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死に様データベース
《病死》 《1368年》 《9月》 《19日》 《享年63歳》


関東管領。
足利氏の準一門で、
足利尊氏・直義の従兄弟にあたる。


上杉憲顕は、
建武元年(1334)、28歳にして、関東政界にデビューして以来、
数度の上洛以外は、ずっと東国で活動した。
南北朝内乱で活躍した足利氏一門・譜代被官のなかでも、
こうした例は珍しい。


建武3年(1336)正月、
父憲房が京都で戦死すると、
その地位や上野守護職を継承。

当時、上杉一族の中心は、
憲顕、義兄弟の重能、従兄弟の朝定の3人であり、
いずれも足利直義の信頼を得て、その有力部将として活躍していたが、
重能・朝定が、室町幕府の中枢にあって、
京都や畿内近国で活動したのに対して、
憲顕のみは、関東や越後で南朝方と戦い、
足利氏権力の確立に努めている。
建武4年(1337)5月には、直義から、
「諸国の守護の非法のみ聞き候に、
 当国の沙汰は、法の如く殊勝の由、
 諸人申し合い候間、
 感悦無極候、」(「上杉家文書」)
と、上野の支配を激賞されている。
憲顕の支配は、
足利直義の政権構想や支配理念と、よく合っていた。

と同時に、
憲顕が一代で築き上げた関東の基盤は、
幕府にとって、かなりのものだったと思われる。


暦応元年(1338)12月、
直義の命により、上洛するが、
同3年(1340)6月までに、再び関東に戻っている。
翌年(1341)から康永3年(1344)には、
越後を転戦して、南朝方を鎮圧。


観応の擾乱(足利方の内訌)が起こると、
憲顕は、むろん直義方として活動し、
観応2年(1351)正月、
関東両管領の一方で尊氏方の高師冬を、甲斐で討ち取った。
そして、
東国の強大な軍事力を背景に、
京都の直義を助けるべく、上洛を企てるが、
これは、直義に止められている。
そのかわり、子憲将らを上洛させたらしい。

同年11月、
京都を脱出した直義を、鎌倉に迎え、
駿河で足利尊氏と衝突。
一時はこれを圧倒するが、背後からの増援により、敗れた。
翌正平7年(1352)正月、
直義は、兄尊氏に降服し、観応の擾乱は終息。
尊氏に叛した憲顕は、
東国で築き上げたすべてを、失った。

これ以前、
憲顕の子能憲は、尊氏方の高師直らを誅殺した。
尊氏は、重臣師直を討った上杉氏を、
生涯許すことがなかったのである。
そして、憲顕も、主君直義を討った尊氏に、
徹底抗戦していくこととなる。


擾乱終息からほどない、観応3年(1352)閏2月、
憲顕は、南朝方と組んで、尊氏を破り、
鎌倉を占領。
しかし、翌3月、すぐさま奪回された。
それ以降、憲顕やその子らは、
越後や信濃で、ゲリラ的な活動をして、幕府に反抗した。
連敗していたようだから、
“隠然たる勢力を持っていた”とは言い難い。


ところが、
延文3年(1358)4月、尊氏が没すると、
状況が少しずつ変わっていった。
尊氏ほどに、上杉氏に対して拘りのない新将軍義詮は、
貞治元年(1362)、
憲顕を赦免して、越後守護に採用した。

そして、
翌2年(1363)3月、
鎌倉公方足利基氏によって、
再び関東管領として、鎌倉に迎えられることとなる。
基氏は、このことを、
「多年念願」、「願い大慶」(「上杉家文書」)
と述べている。
実父尊氏よりも、養父直義に憧憬を抱いていたらしい基氏は、
幼き頃に、直義の理念の体現者である憲顕の薫陶を受け、
その復帰を、嘱望していたのである。


こうして、憲顕は、
一族ともども、関東政界に完全な復帰を果たした。
こうした例も、
足利氏一門のなかでは、かなり稀である。


貞治6年(1367)4月、
主君基氏が若くして急逝。
その子金王丸(のちの氏満)が、
わずか9歳にして鎌倉公方となる。

しかし、
室町幕府は、その後の行く末を危ぶんだか、
重臣佐々木導誉を鎌倉に派遣して、関東の政務を執らせた。
憲顕はこれと交代して、7月に上洛し、
室町幕府に善後策を議した。

ところが、
同年12月に、将軍義詮も急逝。
鎌倉にあった佐々木導誉は、いそぎ帰京する。

この隙をついて、
翌貞治7年(1368)2月、
憲顕に不満を持っていた河越直重ら平一揆が、武蔵河越で、
宇都宮氏綱が、下野宇都宮で挙兵した。
さらに、混乱に乗じて、
南朝方の残党新田義宗・義治らも、越後や上野で蜂起。
新将軍義満の屋敷で、この報を聞いた憲顕は、
急いで関東に帰った。

すぐさま、
憲顕の子能憲憲春や、甥朝房らが出陣し、
手際よくこれを鎮圧していった。
万全な憲顕は、
平一揆や宇都宮氏の蜂起を誘うために、
あえて関東を留守にしたのではないか、とさえ思われる。

鎮圧軍は、残る敵宇都宮氏綱を、宇都宮城に追い込んだ。
憲顕も、東山道経由で関東に入り、
上野からそのまま下野足利に進んで、
鎮圧軍の監督に当たったが、
応安元年(1368)9月19日、
その陣中で没。


ほぼ一代で築き上げた勢力に、
失脚と反抗と復帰。
政治家としても、吏僚としても、軍事指揮官としても有能だった憲顕の、
63年の生涯は、
十分に波乱に富んでいたといえる。



〔参考〕
岩崎学「上杉憲顕の鎌倉復帰」 (『國學院大學大學院文学研究科紀要』20 1989)
阪田雄一「南北朝期における上杉氏の動向」 (『国史学』164 1998)
小国浩寿『鎌倉府体制と東国』 (吉川弘文館 2001)
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