死に様データベース
《事故死》 《1186年》 《5月》 《11日》 《享年25歳》
正四位下、右近衛中将。
内大臣徳大寺実定の嫡男。
文治2年(1186)5月2日、
徳大寺公守は、宇治離宮の馬場にて、射笠懸をしていたところ、
落馬した。
このとき、左脚をしたたかに打ったようで、
くるぶしの上2寸ばかりのところを骨折した。
その後、種々の治療を試みたが、
みるみるうちに衰弱していき、
11日明け方、
帰らぬ人となった。
父実定は、源頼朝と結び、
朝廷内で影響力を増している人物であったが、
嫡男公守の死後、
幼い三男公継が残されるばかりであった。
摂政九条兼実はこう記す。
「人々翔不善、遂に以て斯くの如し」(『玉葉』)
〔参考〕
『図書寮創刊 九条家本 玉葉 10』 (宮内庁書陵部 2005年)
正四位下、右近衛中将。
内大臣徳大寺実定の嫡男。
文治2年(1186)5月2日、
徳大寺公守は、宇治離宮の馬場にて、射笠懸をしていたところ、
落馬した。
このとき、左脚をしたたかに打ったようで、
くるぶしの上2寸ばかりのところを骨折した。
その後、種々の治療を試みたが、
みるみるうちに衰弱していき、
11日明け方、
帰らぬ人となった。
父実定は、源頼朝と結び、
朝廷内で影響力を増している人物であったが、
嫡男公守の死後、
幼い三男公継が残されるばかりであった。
摂政九条兼実はこう記す。
「人々翔不善、遂に以て斯くの如し」(『玉葉』)
〔参考〕
『図書寮創刊 九条家本 玉葉 10』 (宮内庁書陵部 2005年)
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《誅殺》 《1469年》 《10月》 《17日》 《享年24歳》
従二位、権大納言。
前関白一条教房の子、兼良の孫。
応仁元年(1467)に始まった応仁・文明の乱は、
西国の大内政弘の上洛、足利義視の西軍合流を経て、
泥沼化の様相を呈していた。
連日の合戦で、京都は焦土と化し、
公家や僧侶たちは、戦乱を避けて、
所縁のある土地や所領へ下って行った。
前関白一条教房は、
いったん奈良に避けたのち、土佐へ、
その息一条政房も、
同じくいったん奈良へ下ったのち、
応仁2年(1468)11月には、
家領の摂津福原荘(兵庫荘とも)に下った。
兵庫福厳寺を住まいと定めたという。
荘内に所在した瀬戸内水運の要衝兵庫湊は、
当時、西軍の主力大内政弘勢の兵站基地となっており、
その家臣問田弘綱が守っていた。
この問田が、政房の安全を引き受けた。
政房も、問田らを信頼していたようである。
しかし、そこは戦乱のさなか。
西軍大内勢の兵站基地を抜かんとして、
文明元年(1469)10月16日、
東軍の山名是豊や赤松政則の軍勢が、兵庫を急襲。
守将問田弘綱と激突した。
初戦は大内方が優勢であったが、
山名・赤松勢の大軍が到着するにつれ、形勢は逆転していった。
そして、
翌17日未の刻(午後2時頃)、
兵庫を焼き払い、殲滅戦を敢行する山名勢や赤松・宇野・小寺・明石勢は、
福厳寺に乱入。
そこにいた政房を弑逆した。
18日、
大内方は、奈良方面に没落し、
守将問田も、いずこへ落ちていった。
軍記物『応仁記』や『応仁別記』は、以下のように描く。
新御所様(政房)は、本領の兵庫にいる折も、
いつものとおりのご装束にて、直衣狩衣を着し、
それは優美なるお姿であった。
どんな荒夷であっても、
このような高貴なお姿を見知っておくべきだが、
一人の武士が走ってきて、
そんなことは思いもわかず、
敵とみなして、長鑓を新御所の胸元へ突き通した。
新御所は少しも姿勢を崩すことなく、
「南無四方極楽世界阿弥陀仏」と唱えて、
そのまま朝の露と消えた。
孫の死を聞いた兼良はたいそう悲しみ、次の歌を詠んだ。
とても死ぬる命をいかで武士の家にむまれぬ事ぞくやしき
遺体は、東光寺において荼毘にふされた。
24歳とされている。
大納言局や御所侍新次郎等、身辺の者たちが出家した。
辞世の歌があったというが、今日には伝わらない。
奈良興福寺の大乗院尋尊(兼良の子)は、
兵庫の情報が入ってきた21日以降、甥政房の身を案じていたが、
11月6日になっても確報がつかめず、
やきもきした様子を、日記『大乗院寺社雑事記』に記している。
情報が入ってきたのは、
20日以上経った、11月11日以降のことであった。
18日には、入道した御所侍新次郎が尋尊のところへ来て、
政房最期のさまを語った。
12月初旬には、土佐にいる父教房のもとへも、
息子の横死が伝わっている。
尋尊は、
保元の乱の際に、流れ矢で命を落とした藤原頼長を引き合いに出し、
次のように述べている。
「摂家においては、保元御乱に、
宇治左府(藤原頼長)、流れ矢により薨じ給う。
これは両帝の御競いなり。
臣下の身、無力の事なり。
只今の儀、一向悪党の沙汰、
末代至極の事なり。
かつがつ当社(春日社)大明神の神慮如何。
但し、事の様を思案するのところ、
公家のありさま、皆もってかくの如し。
前後遅速の階級ばかりなり。
命を失うべきものなり。
歎くべし歎くべし。」 (『大乗院寺社雑事記』)
〔参考〕
『増補続史料大成(普及版) 大乗院寺社雑事記 4』 (臨川書店 2001年)
『増補続史料大成(普及版) 大乗院寺社雑事記 5』 (臨川書店 2001年)
『大日本史料 第8編之3』 (東京大学出版会 1969年)
石田晴男『応仁・文明の乱 (戦争の日本史 9)
』 (吉川弘文館 2008年)
藤井崇『大内義興―西国の「覇者」の誕生 (中世武士選書)
』 (戎光祥出版 2014年)
東京大学史料編纂所データベース
従二位、権大納言。
前関白一条教房の子、兼良の孫。
応仁元年(1467)に始まった応仁・文明の乱は、
西国の大内政弘の上洛、足利義視の西軍合流を経て、
泥沼化の様相を呈していた。
連日の合戦で、京都は焦土と化し、
公家や僧侶たちは、戦乱を避けて、
所縁のある土地や所領へ下って行った。
前関白一条教房は、
いったん奈良に避けたのち、土佐へ、
その息一条政房も、
同じくいったん奈良へ下ったのち、
応仁2年(1468)11月には、
家領の摂津福原荘(兵庫荘とも)に下った。
兵庫福厳寺を住まいと定めたという。
荘内に所在した瀬戸内水運の要衝兵庫湊は、
当時、西軍の主力大内政弘勢の兵站基地となっており、
その家臣問田弘綱が守っていた。
この問田が、政房の安全を引き受けた。
政房も、問田らを信頼していたようである。
しかし、そこは戦乱のさなか。
西軍大内勢の兵站基地を抜かんとして、
文明元年(1469)10月16日、
東軍の山名是豊や赤松政則の軍勢が、兵庫を急襲。
守将問田弘綱と激突した。
初戦は大内方が優勢であったが、
山名・赤松勢の大軍が到着するにつれ、形勢は逆転していった。
そして、
翌17日未の刻(午後2時頃)、
兵庫を焼き払い、殲滅戦を敢行する山名勢や赤松・宇野・小寺・明石勢は、
福厳寺に乱入。
そこにいた政房を弑逆した。
18日、
大内方は、奈良方面に没落し、
守将問田も、いずこへ落ちていった。
軍記物『応仁記』や『応仁別記』は、以下のように描く。
新御所様(政房)は、本領の兵庫にいる折も、
いつものとおりのご装束にて、直衣狩衣を着し、
それは優美なるお姿であった。
どんな荒夷であっても、
このような高貴なお姿を見知っておくべきだが、
一人の武士が走ってきて、
そんなことは思いもわかず、
敵とみなして、長鑓を新御所の胸元へ突き通した。
新御所は少しも姿勢を崩すことなく、
「南無四方極楽世界阿弥陀仏」と唱えて、
そのまま朝の露と消えた。
孫の死を聞いた兼良はたいそう悲しみ、次の歌を詠んだ。
とても死ぬる命をいかで武士の家にむまれぬ事ぞくやしき
遺体は、東光寺において荼毘にふされた。
24歳とされている。
大納言局や御所侍新次郎等、身辺の者たちが出家した。
辞世の歌があったというが、今日には伝わらない。
奈良興福寺の大乗院尋尊(兼良の子)は、
兵庫の情報が入ってきた21日以降、甥政房の身を案じていたが、
11月6日になっても確報がつかめず、
やきもきした様子を、日記『大乗院寺社雑事記』に記している。
情報が入ってきたのは、
20日以上経った、11月11日以降のことであった。
18日には、入道した御所侍新次郎が尋尊のところへ来て、
政房最期のさまを語った。
12月初旬には、土佐にいる父教房のもとへも、
息子の横死が伝わっている。
尋尊は、
保元の乱の際に、流れ矢で命を落とした藤原頼長を引き合いに出し、
次のように述べている。
「摂家においては、保元御乱に、
宇治左府(藤原頼長)、流れ矢により薨じ給う。
これは両帝の御競いなり。
臣下の身、無力の事なり。
只今の儀、一向悪党の沙汰、
末代至極の事なり。
かつがつ当社(春日社)大明神の神慮如何。
但し、事の様を思案するのところ、
公家のありさま、皆もってかくの如し。
前後遅速の階級ばかりなり。
命を失うべきものなり。
歎くべし歎くべし。」 (『大乗院寺社雑事記』)
〔参考〕
『増補続史料大成(普及版) 大乗院寺社雑事記 4』 (臨川書店 2001年)
『増補続史料大成(普及版) 大乗院寺社雑事記 5』 (臨川書店 2001年)
『大日本史料 第8編之3』 (東京大学出版会 1969年)
石田晴男『応仁・文明の乱 (戦争の日本史 9)
藤井崇『大内義興―西国の「覇者」の誕生 (中世武士選書)
東京大学史料編纂所データベース
《自害》 《1374年》 《11月》 《23日》 《享年不明》
鎌倉円覚寺の上副寺(ふうす、寺院の財政を掌る職)。
応安7年(1374)11月23日、
円覚寺の上副寺某は、柴を買い求めようとしたところ、
その値段をめぐって、柴売りと口論になった。
副寺に罵られたことを根に持った柴売りは、
同日夜、円覚寺に忍び入り、
上副寺寮の柴置き小屋に、松明を投げ入れた。
副寺は、罵ったことを後悔したが、すでに遅く、
火は瞬く間に、仏殿など境内各所に広がった。
塔頭大仙庵に行き、
同僚の僧たちに、ことの次第と別れを告げた副寺は、
衣鉢を帯びて、燃えさかる仏殿に入り、
礼仏三拝して、烈火の中にその身を投じたのであった。
人々はこれを聞き、みな涙したという。
世間の怒りを拡散させた以外は、
何の解決にも資することのない責任のとりかた。
この火事で、
同契庵の僧某や正続院の僧6人、続灯庵の僧13人ほか、
寺中上下の多くの人々が焼死したという。
混乱の渦中にあった義堂周信は、火事の後、
「これを戒めとして、
今後商人らと相争ってはならない。
伽藍の荒廃はさだめだが、
戒めなく人のなすことによって、
小事が大事を生むとは、まさにこのことである。」
と説いた。
一方、この混乱の中で、
円覚寺秘蔵の霊鏡が、対立する建長寺に奪われる、
という雑説もおきていたらしい。
〔参考〕
『空華日用工夫略集』 (太洋社 1939年)
『群書類従 第26輯』 (続群書類従完成会)
蔭木英雄『訓注 空華日用工夫略集―中世禅僧の生活と文学』 (思文閣出版 1982年)
山田邦明「室町時代の鎌倉」 (五味文彦編『中世を考える 都市の中世』 吉川弘文館 1992年)
鎌倉円覚寺の上副寺(ふうす、寺院の財政を掌る職)。
応安7年(1374)11月23日、
円覚寺の上副寺某は、柴を買い求めようとしたところ、
その値段をめぐって、柴売りと口論になった。
副寺に罵られたことを根に持った柴売りは、
同日夜、円覚寺に忍び入り、
上副寺寮の柴置き小屋に、松明を投げ入れた。
副寺は、罵ったことを後悔したが、すでに遅く、
火は瞬く間に、仏殿など境内各所に広がった。
塔頭大仙庵に行き、
同僚の僧たちに、ことの次第と別れを告げた副寺は、
衣鉢を帯びて、燃えさかる仏殿に入り、
礼仏三拝して、烈火の中にその身を投じたのであった。
人々はこれを聞き、みな涙したという。
世間の怒りを拡散させた以外は、
何の解決にも資することのない責任のとりかた。
この火事で、
同契庵の僧某や正続院の僧6人、続灯庵の僧13人ほか、
寺中上下の多くの人々が焼死したという。
混乱の渦中にあった義堂周信は、火事の後、
「これを戒めとして、
今後商人らと相争ってはならない。
伽藍の荒廃はさだめだが、
戒めなく人のなすことによって、
小事が大事を生むとは、まさにこのことである。」
と説いた。
一方、この混乱の中で、
円覚寺秘蔵の霊鏡が、対立する建長寺に奪われる、
という雑説もおきていたらしい。
〔参考〕
『空華日用工夫略集』 (太洋社 1939年)
『群書類従 第26輯』 (続群書類従完成会)
蔭木英雄『訓注 空華日用工夫略集―中世禅僧の生活と文学』 (思文閣出版 1982年)
山田邦明「室町時代の鎌倉」 (五味文彦編『中世を考える 都市の中世』 吉川弘文館 1992年)
《誅殺》 《1448年》 《8月》 《8日》 《享年49歳》
室町幕府奉公衆。
播磨・備前・美作守護赤松満祐の弟。
嘉吉元年(1441)6月24日、
兄満祐と甥教康が、
将軍足利義教を自邸に招いて謀殺した。
主を欠いた幕府は、
混乱の末、ようやく赤松討伐軍を派遣し、
播磨国境各所で、激しい戦闘が行われた。
赤松則繁も、
兄弟とともに幕府軍と戦い、
8月26日の播磨蟹坂合戦で、敗れて退却する折、
加古川渡河に失敗し、溺死。
とされたが、
実際には生き延び、
赤松方最後の拠点、城山城の籠城戦にも参加、
落城の際には、甥教康とともに城を脱出した。
その後のしぶとさが興味深い。
行方知れずとなっていた則繁の足取りがつかめるのは、
翌々年の嘉吉3年(1443)のこと。
九州の菊池氏を頼ったのち、
朝鮮半島に渡り、散々に暴れ回っていた。
「一ヶ国を打ち取り」(『建内記』)というほどの、
広範な暴れぶりだったらしい。
その年の6月、
朝鮮王朝が、使者を室町幕府に遣わし、
則繁の討伐を訴えたのであった。
則繁は、その後再び九州に出没する。
当時、九州北部では、
幕府の支持を得つつ勢力を伸張させていた大内氏と、
対馬より筑前の奪回を狙っていた少弐氏が争っていた。
則繁はこの争いに首をつっこみ、
文安5年(1448)正月、
少弐嘉頼に与して、大内教弘と戦い、敗退している。
傭兵の頭目のような存在だったのだろうか。
しぶとい則繁であったが、
幕切れは意外にあっさりとしている。
同じ文安5年(1448)の8月、則繁は、
河内当麻にて、甥の赤松則尚に討たれた。
赤松氏は、一族の再興を目指して共闘していたが、
阿波守護細川持常から赤松則尚へ、
則繁の討伐と赦免等を引き換えとする誘引があり、
その結果、裏切られたという。
8月8日、
則繁と郎党大西某・魚住某の首が、京都に到着し、
18日未の刻(午後2時頃)、
将軍足利義成以下、管領細川勝元・畠山持国らによる首実検が行われ、
六条河原に晒された。
倭寇の時代、
国内外での広範な活動は珍しくないが、
こと大名家の親類というのは、
稀有な例ではなかろうか。
〔参考〕
『大日本古記録 建内記 5』 (岩波書店 1972年)
『大日本古記録 建内記 6』 (岩波書店 1974年)
『増補史料大成 康富記 2』 (臨川書店 1965年)
高坂好『赤松円心・満祐(人物叢書)』 (吉川弘文館 1970年)
東京大学史料編纂所データベース
室町幕府奉公衆。
播磨・備前・美作守護赤松満祐の弟。
嘉吉元年(1441)6月24日、
兄満祐と甥教康が、
将軍足利義教を自邸に招いて謀殺した。
主を欠いた幕府は、
混乱の末、ようやく赤松討伐軍を派遣し、
播磨国境各所で、激しい戦闘が行われた。
赤松則繁も、
兄弟とともに幕府軍と戦い、
8月26日の播磨蟹坂合戦で、敗れて退却する折、
加古川渡河に失敗し、溺死。
とされたが、
実際には生き延び、
赤松方最後の拠点、城山城の籠城戦にも参加、
落城の際には、甥教康とともに城を脱出した。
その後のしぶとさが興味深い。
行方知れずとなっていた則繁の足取りがつかめるのは、
翌々年の嘉吉3年(1443)のこと。
九州の菊池氏を頼ったのち、
朝鮮半島に渡り、散々に暴れ回っていた。
「一ヶ国を打ち取り」(『建内記』)というほどの、
広範な暴れぶりだったらしい。
その年の6月、
朝鮮王朝が、使者を室町幕府に遣わし、
則繁の討伐を訴えたのであった。
則繁は、その後再び九州に出没する。
当時、九州北部では、
幕府の支持を得つつ勢力を伸張させていた大内氏と、
対馬より筑前の奪回を狙っていた少弐氏が争っていた。
則繁はこの争いに首をつっこみ、
文安5年(1448)正月、
少弐嘉頼に与して、大内教弘と戦い、敗退している。
傭兵の頭目のような存在だったのだろうか。
しぶとい則繁であったが、
幕切れは意外にあっさりとしている。
同じ文安5年(1448)の8月、則繁は、
河内当麻にて、甥の赤松則尚に討たれた。
赤松氏は、一族の再興を目指して共闘していたが、
阿波守護細川持常から赤松則尚へ、
則繁の討伐と赦免等を引き換えとする誘引があり、
その結果、裏切られたという。
8月8日、
則繁と郎党大西某・魚住某の首が、京都に到着し、
18日未の刻(午後2時頃)、
将軍足利義成以下、管領細川勝元・畠山持国らによる首実検が行われ、
六条河原に晒された。
倭寇の時代、
国内外での広範な活動は珍しくないが、
こと大名家の親類というのは、
稀有な例ではなかろうか。
〔参考〕
『大日本古記録 建内記 5』 (岩波書店 1972年)
『大日本古記録 建内記 6』 (岩波書店 1974年)
『増補史料大成 康富記 2』 (臨川書店 1965年)
高坂好『赤松円心・満祐(人物叢書)』 (吉川弘文館 1970年)
東京大学史料編纂所データベース
《誅殺》 《1443年》 《5月》 《18日》 《享年18歳》
建仁寺霊雲庵僧。
室町幕府奉行人布施貞基の子。
建仁寺霊雲庵では、
住持の跡継ぎをめぐって、
住持と門徒との間で、激しい争いが起きていた。
嘉吉2年(1442)、
幕府は、僧録海門承朝の指示にしたがうことを命じ、
いったんは落ち着いたかに見えたが、
水面下では、なおくすぶり続けていた。
嘉吉3年(1443)5月18日暁、
門徒側の血気にはやる僧たちが、
霊雲庵に乱入、放火。
住持の同宿にも、半死半生の深手を負わせるなど、
境内を暴れ回った。
その混乱のなかで、
住持の弟子真瑤侍者も、
「矢庭に」(『康富記』)殺されてしまった。
享年18歳。
「言語道断、未聞の儀なり。」(『康富記』)
真瑤の父布施貞基と旧知の間柄であった中原康富は、
不便(ふびん)申すばかりなし。
しきりに悲涙を催す。
如之何々々々。 (『康富記』)
と記している。
悪僧たちは、
所司代多賀高直の追捕の手をかわして、
逃げ散ったという。
翌6月18日には、
真瑤の弔いのため、
父貞基の同僚飯尾貞元の邸宅で、連歌会が催され、
貞基らが、
浪にしく花は蓮のうてなかな 貞元
むすふは玉か夏草の露 貞基 (『康富記』)
と詠んだ。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 4 看聞御記 下』 (続群書類従完成会 1930年)
『増補史料大成 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
『大日本古記録 建内記 6』 (岩波書店 1974年)
建仁寺霊雲庵僧。
室町幕府奉行人布施貞基の子。
建仁寺霊雲庵では、
住持の跡継ぎをめぐって、
住持と門徒との間で、激しい争いが起きていた。
嘉吉2年(1442)、
幕府は、僧録海門承朝の指示にしたがうことを命じ、
いったんは落ち着いたかに見えたが、
水面下では、なおくすぶり続けていた。
嘉吉3年(1443)5月18日暁、
門徒側の血気にはやる僧たちが、
霊雲庵に乱入、放火。
住持の同宿にも、半死半生の深手を負わせるなど、
境内を暴れ回った。
その混乱のなかで、
住持の弟子真瑤侍者も、
「矢庭に」(『康富記』)殺されてしまった。
享年18歳。
「言語道断、未聞の儀なり。」(『康富記』)
真瑤の父布施貞基と旧知の間柄であった中原康富は、
不便(ふびん)申すばかりなし。
しきりに悲涙を催す。
如之何々々々。 (『康富記』)
と記している。
悪僧たちは、
所司代多賀高直の追捕の手をかわして、
逃げ散ったという。
翌6月18日には、
真瑤の弔いのため、
父貞基の同僚飯尾貞元の邸宅で、連歌会が催され、
貞基らが、
浪にしく花は蓮のうてなかな 貞元
むすふは玉か夏草の露 貞基 (『康富記』)
と詠んだ。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 4 看聞御記 下』 (続群書類従完成会 1930年)
『増補史料大成 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
『大日本古記録 建内記 6』 (岩波書店 1974年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
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享年 ~40代
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本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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