死に様データベース
《誅殺》 《1435年》 《3月》 《某日》 《享年不明》
山城国伏見荘舟津(現・京都市伏見区)に住む下女。
永享6年(1434)9月のころから、伏見舟津の下女某は、
伏見光台寺永松庵の僧超俊と密会を重ね、その子を身ごもった。
ところが、翌年3月下旬、
ことを公になることを怖れた超俊によって、
永松庵門前の麦畠で刺殺され、
遺体は薦(こも)にくるまれて、淀川に流された。
まもなく、現場に残った血だまりから事態は発覚。
超俊は犯行を自白し、
山崎(現・京都府乙訓郡大山崎町ほか)のあたりで下女の遺体も発見されたが、
その直後、超俊は行方をくらました。
犯人の超俊が逐電してしまったため、
罪は、超俊のおじで光台寺住持兼永松庵主の玄超にかけられることとなった。
領主の伏見宮貞成親王は、室町幕府に裁定を仰ごうとしたが、
伏見法安寺の住持がとりなしを求めたため、
玄超は、光台寺住持を更迭、永松庵を一時法安寺預かりとするにとどめられた。
殺害された下女の弔いがどうなったのか、
事件を記した『看聞日記』には記されていない。
〔参考文献〕
『図書寮叢刊 看聞日記 5』 (宮内庁書陵部 2010年)
山城国伏見荘舟津(現・京都市伏見区)に住む下女。
永享6年(1434)9月のころから、伏見舟津の下女某は、
伏見光台寺永松庵の僧超俊と密会を重ね、その子を身ごもった。
ところが、翌年3月下旬、
ことを公になることを怖れた超俊によって、
永松庵門前の麦畠で刺殺され、
遺体は薦(こも)にくるまれて、淀川に流された。
まもなく、現場に残った血だまりから事態は発覚。
超俊は犯行を自白し、
山崎(現・京都府乙訓郡大山崎町ほか)のあたりで下女の遺体も発見されたが、
その直後、超俊は行方をくらました。
犯人の超俊が逐電してしまったため、
罪は、超俊のおじで光台寺住持兼永松庵主の玄超にかけられることとなった。
領主の伏見宮貞成親王は、室町幕府に裁定を仰ごうとしたが、
伏見法安寺の住持がとりなしを求めたため、
玄超は、光台寺住持を更迭、永松庵を一時法安寺預かりとするにとどめられた。
殺害された下女の弔いがどうなったのか、
事件を記した『看聞日記』には記されていない。
〔参考文献〕
『図書寮叢刊 看聞日記 5』 (宮内庁書陵部 2010年)
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《事故死》 《1212年》 《8月》 《16日》 《享年53歳》
前大膳大夫、正四位下。
もと後白河法皇の近臣。
建暦2年(1212)のころのことか、
平業忠は藤原忠綱と相撲をとった際、頸の骨を悪くした。
それ以来、回復しない日々が続き、
8月16日、他界。享年53。
病死ではあるが、病因より事故死に分類した。
業忠は、さほど出世には関心がなかったが、
15歳のときから毎日法華経を読むなど、信心深かったという。
〔参考〕
『冷泉家時雨亭叢書 別巻3 翻刻 明月記 2』 (朝日新聞出版 2014年)
『新訂増補国史大系 第32巻 吾妻鑑 前編』(国史大系刊行会 1932年)
前大膳大夫、正四位下。
もと後白河法皇の近臣。
建暦2年(1212)のころのことか、
平業忠は藤原忠綱と相撲をとった際、頸の骨を悪くした。
それ以来、回復しない日々が続き、
8月16日、他界。享年53。
病死ではあるが、病因より事故死に分類した。
業忠は、さほど出世には関心がなかったが、
15歳のときから毎日法華経を読むなど、信心深かったという。
〔参考〕
『冷泉家時雨亭叢書 別巻3 翻刻 明月記 2』 (朝日新聞出版 2014年)
『新訂増補国史大系 第32巻 吾妻鑑 前編』(国史大系刊行会 1932年)
《誅殺》 《1353年》 《5月》 《17日》 《享年不明》
安芸小早川氏の一族か。
京都をめぐって足利方と南朝の攻防が続く文和2年(1353)の5月半ば、
洛中で不穏な計画の噂が流れた。
東下していた将軍足利尊氏に代わって京都の留守を守っていた嫡男の義詮を、
襲撃するというのだ。
情報を未然につかんだ室町幕府侍所所司代の土岐長山頼基は、
5月14日、某所に踏み込んで、首謀者12人のうち8人の身柄を拘束した。
尋問により、主犯格は小早川将監入道と判明し、
17日、将監入道はさらし首にされた。
洛中の武士の大半が、この計画に加担していたともいわれている。
室町幕府の京都支配がいまなお安定しない時代の一齣か。
〔参考〕
『園太暦 巻4』(続群書類従完成会、1971年)
安芸小早川氏の一族か。
京都をめぐって足利方と南朝の攻防が続く文和2年(1353)の5月半ば、
洛中で不穏な計画の噂が流れた。
東下していた将軍足利尊氏に代わって京都の留守を守っていた嫡男の義詮を、
襲撃するというのだ。
情報を未然につかんだ室町幕府侍所所司代の土岐長山頼基は、
5月14日、某所に踏み込んで、首謀者12人のうち8人の身柄を拘束した。
尋問により、主犯格は小早川将監入道と判明し、
17日、将監入道はさらし首にされた。
洛中の武士の大半が、この計画に加担していたともいわれている。
室町幕府の京都支配がいまなお安定しない時代の一齣か。
〔参考〕
『園太暦 巻4』(続群書類従完成会、1971年)
《誅殺》 《1353年》 《4月》 《5日》 《享年不明》
蔵人、刑部少輔。
従四位上刑部卿橘知任の子。
蔵人や上北面として北朝に仕えたほか、
諸大夫として西園寺家にも仕えた。
文和2年(1353)2月、失火により持明院殿が焼失してしまったため、
焼け出された広義門院(西園寺寧子、光厳・光明両上皇の母)と徽安門院(寿子内親王、花園天皇皇女)は、
参議今出川公直亭に避難していた。
4月5日、橘知兼がこの今出川亭へ参仕に行こうとしたところ、
門前において何者かに殺された。
犯人はおろか、理由なども不明。
京都周辺では、南朝の攻勢が続いており、
そうした政情不安を受けてか、洛中の治安も悪化していたらしい。
事件直前の3月末には、
洛中で数10人の人を攫い、子どもを殺害していた尼僧が、侍所に捕らえられている。
〔参考〕
『園太暦 巻4』(続群書類従完成会、1971年)
蔵人、刑部少輔。
従四位上刑部卿橘知任の子。
蔵人や上北面として北朝に仕えたほか、
諸大夫として西園寺家にも仕えた。
文和2年(1353)2月、失火により持明院殿が焼失してしまったため、
焼け出された広義門院(西園寺寧子、光厳・光明両上皇の母)と徽安門院(寿子内親王、花園天皇皇女)は、
参議今出川公直亭に避難していた。
4月5日、橘知兼がこの今出川亭へ参仕に行こうとしたところ、
門前において何者かに殺された。
犯人はおろか、理由なども不明。
京都周辺では、南朝の攻勢が続いており、
そうした政情不安を受けてか、洛中の治安も悪化していたらしい。
事件直前の3月末には、
洛中で数10人の人を攫い、子どもを殺害していた尼僧が、侍所に捕らえられている。
〔参考〕
『園太暦 巻4』(続群書類従完成会、1971年)
《病死》 《1383年》 《3月》 《11日》 《享年45歳》
藤原氏北家閑院流の三条家の傍流正親町三条家出身。
三条西家の祖。
従二位、権大納言。
長患いをしていた権中納言正親町三条公時の容態は、
永徳3年(1383)2月18日ごろから一層悪くなり、余命いくばくもないものとなっていた。
将軍足利義満に頼んで、3月3日、権大納言に任じられ、
11日暁、卒去。
死に臨んだ公時は、「南無阿弥陀仏」を数百遍唱え、正念に住し、
眠るように息を引き取ったという。
享年は45とも46とも。
「虚損の所労」(『後愚昧記』)と言われている。
最期を看取ったのは、すでに71歳に達していた父の実継だった。
前内大臣実継は、たいした病気もなく健在だったが、
子に先立たれて、世間の同情を集めている。
公時は、将軍義満のおぼえもよく、
所領の面でも厚遇されるなど、
一門の富裕さは他を抜きんでていたが、
働き盛りの公時の死去により「彼一流衰微」(『後愚昧記』)と噂されている。
公時の亡骸は、
弟が住持をつとめる嵯峨の浄金剛院に運ばれた。
公時の跡目については、
後小松天皇から足利義満へ、混乱なく取りはからうよう命じられ、
11歳の嫡男実清が継いだ。
〔参考〕
『大日本古記録 後愚昧記 3』(岩波書店、1988年)
藤原氏北家閑院流の三条家の傍流正親町三条家出身。
三条西家の祖。
従二位、権大納言。
長患いをしていた権中納言正親町三条公時の容態は、
永徳3年(1383)2月18日ごろから一層悪くなり、余命いくばくもないものとなっていた。
将軍足利義満に頼んで、3月3日、権大納言に任じられ、
11日暁、卒去。
死に臨んだ公時は、「南無阿弥陀仏」を数百遍唱え、正念に住し、
眠るように息を引き取ったという。
享年は45とも46とも。
「虚損の所労」(『後愚昧記』)と言われている。
最期を看取ったのは、すでに71歳に達していた父の実継だった。
前内大臣実継は、たいした病気もなく健在だったが、
子に先立たれて、世間の同情を集めている。
公時は、将軍義満のおぼえもよく、
所領の面でも厚遇されるなど、
一門の富裕さは他を抜きんでていたが、
働き盛りの公時の死去により「彼一流衰微」(『後愚昧記』)と噂されている。
公時の亡骸は、
弟が住持をつとめる嵯峨の浄金剛院に運ばれた。
公時の跡目については、
後小松天皇から足利義満へ、混乱なく取りはからうよう命じられ、
11歳の嫡男実清が継いだ。
〔参考〕
『大日本古記録 後愚昧記 3』(岩波書店、1988年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
6歳 | ||
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
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