忍者ブログ
死に様データベース
《病死》 《1093年》 《10月》 《21日》 《享年73歳》


大舎人頭藤原親国の娘。母は未詳。
春宮大進藤原隆経の妻となり、息子顕季を産んだ。


天喜元年(1053)6月、
春宮尊仁親王(のち後三条天皇)に第一皇子貞仁が生まれると、
親子は33歳でその乳母のひとりに選ばれた。
乳母にはほかに、藤原資業の娘もいたが、こちらは貞仁が5歳のときに死去し、
親子が「唯一の御乳母」となった(『中右記』)
なお、貞仁の実母藤原茂子も、康平5年(1062)6月に薨じている。


延久4年(1073)12月、親子53歳のとき。
貞仁親王は、父後三条天皇の退位を受けて皇位を嗣いだ(白河天皇)
親子は天皇の乳母として従五位下から正三位に昇り、
白河天皇の退位後も重んじられて、
跡を嗣いだ堀河天皇も、父白河院の仙洞御所に次いで、
親子のもとに行幸している。
従二位に叙されたのち、親子は落飾し、
法勝寺の南東にお堂を建てて、念仏の日々を送った。

寛治7年(1093)9月中頃、親子は病に臥した。
10月4日夕刻、白河上皇はわずかの供を連れて、洛東の親子を見舞った。
親子の容態は思わしくなかったようで、
10日にも白河上皇の見舞いを受けている。

21日朝、親子薨ず。73歳。
「上皇の御愁歎、殊に深しと云々」(『中右記』)
白河上皇はこのとき40歳。
なお、このころ京都では疱瘡(天然痘)が流行していたようだが、
親子が罹患していたかは定かでない。


親子の息子で、白河院の乳母子(乳兄弟)にあたる藤原顕季は、
院の信任も厚く、受領を歴任して財をなし、正三位まで昇った。
受領系の院近臣の典型とされるひとりである。
その子孫からは、四条家や山科家、六条藤家などが出て、大いに栄えた。
その礎に、院の乳母であった親子の存在があったことは、いうまでもない。



〔参考〕
『大日本古記録 中右記 1』(岩波書店、1993年)
竹鼻績全訳注『今鏡 上』(講談社学術文庫、1984年)
田端泰子『乳母の力―歴史を支えた女たち―』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー、2005年)
PR
Comment
Name:
Title:
Color:
Mail:
URL:
Comment:
Pass:   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
232  231  230  229  228  227 
ブログ内検索
死因
病死

 :病気やその他体調の変化による死去。
戦死

 :戦場での戦闘による落命。
誅殺

 :処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害

 :切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死

 :事故・災害等による不慮の死。
不詳

 :謎の死。
本サイトについて
 本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
 当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
 内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
最新コメント
[08/26 記主]
[01/18 記主]
[01/16 記主]
[10/20 世良 康雄]
[08/18 記主]
[09/05 記主]
[04/29 記主]
[03/07 記主]
[01/24 記主]
[03/18 記主]
アクセス解析
忍者アナライズ
P R
Admin / Write
忍者ブログ [PR]