死に様データベース
《病死》 《1103年》 《正月》 《25日》 《享年28歳》
堀河天皇の女御。
父は大納言藤原実季、母は大宰大弐藤原経平の娘睦子。
後三条天皇の皇女で伊勢斎宮であった俊子内親王の養女となった。
承徳2年(1098)10月29日、苡子は23歳で3歳下の堀河天皇に入内し、
12月8日、女御となった。
相前後して懐妊したが、康和元年(1099)4月4日、4ヶ月で流産。
康和2年(1100)正月11日には、その労いとして従四位下に叙されている。
苡子の同母兄の権大納言藤原公実が、なおも皇子の誕生を祈願すると、
はたして康和4年(1102)8月、苡子の再びの懐妊が明らかとなった。
8月7日、着帯の儀を行ったのち、苡子は内裏を退いて、
五条高倉の左少弁藤原顕隆邸に移った。
出産が近づくにつれて、
奈良興福寺の造営が中止され、軽犯の者が釈放されるなど、
世間の注目は皇嗣の誕生集まった。
康和5年(1103)正月13日夜より、苡子は産気づき、
兄公実が万事をとりしきって、
14日酉の刻(夜6時頃)、産所に白木の御帳が立てられて、そのときに備えた。
16日申の刻(夕方4時頃)からいよいよとなって、
深夜、ついに苡子は男児を出産。平産であった。
兄公実がへその緒を切ったという。
人々は皇子の降誕を祝いあった。
なかでも白河法皇は孫の誕生に、「御感の余りすでに落涙に及」んだという(『中右記』)。
もっとも、外戚の地位を脅かされる摂関家の右大臣藤原忠実は、
いささかおもしろくなかったようである。
翌17日から、御湯殿始めや御乳付けなど、皇子の誕生儀礼が進められたが、
この間、苡子の体は「邪気」に冒され、「不食」(食欲不振)となっていた(『中右記』)。
兄公実はこの妹の病状をひた隠しにしたとされる。
25日、白河法皇が産所の藤原顕隆邸に臨幸し、苡子を見舞って皇子と対面した。
ところが、同日亥の刻(夜10時頃)、雨の降りしきるころ、
「邪気」に取り入られた苡子の容態が悪化。
万一の死穢に備えて、皇子は院御所の高松殿に移された。
しかして、子の四点(深夜1時頃)、苡子卒去。28歳であった。
「今朝臨幸の栄耀あり、夕に非常の哀哭に逢ふ。
誠に則ち憂喜聚門、吉凶同域の謂れか。
世間の無常、あたかも春の夢のごときものなり。」(『中右記』)
もし、公実が苡子の容態を隠していなければ、手の施しようがあったかもしれない、
と人々は噂した。
しかし、その後、公実が語ったところでは、
苡子の容態は、深夜に急変して人事不省に陥り、
一刻(30分)ほどで逝去してしまった、
まったくの「頓滅」であったという(『中右記』)。
そのうえ、人々からは「妹の重病を隠した」と謂れのない誹りを受けた、
ということであった。
白河法皇と堀河天皇に近仕し、摂関家をも凌がんとする勢いのあった公実には、
敵も多かったらしい。
とはいえ、妹に先立たれたうえ、“権力欲から妹を見殺しにした”と中傷されては、
たまったものではない。
27日、苡子の遺骸は、生前のごとく日用の牛車に乗せられ、
養母俊子内親王の御所に運ばれ、入棺。
皇子降誕の儀礼が催されているなかで、葬礼は憚られたらしい。
2月3日、鳥辺野で火葬されて、遺骨は木幡山陵に納められ、従三位の位階が贈られた。
悲嘆に暮れる堀河天皇は、はやくから苡子のために仏堂を建てようと志し、
父の白河法皇も同意して、方角と経費に気を付けるよう言い添えた。
同年末の12月19日、
七条室町の亡父実季の仏堂で、苡子の一周忌が大々的に営まれた。
丈六(高さ約4.85m)の釈迦如来像が造立され、
金泥の法華経も供えられた。
明けて康和6年(1104)正月27日には、
堀河天皇の念願叶って、仁和寺に転輪院が建立された。
4年後の嘉承2年(1107)には、堀河天皇も世を去り、
苡子が産んだ皇子宗仁が5歳で即位した(鳥羽天皇)。
これにより、苡子に皇太后の称号が贈られた。
〔参考〕
『大日本古記録 中右記 5』(岩波書店、2005年)
『大日本古記録 殿暦 1』(岩波書店、1960年)
東京大学史料編纂所データベース
堀河天皇の女御。
父は大納言藤原実季、母は大宰大弐藤原経平の娘睦子。
後三条天皇の皇女で伊勢斎宮であった俊子内親王の養女となった。
承徳2年(1098)10月29日、苡子は23歳で3歳下の堀河天皇に入内し、
12月8日、女御となった。
相前後して懐妊したが、康和元年(1099)4月4日、4ヶ月で流産。
康和2年(1100)正月11日には、その労いとして従四位下に叙されている。
苡子の同母兄の権大納言藤原公実が、なおも皇子の誕生を祈願すると、
はたして康和4年(1102)8月、苡子の再びの懐妊が明らかとなった。
8月7日、着帯の儀を行ったのち、苡子は内裏を退いて、
五条高倉の左少弁藤原顕隆邸に移った。
出産が近づくにつれて、
奈良興福寺の造営が中止され、軽犯の者が釈放されるなど、
世間の注目は皇嗣の誕生集まった。
康和5年(1103)正月13日夜より、苡子は産気づき、
兄公実が万事をとりしきって、
14日酉の刻(夜6時頃)、産所に白木の御帳が立てられて、そのときに備えた。
16日申の刻(夕方4時頃)からいよいよとなって、
深夜、ついに苡子は男児を出産。平産であった。
兄公実がへその緒を切ったという。
人々は皇子の降誕を祝いあった。
なかでも白河法皇は孫の誕生に、「御感の余りすでに落涙に及」んだという(『中右記』)。
もっとも、外戚の地位を脅かされる摂関家の右大臣藤原忠実は、
いささかおもしろくなかったようである。
翌17日から、御湯殿始めや御乳付けなど、皇子の誕生儀礼が進められたが、
この間、苡子の体は「邪気」に冒され、「不食」(食欲不振)となっていた(『中右記』)。
兄公実はこの妹の病状をひた隠しにしたとされる。
25日、白河法皇が産所の藤原顕隆邸に臨幸し、苡子を見舞って皇子と対面した。
ところが、同日亥の刻(夜10時頃)、雨の降りしきるころ、
「邪気」に取り入られた苡子の容態が悪化。
万一の死穢に備えて、皇子は院御所の高松殿に移された。
しかして、子の四点(深夜1時頃)、苡子卒去。28歳であった。
「今朝臨幸の栄耀あり、夕に非常の哀哭に逢ふ。
誠に則ち憂喜聚門、吉凶同域の謂れか。
世間の無常、あたかも春の夢のごときものなり。」(『中右記』)
もし、公実が苡子の容態を隠していなければ、手の施しようがあったかもしれない、
と人々は噂した。
しかし、その後、公実が語ったところでは、
苡子の容態は、深夜に急変して人事不省に陥り、
一刻(30分)ほどで逝去してしまった、
まったくの「頓滅」であったという(『中右記』)。
そのうえ、人々からは「妹の重病を隠した」と謂れのない誹りを受けた、
ということであった。
白河法皇と堀河天皇に近仕し、摂関家をも凌がんとする勢いのあった公実には、
敵も多かったらしい。
とはいえ、妹に先立たれたうえ、“権力欲から妹を見殺しにした”と中傷されては、
たまったものではない。
27日、苡子の遺骸は、生前のごとく日用の牛車に乗せられ、
養母俊子内親王の御所に運ばれ、入棺。
皇子降誕の儀礼が催されているなかで、葬礼は憚られたらしい。
2月3日、鳥辺野で火葬されて、遺骨は木幡山陵に納められ、従三位の位階が贈られた。
悲嘆に暮れる堀河天皇は、はやくから苡子のために仏堂を建てようと志し、
父の白河法皇も同意して、方角と経費に気を付けるよう言い添えた。
同年末の12月19日、
七条室町の亡父実季の仏堂で、苡子の一周忌が大々的に営まれた。
丈六(高さ約4.85m)の釈迦如来像が造立され、
金泥の法華経も供えられた。
明けて康和6年(1104)正月27日には、
堀河天皇の念願叶って、仁和寺に転輪院が建立された。
4年後の嘉承2年(1107)には、堀河天皇も世を去り、
苡子が産んだ皇子宗仁が5歳で即位した(鳥羽天皇)。
これにより、苡子に皇太后の称号が贈られた。
〔参考〕
『大日本古記録 中右記 5』(岩波書店、2005年)
『大日本古記録 殿暦 1』(岩波書店、1960年)
東京大学史料編纂所データベース
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 ~1299
| 1084 | ||
| 1093 | ||
| 1095 | ||
| 1097 | ||
| 1103 | ||
| 1105 | ||
| 1138 | ||
| 1150 | ||
| 1151 | ||
| 1177 | 1178 | |
| 1186 | ||
| 1188 | ||
| 1200 | ||
| 1207 | ||
| 1212 | 1213 | |
| 1225 | ||
| 1227 | ||
| 1230 | ||
| 1234 | ||
| 1242 | ||
| 1245 | ||
| 1250 | ||
| 1257 |
没年 1350~1399
| 1350 | ||
| 1351 | 1352 | 1353 |
| 1355 | ||
| 1357 | ||
| 1363 | ||
| 1364 | 1365 | 1366 |
| 1367 | 1368 | |
| 1370 | ||
| 1371 | 1372 | |
| 1374 | ||
| 1378 | 1379 | |
| 1380 | ||
| 1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
| 1400 | ||
| 1402 | 1403 | |
| 1405 | ||
| 1408 | ||
| 1412 | ||
| 1414 | 1415 | 1416 |
| 1417 | 1418 | 1419 |
| 1420 | ||
| 1421 | 1422 | 1423 |
| 1424 | 1425 | 1426 |
| 1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
| 1430 | ||
| 1431 | 1432 | 1433 |
| 1434 | 1435 | 1436 |
| 1437 | 1439 | |
| 1441 | 1443 | |
| 1444 | 1446 | |
| 1447 | 1448 | 1449 |
| 1450 | ||
| 1453 | ||
| 1454 | 1455 | |
| 1459 |
没年 1460~1499
没日
| 1日 | 2日 | 3日 |
| 4日 | 5日 | 6日 |
| 7日 | 8日 | 9日 |
| 10日 | 11日 | 12日 |
| 13日 | 14日 | 15日 |
| 16日 | 17日 | 18日 |
| 19日 | 20日 | 21日 |
| 22日 | 23日 | 24日 |
| 25日 | 26日 | 27日 |
| 28日 | 29日 | 30日 |
| 某日 |
享年 ~30代
| ~9歳 | ||
| 6歳 | ||
| 9歳 | ||
| 10代 | 10歳 | |
| 11歳 | ||
| 15歳 | ||
| 18歳 | 19歳 | |
| 20代 | 20歳 | |
| 22歳 | ||
| 24歳 | 25歳 | 26歳 |
| 27歳 | 28歳 | 29歳 |
| 30代 | 30歳 | |
| 31歳 | 32歳 | 33歳 |
| 34歳 | 35歳 | |
| 37歳 | 38歳 | 39歳 |
享年 40代~60代
| 40代 | 40歳 | |
| 41歳 | 42歳 | 43歳 |
| 44歳 | 45歳 | 46歳 |
| 47歳 | 48歳 | 49歳 |
| 50代 | 50歳 | |
| 52歳 | 53歳 | |
| 55歳 | ||
| 57歳 | 58歳 | |
| 60代 | 60歳 | |
| 61歳 | 62歳 | 63歳 |
| 66歳 | ||
| 68歳 | 69歳 |
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本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
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