死に様データベース
《病死》 《1228年》 《2月》 《4日》 《享年91歳》
八田宗綱の娘、宇都宮朝綱の妹。
小山政光の妻。
尼となる以前は、小山政光の後家、小山朝光の母などと呼ばれ、
女房名や出家後の法名などは明らかでない。
寒河尼は、
はじめは内裏で女房づとめをしていたともされるが、
10代後半のころ、在京のまま、源義朝の息子頼朝の乳母(養育係)となった。
その後、実家と同じく下野の豪族である小山政光の妻となった。
政光には、朝政・宗政・朝光らの息子がいたが、
このうち末子の朝光は、寒河尼の所生であったとされる。
養君の頼朝が関東で挙兵すると、
治承4年(1180)10月、
寒河尼は実子の朝光を連れて、陣中の頼朝を訪ね、朝光を託した。
朝光はこのとき頼朝のもとで元服し、のち頼朝の近習として活躍、結城家を興すこととなる。
この逸話が象徴するように、
寒河尼は、夫政光とその子朝政・宗政・朝光兄弟を頼朝方につかせることに成功し、
頼朝の勝利に貢献したのである。
文治3年(1187)12月には、
「女性たりといえども、大功有るにより」(『吾妻鏡』)、
頼朝より下野国寒河郡と網戸郷(いずれも現・栃木県小山市内)を与えられた。
夫政光の没後に出家したかと思われ、
所領にちなんで「寒河尼」あるいは「網戸尼」と呼ばれた。
その後も、頼朝と北条政子に特に重んじられたという。
鎌倉に暮らしたのであろうか。
安貞2年(1228)2月4日、卒去。91歳。
なお、子どもも長命で、
実子説のある宗政は、仁治元年(1240)没、
愛息朝光が死んだのは、建長6年(1254)であり、
長命のわりに、幸い子どもの死に目に遭っていない。
現在、栃木県の小山市役所裏の思川畔には、
小山政光と寒河尼の夫婦の像が、川面を向いて立っている。
小山一族の繁栄と小山の街の発展の、礎を築いた存在として称えられたのだろう。
中世武士の夫婦像は、おそらく全国でも珍しい。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 後篇』(吉川弘文館、1933年)
田端泰子『乳母の力―歴史を支えた女たち―』(吉川弘文館、2005年)
松本一夫『小山氏の盛衰―下野名門武士団の一族史』(戎光祥出版、2015年)
八田宗綱の娘、宇都宮朝綱の妹。
小山政光の妻。
尼となる以前は、小山政光の後家、小山朝光の母などと呼ばれ、
女房名や出家後の法名などは明らかでない。
寒河尼は、
はじめは内裏で女房づとめをしていたともされるが、
10代後半のころ、在京のまま、源義朝の息子頼朝の乳母(養育係)となった。
その後、実家と同じく下野の豪族である小山政光の妻となった。
政光には、朝政・宗政・朝光らの息子がいたが、
このうち末子の朝光は、寒河尼の所生であったとされる。
養君の頼朝が関東で挙兵すると、
治承4年(1180)10月、
寒河尼は実子の朝光を連れて、陣中の頼朝を訪ね、朝光を託した。
朝光はこのとき頼朝のもとで元服し、のち頼朝の近習として活躍、結城家を興すこととなる。
この逸話が象徴するように、
寒河尼は、夫政光とその子朝政・宗政・朝光兄弟を頼朝方につかせることに成功し、
頼朝の勝利に貢献したのである。
文治3年(1187)12月には、
「女性たりといえども、大功有るにより」(『吾妻鏡』)、
頼朝より下野国寒河郡と網戸郷(いずれも現・栃木県小山市内)を与えられた。
夫政光の没後に出家したかと思われ、
所領にちなんで「寒河尼」あるいは「網戸尼」と呼ばれた。
その後も、頼朝と北条政子に特に重んじられたという。
鎌倉に暮らしたのであろうか。
安貞2年(1228)2月4日、卒去。91歳。
なお、子どもも長命で、
実子説のある宗政は、仁治元年(1240)没、
愛息朝光が死んだのは、建長6年(1254)であり、
長命のわりに、幸い子どもの死に目に遭っていない。
現在、栃木県の小山市役所裏の思川畔には、
小山政光と寒河尼の夫婦の像が、川面を向いて立っている。
小山一族の繁栄と小山の街の発展の、礎を築いた存在として称えられたのだろう。
中世武士の夫婦像は、おそらく全国でも珍しい。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 後篇』(吉川弘文館、1933年)
田端泰子『乳母の力―歴史を支えた女たち―』(吉川弘文館、2005年)
松本一夫『小山氏の盛衰―下野名門武士団の一族史』(戎光祥出版、2015年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
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1351 | 1352 | 1353 |
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1357 | ||
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1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
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1378 | 1379 | |
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1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
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1402 | 1403 | |
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1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
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1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
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1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
6歳 | ||
9歳 | ||
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18歳 | 19歳 | |
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27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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