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死に様データベース
《事故死》 《1461年》 《5月》 《25日》 《享年19歳》


鶴岡八幡宮安楽院の若党。


寛正2年(1461)5月25日、
鎌倉鶴岡八幡宮の院家安楽院に仕える若党飯沼又太郎は、
何の用があったのか、由比ガ浜へ下りたところ、
海が荒れていたようで、波がしきりに押し寄せ、
再び岸に上がることができなかった。
溺死。19歳。
「哀しむものなり。」(『香蔵院珎祐記録』)

同僚や親類たちは、ふた時ほど小舟で捜索したが、
見つからなかったようで、
その後、法華経を書写して、安楽院で供養を行ったという。



〔参考〕
『戸田市史 資料編1 原始・古代・中世』(戸田市 1981年)
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《不詳》 《1428年》 《某月》 《某日》 《享年不明》


真言僧。


正長2年(1429)2月のとある日、
武蔵国のある僧侶が、律師の位を望んでいるという話が、
京都に伝わった。

これを聞いた参議中山定親は、さっそく、
頭右大弁甘露寺忠長をとおして、後花園天皇に奏上した。
まもなく、その僧侶を律師に任じる口宣案が発給され、
定親はそれを、話を届けてきた人物に送った。

律師になるのを望んだのは、宥海という名の僧で、
前年、真言灌頂を遂げたとのことであった。
話を届けてきた人物も、真言僧で、
当の宥海と同門であるという。


ところが、
その後よくよく話を聞いてみると、
意外なことが明らかになった。
なんと、この宥海は、
すでにこの世の人ではないというのである。

宥海は、
昨年、真言灌頂を遂げたのち、
修行のため、武蔵国に下ったが、
ほどなく入滅してしまった。

その後、人々の夢の中に現れ、
「生前無官であったから、今、冥途で座次(席次)が定まらず、大変困っている」
と嘆き訴えた。
多くの人々がこの夢を見たため、
このたびの僧官申請に至ったという。


口宣案の発給まで話をとおしてしまった中山定親は、
事情も調べず差配をしてしまったことを、後悔している。



〔参考〕
『大日本古記録 薩戒記 4』(岩波書店 2009年)
《誅殺》 《1431年》 《正月》 《5日》 《享年11歳》


醍醐寺三宝院の小童。
大納言葉室長忠の子。


永享3年(1431)正月3日戌の刻の終わり(夜9時頃)、
三宝院の小童祢々丸は、
妙法院より帰る途次、三宝院の小門内にて、
何者かに頭部を斬りつけられた。
侍法師の祐尊に抱えられて、部屋の中まで運び込まれたが、
右側頭部、耳の上の三寸ほどの傷からは、
血がだらだらと流れ、
「目も当てられず」というありさまであった。

祢々丸は、駆けつけた師の三宝院満済を見ると、
嬉しそうに、
「死せんかのう」(死ぬんでしょうか)とつぶやいた。
満済は、涙をおさえて、
そんなことはない、と答えるしかなかった。

夜中のことで、近くに傷を診られる医者はおらず、
代わりに観音堂の住僧を呼んで、治療をさせた。
出血は甚だしかったが、
祢々丸は少しも苦しそうな様子を見せず、
受け答えもはきはきとしていた。
そのけなげなさまが、いっそう師満済の涙を誘うのであった。


祢々丸の証言によれば、
犯人は幸順寺主の中間の男だというが、
すでに逃れていて、捜索の手にかかることはなかった。
動機も不明。


翌4日、
祢々丸の容態は変わらず、
流血の不浄のため、沐浴させて、
道場にて回復のための修法が行われた。
さらに、
卯の刻の末(朝7時30分頃)、
三宝院より妙法院に移された。


翌5日辰の半刻(朝8時頃)、
祢々丸、帰寂。享年11歳。
法名を聖蓮禅師とし、
出家受戒を遂げたこととして、弔われた。
6日、火葬。


8歳の頃より、満済に仕え、
満済もこれをかわいがって、昼夜を問わず身辺に置いた。

 この体この式何年忘るべきか、
 万々悲涙、

 歎いて余りあり余りあり

 返す返すも祢々丸の事、
 久遠劫を経るといえども、
 この哀慟休まるべきか、
 万行の涙に溺れ、
 千回の腸を断つばかりなり (いずれも『満済准后日記』)

と、満済の慟哭はやまない。


2月10日、三十五日、
同月25日、中陰結願。
いずれも満済は、頓写経や諷誦文を作成している。



〔参考〕
『続群書類従 補遺一 満済准后日記(下)』 (続群書類従完成会 1928年)
《誅殺》 《1312年》 《2月》 《28日》 《享年不明》


二条富小路内裏の北土門番衆。


応長2年(1312)2月28日、
二条富小路内裏の北土門番衆2人が口論となった。
当然のごとく、刃傷沙汰へ発展。
加害者は逃走した。
被害者の悲鳴は、遥か遠くまで聞こえたという。

事件は、門内、すなわち内裏のなかで起こったが、
斬られた側は、絶命する前に門外へ引き出され、
河原へ運ばれたので、
内裏の触穢は免れたことにされた。
門内には多量の流血が残ったというが…。


時の花園天皇は、
ひとたび、日記に事件の感想を記したようだが、
惜しいかな、思うところあって塗抹してしまい、
今日では読むことができない。



〔参考〕
宮内庁書陵部編『花園院宸記 4』 (便利堂 1993年)
《病死》 《1427年》 《5月》 《某日》 《享年不明》


京都清閑寺の寺僧住房に仕える下女。


応永34年(1427)5月頃、
この下女が、突如悶絶した。
そのうちに、うわごとを言い始めた。
曰く、
「大きな岩が落ちてくる。苦しい」
曰く、
「赤鬼や青鬼が大勢やってきて、乱暴する」
曰く、
「火車がやってきた」

そして、
「いかねばならないか」と自問したのち、
「やはりいかねばなるまい。仕方がない。ゆこう」
と言って、
とうとう死んでしまった。

一部始終を見ていた人々は、
「希代の事」と言い合ったという。


火車とは、
死者の亡骸を奪う猫の妖怪とされる。


〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
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