼓の音を聞いて、
その楽しげなようすに安堵し、宿所で寝入っていた。
その夜の妻殿女房の夢に、旧主足利持氏と春王丸・安王丸の親子が現れた。
妻殿がかつて仕えていた鎌倉公方の御所のようなところで、
近習たちの姿はなく、独りうちひしがれたようすの持氏の前に、
春王丸・安王丸兄弟が参上すると、
持氏ははらはらと涙を流し、
「我が命が消えることは、つゆほども惜しくはない。
だが、おまえたちのことは、未来永劫、草葉の陰から守ってきたが、
その甲斐なく、あまりのことになってしまった。
こうして今出会えているのも、本望ではないが、
親子は一世かぎりの契りであるので、
出会えているのも歎きのうちの喜びである」
と、兄弟の髪をかきなでていた。
夢から覚めた妻殿は、
京都が近いこともあって、しきりと胸騒ぎがし、
兄弟のためにひたすら読経して祈るしかなかった。
翌朝、胸騒ぎの収まらない妻殿女房は、
輿のなかの兄弟に話しかけようとしたが、
警固の者に「急ぐので後にせよ」と退けられ、
ただ従うしかなかった。
近江小野宿(現・滋賀県彦根市)の昼休憩に、
ようやく妻殿は兄弟の輿に近寄り、あれこれと話しかけたが、
いくら話しかけても一向に返事がない。
不思議に思って簾を上げてみると、
そこには小さな桶がふたつ並んで、布が懸けてあるばかりであった。
布をのけて覗いてみると、
幼い若君兄弟が、首だけになって入っていた。
妻殿女房は悲しみのあまり、号泣の果てに気絶した。
妻殿女房を介抱した幕吏は、
尋問のために彼女を京都へ連行した。
幕府の奉行所に着くと、幕吏は、
そのほかの春王丸の兄弟たちがどこへ潜伏しているのか、反乱の与同者は誰なのか、
ありのままに申せば命ばかりは助けてやる、
と妻殿を尋問したが、
彼女は、
「私は女の身ゆえに、どうして与同者のことなど知っているでしょう。
若君のことについては、二人いらっしゃったけれども、
かわいそうなことに亡くなってしまわれた。
ほかの若君のことは、天下に隠れないことならば、
尋問されるまでもないでしょう。
私のことは、今は命も惜しくありません。
どのように尋問されても、申すことはありません」
と供述を拒否。
すると幕吏は、
「膝を爍し、指を切り、爪を起こし、火水を以て」という凄惨な拷問を加え、
ついには「大なる蛇を喉ヘ入れ」るまでして、
白状させようとした。
息も絶え絶えの妻殿女房は、
自ら舌を食いちぎり、吐き出した。
これには幕吏も、舌がなければ何も喋れまい、と観念して、
ついに彼女を放逐した。
京都を後にした妻殿女房は、
垂井の春王丸・安王丸兄弟の荼毘所に赴き、
念仏をあげようとしたが、舌がないために叶わず、
硯を取り寄せて「南無阿弥陀仏」の六字の名号を百遍記し、
その奥に次の本願意趣を書き記した。
一切衆生、別しては二人の尊霊等
同じく三途の苦患を免れ、供に九品の蓮台に生まれん。
そもそも、周恩皆発の花の色は、春王、各霊の袖に勤む。
極楽円満の月の光は、安王、菩提の暗路を照らし給え、となり。
なかんずく、三州の雲厚く掩いて、三毒悲想の都を忘れ、
五障の霧深く立ちて、五道輪縁の巷に迷えり。
あまつさえ、臨終眼を閉じ、
今、舌根不具にして読経叶わず、証名に絶えたり。
安然として、手尽きぬ。
願わくば、大慈大悲、弥陀如来、
宝号を唱えざれども、書写の志を哀れみて、
安楽世界に向かい給うべしとて、
かくばかり消え終わる命惜しきにあらねども、
物言わぬ身と成るぞ悲しき。
書き上げるとまもなく、妻殿女房は息絶えた。
そのとき、紫雲がたなびき、音楽が天に満ちたといい、
妻殿女房はまさしく往生を遂げたのであった。
以上は、念仏への帰依を説く軍記物に描かれた、鎌倉府女房の姿である。
もとより虚構の作中であり、すぐさま史実とは見なしがたいが、
しかし、東国の内乱のもとにいた女房たちの存在を思わせるに余りある描写である。
凄絶な拷問を受けながら、主家の廻向によって往生を遂げるとは、
あまりに都合のよい話ではあるが、
文学作品に描かれた貴重な室町期東国の女性の姿とその死のありようとして、
見過ごすべきものではないだろう。
〔参考〕
植田真平「鎌倉府女房衆の基礎的研究」(『歴史評論』898号、2025年)
『結城市史 第1巻 古代中世史料編』(結城市、1977年)
*****拷問の内容を含む記事です。閲覧にご注意ください。*****
鎌倉府女房。
「妻殿(めどの)」はすなわち乳母(めのと)で、
足利春王丸・安王丸の乳母であったか。
4代鎌倉公方足利持氏の遺児春王丸・安王丸兄弟は、
父の旧臣岩松持国・桃井憲義や下総の結城氏朝に擁されて、
下総結城城(現・茨城県結城市)で室町幕府・上杉氏を相手に戦ったが、
挙兵から約1年の嘉吉元年(1441)4月、
ついに落城のときを迎えつつあった。
この結城合戦を描いた数多くの軍記物のひとつ、
『鎌倉殿物語』(長享2年〈1488〉以前に成立)から、
そのときのようすを見てみよう。
(以下、引用は読みやすいように用字等を改めた。)
落城を悟った結城方は、
籠城している10人ほどの女房たちを哀れに思い、
落城前に彼女らを退去させようと、寄せ手に協力を頼んだ。
寄せ手の越後勢も「明日は我が身の上」と承知したため、
輿7張に女房たちを乗せて、城外に出した。
このなかに、女房に扮した春王丸と安王丸も紛れており、
どこかへ落ち延びさせるてはずとなっていたが、
寄せ手の兵も察していたのか、輿のなかを探され、
瞬く間に見つかってしまった。
このとき、後ろの輿に乗っていた妻殿女房は、
驚いて飛び降り、敵兵を制止しようとしたが、
やむなく京都へ護送される兄弟に付き従った。
京都へ向かう道中、妻殿女房は春王丸ら兄弟をさまざまに励まし、慰めている。
箱根・足柄のあたりでは、春王丸が、
夏の夜は臥すかとすればほととぎす鳴く音に明けるしのゝめの空
と詠むと、
妻殿も答えて、
箱根山ふたゝび見んと思はねば明けやすき夜ぞ殊に悲しき
と詠み、
春王丸はまた、
箱根山ふたり闇路に迷へるをたれかは知らん明けやすき空
と答えて涙した。
兄の春王丸もまた、道みち弟の安王丸を励ましたという。
春王丸ら護送の一行が、美濃赤坂宿(現・岐阜県大垣市)を過ぎるころ、
京都から、春王丸・安王丸を誅殺せよとの密命が下った。
一行は美濃垂井宿(現・同垂井町)に入り、
ことを察した春王丸ら兄弟は、
父持氏とも馴染みのあった同地の金蓮寺の聖人に面会して、
最期の酒宴を催し、
その5月16日の晩、警固の越後長尾実景の配下、服部隼人に斬首された。
何も知らない妻殿女房は、寺から響いてくる宴の鼓の音を聞いて、
その楽しげなようすに安堵し、宿所で寝入っていた。
その夜の妻殿女房の夢に、旧主足利持氏と春王丸・安王丸の親子が現れた。
妻殿がかつて仕えていた鎌倉公方の御所のようなところで、
近習たちの姿はなく、独りうちひしがれたようすの持氏の前に、
春王丸・安王丸兄弟が参上すると、
持氏ははらはらと涙を流し、
「我が命が消えることは、つゆほども惜しくはない。
だが、おまえたちのことは、未来永劫、草葉の陰から守ってきたが、
その甲斐なく、あまりのことになってしまった。
こうして今出会えているのも、本望ではないが、
親子は一世かぎりの契りであるので、
出会えているのも歎きのうちの喜びである」
と、兄弟の髪をかきなでていた。
夢から覚めた妻殿は、
京都が近いこともあって、しきりと胸騒ぎがし、
兄弟のためにひたすら読経して祈るしかなかった。
翌朝、胸騒ぎの収まらない妻殿女房は、
輿のなかの兄弟に話しかけようとしたが、
警固の者に「急ぐので後にせよ」と退けられ、
ただ従うしかなかった。
近江小野宿(現・滋賀県彦根市)の昼休憩に、
ようやく妻殿は兄弟の輿に近寄り、あれこれと話しかけたが、
いくら話しかけても一向に返事がない。
不思議に思って簾を上げてみると、
そこには小さな桶がふたつ並んで、布が懸けてあるばかりであった。
布をのけて覗いてみると、
幼い若君兄弟が、首だけになって入っていた。
妻殿女房は悲しみのあまり、号泣の果てに気絶した。
妻殿女房を介抱した幕吏は、
尋問のために彼女を京都へ連行した。
幕府の奉行所に着くと、幕吏は、
そのほかの春王丸の兄弟たちがどこへ潜伏しているのか、反乱の与同者は誰なのか、
ありのままに申せば命ばかりは助けてやる、
と妻殿を尋問したが、
彼女は、
「私は女の身ゆえに、どうして与同者のことなど知っているでしょう。
若君のことについては、二人いらっしゃったけれども、
かわいそうなことに亡くなってしまわれた。
ほかの若君のことは、天下に隠れないことならば、
尋問されるまでもないでしょう。
私のことは、今は命も惜しくありません。
どのように尋問されても、申すことはありません」
と供述を拒否。
すると幕吏は、
「膝を爍し、指を切り、爪を起こし、火水を以て」という凄惨な拷問を加え、
ついには「大なる蛇を喉ヘ入れ」るまでして、
白状させようとした。
息も絶え絶えの妻殿女房は、
自ら舌を食いちぎり、吐き出した。
これには幕吏も、舌がなければ何も喋れまい、と観念して、
ついに彼女を放逐した。
京都を後にした妻殿女房は、
垂井の春王丸・安王丸兄弟の荼毘所に赴き、
念仏をあげようとしたが、舌がないために叶わず、
硯を取り寄せて「南無阿弥陀仏」の六字の名号を百遍記し、
その奥に次の本願意趣を書き記した。
一切衆生、別しては二人の尊霊等
同じく三途の苦患を免れ、供に九品の蓮台に生まれん。
そもそも、周恩皆発の花の色は、春王、各霊の袖に勤む。
極楽円満の月の光は、安王、菩提の暗路を照らし給え、となり。
なかんずく、三州の雲厚く掩いて、三毒悲想の都を忘れ、
五障の霧深く立ちて、五道輪縁の巷に迷えり。
あまつさえ、臨終眼を閉じ、
今、舌根不具にして読経叶わず、証名に絶えたり。
安然として、手尽きぬ。
願わくば、大慈大悲、弥陀如来、
宝号を唱えざれども、書写の志を哀れみて、
安楽世界に向かい給うべしとて、
かくばかり消え終わる命惜しきにあらねども、
物言わぬ身と成るぞ悲しき。
書き上げるとまもなく、妻殿女房は息絶えた。
そのとき、紫雲がたなびき、音楽が天に満ちたといい、
妻殿女房はまさしく往生を遂げたのであった。
以上は、念仏への帰依を説く軍記物に描かれた、鎌倉府女房の姿である。
もとより虚構の作中であり、すぐさま史実とは見なしがたいが、
しかし、東国の内乱のもとにいた女房たちの存在を思わせるに余りある描写である。
凄絶な拷問を受けながら、主家の廻向によって往生を遂げるとは、
あまりに都合のよい話ではあるが、
文学作品に描かれた貴重な室町期東国の女性の姿とその死のありようとして、
見過ごすべきものではないだろう。
〔参考〕
植田真平「鎌倉府女房衆の基礎的研究」(『歴史評論』898号、2025年)
『結城市史 第1巻 古代中世史料編』(結城市、1977年)
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死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
6歳 | ||
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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