死に様データベース
《病死》 《1230年》 《8月》 《4日》 《享年25歳》
鎌倉幕府執権北条泰時の娘。
三浦泰村の妻。
童名も女房名も伝わらない。
鎌倉幕府草創期以来の有力御家人である北条氏と三浦氏は、
三浦義村の娘が北条泰時の妻となり、
その離縁後には、泰時の娘が義村の息子泰村の妻となることで、
その関係を維持した。
この三浦泰村の妻となった北条泰時の娘は、
安貞2年(1228)、泰村の子を身ごもった。
明けて安貞3年(1229)正月19日、産気づいたがなかなか産まれず、
8日後の27日朝になっても、母を苦しませる難産であった。
医師丹波良基が診察し、
将軍家護持僧観基と鶴岡林東坊頼暁、陰陽師安倍晴賢が加持祈禱を行ったが、
同日酉の刻(夕方6時頃)、男児を死産した。
その後、泰村の妻は大きく健康を害することもなく、夫婦仲も悪くなかったようで、
8ヶ月後の寛喜元年(1229)9月には、
大番役をつとめる夫泰村とともに上洛している。
翌寛喜2年(1230)、泰村の妻は再び懐妊した。
7月15日酉の刻(夕方6時頃)、女児を出産した。
同じく医師丹波良基が診察を、林東坊頼暁・陰陽師安倍泰宗が祈禱を行ったが、
やはり難産だったらしい。
26日、この女児は生後11日で夭逝してしまった。
産後の快復も思わしくなく、
8月4日酉の刻(夕方6時頃)、逝去。
25歳であった。
北条泰時は、2ヶ月前に嫡男時氏を喪ったばかりで、
続けざまに子どもを二人喪う不幸に見舞われたこととなった。
8月15日には、鶴岡八幡宮の放生会が予定されていたが、
北条泰時のもとに弔問客が集まったため、
触穢が方々へ及んでしまい、放生会は延引となった。
11月の開催が見込まれたが、
今度は、鶴岡若宮の廻廊に死人が出て、12月15日にようやく催されている。
泰村の妻の百箇日を迎える10月24日、
その墳墓堂供養が行われた。
妻を亡くした三浦泰村は、
そののち先妻の姉妹である別の泰時の娘と再婚したが、
その後妻も嘉禎2年(1236)12月に亡くしている。
北条氏と三浦氏が宝治合戦で衝突するのは、
それからさらに11年後のこと。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 第33巻 吾妻鏡 後篇』(国史大系刊行会ほか、1933年)
高橋秀樹『対決の東国史 2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021年)
永井晋編『鎌倉僧歴事典』(八木書店、2020年)
鎌倉幕府執権北条泰時の娘。
三浦泰村の妻。
童名も女房名も伝わらない。
鎌倉幕府草創期以来の有力御家人である北条氏と三浦氏は、
三浦義村の娘が北条泰時の妻となり、
その離縁後には、泰時の娘が義村の息子泰村の妻となることで、
その関係を維持した。
この三浦泰村の妻となった北条泰時の娘は、
安貞2年(1228)、泰村の子を身ごもった。
明けて安貞3年(1229)正月19日、産気づいたがなかなか産まれず、
8日後の27日朝になっても、母を苦しませる難産であった。
医師丹波良基が診察し、
将軍家護持僧観基と鶴岡林東坊頼暁、陰陽師安倍晴賢が加持祈禱を行ったが、
同日酉の刻(夕方6時頃)、男児を死産した。
その後、泰村の妻は大きく健康を害することもなく、夫婦仲も悪くなかったようで、
8ヶ月後の寛喜元年(1229)9月には、
大番役をつとめる夫泰村とともに上洛している。
翌寛喜2年(1230)、泰村の妻は再び懐妊した。
7月15日酉の刻(夕方6時頃)、女児を出産した。
同じく医師丹波良基が診察を、林東坊頼暁・陰陽師安倍泰宗が祈禱を行ったが、
やはり難産だったらしい。
26日、この女児は生後11日で夭逝してしまった。
産後の快復も思わしくなく、
8月4日酉の刻(夕方6時頃)、逝去。
25歳であった。
北条泰時は、2ヶ月前に嫡男時氏を喪ったばかりで、
続けざまに子どもを二人喪う不幸に見舞われたこととなった。
8月15日には、鶴岡八幡宮の放生会が予定されていたが、
北条泰時のもとに弔問客が集まったため、
触穢が方々へ及んでしまい、放生会は延引となった。
11月の開催が見込まれたが、
今度は、鶴岡若宮の廻廊に死人が出て、12月15日にようやく催されている。
泰村の妻の百箇日を迎える10月24日、
その墳墓堂供養が行われた。
妻を亡くした三浦泰村は、
そののち先妻の姉妹である別の泰時の娘と再婚したが、
その後妻も嘉禎2年(1236)12月に亡くしている。
北条氏と三浦氏が宝治合戦で衝突するのは、
それからさらに11年後のこと。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 第33巻 吾妻鏡 後篇』(国史大系刊行会ほか、1933年)
高橋秀樹『対決の東国史 2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021年)
永井晋編『鎌倉僧歴事典』(八木書店、2020年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
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1351 | 1352 | 1353 |
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1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
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1378 | 1379 | |
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没年 1400~1429
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1402 | 1403 | |
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1414 | 1415 | 1416 |
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1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
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没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
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没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
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19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
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某日 |
享年 ~40代
6歳 | ||
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18歳 | 19歳 | |
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27歳 | 28歳 | 29歳 |
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31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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