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死に様データベース
《誅殺》 《1412年》 《5月》 《2日》 《享年不明》


大名山名時煕の中間。


応永19年(1412)5月2日、
日野資教の被官大宮某の宿所にて、
右衛門三郎が大宮氏の若党と、
「博奕銭」(『山科家礼記』)のことで口論となり、
殺害。

右衛門三郎もその場で討たれた。


賭け事は、いつの時代ももめ事を起こす。



〔参考〕
『史料纂集 山科家礼記 1』(続群書類従完成会 1967年)
書陵部所蔵資料目録・画像公開システム 山科家礼記
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《誅殺》 《1402年》 《7月》 《6日》 《享年不明》


応永9年(1402)7月6日夜、
足利義満の側室高橋殿の御所にて、
角田近江次郎が何者かに殺害されるという事件が起こった。
御所は死穢に包まれることとなった。


神祇伯白川資忠は、
角田近江次郎が絶命する以前に、
高橋殿が死穢を逃れるために御所を離れたと聞いて、
高橋殿が死穢に触れていないと安心し、
9日、御所に高橋殿を見舞った。

しかし、
御所には穢れがあるとの風聞を聞くに及び、仰天。
神事に携わる身として不安になり、
遥拝などどうしたらよいか、
神祇大副吉田兼敦に諮問した。

兼敦は以下のように答えている。

 仮に角田が絶命する前に高橋殿が御所を出ていたとしても、
 高橋殿には縁者が大勢いるので、
 穢れが高橋殿本人に届いているのは、間違いないだろう。
 社頭の穢れにしても、今回のことにしても、
 世間の不浄というものは、どうしようもないものである。
 神事は中止し、行水を行い、
 また、遥拝も中止するべきであろう。 (『吉田家日次記』)

資忠はこのとおりにしたという。


もはや殺された本人は蚊帳の外である。
塩をまけばいい、
という問題でもないのであった。



〔参考〕
『大日本史料』第7編第5冊
東京大学史料編纂所データベース
《戦死》 《1441年》 《7月》 《28日》 《享年48歳》


周防・長門・豊前・筑前守護。

前代の叔父盛見の横死後、
弟持盛との家督争いに勝利した大内持世は、
盛見が苦戦した九州の大友・少弐氏との戦いも有利に進め、
九州北部にも勢力を拡大させた。

そうして、九州や本国周防・長門での活動をメインにし、
いっこうに上洛せず、室町幕府に出仕しなかったことで、
一時、将軍足利義教の不信を買う。

永享12年(1440)、ようやく上洛。
京都政界での立ち回りも巧みにこなし、
義教との関係も修復に成功した。
火災で焼失してしまっていた京都の宿所も、
義教のはからいで、花山院南八丁町に新たに屋敷地を得、
宿所を新造したという。


嘉吉元年(1441)6月24日、
持世は、将軍義教に供奉して、管領細川持之や正親町三条実雅らとともに、
赤松教康亭での結城合戦戦勝祝いに参席。
その酒宴のさなか、
赤松の手の者たちが一斉に飛び出し、
将軍義教を殺害した。
宴席はたちまちに血に染まり、乱闘の場と化した。
管領細川持之らが逃げ帰るなか、
持世と京極高数は、抜刀して防戦、
重傷を負った。

持世のその後の容態は詳らかでない。
ひと月あまり経た7月28日、
未完の新造宿所にて絶命。48歳。

遺言に曰く、

 その(事件の)時、(義教に)御供〈自殺〉奉るべきといえども、
 大敵を亡ぼさんがため、おろかにも逃げ去りおわんぬ。
 しかるに、存命せず。無念のことなり。
 死骸においては、葬礼に及ばず。
 早く掘り埋め、髪をもって九州の寺家に送るべし。
 家僕においては、一人のこらず急ぎ播州に発向し、
 赤松(満祐・教康)父子を誅戮すべし。
 これ第一の芳志たるべし。 (『建内記』)


在国していた養嗣子教弘は、すでに播磨赤松討伐のため、
隣国備前まで進軍していた。


赤松の目標は、おそらく義教ひとりであり、
持世は完全に巻き添えであろう。
それゆえにか、恨み節はすさまじい。


大内氏は、
応永の乱を起こして討死した先々代の父義弘といい、
九州での合戦で戦死した先代の叔父盛見といい、
3代続けてまともな死に方をしていない。



〈参考〉
『大日本古記録 建内記 3』 (岩波書店 1968年)
藤井崇「持世期の分国支配」 (『室町期大名権力論』同成社 2013年)
《病死》 《1426年》 《10月》 《16日》 《享年49歳》


室町幕府管領。
摂津・阿波・讃岐守護。


管領在任中には、
伊勢北畠満雅の討伐や、
関東の上杉禅秀の乱、
その後の鎌倉公方足利持氏との関係悪化、
対馬応永の外寇、といった地方の混乱や、
将軍連枝足利義嗣の出奔、
将軍近習富樫満成の失脚など、幕政の動揺もあったが、
将軍足利義持を支えて、乗り切っている。


応永33年(1426)10月上旬、
細川満元(法名道歓)は、腫物に悩まされていた。
それもやや悪性のものであったらしい。

宿老の病状を心配した室町殿足利義持は、見舞いにゆこうとし、
三宝院満済に、治癒の祈祷と併せて、
予め満元の様子を見てくることを命じた。

10月7日、
やってきた満済に面会した満元は、
それほど苦しそうな様子ではなかったが、
視界にやや不調があったという。


翌8日、
義持満元を見舞い、腫物の様子を見た。

満元は、10月5日より、
家臣の安富宝城が「よく効く」として進上した薬を使用していたが、
どうもこれがよくなかったらしい、
という話が義持周辺で言われた。
医師の坂胤能が、
「この薬のこと、不審なり」(『満済准后日記』)
と疑義を呈したという。


こうした満元の病状に、幕府首脳は動揺したようである。
「およそ〈細川〉京兆入道(満元)のこと、
 天下の重人なり。
 ご政道等一方の意見者の間、
 御所様(足利義持)かたがたご仰天か。」(『満済准后日記』)


14日、
満元の腫物は悪化した。
医師坂胤能は、「難儀」と診ている。
義持は、再び見舞いにゆこうとし、
またしても、先んじて満済を遣わした。

訪れた満済に、満元は起き上がって対面した。
意識等は変わりなかったが、
病状は相当なものであった。

まもなく訪れた義持は、
薬を違えたことを責めたが、
もはや後の祭りとせざるを得なかった。

この日、義持は、
嫡男持元へ、満元の跡目を安堵した。


15日、
すでに先が長くないことを悟ったか、
満元は辞世の歌を詠んでいる。

 ことし又命の露のそめいだす
   座のもみぢを人や見なれん (『満済准后日記』)


16日午後(午の刻の終わり〈午後1時頃〉とも、申の刻の初め〈夕方4時頃〉とも)、
満元は、
 諸仏無増処
 衆生又不滅 (『満済准后日記』)
の2句の偈をしたため、端座入滅。
享年49歳。

「平生一義神妙の仁か。
 御所様(足利義持)もってのほかのご周章と云々。」(『満済准后日記』)

人々は、3日間遊興を慎んだという。


義持は、焼香にゆくつもりであった。
しかし、
義持が、焼香のために細川亭に入ると、
室町殿は30日間の触穢となる。
そこで、
公家や諸門跡には、室町殿に参入しないよう布達された。
ところが、比叡山から、
翌年正月の山門礼拝講で頭人をつとめる義持本人が、触穢になっては困る、
との訴えがあり、
義持自身の焼香も中止され、
荼毘への参列も取りやめとなった。

「天下の重人」「神妙の仁」(『満済准后日記』)
「執政の器」「古昔の大臣に異なるべからざるか」(『薩戒記』)
と評価の高い満元であったが、
死後の弔いは、現実的な問題で処理されている。
なんとも不憫であるような。


なお、
献じた薬が問題視され、義持の不興を買った安富宝城は、
つとめていた東寺領備中国新見荘の代官を辞め、
高野山に隠遁したという。



〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『大日本古記録 薩戒記 3』 (岩波書店 2006年)
東京大学史料編纂所データベース
《病死》 《1422年》 《閏10月》 《某日》 《享年不明》


前関白近衛忠嗣「最愛」(『看聞日記』)の妻。
「北政所」(『満済准后日記』)とあるので、正室とわかる。
出自や実名などは不詳。


応永29年(1422)閏10月初旬、
前関白近衛忠嗣室北政所が他界した。

これを「最愛の妻室」としていた夫忠嗣は、
悲嘆のあまり切腹を図った。
しかし、
周囲に取り押さえられて、刀を奪われ、失敗。
そこで、忠嗣は髻を切ろうとするも、これも押しとどめられた。

そうして、同月10日、出家したという。


この思い余った忠嗣の行動は、
同時代人に相当な衝撃を与えたらしい。

伏見宮貞成親王は、
「頗る狂気か。
 悲歎といえども、かくのごとき儀、
 摂家いまだその例を聞かず。
 不可説なり。」(『看聞日記』)
と、
三宝院満済は、
「およそ不可説。
 以てのほかの次第の由、時宜なり。
 誠に以て沙汰のほか也。」(『満済准后日記』)
と記している。
いずれも「不可説」と手厳しい。



〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004年)
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