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死に様データベース
《誅殺》 《1381年》 《8月》 《14日》 《享年不明》


真下勘解由左衛門尉の外居(ほかい、食べ物を入れる蓋付きの容器)を運んでいた人夫。


永徳元年(1381)8月14日、夕暮れ時、
日野一門の中納言裏松資康の家人の右衛門太郎という男の家へ、
賊が押し入った。
犯人は、資康の弟日野資教の家人である堀川範弘の息子弾正忠某。
右衛門太郎とその息子虎熊は、それぞれ頭部や右腕に深手を負いながらも防戦し、
弾正忠に傷を負わせて追い出した。


弾正忠の目当ては、右衛門太郎の殺害であったらしい。
しかし、虎熊の奮戦にあえなく撤退したため、
いよいよ恨みを募らせて、
今度は人数を引き連れて、右衛門太郎宅へ押し寄せた。
しかし、右衛門太郎父子も馬鹿ではない。
再来することを予想して、家の中で待ち構えていた。

右衛門太郎の家の前で、入るに入れない弾正忠方は、
その場で虎熊の下人を殺害した。
さらに、怒りに任せて、
たまたま通りかかった将軍足利義満の近習真下勘解由左衛門尉の人夫をも、
殺害したのである。
「およそ濫吹(乱暴狼藉)の至り、言語道断の次第也、」(『後愚昧記』)


激怒した右衛門太郎の主人裏松資康は、将軍義満へ訴え、
義満は日野資教へ、弾正忠の父堀川範弘をどう処罰するのか、と迫った。
しかし、
堀川範弘はすでに行方をくらましてしまっており、
処罰することはできなかった。


右衛門太郎父子の負傷を不憫に思った義満は、
医師を遣わして治療に当たらせた。
これにて右衛門太郎は大いに面目を施したという。


日野家の資康・資教兄弟は、
妹業子が義満の正室となったことで、将軍家の姻戚として権勢を誇り、
前々年(康暦元年)の正月にも、官人とのもめ事に対して、
「武家権威」による「傍若無人の下知」(『後愚昧記』)を下すなど、
問題を起こしていた。
傍若無人の頂上決戦は、無用な巻き添えを出しておきながら、
うやむやのまま流されたようである。



〔参考文献〕
『大日本古記録 後愚昧記 3』(岩波書店 1988年)
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《誅殺》 《1318年》 《11月》 《24日》 《享年35歳》


前参議、従三位。
綾小路家は、宇多源氏の一流で、
代々、郢曲(宮廷音楽のうちの歌いもの)を家業とした。

さて、今回の一件は、渡辺あゆみ氏の専論に詳しいので、
それに拠りつつ見てゆこう。


綾小路家の当主信有の嫡男であった有時は、
文保2年(1318)11月24日に行われる、
後醍醐天皇の清暑堂御遊の拍子役を命じられていた。
清暑堂御遊とは、天皇の代始に行われる音楽行事であり、
雅楽を家業とする家の者にとって、最重要の儀式であった。
30代半ばの有時は、
楽家の跡取りとして、これまでのキャリアもじゅうぶんであり、
満を持しての大役、ということであったようだ。


御遊当日の24日の夜、
有時が、会場となる内野(大内裏の跡地)に到着したとき、
事件はおこった。
鎌倉時代の歴史物語『増鏡』には次のように書かれている。
(仮名は適宜漢字に改めた。)

 清暑堂の御神楽の拍子の為に、綾小路宰相有時と言ふ人、
 大内(大内裏)へ参り侍るとて、車より降りられける程に、
 いとすくよかなる田舎侍めく物、太刀を抜きて走り寄る侭に、
 あや無く討ちてけり。
 さばかり立ちこみたる人の中にて、いと珍かにあさまし。
 さて拍子俄に異人承る。
 大事共果てて後、尋ね沙汰ある程に、
 紙屋川三位顕香と言ふ人の、
 此の拍子をいどみて、我こそつとむべけれと思ひければ、
 かかる事をせさせけり。
 道に好ける程はやさしけれども、いとむくつけし。(『増鏡』)

内野に入ったところで、牛車を下りようとしたところ、
屈強な田舎侍らしき人物が、太刀を抜いて走ってきて、
あっという間に有時をうち殺してしまった。
場所は、待賢門内とも郁芳門内とも、
有時は35歳とも36歳ともいわれている。


不慮の事件により、突如空席となってしまった拍子役に、
無慈悲な後醍醐天皇は、有時の弟で24歳になる有頼を当てようとしたが、
有頼は「悲歎」(『御遊抄』)により辞退し、
代わって参議中御門冬定がつとめることとなった。


その後、捜査が進められた結果、
従三位の紙屋川顕香という公卿が、
刺客を放った犯人である、とのことがわかった。
紙屋川顕香が有時の命を狙ったのは、拍子役を争ったため、
と、『増鏡』や『尊卑分脈』などは伝えているが、
顕香と有時とでは、雅楽界における経歴が比べものにならず、
とうていライバルにはなりえない、ともいう。
特に顕香は、公家のなかでも傍流の傍流に属する人物で、
故実に通じず、儀式での所作を間違えるなど、
公家社会では問題を起こす人物であったらしい。
有時とも、この直前に何らかのトラブルをおこしていたのではないか、
と推測されている。


捕えられた顕香は、武家に引き渡されて関東に護送され、
元亨元年(1321)8月付けで流罪となった。



〔参考文献〕
渡辺あゆみ「文保二年の綾小路有時殺害事件について」(『創価大学大学院紀要』32 2010年)
東京大学史料編纂所データベース
《誅殺》 《1489年》 《4月》 《29日》 《享年22歳》


従五位下、侍従。
父は正三位・権中納言の烏丸益光。


烏丸資敦は、
日野流烏丸家の当主益光の実子として、
烏丸家を相続するはずであった。
しかし、腰痛の持病を患ったため、
その器でないとして、仏門に入れられてしまった。

文明7年(1475)末、父益光が30代半ばで病没すると、
まだ存命であった祖父資任は、
日野本宗家の勝光の実子冬光を養子に迎え、
烏丸家を継がせた。


ところが、
それから10数年、資敦の腰病は本復する。
資敦は還俗し、
長享2年(1488)、元服を果たした。

そして、
烏丸家の当主冬光に所領の分割を要求し、
訴訟を起こしたのである。
訴えを受けた室町殿足利義政は、資敦の要求を認めて、
冬光に所領の分割を命じたが、
冬光は応じようとしなかった。

この間、無収入の資敦は、
京都正親町烏丸に「不思儀の小屋」(『宣胤卿記』)を借りて、
青侍や雑色と暮らしていたという。


延徳元年(1489)4月29日夜、
資敦は夜盗に襲われ、青侍と雑色とともに殺害された。
22歳という(一説に16歳)。
冬光の差し金だとしきりに噂されたが、
冬光が罰せられた様子はない。


翌年には、同じ日野流の竹屋治光の子が、
資敦の跡継ぎと称して出仕しようとしたが、
取り合われることはなかった。



〔参考〕
東京大学史料編纂所データベース
《誅殺》 《1400年》 《11月》 《29日》 《享年不明》


少将。歌人。
父は『新後拾遺和歌集』の撰者権中納言為重。


俊成・定家に始まる御子左家は、
やがて、嫡流の二条家、庶流の京極家・冷泉家に分かれながら、
鎌倉時代に和歌の家として栄えた。
二条為右は、二条家の傍系に属するが、
父為重ともども、その力量により、南北朝期の京都の歌壇で重きをなした。

以下、為右の顛末については、小川剛生氏の論考に詳しい。


応永7年(1400)11月頃、
為右は、明国出身の女性テルと密通し、妊娠させた。
テルは、北山殿足利義満に仕える女房であったらしい。

露顕を恐れた為右は、
所領の近江国小野荘(現滋賀県彦根市)に産所を設けたといって、テルを連れ出し、
自身も公家らしからぬ変装をして、ともに京都を出た。

ふたりが、琵琶湖南端にかかる勢多橋(現滋賀県大津市)にさしかかったところ、
為右は突如、テルを湖に突き落とした。
為右は、当初よりそのつもりで、
テルを殺害することで、事態の隠滅を図ったのだろう。


ところが、悪事は思うようにはいかない。
テルは旅人か漁師かに救助され、一命をとりとめたのである。
テルは、日頃から経を読むなど、崇仏の行いが篤かったといい、
溺れている際に、何者かに口と耳をつかまれ、
「命ばかりは助くべし」(『吉田家日次記』)
と言われ、やがて意識を失ったという。
人びとは、仏が化現したものだと噂し合った。


ともかく、
これにより事の顛末は露顕し、
人びとは「先代未聞の所行」(『吉田家日次記』)為右を指弾した。
当然ながら、北山殿義満の耳にも入り、激怒させた。

11月20日、
為右は侍所所司代浦上助景のもとに拘留され、
佐渡国へ配流されることとなり、
佐渡守護上野民部大輔入道に引き渡された。
護送中の近江西坂本辺にて、誅殺。
父為重の年齢からすると、40~50歳代あたりとなりそうだが、
官位からすると、今少し若かったであろうか。
なお、当時は、
流人は護送中に殺害されるのが常であり、
流罪は、実質的に死罪を意味していた。


思慮の浅い悪行による当然の報いのようにも思うが、
密通により武家が公家を死罪に処した例は、古今に例がなかったという。
「造意の企て、常篇に絶え、罪責遁るるに所無き事か。
 然りと雖も、当時道(歌道)の宗匠たり。
 死罪もっとも不便(ふびん)か。」(『吉田家日次記』)

テル誘殺の口実に使った近江国小野荘は、
一門の冷泉為尹に与えられた。
為尹の子持為(はじめ持和)が密通・殺害事件を起こすのは、
また別の話。


ちなみに、
為右の父為重は、夜討に襲われ横死、
祖父為冬は、南北朝内乱で戦死。
和歌の家ではありながら、
いや、政治性を色濃く有する和歌の家であるゆえか、
3代続けて、安泰な死に方はしていない。



〔参考〕
小川剛生「為右の最期―二条家の断絶と冷泉家の逼塞」 (『中世和歌史の研究』 塙書房 2017年)
小川剛生『足利義満―公武に君臨した室町将軍(中公新書)』 (中央公論新社 2012年)
清水克行「室町幕府「流罪」考―失脚者の末路をめぐる法慣習―」 (『室町社会の騒擾と秩序』 吉川弘文館 2004年)
《自害》 《1371年》 《4月》 《1日》 《享年不明》


土佐国人佐川氏の若党。


応安4年(1371)、
幼い将軍を抱え、南朝の攻略を進める室町幕府の管領細川頼之は、
この年も出兵の計画を立て、
自身の守護国である四国各国にも、軍勢催促をかけた。


当時、上洛して京都北小路万里小路の智恵光院を宿所としていた、
土佐国の国人佐川某のもとへも、
頼之から出陣命令が届いた。
しかし、
佐川某はこれを固く拒否。
子息が南朝方であったためで、
頼之もそれを承知で、むしろ利用しようとして出陣を命じたらしい。


4月1日、
この命令違反に対して、
頼之は、自身の軍勢と幕府侍所佐々木京極高秀の軍勢を差し向け、
佐川の宿所智恵光院を囲んだ。
佐川某はすぐに逃亡したが、
寺内に残っていた佐川の親類・若党・中間ら4人は、
幕府の軍勢に囲まれ、自害した。
そのうち1人は、しばらく息があったが、
数日のうちに絶命した。
「勇敢の至り、感ずべし。」(『後愚昧記』)

幕府の軍勢は、逃亡した佐川を捜索し、
近隣は大変な騒ぎになったという。

智恵光院の長老や僧たちも、事情聴取のために侍所へ連行された。
一両日中には釈放されたものの、
その間に寺内の財産を押収されるなど、
散々な目にあった。



この騒動には、おまけがつく。

自害した佐川の若党らの遺体は、
河原者に引き取られ、衣類などは彼らの手に渡ったが、
祇園社の犬神人たちが、それらの権利を主張し、
騒動から3日後の4月4日、
智恵光院に押し寄せたのである。
犬神人たちは、火をつけるなどと脅して、智恵光院に詰め寄り、
寺側の退去要請も聞かず、数刻にわたって居座った。

すると今度は、
それを聞いた河原者たちが、智恵光院を助けようと、
武装して集まってきた。

結局、犬神人たちは引き下がり、
侍所において、河原者の権利を認めるとの審判が下ることとなる。


人の死もまた、得分となる。



〔参考〕
『大日本古記録 後愚昧記 2』 (岩波書店 1984年)
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