死に様データベース
《病死》 《1213年》 《3月》 《21日》 《享年6歳》
鎌倉幕府御家人和田平太胤長の娘。
名前のよみかたは未詳。
鵑はホトトギス、あるいはサツキ、ヤマツツジのこと。
建暦3年(1213)2月15日のこと、
泉親衡という信濃国の御家人が、鎌倉幕府に対して謀反を企てていることが発覚した。
親衡の郎従の弟である阿静房安念という僧が、鎌倉で仲間を募っていたところ捕らえられ、
事態が明るみになったのである。
親衡は、幽閉のすえ殺害された2代将軍源頼家の遺児を擁して挙兵し、
執権北条義時を討つ計画だったという。
安念の自白により、
中心メンバーに30人余、そのほか総勢200人の関与が明らかになり、
次々に検挙されていった。
そのなかには、
幕府侍所別当和田義盛の息子義直・義重兄弟や、甥の胤長も含まれていた。
捕らえられた和田義直・義重は、それぞれ伊東祐長・祐広に、
胤長は、北条義時の腹心金窪行親・安東忠家に預けられた。
このとき、一族の長である義盛は上総国伊北荘(千葉県勝浦市ほか)にいたが、
事態を聞いて慌てて鎌倉に戻り、
3月8日、将軍源実朝の御所に参上して、息子ふたりの宥免を訴えた。
実朝も、義盛のこれまでの勲功に応じて、義直・義重を赦した。
しかし、胤長の赦免には及ばなかった。
翌9日、
義盛は、今度は一族98人を率いて将軍御所に参上し、
南庭に列座して胤長の赦免を求めた。
しかし、幕府の宿老大江広元が、
謀反の首謀者のひとりである胤長を赦免するわけにはいかない、と進言したため、
和田一族が列座する前で、
後ろ手に縛られた胤長は、金窪・安東から侍所の二階堂行村に引き渡された。
和田一族が味わわされた屈辱は、いかばかりであったか。
かくして、和田胤長は陸奥国岩瀬郡(福島県須賀川市ほか)に配流されることとなった。
胤長には、6歳になるその娘荒鵑がいたが、
荒鵑は、父との別れを悲しむあまり憔悴し、病に臥してしまった。
あまりの衰弱ぶりに、心配した周囲は一計を案じ、
父胤長と風貌の似ている一族の和田朝盛(義盛の孫)に、胤長のふりをさせ、
あたかも父が家に帰ってきたかのように思わせて、荒鵑を元気づけようとした。
荒鵑は、いささか持ち直したように顔をあげて、その姿を見たが、
それもつかの間、ついに閉眼してしまった。
父の配流が決まってから10日余り、3月21日のことであった。
荒鵑の亡骸は父胤長に葬られ、
27歳の母は、その日のうちに鶴岡善松坊重賀のもとで出家した。
なお、
父のふりをした和田朝盛は、
4月、将軍実朝と一族との板挟みとなって遁世し、
5月、和田一族は挙兵のすえ滅亡、
父胤長も、配所の陸奥国岩瀬郡の鏡沼辺り(福島県鏡石町)で誅殺された。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 前篇』(吉川弘文館、1964年)
鎌倉幕府御家人和田平太胤長の娘。
名前のよみかたは未詳。
鵑はホトトギス、あるいはサツキ、ヤマツツジのこと。
建暦3年(1213)2月15日のこと、
泉親衡という信濃国の御家人が、鎌倉幕府に対して謀反を企てていることが発覚した。
親衡の郎従の弟である阿静房安念という僧が、鎌倉で仲間を募っていたところ捕らえられ、
事態が明るみになったのである。
親衡は、幽閉のすえ殺害された2代将軍源頼家の遺児を擁して挙兵し、
執権北条義時を討つ計画だったという。
安念の自白により、
中心メンバーに30人余、そのほか総勢200人の関与が明らかになり、
次々に検挙されていった。
そのなかには、
幕府侍所別当和田義盛の息子義直・義重兄弟や、甥の胤長も含まれていた。
捕らえられた和田義直・義重は、それぞれ伊東祐長・祐広に、
胤長は、北条義時の腹心金窪行親・安東忠家に預けられた。
このとき、一族の長である義盛は上総国伊北荘(千葉県勝浦市ほか)にいたが、
事態を聞いて慌てて鎌倉に戻り、
3月8日、将軍源実朝の御所に参上して、息子ふたりの宥免を訴えた。
実朝も、義盛のこれまでの勲功に応じて、義直・義重を赦した。
しかし、胤長の赦免には及ばなかった。
翌9日、
義盛は、今度は一族98人を率いて将軍御所に参上し、
南庭に列座して胤長の赦免を求めた。
しかし、幕府の宿老大江広元が、
謀反の首謀者のひとりである胤長を赦免するわけにはいかない、と進言したため、
和田一族が列座する前で、
後ろ手に縛られた胤長は、金窪・安東から侍所の二階堂行村に引き渡された。
和田一族が味わわされた屈辱は、いかばかりであったか。
かくして、和田胤長は陸奥国岩瀬郡(福島県須賀川市ほか)に配流されることとなった。
胤長には、6歳になるその娘荒鵑がいたが、
荒鵑は、父との別れを悲しむあまり憔悴し、病に臥してしまった。
あまりの衰弱ぶりに、心配した周囲は一計を案じ、
父胤長と風貌の似ている一族の和田朝盛(義盛の孫)に、胤長のふりをさせ、
あたかも父が家に帰ってきたかのように思わせて、荒鵑を元気づけようとした。
荒鵑は、いささか持ち直したように顔をあげて、その姿を見たが、
それもつかの間、ついに閉眼してしまった。
父の配流が決まってから10日余り、3月21日のことであった。
荒鵑の亡骸は父胤長に葬られ、
27歳の母は、その日のうちに鶴岡善松坊重賀のもとで出家した。
なお、
父のふりをした和田朝盛は、
4月、将軍実朝と一族との板挟みとなって遁世し、
5月、和田一族は挙兵のすえ滅亡、
父胤長も、配所の陸奥国岩瀬郡の鏡沼辺り(福島県鏡石町)で誅殺された。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 前篇』(吉川弘文館、1964年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
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1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
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1371 | 1372 | |
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1378 | 1379 | |
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1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
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1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
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1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
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1447 | 1448 | 1449 |
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1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
6歳 | ||
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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