死に様データベース
《自害》 《1414年》 《11月》 《29日》 《享年不明》
室町幕府管領細川氏の一族。
社会が安定を迎えていた将軍足利義持の時代のことである。
管領細川氏の一族、細川宮内少輔は、
東大寺の所領を押領し、混乱を起こしていた。
度重なる東大寺の訴えを受けた室町幕府は、
事態を重く見て、宮内少輔に押領停止を命じた。
しかし、
宮内少輔は幕命を軽んじて、従わず、
それどころか、
暴言を吐くなど、反抗する態度をとり続けた。
事態の収束を図る将軍義持は、
管領細川満元へ密命を下す。
応永21年(1414)11月29日明け方、
宮内少輔は惣領満元に攻められ、切腹。
安定へ向かう社会において、
それを乱す者の処分に容赦はない。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
東京大学史料編纂所データベース(大日本史料データベース)
室町幕府管領細川氏の一族。
社会が安定を迎えていた将軍足利義持の時代のことである。
管領細川氏の一族、細川宮内少輔は、
東大寺の所領を押領し、混乱を起こしていた。
度重なる東大寺の訴えを受けた室町幕府は、
事態を重く見て、宮内少輔に押領停止を命じた。
しかし、
宮内少輔は幕命を軽んじて、従わず、
それどころか、
暴言を吐くなど、反抗する態度をとり続けた。
事態の収束を図る将軍義持は、
管領細川満元へ密命を下す。
応永21年(1414)11月29日明け方、
宮内少輔は惣領満元に攻められ、切腹。
安定へ向かう社会において、
それを乱す者の処分に容赦はない。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
東京大学史料編纂所データベース(大日本史料データベース)
PR
《誅殺》 《1415年》 《8月》 《26日》 《享年62歳》
将軍足利義持の近習。
応永22年(1415)8月26日、
京都新日吉社の笠懸馬場にて、喧嘩が起こった。
一方は、将軍義持の近習畠山貞清、法名常忠、62歳。
もう一方は、同じく将軍近習小笠原満長の子二郎、19歳。
喧嘩は刃傷沙汰に発展し、
刺し違えたか、2人はその場で死んだ。
そこで収まらないのが中世の喧嘩。
貞清の家臣や子どもたちは、
二郎の父小笠原満長の屋敷へ攻め寄せた。
双方、死傷者を出したが、
やがて将軍義持が来たことで、退散。
9月2日、貞清は荼毘にふされた。
理由は何だかわからぬが、
老人と若者の喧嘩とはこれ如何に。
〔参照〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
東京大学史料編纂所データベース(大日本史料総合データベース)
将軍足利義持の近習。
応永22年(1415)8月26日、
京都新日吉社の笠懸馬場にて、喧嘩が起こった。
一方は、将軍義持の近習畠山貞清、法名常忠、62歳。
もう一方は、同じく将軍近習小笠原満長の子二郎、19歳。
喧嘩は刃傷沙汰に発展し、
刺し違えたか、2人はその場で死んだ。
そこで収まらないのが中世の喧嘩。
貞清の家臣や子どもたちは、
二郎の父小笠原満長の屋敷へ攻め寄せた。
双方、死傷者を出したが、
やがて将軍義持が来たことで、退散。
9月2日、貞清は荼毘にふされた。
理由は何だかわからぬが、
老人と若者の喧嘩とはこれ如何に。
〔参照〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
東京大学史料編纂所データベース(大日本史料総合データベース)
《誅殺》 《1424年》 《12月》 《6日》 《享年不明》
山城浄金剛院の僧。
京都の西郊椎野の浄金剛院の僧理観は、
住持空席の同院において、
看坊(監守役)として、寺務をとりしきっていた。
応永31年(1424)12月6日夜、
同院の門前において、理観は何者かに殺害された。
犯人は皆目わからず、
“妻敵”として討たれたのではないか、とも噂された。
そんな噂とはうらはら、
理観は「心繰り穏便」(『看聞日記』)の人とも評されている。
浄金剛院では、
応永30年(1423)9月、
住持(伏見宮栄仁親王王子)が入滅してのち、
その跡をめぐって混乱が生じていた。
住持は生前、柳原宮(後二条天皇後裔)の子の入寺を望んでいたが、
同院に所縁を持つ正親町三条家は、これに反発。
結局、正親町三条公雅の子が入寺することに決定した。
ところが、
僧侶たちは、荒廃を理由に念仏宗から禅宗への改宗を訴え、
幕府が許可したため、
正親町三条公雅の子の入寺は、とりやめとなり、
かわって、伏見宮家の子が入寺することとなった。
前住持の思惑、
正親町三条家の強請、
寺僧たちの要求……。
混乱の背景には、
こうした院内外の対立があったらしい。
理観はその抗争に絡んで、殺害されたのであろうか。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004年)
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006年)
赤坂恒明「柳原宮考」 (『ぶい&ぶい』27 2014年)
山城浄金剛院の僧。
京都の西郊椎野の浄金剛院の僧理観は、
住持空席の同院において、
看坊(監守役)として、寺務をとりしきっていた。
応永31年(1424)12月6日夜、
同院の門前において、理観は何者かに殺害された。
犯人は皆目わからず、
“妻敵”として討たれたのではないか、とも噂された。
そんな噂とはうらはら、
理観は「心繰り穏便」(『看聞日記』)の人とも評されている。
浄金剛院では、
応永30年(1423)9月、
住持(伏見宮栄仁親王王子)が入滅してのち、
その跡をめぐって混乱が生じていた。
住持は生前、柳原宮(後二条天皇後裔)の子の入寺を望んでいたが、
同院に所縁を持つ正親町三条家は、これに反発。
結局、正親町三条公雅の子が入寺することに決定した。
ところが、
僧侶たちは、荒廃を理由に念仏宗から禅宗への改宗を訴え、
幕府が許可したため、
正親町三条公雅の子の入寺は、とりやめとなり、
かわって、伏見宮家の子が入寺することとなった。
前住持の思惑、
正親町三条家の強請、
寺僧たちの要求……。
混乱の背景には、
こうした院内外の対立があったらしい。
理観はその抗争に絡んで、殺害されたのであろうか。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004年)
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006年)
赤坂恒明「柳原宮考」 (『ぶい&ぶい』27 2014年)
《病死》 《1466年》 《閏2月》 《6日》 《享年57歳》
関東管領。
山内上杉氏当主。
応永17年(1410)、
越後守護上杉房方の三男として生まれた上杉憲実は、
若くして没した関東管領山内上杉憲基の養子となり、
応永25年(1418)、
9歳で越後から鎌倉に入った。
おりしも関東は、
上杉禅秀の乱が終息した直後であり、
鎌倉公方足利持氏による同乱の残党狩りが、
新たな戦乱の種を生みつつあった。
さらに、
そうした公方持氏の強硬姿勢が、室町幕府の不信を買い、
やがて京都・鎌倉の対立へと進んでゆく。
その難局に、幼い憲実は放り込まれたこととなる。
若き憲実は、主君持氏の命にしたがい、
反鎌倉公方派の討伐に発向するなどしたが、
長じるにつれて、
公方持氏と幕府の和睦を斡旋したり、
示威行動である将軍義教の富士下向を、延期するよう要請したりするなど、
幕府と鎌倉府の調整役という関東管領の本分を、発揮するようになる。
こうした憲実の活動は、
主君持氏の活動を抑止するものとなり、
主従の政治的関係を、微妙なものにしていった。
永享9年(1437)、
持氏と憲実の対立はついに決定的となり、
翌10年(1438)、
憲実討伐の兵を挙げた持氏に対して、
憲実は幕府と謀って、これと戦うこととなった。
幕府と上杉の軍勢を前に、ほどなく持氏は降じて、
蟄居、剃髪。
憲実は、持氏の助命を願ったが、
結局、将軍義教に押し切られ、持氏を自害させた。
主君を死に追いやった憲実は、
一時は、自害を図ったりもして、
翌永享11年(1439)、伊豆国清寺に退き、
剃髪。
時に30歳。
後事を弟清方に託し、政界から引退した。
しかし、時節はそれを許さなかった。
永享12年(1440)、
下総の結城氏朝らが持氏の遺児を担いで挙兵。
これを鎮圧することとなった幕府は、
憲実へ帰参を命令。
憲実はこれに服して、
8月、下野小山に赴き、
弟清方とともに結城城攻めにあたった。
翌嘉吉元年(1441)4月、結城城陥落。
結城氏朝以下は討死し、
持氏遺児の幼い安王丸・春王丸兄弟は、
護送途中に美濃で誅殺された。
二度までも主家を死へ至らしめた憲実は、
再び隠遁を強く望んだ。
それも束の間、
同年6月、将軍義教は嘉吉の変で斃れた。
東西の混乱期に、
東国の重鎮憲実への期待は弥増したのである。
そうしたなかで、
憲実は、隠退への準備や子供たちの行く末について、
着々とことを進めている。
関東のことは清方に任せて、
長男竜忠は、僧籍に入れて、
万一還俗した場合には、義絶するとし、
また、
次男竜春には、越後・西国の所領を譲って京都奉公させることとした。
自分の子らが、関東政界にかかわることを拒絶したのである。
しかし、
再び時節が憲実の復帰を要することとなる。
ほどなく清方が没し、
関東管領が空席となってしまい、
さらに、
持氏遺児をして鎌倉府を再建させることとなり、
東国情勢に通じた補佐役の存在が不可欠となったのである。
文安4年(1447)、幕府は、
後花園天皇の綸旨まで出して、憲実の帰参を強請。
だが、
2度目とあって、
憲実は頑なに復任を辞した。
このとき、
すでに伊豆狩野に退いている。
憲実の辞意が固いと見るや、
幕府は、
すでに家臣に担がれて還俗していた、憲実の長男竜忠(憲忠)を、
関東管領とすることとした。
憲実に、父として関東管領憲忠を補佐させることで、
関東政界にかかわらせることとしたのだが、
憲実は、憲忠はすでに義絶しているとして、これも拒否。
僧となり、政治の世界に決別を告げた憲実(号長棟)は、
主家を討った罪報の全国行脚に出る。
文安5年(1448)には京都を経て、さらに西へ西へ、
享徳元年(1452)には、
関東から遠く離れた本州の西の端、長門国に至り、
深川の大寧寺に入ったとされる。
ここで、大寧寺住持竹居正猷の弟子となり、
槎留軒に住して、儒と禅に没頭した。
長棟43歳。
この間、
幕府は東国情勢安定のため、
なおも憲実帰参のことを繰り返していた。
しかし、享徳3年(1454)末、
新たな鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉憲忠のもとでは、
安定を見なかった東国情勢は、
公方成氏による管領憲忠の謀殺という、最悪の結果を招き、
享徳の乱を勃発させた。
さらに、
憲忠の跡には、
憲実が京都奉公を命じた次男房顕(竜春)が擁せられ、
公方成氏に対抗する上杉方の大将に立てられたが、
寛正7年(1466)2月、武蔵五十子での陣中で病没。
その次男の死を聞いたかどうか、
翌閏2月の6日、
長棟は大寧寺槎留軒でその生涯を閉じた。
享年57歳。
画僧小栗宗湛は、次のように評している。
人皆その風を望む。
敬せざるなし。
忽ち逝去を聞き、
感ずべき慕うべきなり。(『蔭涼軒日録』)
幕府の命とはいえ、主家を二度までも死に至らしめ、
さらには、
子息を世俗の争いの犠牲として喪った。
俗世の身分を捨て、復帰を頑なに拒み、
仏道にのめり込むには十分であろう。
大寧寺境内に、
憲実の墓と伝えられる石塔が、ひっそりと立っている。
大寧寺は、中国地方の戦国大名大内義隆自害の地としても知られている。
〔参考〕
田辺久子『上杉憲顕(人物叢書)』 (吉川弘文館 1999年)
小国浩寿『鎌倉府と室町幕府』 (吉川弘文館 2013年)
則竹雄一『古河公方と伊勢宗瑞』 (吉川弘文館 2012年)
関東管領。
山内上杉氏当主。
応永17年(1410)、
越後守護上杉房方の三男として生まれた上杉憲実は、
若くして没した関東管領山内上杉憲基の養子となり、
応永25年(1418)、
9歳で越後から鎌倉に入った。
おりしも関東は、
上杉禅秀の乱が終息した直後であり、
鎌倉公方足利持氏による同乱の残党狩りが、
新たな戦乱の種を生みつつあった。
さらに、
そうした公方持氏の強硬姿勢が、室町幕府の不信を買い、
やがて京都・鎌倉の対立へと進んでゆく。
その難局に、幼い憲実は放り込まれたこととなる。
若き憲実は、主君持氏の命にしたがい、
反鎌倉公方派の討伐に発向するなどしたが、
長じるにつれて、
公方持氏と幕府の和睦を斡旋したり、
示威行動である将軍義教の富士下向を、延期するよう要請したりするなど、
幕府と鎌倉府の調整役という関東管領の本分を、発揮するようになる。
こうした憲実の活動は、
主君持氏の活動を抑止するものとなり、
主従の政治的関係を、微妙なものにしていった。
永享9年(1437)、
持氏と憲実の対立はついに決定的となり、
翌10年(1438)、
憲実討伐の兵を挙げた持氏に対して、
憲実は幕府と謀って、これと戦うこととなった。
幕府と上杉の軍勢を前に、ほどなく持氏は降じて、
蟄居、剃髪。
憲実は、持氏の助命を願ったが、
結局、将軍義教に押し切られ、持氏を自害させた。
主君を死に追いやった憲実は、
一時は、自害を図ったりもして、
翌永享11年(1439)、伊豆国清寺に退き、
剃髪。
時に30歳。
後事を弟清方に託し、政界から引退した。
しかし、時節はそれを許さなかった。
永享12年(1440)、
下総の結城氏朝らが持氏の遺児を担いで挙兵。
これを鎮圧することとなった幕府は、
憲実へ帰参を命令。
憲実はこれに服して、
8月、下野小山に赴き、
弟清方とともに結城城攻めにあたった。
翌嘉吉元年(1441)4月、結城城陥落。
結城氏朝以下は討死し、
持氏遺児の幼い安王丸・春王丸兄弟は、
護送途中に美濃で誅殺された。
二度までも主家を死へ至らしめた憲実は、
再び隠遁を強く望んだ。
それも束の間、
同年6月、将軍義教は嘉吉の変で斃れた。
東西の混乱期に、
東国の重鎮憲実への期待は弥増したのである。
そうしたなかで、
憲実は、隠退への準備や子供たちの行く末について、
着々とことを進めている。
関東のことは清方に任せて、
長男竜忠は、僧籍に入れて、
万一還俗した場合には、義絶するとし、
また、
次男竜春には、越後・西国の所領を譲って京都奉公させることとした。
自分の子らが、関東政界にかかわることを拒絶したのである。
しかし、
再び時節が憲実の復帰を要することとなる。
ほどなく清方が没し、
関東管領が空席となってしまい、
さらに、
持氏遺児をして鎌倉府を再建させることとなり、
東国情勢に通じた補佐役の存在が不可欠となったのである。
文安4年(1447)、幕府は、
後花園天皇の綸旨まで出して、憲実の帰参を強請。
だが、
2度目とあって、
憲実は頑なに復任を辞した。
このとき、
すでに伊豆狩野に退いている。
憲実の辞意が固いと見るや、
幕府は、
すでに家臣に担がれて還俗していた、憲実の長男竜忠(憲忠)を、
関東管領とすることとした。
憲実に、父として関東管領憲忠を補佐させることで、
関東政界にかかわらせることとしたのだが、
憲実は、憲忠はすでに義絶しているとして、これも拒否。
僧となり、政治の世界に決別を告げた憲実(号長棟)は、
主家を討った罪報の全国行脚に出る。
文安5年(1448)には京都を経て、さらに西へ西へ、
享徳元年(1452)には、
関東から遠く離れた本州の西の端、長門国に至り、
深川の大寧寺に入ったとされる。
ここで、大寧寺住持竹居正猷の弟子となり、
槎留軒に住して、儒と禅に没頭した。
長棟43歳。
この間、
幕府は東国情勢安定のため、
なおも憲実帰参のことを繰り返していた。
しかし、享徳3年(1454)末、
新たな鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉憲忠のもとでは、
安定を見なかった東国情勢は、
公方成氏による管領憲忠の謀殺という、最悪の結果を招き、
享徳の乱を勃発させた。
さらに、
憲忠の跡には、
憲実が京都奉公を命じた次男房顕(竜春)が擁せられ、
公方成氏に対抗する上杉方の大将に立てられたが、
寛正7年(1466)2月、武蔵五十子での陣中で病没。
その次男の死を聞いたかどうか、
翌閏2月の6日、
長棟は大寧寺槎留軒でその生涯を閉じた。
享年57歳。
画僧小栗宗湛は、次のように評している。
人皆その風を望む。
敬せざるなし。
忽ち逝去を聞き、
感ずべき慕うべきなり。(『蔭涼軒日録』)
幕府の命とはいえ、主家を二度までも死に至らしめ、
さらには、
子息を世俗の争いの犠牲として喪った。
俗世の身分を捨て、復帰を頑なに拒み、
仏道にのめり込むには十分であろう。
大寧寺境内に、
憲実の墓と伝えられる石塔が、ひっそりと立っている。
大寧寺は、中国地方の戦国大名大内義隆自害の地としても知られている。
〔参考〕
田辺久子『上杉憲顕(人物叢書)』 (吉川弘文館 1999年)
小国浩寿『鎌倉府と室町幕府』 (吉川弘文館 2013年)
則竹雄一『古河公方と伊勢宗瑞』 (吉川弘文館 2012年)
《戦死》 《1355年》 《3月》 《12日》 《享年不明》
那須資藤は、
下野の豪族那須氏の一族であるが、
惣領ではなく、有力な庶流ではないかとされている。
観応3年(1352)、
足利尊氏は、弟直義との対立に決着をつけたものの、
この間に、雌伏していた南朝方が息を吹き返し、
さらには、
敗れた旧直義党が、南朝方と手を組んだため、
戦争はなお収まることがなかった。
ことに、
京都をめぐる南朝方と足利方(北朝方)の争いは、激しさを増しており、
一時は、
光厳・光明・崇光三上皇と東宮直仁親王を、南朝方に拉致されるなど、
北朝は苦境に陥っている。
尊氏・義詮と南朝・旧直義党の京都争奪戦は、
苛烈をきわめたのであった。
文和3年末、
南朝方と旧直義党の軍勢が京に迫った。
尊氏とその子義詮は、
防衛に不向きな京都を去り、
それぞれ近江・播磨に移り、挟撃の態勢をとった。
翌文和4年(1355)正月、
からっぽの京都に、
旧直義党の桃井直常・斯波氏頼らが入った。
ついで、
足利直冬と山名時氏・石塔頼房らも入京。
観応3年(1352)、文和2年(1353)、そして今回と、
南朝方、実に3度目の京都占領であった。
尊氏・義詮は、東西からじりじりと包囲の輪を縮め、
対する京都側は、
東寺実相院に足利直冬、
石清水八幡宮の男山に楠木正儀、
西山に山名時氏が陣を張り、
防衛線を構築した。
2月6日、
摂津芥川・山崎・神無山辺で、
義詮軍の赤松則祐・佐々木導誉らと楠木勢が衝突。
この激戦で南朝方を破った義詮は、京都に迫り、
戦場は市街地に移っていった。
尊氏も、西坂本より東山、ついで清水坂へ陣を移し、
洛中の南朝方を背後から脅かした。
この頃、
京都ではあちこちで、小競り合いや遭遇戦が起きている。
3月12日、
新日吉に陣し、洛中への橋頭堡を確保した尊氏は、
南朝方の本陣東寺へ、京都奪回の総攻撃をしかけた。
尊氏方は数千の大軍であったが、
南朝方は東寺八幡宮に立て籠もり、激戦となった。
雌雄は容易に決せず、
所々にあがった火の手は、京都の空を煙で覆い、
未の刻の初め(午後1時頃)でも真っ暗だったという。
この激戦の中、
那須資藤は尊氏の陣中にあった。
以下、『太平記』。
この陣の寄せ手、ややもすれば懸け立てらるる体に見えければ、
将軍(尊氏)より使者を立てられて、
「那須五郎(資藤)を罷り向かうべし。」と仰せられける。
那須は、この合戦に打ち出でけるはじめ、
故郷の老母の許へ、人を下して、
「今度の合戦にもし討死仕らば、親に先立つ身となりて、
草の陰、苔の下までもお歎きあらんを、
見奉らんずることこそ、思いやるも悲しく存じ候え。」
と、申し遣わしたりければ、
老母泣く泣く委細に返事を書きて、申し送りけるは、
「いにしえより今に至るまで、
武士の家に生まるる人、名を惜しみて命を惜しまず、
皆これ妻子に名残を慕い、父母に別れを悲しむといえども、
家を思い、嘲りを恥ずるゆえに、
惜しかるべき命を捨つるものなり。
はじめ身体髪膚を我に受けて、損ない破らざりしかば、
その孝すでに顕れぬ。
今また身を立ちて、道を行うて、名を後の世に揚げるは、
これ孝の終りたるべし。
されば、今度の合戦に相構えて、
身命を軽んじて、先祖の名を失うべからず。
これは元暦のいにしえ、曩祖那須与一資高は、
屋島の合戦のとき、扇を射て名を揚げたりしときの母衣なり。」
とて、
薄紅の母衣を、錦の袋に入れてぞ送りたりける。
さらでだに戦場に臨みて、いつも命を軽んずる那須五郎が、
老母に義を勧められて、いよいよ気を励ましけるところに、
将軍より別して使いを立てられ、
「この陣の戦い難儀に及ぶ。向かいて敵を払え。」
と、余儀もなく仰せられければ、
那須、かつて一儀も申さず、畏まって領状す。
ただいま味方の大勢ども、立つ足もなくまくり立てられ、
敵みな勇み進める真ん中へ、会釈もなく懸け入りて、
兄弟二人一族郎従三十六騎、一足もひかず討死しける。
一方で、『源威集』の記述。
夜になりて帰陣すべしとて、
手勢ばかり錣(しころ)を傾けて、ならび居たりしところに、
もとの油小路より一手、後ろ塩小路より一手、
大勢寄せ来たる間、
当手ばかりにて、火を散じ、一足もひかず、
資藤・忠資叔父甥、そのほか一族家人、
討死手負い数輩なり。
敵も手強く戦う間、討死手負い同前なり。
敵本陣におさまりしかば、
七条合戦は、やぶれにけり。
資藤、息の下少しく通しければ、
《金+崔》をもおろさず、母衣懸けながら、
広戸にかい載せられて、
将軍(尊氏)の御前へ参りたりければ、
じかに数ヶ所の疵をご覧ぜられて、
今度の振る舞い神妙の由、御感ありければ、
忝くもお詞耳に入るかと覚えて、
目をはたと見開き、
血の付いたる手を合わせて、胸に置き、
恐れ入りたるていにて、うちうなずきうちうなずき、
命をおとしける。
武将(尊氏)これをご覧ぜられて、
お泪を浮かぶ。
建武三、九州御下向の時、
東国に一人の味方なかりしに、
この資藤が父資忠一人、高館に籠りて、
忠節せしことまで仰せられしぞ、忝し。
難戦への突入を「余儀もなく」命じた尊氏と、
瀕死の資藤の手をとり、涙ながらに軍功を褒する尊氏。
かたや親子の情を描きつつ、
一方では、主従の絆の話になっている。
死は、
その後の演出次第。
13日寅の刻(午前4時頃)、
多大な損害をこうむった南朝方は、
東寺から陣をひき、淀や石清水方面へ没落していった。
以降、南朝方が京都を占領することはない。
〔参考〕
『大日本史料』第6編 第19冊
江田郁夫「鎌倉・南北朝時代の那須惣領家」 (『中世東国の街道と武士団』 岩田書院 2010年)
那須資藤は、
下野の豪族那須氏の一族であるが、
惣領ではなく、有力な庶流ではないかとされている。
観応3年(1352)、
足利尊氏は、弟直義との対立に決着をつけたものの、
この間に、雌伏していた南朝方が息を吹き返し、
さらには、
敗れた旧直義党が、南朝方と手を組んだため、
戦争はなお収まることがなかった。
ことに、
京都をめぐる南朝方と足利方(北朝方)の争いは、激しさを増しており、
一時は、
光厳・光明・崇光三上皇と東宮直仁親王を、南朝方に拉致されるなど、
北朝は苦境に陥っている。
尊氏・義詮と南朝・旧直義党の京都争奪戦は、
苛烈をきわめたのであった。
文和3年末、
南朝方と旧直義党の軍勢が京に迫った。
尊氏とその子義詮は、
防衛に不向きな京都を去り、
それぞれ近江・播磨に移り、挟撃の態勢をとった。
翌文和4年(1355)正月、
からっぽの京都に、
旧直義党の桃井直常・斯波氏頼らが入った。
ついで、
足利直冬と山名時氏・石塔頼房らも入京。
観応3年(1352)、文和2年(1353)、そして今回と、
南朝方、実に3度目の京都占領であった。
尊氏・義詮は、東西からじりじりと包囲の輪を縮め、
対する京都側は、
東寺実相院に足利直冬、
石清水八幡宮の男山に楠木正儀、
西山に山名時氏が陣を張り、
防衛線を構築した。
2月6日、
摂津芥川・山崎・神無山辺で、
義詮軍の赤松則祐・佐々木導誉らと楠木勢が衝突。
この激戦で南朝方を破った義詮は、京都に迫り、
戦場は市街地に移っていった。
尊氏も、西坂本より東山、ついで清水坂へ陣を移し、
洛中の南朝方を背後から脅かした。
この頃、
京都ではあちこちで、小競り合いや遭遇戦が起きている。
3月12日、
新日吉に陣し、洛中への橋頭堡を確保した尊氏は、
南朝方の本陣東寺へ、京都奪回の総攻撃をしかけた。
尊氏方は数千の大軍であったが、
南朝方は東寺八幡宮に立て籠もり、激戦となった。
雌雄は容易に決せず、
所々にあがった火の手は、京都の空を煙で覆い、
未の刻の初め(午後1時頃)でも真っ暗だったという。
この激戦の中、
那須資藤は尊氏の陣中にあった。
以下、『太平記』。
この陣の寄せ手、ややもすれば懸け立てらるる体に見えければ、
将軍(尊氏)より使者を立てられて、
「那須五郎(資藤)を罷り向かうべし。」と仰せられける。
那須は、この合戦に打ち出でけるはじめ、
故郷の老母の許へ、人を下して、
「今度の合戦にもし討死仕らば、親に先立つ身となりて、
草の陰、苔の下までもお歎きあらんを、
見奉らんずることこそ、思いやるも悲しく存じ候え。」
と、申し遣わしたりければ、
老母泣く泣く委細に返事を書きて、申し送りけるは、
「いにしえより今に至るまで、
武士の家に生まるる人、名を惜しみて命を惜しまず、
皆これ妻子に名残を慕い、父母に別れを悲しむといえども、
家を思い、嘲りを恥ずるゆえに、
惜しかるべき命を捨つるものなり。
はじめ身体髪膚を我に受けて、損ない破らざりしかば、
その孝すでに顕れぬ。
今また身を立ちて、道を行うて、名を後の世に揚げるは、
これ孝の終りたるべし。
されば、今度の合戦に相構えて、
身命を軽んじて、先祖の名を失うべからず。
これは元暦のいにしえ、曩祖那須与一資高は、
屋島の合戦のとき、扇を射て名を揚げたりしときの母衣なり。」
とて、
薄紅の母衣を、錦の袋に入れてぞ送りたりける。
さらでだに戦場に臨みて、いつも命を軽んずる那須五郎が、
老母に義を勧められて、いよいよ気を励ましけるところに、
将軍より別して使いを立てられ、
「この陣の戦い難儀に及ぶ。向かいて敵を払え。」
と、余儀もなく仰せられければ、
那須、かつて一儀も申さず、畏まって領状す。
ただいま味方の大勢ども、立つ足もなくまくり立てられ、
敵みな勇み進める真ん中へ、会釈もなく懸け入りて、
兄弟二人一族郎従三十六騎、一足もひかず討死しける。
一方で、『源威集』の記述。
夜になりて帰陣すべしとて、
手勢ばかり錣(しころ)を傾けて、ならび居たりしところに、
もとの油小路より一手、後ろ塩小路より一手、
大勢寄せ来たる間、
当手ばかりにて、火を散じ、一足もひかず、
資藤・忠資叔父甥、そのほか一族家人、
討死手負い数輩なり。
敵も手強く戦う間、討死手負い同前なり。
敵本陣におさまりしかば、
七条合戦は、やぶれにけり。
資藤、息の下少しく通しければ、
《金+崔》をもおろさず、母衣懸けながら、
広戸にかい載せられて、
将軍(尊氏)の御前へ参りたりければ、
じかに数ヶ所の疵をご覧ぜられて、
今度の振る舞い神妙の由、御感ありければ、
忝くもお詞耳に入るかと覚えて、
目をはたと見開き、
血の付いたる手を合わせて、胸に置き、
恐れ入りたるていにて、うちうなずきうちうなずき、
命をおとしける。
武将(尊氏)これをご覧ぜられて、
お泪を浮かぶ。
建武三、九州御下向の時、
東国に一人の味方なかりしに、
この資藤が父資忠一人、高館に籠りて、
忠節せしことまで仰せられしぞ、忝し。
難戦への突入を「余儀もなく」命じた尊氏と、
瀕死の資藤の手をとり、涙ながらに軍功を褒する尊氏。
かたや親子の情を描きつつ、
一方では、主従の絆の話になっている。
死は、
その後の演出次第。
13日寅の刻(午前4時頃)、
多大な損害をこうむった南朝方は、
東寺から陣をひき、淀や石清水方面へ没落していった。
以降、南朝方が京都を占領することはない。
〔参考〕
『大日本史料』第6編 第19冊
江田郁夫「鎌倉・南北朝時代の那須惣領家」 (『中世東国の街道と武士団』 岩田書院 2010年)
ブログ内検索
人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
最新コメント
[10/20 世良 康雄]
[08/18 記主]
[09/05 記主]
[04/29 記主]
[03/07 記主]
[01/24 記主]
[03/18 記主]
[03/20 記主]
[07/19 記主]
[06/13 記主]
アクセス解析
忍者アナライズ
P R