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死に様データベース
《病死》 《1365年》 《5月》 《4日》 《享年60歳》


北条氏一門赤橋久時の娘。
室町幕府初代将軍足利尊氏の妻で、
2代将軍義詮・初代鎌倉公方基氏の母。

正慶2年(1333)5月、
夫尊氏が、後醍醐天皇の倒幕軍に投じた際には、
子の千寿王(のちの義詮)とともに、鎌倉にあったが、脱出し、
新田義貞らの倒幕軍と北条氏一門の、鎌倉市街戦には、
巻き込まれずには済んだ。

ただ、
鎌倉幕府最後の執権をつとめた兄守時は、
同年5月18日、
鎌倉巨福呂坂で、新田勢と戦ったのち、自刃。
鎮西探題であったもう一人の兄英時も、
同年5月25日に、
九州の少弐貞経・大友貞宗らに敗れて、
筑前博多で自害した。

赤橋登子にとって、
夫尊氏は、親兄弟の仇の筋に当たらなくもない。


その夫尊氏が、
延文3年(1358)4月30日、没すると、
出家して、尼となったらしい。


貞治3年(1364)頃より、
悪瘡により、病気がちであったが、
翌貞治4年(1365)に入ってからは、
やや快方に向かっていた。
ところが、
その年の5月4日酉の斜(夜7時頃)、
危篤に陥る。
事態を聞いた諸大名が、将軍義詮邸に参集した。
子の刻(深夜0時頃)、
他界。

6日申の刻(夕方4時頃)、
夫尊氏の墓所である仁和寺等持院にて、葬儀。
子の刻(深夜0時頃)、火葬。
8日、納骨。
登子に仕えていた清原教氏が、
この日、出家した。

葬儀いっさいは、
将軍である嫡子義詮が執り行ったが、
次男基氏も、関東にあって、
喪に服した。


6月4日までの30日間、
天下触穢とされた。



〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十六』 (1933)
谷口研語「足利尊氏の正室、赤橋登子」(芥川龍男編『日本中世の史的展開』 文献出版 1997)
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