死に様データベース
《自害》 《1493年》 《閏4月》 《25日》 《享年52歳》
室町幕府管領。
河内・紀伊・越中・山城守護。
畠山政長の兄弥三郎と従兄義就との畠山氏の家督をめぐる争いは、
弥三郎の死後、弟の政長にも引き継がれ、
応仁・文明の乱の主要因をなした。
政長は、細川勝元の支援を得て、河内や山城で西軍の義就と戦い、
乱終息後もまだ各所でこれと戦った。
明応2年(1493)2月、
将軍足利義材は、義就の子基家を追討するため、
政長の子尚順や奉公衆を率いて、河内に出陣する。
基家追討には、政長の強い望みがあったといい、
政長もこれに随って、
将軍義材とともに河内橘嶋の正覚寺に陣を構えた。
2月中旬、合戦が始まり、
15日には大和郡山城が陥ち、
3月末には、基家の居城高屋城の周辺に戦場が移った。
政長の宿敵退治は、まもなく終わるはずだった。
ところが、
4月22日、出陣せず京都にいた前管領細川政元が、
将軍義材の従弟香厳院清晃を擁して、義材の排斥を図った。
基家追討に参陣していた大内義興・赤松政則らも、これに与同し、
その他の諸大名や奉公衆の多くもこれに従って、
義材・政長のもとを離れていった。
政元のクーデターは成功したのである。
これを、明応の政変という。
戦国時代の始点に置かれる事件である。
こうして、河内国内には、
政元方で発向してきた赤松政則、
正覚寺城で孤立する足利義材・畠山政長、
誉田城の畠山基家と、
三勢力が鼎立する混乱した状態となったが、
やがて赤松政則が畠山基家と結び、
義材・政長を追いつめてゆく。
閏4月上旬、
細川政元の家臣上原元秀・安富元家が、
義材らを討つため、河内に出陣。
藤井寺にいた政長の子尚順を破り、
これを正覚寺城へ退かせた。
閏4月22日、
畠山基家・赤松政則は、政長方の紀伊根来寺衆を破り、
正覚寺城を取り囲んだ。
24日夕方より総攻撃がしかけられ、
25日、正覚寺城はついに落城。
政長は子尚順を脱出させ、切腹した。
家臣遊佐長直らも討ち取られた。
義材やその側近葉室光忠らは、寄せ手の上原元秀に降服した。
政長は、政局の中枢にあり、
そのキャスティングボートを握るひとりであったが、
その死は、他人の巻き添えのような気がしなくもない。
政元のクーデターの目的が、将軍の廃立のみだとするならば、
政長の討滅は、“ついで”のように思われるのである。
しかも、
宿敵義就がこれ以前に、
病死という自然死を迎えていたことと比べるならば、
政長の死は、一層無駄死にであるような印象がぬぐいがたい。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅲ』 (石川県 2004)
『国史大辞典11 (にた-ひ)』 (吉川弘文館 1990)
室町幕府管領。
河内・紀伊・越中・山城守護。
畠山政長の兄弥三郎と従兄義就との畠山氏の家督をめぐる争いは、
弥三郎の死後、弟の政長にも引き継がれ、
応仁・文明の乱の主要因をなした。
政長は、細川勝元の支援を得て、河内や山城で西軍の義就と戦い、
乱終息後もまだ各所でこれと戦った。
明応2年(1493)2月、
将軍足利義材は、義就の子基家を追討するため、
政長の子尚順や奉公衆を率いて、河内に出陣する。
基家追討には、政長の強い望みがあったといい、
政長もこれに随って、
将軍義材とともに河内橘嶋の正覚寺に陣を構えた。
2月中旬、合戦が始まり、
15日には大和郡山城が陥ち、
3月末には、基家の居城高屋城の周辺に戦場が移った。
政長の宿敵退治は、まもなく終わるはずだった。
ところが、
4月22日、出陣せず京都にいた前管領細川政元が、
将軍義材の従弟香厳院清晃を擁して、義材の排斥を図った。
基家追討に参陣していた大内義興・赤松政則らも、これに与同し、
その他の諸大名や奉公衆の多くもこれに従って、
義材・政長のもとを離れていった。
政元のクーデターは成功したのである。
これを、明応の政変という。
戦国時代の始点に置かれる事件である。
こうして、河内国内には、
政元方で発向してきた赤松政則、
正覚寺城で孤立する足利義材・畠山政長、
誉田城の畠山基家と、
三勢力が鼎立する混乱した状態となったが、
やがて赤松政則が畠山基家と結び、
義材・政長を追いつめてゆく。
閏4月上旬、
細川政元の家臣上原元秀・安富元家が、
義材らを討つため、河内に出陣。
藤井寺にいた政長の子尚順を破り、
これを正覚寺城へ退かせた。
閏4月22日、
畠山基家・赤松政則は、政長方の紀伊根来寺衆を破り、
正覚寺城を取り囲んだ。
24日夕方より総攻撃がしかけられ、
25日、正覚寺城はついに落城。
政長は子尚順を脱出させ、切腹した。
家臣遊佐長直らも討ち取られた。
義材やその側近葉室光忠らは、寄せ手の上原元秀に降服した。
政長は、政局の中枢にあり、
そのキャスティングボートを握るひとりであったが、
その死は、他人の巻き添えのような気がしなくもない。
政元のクーデターの目的が、将軍の廃立のみだとするならば、
政長の討滅は、“ついで”のように思われるのである。
しかも、
宿敵義就がこれ以前に、
病死という自然死を迎えていたことと比べるならば、
政長の死は、一層無駄死にであるような印象がぬぐいがたい。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅲ』 (石川県 2004)
『国史大辞典11 (にた-ひ)』 (吉川弘文館 1990)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
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1351 | 1352 | 1353 |
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1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
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1371 | 1372 | |
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1378 | 1379 | |
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1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
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1414 | 1415 | 1416 |
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1424 | 1425 | 1426 |
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没年 1430~1459
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1431 | 1432 | 1433 |
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没年 1460~1499
没日
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4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
9歳 | ||
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18歳 | 19歳 | |
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24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
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31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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