死に様データベース
《誅殺》 《1443年》 《5月》 《18日》 《享年18歳》
建仁寺霊雲庵僧。
室町幕府奉行人布施貞基の子。
建仁寺霊雲庵では、
住持の跡継ぎをめぐって、
住持と門徒との間で、激しい争いが起きていた。
嘉吉2年(1442)、
幕府は、僧録海門承朝の指示にしたがうことを命じ、
いったんは落ち着いたかに見えたが、
水面下では、なおくすぶり続けていた。
嘉吉3年(1443)5月18日暁、
門徒側の血気にはやる僧たちが、
霊雲庵に乱入、放火。
住持の同宿にも、半死半生の深手を負わせるなど、
境内を暴れ回った。
その混乱のなかで、
住持の弟子真瑤侍者も、
「矢庭に」(『康富記』)殺されてしまった。
享年18歳。
「言語道断、未聞の儀なり。」(『康富記』)
真瑤の父布施貞基と旧知の間柄であった中原康富は、
不便(ふびん)申すばかりなし。
しきりに悲涙を催す。
如之何々々々。 (『康富記』)
と記している。
悪僧たちは、
所司代多賀高直の追捕の手をかわして、
逃げ散ったという。
翌6月18日には、
真瑤の弔いのため、
父貞基の同僚飯尾貞元の邸宅で、連歌会が催され、
貞基らが、
浪にしく花は蓮のうてなかな 貞元
むすふは玉か夏草の露 貞基 (『康富記』)
と詠んだ。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 4 看聞御記 下』 (続群書類従完成会 1930年)
『増補史料大成 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
『大日本古記録 建内記 6』 (岩波書店 1974年)
建仁寺霊雲庵僧。
室町幕府奉行人布施貞基の子。
建仁寺霊雲庵では、
住持の跡継ぎをめぐって、
住持と門徒との間で、激しい争いが起きていた。
嘉吉2年(1442)、
幕府は、僧録海門承朝の指示にしたがうことを命じ、
いったんは落ち着いたかに見えたが、
水面下では、なおくすぶり続けていた。
嘉吉3年(1443)5月18日暁、
門徒側の血気にはやる僧たちが、
霊雲庵に乱入、放火。
住持の同宿にも、半死半生の深手を負わせるなど、
境内を暴れ回った。
その混乱のなかで、
住持の弟子真瑤侍者も、
「矢庭に」(『康富記』)殺されてしまった。
享年18歳。
「言語道断、未聞の儀なり。」(『康富記』)
真瑤の父布施貞基と旧知の間柄であった中原康富は、
不便(ふびん)申すばかりなし。
しきりに悲涙を催す。
如之何々々々。 (『康富記』)
と記している。
悪僧たちは、
所司代多賀高直の追捕の手をかわして、
逃げ散ったという。
翌6月18日には、
真瑤の弔いのため、
父貞基の同僚飯尾貞元の邸宅で、連歌会が催され、
貞基らが、
浪にしく花は蓮のうてなかな 貞元
むすふは玉か夏草の露 貞基 (『康富記』)
と詠んだ。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 4 看聞御記 下』 (続群書類従完成会 1930年)
『増補史料大成 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
『大日本古記録 建内記 6』 (岩波書店 1974年)
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《事故死》 《1424年》 《6月》 《27日》 《享年不明》
石清水八幡宮社務田中融清の若党。
大力の者という。
応永31年(1424)6月、
石清水八幡宮の神人(下級祠官)たちが、
社務田中融清の罷免などを求めて、大規模な強訴を起こした。
神人たちは、境内の薬師堂に立て籠もり、
八幡宮近隣の郷民も、神人たちに味方する一方、
対する室町幕府も、諸大名の軍勢を差し向け、
薬師堂を包囲して、鎮圧に乗り出した。
小競り合いがあるなど、緊張した状況が、
翌月まで続いた。
そうした騒動のさなかの6月25日、
神人の妻であった1人の巫女が、神がかりとなり、
種々の託宣をした。
社務田中融清は、この巫女を捕えて、
託宣の実否を糾した。
巫女は記憶にないと言ったが、
田中の若党某は、なお厳しく責め立てたらしい。
その後、
この若党は、上洛する道中、
鳥羽の辺りで、にわかに睡魔に襲われた。
淀川べりで、休んでうとうとしていたところ、
誤って川に落ち、水死。
巫女を糾問した神罰か、と噂された。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006年)
石清水八幡宮社務田中融清の若党。
大力の者という。
応永31年(1424)6月、
石清水八幡宮の神人(下級祠官)たちが、
社務田中融清の罷免などを求めて、大規模な強訴を起こした。
神人たちは、境内の薬師堂に立て籠もり、
八幡宮近隣の郷民も、神人たちに味方する一方、
対する室町幕府も、諸大名の軍勢を差し向け、
薬師堂を包囲して、鎮圧に乗り出した。
小競り合いがあるなど、緊張した状況が、
翌月まで続いた。
そうした騒動のさなかの6月25日、
神人の妻であった1人の巫女が、神がかりとなり、
種々の託宣をした。
社務田中融清は、この巫女を捕えて、
託宣の実否を糾した。
巫女は記憶にないと言ったが、
田中の若党某は、なお厳しく責め立てたらしい。
その後、
この若党は、上洛する道中、
鳥羽の辺りで、にわかに睡魔に襲われた。
淀川べりで、休んでうとうとしていたところ、
誤って川に落ち、水死。
巫女を糾問した神罰か、と噂された。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006年)
《誅殺》 《1420年》 《10月》 《某日》 《享年不明》
医師。
高間とも書かれる。
応永27年(1420)8月下旬頃より、
室町殿足利義持は、体調を崩していた。
9月になっても、義持の病は癒えなかった。
食が進まず、苦しげであったという。
坂士仏と高天良覚という2人の医師が診察し、
士仏は「疫病」と診断し、薬は処方せず、
良覚は「シキ(病だれに食)」「傷風」(風邪の一種)と診断し、
薬を進上していった。
しかし、この良覚、なかなか怪しい人物だったようで、
当初から狐憑きとの噂が立っていた。
病状が日増しに悪化していた9月9日、
義持の御台日野栄子のもとで、験者が加持を行っていたところ、
狐2匹が、御所から脱走。
すぐさま捕獲されて殺されたが、
これが、狐憑きの呪詛に使われていたものだとして、
良覚による義持呪詛の露顕、と相成った。
翌10日朝、
良覚は、父や子弟3人とともに、
管領畠山満家に捕らえられた。
同日昼頃、
一味の陰陽師賀茂定棟も、
細川義之に召し捕らえられた。
尋問の末、
良覚は、狐憑きのことを白状。
13日、
良覚の身柄は、侍所に移され、
さらなる尋問により、
新たに、一味の医師・陰陽師・修験僧ら8人の関与が判明。
目薬師の松井や、宗福寺の長老、清水堂の坊主のほか、
二条家の諸大夫高階俊経も、含まれていた。
いずれも逮捕され、
23日にも、新たに僧2人が捕らえられた。
10月に入って、
義持の病状が快復に向かいはじめた頃、
良覚・賀茂定棟・高階俊経は、
それぞれ四国に配流されることが決まった。
8日、配流先の讃岐へと連行される途中、
良覚、某所にて殺害される。
この時代、
流罪とは、法の下の保護からの放逐を意味しており、
流人の生殺与奪は、流刑を執行する側に一切が握られていた。
生かすも殺すも自由、ということは、
流罪と死罪は、ほとんど同じことを意味していたのである。
なお、
一味とされた高階俊経は、秋野道場で出家を遂げて、誅殺を免れ、
賀茂定棟も、その後の存命がうかがえる。
処刑されたのは、良覚1人だったようである。
また、
良覚に代わって、義持の診察を独占した士仏は、
義持から褒美をたんまりと貰った。
「毎事人間の憂喜は定まらず、」(『看聞日記』)
とは、伏見宮貞成王の言。
釈放される前、
賀茂定棟は、獄中で次の歌を詠んだという。
かゝるとも道の道たる御代ならば晴らでや雲の月は照らさむ(『康富記』)
身の無実を訴え、政道の理非を糺すこの歌からは、
覚えのないスキャンダルに巻き込まれたことの、
怨嗟の声が聞こえてくる。
侍医のなかでの主導権をめぐる争いに、
周囲が巻き込まれた、というあたりが実際のところだろうか。
〔参考〕
『増補史料大成 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2004年)
清水克行『室町社会の騒擾と秩序』 (吉川弘文館 2004年)
医師。
高間とも書かれる。
応永27年(1420)8月下旬頃より、
室町殿足利義持は、体調を崩していた。
9月になっても、義持の病は癒えなかった。
食が進まず、苦しげであったという。
坂士仏と高天良覚という2人の医師が診察し、
士仏は「疫病」と診断し、薬は処方せず、
良覚は「シキ(病だれに食)」「傷風」(風邪の一種)と診断し、
薬を進上していった。
しかし、この良覚、なかなか怪しい人物だったようで、
当初から狐憑きとの噂が立っていた。
病状が日増しに悪化していた9月9日、
義持の御台日野栄子のもとで、験者が加持を行っていたところ、
狐2匹が、御所から脱走。
すぐさま捕獲されて殺されたが、
これが、狐憑きの呪詛に使われていたものだとして、
良覚による義持呪詛の露顕、と相成った。
翌10日朝、
良覚は、父や子弟3人とともに、
管領畠山満家に捕らえられた。
同日昼頃、
一味の陰陽師賀茂定棟も、
細川義之に召し捕らえられた。
尋問の末、
良覚は、狐憑きのことを白状。
13日、
良覚の身柄は、侍所に移され、
さらなる尋問により、
新たに、一味の医師・陰陽師・修験僧ら8人の関与が判明。
目薬師の松井や、宗福寺の長老、清水堂の坊主のほか、
二条家の諸大夫高階俊経も、含まれていた。
いずれも逮捕され、
23日にも、新たに僧2人が捕らえられた。
10月に入って、
義持の病状が快復に向かいはじめた頃、
良覚・賀茂定棟・高階俊経は、
それぞれ四国に配流されることが決まった。
8日、配流先の讃岐へと連行される途中、
良覚、某所にて殺害される。
この時代、
流罪とは、法の下の保護からの放逐を意味しており、
流人の生殺与奪は、流刑を執行する側に一切が握られていた。
生かすも殺すも自由、ということは、
流罪と死罪は、ほとんど同じことを意味していたのである。
なお、
一味とされた高階俊経は、秋野道場で出家を遂げて、誅殺を免れ、
賀茂定棟も、その後の存命がうかがえる。
処刑されたのは、良覚1人だったようである。
また、
良覚に代わって、義持の診察を独占した士仏は、
義持から褒美をたんまりと貰った。
「毎事人間の憂喜は定まらず、」(『看聞日記』)
とは、伏見宮貞成王の言。
釈放される前、
賀茂定棟は、獄中で次の歌を詠んだという。
かゝるとも道の道たる御代ならば晴らでや雲の月は照らさむ(『康富記』)
身の無実を訴え、政道の理非を糺すこの歌からは、
覚えのないスキャンダルに巻き込まれたことの、
怨嗟の声が聞こえてくる。
侍医のなかでの主導権をめぐる争いに、
周囲が巻き込まれた、というあたりが実際のところだろうか。
〔参考〕
『増補史料大成 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2004年)
清水克行『室町社会の騒擾と秩序』 (吉川弘文館 2004年)
《病死》 《1453年》 《5月》 《12日》 《享年85歳》
従二位、前参議。
宇多源氏の田向・庭田家は、
田向経兼の叔母資子が、
崇光上皇に近侍して、栄仁親王を生んで以降、
伏見宮家の外戚、近習筆頭として、栄えた。
経兼(初名経良)も、その嫡流として、
山城伏見に住して、伏見宮栄仁・治仁・貞成・貞常4代に仕えた。
貞成親王とは、3歳差と歳も近く、仲が良かったようで、
しょっちゅう一緒に、連歌会や饗宴で興じている。
また、一方で、
屋敷地や所領をめぐって、
従弟の庭田重有や同族の綾小路信俊と、度々争っており、
貞成から「軽忽」(『看聞日記』)とか「比興」(同)などと評されている。
正長元年(1428)、
貞成の長男彦仁王(後花園天皇)のところに、皇位が転がりこむ。
これにより、
伏見宮家近臣たちにも、躍進の道が拓かれたかに思われた。
しかし、そう簡単にいくものでもない。
永享2年(1430)7月、
経良は、将軍足利義教の右大将拝賀に供奉しなかったことから、
義教に嫌われる。
翌8月には、
義教の口出しにより、中納言昇進を取り消されている。
10月、
経良の「良」が、義教の「義」に音が通じるとして、これを憚り、
経兼と改名。
伏見宮貞成親王の室町殿訪問の際には、
京都までは供しながら、
「御意不快」(同)のため、室町殿には参じなかった。
12月、義教の伏見殿訪問の際にも、
経兼とその子長資・近衛局の3人は、
御前の出仕が差し控えられ、
義教の目には触れぬところで、
もっぱら供の大名や近習の饗応にあたった。
こうして、面目を失った経兼は、
「恐怖の余り」(同)、
同月末、宮家近臣筆頭として掌握していた、伏見荘奉行職の辞意を表明。
これを受けた貞成親王も、
「軽々しく処理できないので、室町殿の御意をうかがってから」
と、している。
翌永享3年2月、
義教の許可も下り、伏見荘奉行は従弟の庭田重有に代わった。
その後も、浮かばれない日々が続いたらしい。
時折、貞成の許に参じているばかりである。
還暦を過ぎてからの不遇は、身に堪えたであろうが、
ただ、経兼が弱りを見せた様子は、あまりない。
永享7年(1435)8月、
貞成が義教の招きを受けて、洛中へ移住することが決まると、
ついていくことのできない経兼は、
貞成の許を離れて、家領の山城大野荘に隠棲した。
貞成も、
「不便(ふびん)無極、」(同)
と、別れを惜しんでいる。
だが、
根に持つ義教の追い打ちは、なお続く。
翌8年(1436)3月、
経兼の隠棲先の大野荘すら取り上げ、別人に与えてしまった。
進退窮まった経兼は、
4月26日、伏見法安寺にて出家。
息子隆経のいる仁和寺大教院に寓居した。
「昇進遂にもって所望を達せず、
老後に面目を失うの条、
不運の至極、不便の事なり、」(同)
嫡男長資も、伏見に在留したまま、
事態を見守るしかなかった。
当該期の貴族には、
失脚の失意のうちに、世を去る者が少なくないが、
経兼は、逼塞しながらも生き続けた。
嘉吉元年(1441)、
その義教が、嘉吉の変であっけなく犬死を遂げると、
義教に失脚させられた人々が、復権を果たす。
経兼もその一人であったようで、
この後上洛して、再び貞成親王に近侍。
失脚から一転、日の目を見るに至っている。
出家後の気楽な身分であったか、
伏見宮亭で、度々連歌や賭け事に興じている。
貞成親王に先んじること3年、
享徳2年(1453)5月12日、85歳で他界。
残念ながら、臨終の様は伝わらない。
生きていれば何とかなる、の例。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006年)
『図書寮叢刊 看聞日記 5』 (宮内庁書陵部 2010年)
『史料纂集 師郷記 5』 (続群書類従完成会 1988年)
『増補史料大成 康富記 4 親長卿記別記』 (臨川書店 1965年)』
村井章介「綾小路三位と綾小路前宰相」 (『文学』4-6 2003年)
村井章介「日記の人名比定と室町文化研究」 (『日本史研究』596 2012年)
従二位、前参議。
宇多源氏の田向・庭田家は、
田向経兼の叔母資子が、
崇光上皇に近侍して、栄仁親王を生んで以降、
伏見宮家の外戚、近習筆頭として、栄えた。
経兼(初名経良)も、その嫡流として、
山城伏見に住して、伏見宮栄仁・治仁・貞成・貞常4代に仕えた。
貞成親王とは、3歳差と歳も近く、仲が良かったようで、
しょっちゅう一緒に、連歌会や饗宴で興じている。
また、一方で、
屋敷地や所領をめぐって、
従弟の庭田重有や同族の綾小路信俊と、度々争っており、
貞成から「軽忽」(『看聞日記』)とか「比興」(同)などと評されている。
正長元年(1428)、
貞成の長男彦仁王(後花園天皇)のところに、皇位が転がりこむ。
これにより、
伏見宮家近臣たちにも、躍進の道が拓かれたかに思われた。
しかし、そう簡単にいくものでもない。
永享2年(1430)7月、
経良は、将軍足利義教の右大将拝賀に供奉しなかったことから、
義教に嫌われる。
翌8月には、
義教の口出しにより、中納言昇進を取り消されている。
10月、
経良の「良」が、義教の「義」に音が通じるとして、これを憚り、
経兼と改名。
伏見宮貞成親王の室町殿訪問の際には、
京都までは供しながら、
「御意不快」(同)のため、室町殿には参じなかった。
12月、義教の伏見殿訪問の際にも、
経兼とその子長資・近衛局の3人は、
御前の出仕が差し控えられ、
義教の目には触れぬところで、
もっぱら供の大名や近習の饗応にあたった。
こうして、面目を失った経兼は、
「恐怖の余り」(同)、
同月末、宮家近臣筆頭として掌握していた、伏見荘奉行職の辞意を表明。
これを受けた貞成親王も、
「軽々しく処理できないので、室町殿の御意をうかがってから」
と、している。
翌永享3年2月、
義教の許可も下り、伏見荘奉行は従弟の庭田重有に代わった。
その後も、浮かばれない日々が続いたらしい。
時折、貞成の許に参じているばかりである。
還暦を過ぎてからの不遇は、身に堪えたであろうが、
ただ、経兼が弱りを見せた様子は、あまりない。
永享7年(1435)8月、
貞成が義教の招きを受けて、洛中へ移住することが決まると、
ついていくことのできない経兼は、
貞成の許を離れて、家領の山城大野荘に隠棲した。
貞成も、
「不便(ふびん)無極、」(同)
と、別れを惜しんでいる。
だが、
根に持つ義教の追い打ちは、なお続く。
翌8年(1436)3月、
経兼の隠棲先の大野荘すら取り上げ、別人に与えてしまった。
進退窮まった経兼は、
4月26日、伏見法安寺にて出家。
息子隆経のいる仁和寺大教院に寓居した。
「昇進遂にもって所望を達せず、
老後に面目を失うの条、
不運の至極、不便の事なり、」(同)
嫡男長資も、伏見に在留したまま、
事態を見守るしかなかった。
当該期の貴族には、
失脚の失意のうちに、世を去る者が少なくないが、
経兼は、逼塞しながらも生き続けた。
嘉吉元年(1441)、
その義教が、嘉吉の変であっけなく犬死を遂げると、
義教に失脚させられた人々が、復権を果たす。
経兼もその一人であったようで、
この後上洛して、再び貞成親王に近侍。
失脚から一転、日の目を見るに至っている。
出家後の気楽な身分であったか、
伏見宮亭で、度々連歌や賭け事に興じている。
貞成親王に先んじること3年、
享徳2年(1453)5月12日、85歳で他界。
残念ながら、臨終の様は伝わらない。
生きていれば何とかなる、の例。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006年)
『図書寮叢刊 看聞日記 5』 (宮内庁書陵部 2010年)
『史料纂集 師郷記 5』 (続群書類従完成会 1988年)
『増補史料大成 康富記 4 親長卿記別記』 (臨川書店 1965年)』
村井章介「綾小路三位と綾小路前宰相」 (『文学』4-6 2003年)
村井章介「日記の人名比定と室町文化研究」 (『日本史研究』596 2012年)
《病死》 《1474年》 《7月》 《3日》 《享年50歳》
伏見宮家4代当主。
一品、式部卿。
父は3代当主貞成親王、
母は庭田経有の娘幸子(敷政門院)。
伏見宮貞常親王は、
後花園上皇の実弟として、
足利義政に争乱の鎮静を求める勅使をつとめたり、
義政の意を受けて、後土御門天皇の出家を留めるなど、
京都政界でも一定の役割を果たした。
応仁・文明の乱の兵火で、御所を焼かれ、
伏見や大原など洛外に居を移す。
洛中に戻ってからは、
足利義政の室町殿の片隅に寓居した。
前年に山名宗全と細川勝元が病没し、
その子政豊と政元の講和がようやくなった、
文明6年(1474)の6月、腹病を起こす。
月末には、勅使の見舞いを受けるも、一向によくならず、
7月3日、甥の後土御門天皇自身も見舞いに訪れた。
父貞成親王より琵琶の秘曲伝授を受けていた貞常は、
自身も廷臣等にこれを授けていた。
そのため、
親王の病が篤いと聞くと、
伝授を一部残している弟子が、しまいまで授けてほしいと、
見舞客にまじって、押しかけてくる。
同じ7月3日、
四辻季春来。
貞常が伝授の奥書を与えると、
季春は太刀や馬を進上して、帰って行った。
その晩、いよいよとして、
室町殿を退いて、室庭田盈子の邸に移ることになるが、
その直前になって、
口伝を残していると、今出川教季来。
これにも、貞常は奥書を与えた。
師弟の責務が、
教えを絶やさないことにあった時代の話である。
夜四つ時(10時頃)、盈子邸に移った貞常は、
姉妹の理延や雲岳聖朝、従姉妹観心(後花園天皇娘)の見舞われつつ、
丑の刻(深夜2時頃)、逝去。
享年50歳。
後大通院と追号された。
「和漢の才あり。心荘御穏便。」(『親長卿記』)の人であったという。
〔参考〕
『史料纂集 言国卿記 1』 (続群書類従完成会 1969年)
『増補史料大成 親長卿記 1』 (臨川書店 1965年)
伏見宮家4代当主。
一品、式部卿。
父は3代当主貞成親王、
母は庭田経有の娘幸子(敷政門院)。
伏見宮貞常親王は、
後花園上皇の実弟として、
足利義政に争乱の鎮静を求める勅使をつとめたり、
義政の意を受けて、後土御門天皇の出家を留めるなど、
京都政界でも一定の役割を果たした。
応仁・文明の乱の兵火で、御所を焼かれ、
伏見や大原など洛外に居を移す。
洛中に戻ってからは、
足利義政の室町殿の片隅に寓居した。
前年に山名宗全と細川勝元が病没し、
その子政豊と政元の講和がようやくなった、
文明6年(1474)の6月、腹病を起こす。
月末には、勅使の見舞いを受けるも、一向によくならず、
7月3日、甥の後土御門天皇自身も見舞いに訪れた。
父貞成親王より琵琶の秘曲伝授を受けていた貞常は、
自身も廷臣等にこれを授けていた。
そのため、
親王の病が篤いと聞くと、
伝授を一部残している弟子が、しまいまで授けてほしいと、
見舞客にまじって、押しかけてくる。
同じ7月3日、
四辻季春来。
貞常が伝授の奥書を与えると、
季春は太刀や馬を進上して、帰って行った。
その晩、いよいよとして、
室町殿を退いて、室庭田盈子の邸に移ることになるが、
その直前になって、
口伝を残していると、今出川教季来。
これにも、貞常は奥書を与えた。
師弟の責務が、
教えを絶やさないことにあった時代の話である。
夜四つ時(10時頃)、盈子邸に移った貞常は、
姉妹の理延や雲岳聖朝、従姉妹観心(後花園天皇娘)の見舞われつつ、
丑の刻(深夜2時頃)、逝去。
享年50歳。
後大通院と追号された。
「和漢の才あり。心荘御穏便。」(『親長卿記』)の人であったという。
〔参考〕
『史料纂集 言国卿記 1』 (続群書類従完成会 1969年)
『増補史料大成 親長卿記 1』 (臨川書店 1965年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
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没年 1400~1429
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没年 1430~1459
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没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
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13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
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某日 |
享年 ~40代
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18歳 | 19歳 | |
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37歳 | 38歳 | 39歳 |
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41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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