死に様データベース
《誅殺》 《1312年》 《2月》 《28日》 《享年不明》
二条富小路内裏の北土門番衆。
応長2年(1312)2月28日、
二条富小路内裏の北土門番衆2人が口論となった。
当然のごとく、刃傷沙汰へ発展。
加害者は逃走した。
被害者の悲鳴は、遥か遠くまで聞こえたという。
事件は、門内、すなわち内裏のなかで起こったが、
斬られた側は、絶命する前に門外へ引き出され、
河原へ運ばれたので、
内裏の触穢は免れたことにされた。
門内には多量の流血が残ったというが…。
時の花園天皇は、
ひとたび、日記に事件の感想を記したようだが、
惜しいかな、思うところあって塗抹してしまい、
今日では読むことができない。
〔参考〕
宮内庁書陵部編『花園院宸記 4』 (便利堂 1993年)
二条富小路内裏の北土門番衆。
応長2年(1312)2月28日、
二条富小路内裏の北土門番衆2人が口論となった。
当然のごとく、刃傷沙汰へ発展。
加害者は逃走した。
被害者の悲鳴は、遥か遠くまで聞こえたという。
事件は、門内、すなわち内裏のなかで起こったが、
斬られた側は、絶命する前に門外へ引き出され、
河原へ運ばれたので、
内裏の触穢は免れたことにされた。
門内には多量の流血が残ったというが…。
時の花園天皇は、
ひとたび、日記に事件の感想を記したようだが、
惜しいかな、思うところあって塗抹してしまい、
今日では読むことができない。
〔参考〕
宮内庁書陵部編『花園院宸記 4』 (便利堂 1993年)
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《病死》 《1427年》 《5月》 《某日》 《享年不明》
京都清閑寺の寺僧住房に仕える下女。
応永34年(1427)5月頃、
この下女が、突如悶絶した。
そのうちに、うわごとを言い始めた。
曰く、
「大きな岩が落ちてくる。苦しい」
曰く、
「赤鬼や青鬼が大勢やってきて、乱暴する」
曰く、
「火車がやってきた」
そして、
「いかねばならないか」と自問したのち、
「やはりいかねばなるまい。仕方がない。ゆこう」
と言って、
とうとう死んでしまった。
一部始終を見ていた人々は、
「希代の事」と言い合ったという。
火車とは、
死者の亡骸を奪う猫の妖怪とされる。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
京都清閑寺の寺僧住房に仕える下女。
応永34年(1427)5月頃、
この下女が、突如悶絶した。
そのうちに、うわごとを言い始めた。
曰く、
「大きな岩が落ちてくる。苦しい」
曰く、
「赤鬼や青鬼が大勢やってきて、乱暴する」
曰く、
「火車がやってきた」
そして、
「いかねばならないか」と自問したのち、
「やはりいかねばなるまい。仕方がない。ゆこう」
と言って、
とうとう死んでしまった。
一部始終を見ていた人々は、
「希代の事」と言い合ったという。
火車とは、
死者の亡骸を奪う猫の妖怪とされる。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
《誅殺》 《1412年》 《5月》 《2日》 《享年不明》
大名山名時煕の中間。
応永19年(1412)5月2日、
日野資教の被官大宮某の宿所にて、
右衛門三郎が大宮氏の若党と、
「博奕銭」(『山科家礼記』)のことで口論となり、
殺害。
右衛門三郎もその場で討たれた。
賭け事は、いつの時代ももめ事を起こす。
〔参考〕
『史料纂集 山科家礼記 1』(続群書類従完成会 1967年)
書陵部所蔵資料目録・画像公開システム 山科家礼記
大名山名時煕の中間。
応永19年(1412)5月2日、
日野資教の被官大宮某の宿所にて、
右衛門三郎が大宮氏の若党と、
「博奕銭」(『山科家礼記』)のことで口論となり、
殺害。
右衛門三郎もその場で討たれた。
賭け事は、いつの時代ももめ事を起こす。
〔参考〕
『史料纂集 山科家礼記 1』(続群書類従完成会 1967年)
書陵部所蔵資料目録・画像公開システム 山科家礼記
《誅殺》 《1402年》 《7月》 《6日》 《享年不明》
応永9年(1402)7月6日夜、
足利義満の側室高橋殿の御所にて、
角田近江次郎が何者かに殺害されるという事件が起こった。
御所は死穢に包まれることとなった。
神祇伯白川資忠は、
角田近江次郎が絶命する以前に、
高橋殿が死穢を逃れるために御所を離れたと聞いて、
高橋殿が死穢に触れていないと安心し、
9日、御所に高橋殿を見舞った。
しかし、
御所には穢れがあるとの風聞を聞くに及び、仰天。
神事に携わる身として不安になり、
遥拝などどうしたらよいか、
神祇大副吉田兼敦に諮問した。
兼敦は以下のように答えている。
仮に角田が絶命する前に高橋殿が御所を出ていたとしても、
高橋殿には縁者が大勢いるので、
穢れが高橋殿本人に届いているのは、間違いないだろう。
社頭の穢れにしても、今回のことにしても、
世間の不浄というものは、どうしようもないものである。
神事は中止し、行水を行い、
また、遥拝も中止するべきであろう。 (『吉田家日次記』)
資忠はこのとおりにしたという。
もはや殺された本人は蚊帳の外である。
塩をまけばいい、
という問題でもないのであった。
〔参考〕
『大日本史料』第7編第5冊
東京大学史料編纂所データベース
応永9年(1402)7月6日夜、
足利義満の側室高橋殿の御所にて、
角田近江次郎が何者かに殺害されるという事件が起こった。
御所は死穢に包まれることとなった。
神祇伯白川資忠は、
角田近江次郎が絶命する以前に、
高橋殿が死穢を逃れるために御所を離れたと聞いて、
高橋殿が死穢に触れていないと安心し、
9日、御所に高橋殿を見舞った。
しかし、
御所には穢れがあるとの風聞を聞くに及び、仰天。
神事に携わる身として不安になり、
遥拝などどうしたらよいか、
神祇大副吉田兼敦に諮問した。
兼敦は以下のように答えている。
仮に角田が絶命する前に高橋殿が御所を出ていたとしても、
高橋殿には縁者が大勢いるので、
穢れが高橋殿本人に届いているのは、間違いないだろう。
社頭の穢れにしても、今回のことにしても、
世間の不浄というものは、どうしようもないものである。
神事は中止し、行水を行い、
また、遥拝も中止するべきであろう。 (『吉田家日次記』)
資忠はこのとおりにしたという。
もはや殺された本人は蚊帳の外である。
塩をまけばいい、
という問題でもないのであった。
〔参考〕
『大日本史料』第7編第5冊
東京大学史料編纂所データベース
《戦死》 《1441年》 《7月》 《28日》 《享年48歳》
周防・長門・豊前・筑前守護。
前代の叔父盛見の横死後、
弟持盛との家督争いに勝利した大内持世は、
盛見が苦戦した九州の大友・少弐氏との戦いも有利に進め、
九州北部にも勢力を拡大させた。
そうして、九州や本国周防・長門での活動をメインにし、
いっこうに上洛せず、室町幕府に出仕しなかったことで、
一時、将軍足利義教の不信を買う。
永享12年(1440)、ようやく上洛。
京都政界での立ち回りも巧みにこなし、
義教との関係も修復に成功した。
火災で焼失してしまっていた京都の宿所も、
義教のはからいで、花山院南八丁町に新たに屋敷地を得、
宿所を新造したという。
嘉吉元年(1441)6月24日、
持世は、将軍義教に供奉して、管領細川持之や正親町三条実雅らとともに、
赤松教康亭での結城合戦戦勝祝いに参席。
その酒宴のさなか、
赤松の手の者たちが一斉に飛び出し、
将軍義教を殺害した。
宴席はたちまちに血に染まり、乱闘の場と化した。
管領細川持之らが逃げ帰るなか、
持世と京極高数は、抜刀して防戦、
重傷を負った。
持世のその後の容態は詳らかでない。
ひと月あまり経た7月28日、
未完の新造宿所にて絶命。48歳。
遺言に曰く、
その(事件の)時、(義教に)御供〈自殺〉奉るべきといえども、
大敵を亡ぼさんがため、おろかにも逃げ去りおわんぬ。
しかるに、存命せず。無念のことなり。
死骸においては、葬礼に及ばず。
早く掘り埋め、髪をもって九州の寺家に送るべし。
家僕においては、一人のこらず急ぎ播州に発向し、
赤松(満祐・教康)父子を誅戮すべし。
これ第一の芳志たるべし。 (『建内記』)
在国していた養嗣子教弘は、すでに播磨赤松討伐のため、
隣国備前まで進軍していた。
赤松の目標は、おそらく義教ひとりであり、
持世は完全に巻き添えであろう。
それゆえにか、恨み節はすさまじい。
大内氏は、
応永の乱を起こして討死した先々代の父義弘といい、
九州での合戦で戦死した先代の叔父盛見といい、
3代続けてまともな死に方をしていない。
〈参考〉
『大日本古記録 建内記 3』 (岩波書店 1968年)
藤井崇「持世期の分国支配」 (『室町期大名権力論』同成社 2013年)
周防・長門・豊前・筑前守護。
前代の叔父盛見の横死後、
弟持盛との家督争いに勝利した大内持世は、
盛見が苦戦した九州の大友・少弐氏との戦いも有利に進め、
九州北部にも勢力を拡大させた。
そうして、九州や本国周防・長門での活動をメインにし、
いっこうに上洛せず、室町幕府に出仕しなかったことで、
一時、将軍足利義教の不信を買う。
永享12年(1440)、ようやく上洛。
京都政界での立ち回りも巧みにこなし、
義教との関係も修復に成功した。
火災で焼失してしまっていた京都の宿所も、
義教のはからいで、花山院南八丁町に新たに屋敷地を得、
宿所を新造したという。
嘉吉元年(1441)6月24日、
持世は、将軍義教に供奉して、管領細川持之や正親町三条実雅らとともに、
赤松教康亭での結城合戦戦勝祝いに参席。
その酒宴のさなか、
赤松の手の者たちが一斉に飛び出し、
将軍義教を殺害した。
宴席はたちまちに血に染まり、乱闘の場と化した。
管領細川持之らが逃げ帰るなか、
持世と京極高数は、抜刀して防戦、
重傷を負った。
持世のその後の容態は詳らかでない。
ひと月あまり経た7月28日、
未完の新造宿所にて絶命。48歳。
遺言に曰く、
その(事件の)時、(義教に)御供〈自殺〉奉るべきといえども、
大敵を亡ぼさんがため、おろかにも逃げ去りおわんぬ。
しかるに、存命せず。無念のことなり。
死骸においては、葬礼に及ばず。
早く掘り埋め、髪をもって九州の寺家に送るべし。
家僕においては、一人のこらず急ぎ播州に発向し、
赤松(満祐・教康)父子を誅戮すべし。
これ第一の芳志たるべし。 (『建内記』)
在国していた養嗣子教弘は、すでに播磨赤松討伐のため、
隣国備前まで進軍していた。
赤松の目標は、おそらく義教ひとりであり、
持世は完全に巻き添えであろう。
それゆえにか、恨み節はすさまじい。
大内氏は、
応永の乱を起こして討死した先々代の父義弘といい、
九州での合戦で戦死した先代の叔父盛見といい、
3代続けてまともな死に方をしていない。
〈参考〉
『大日本古記録 建内記 3』 (岩波書店 1968年)
藤井崇「持世期の分国支配」 (『室町期大名権力論』同成社 2013年)
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死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
6歳 | ||
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
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当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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