死に様データベース
《自害》 《1374年》 《11月》 《23日》 《享年不明》
鎌倉円覚寺の上副寺(ふうす、寺院の財政を掌る職)。
応安7年(1374)11月23日、
円覚寺の上副寺某は、柴を買い求めようとしたところ、
その値段をめぐって、柴売りと口論になった。
副寺に罵られたことを根に持った柴売りは、
同日夜、円覚寺に忍び入り、
上副寺寮の柴置き小屋に、松明を投げ入れた。
副寺は、罵ったことを後悔したが、すでに遅く、
火は瞬く間に、仏殿など境内各所に広がった。
塔頭大仙庵に行き、
同僚の僧たちに、ことの次第と別れを告げた副寺は、
衣鉢を帯びて、燃えさかる仏殿に入り、
礼仏三拝して、烈火の中にその身を投じたのであった。
人々はこれを聞き、みな涙したという。
世間の怒りを拡散させた以外は、
何の解決にも資することのない責任のとりかた。
この火事で、
同契庵の僧某や正続院の僧6人、続灯庵の僧13人ほか、
寺中上下の多くの人々が焼死したという。
混乱の渦中にあった義堂周信は、火事の後、
「これを戒めとして、
今後商人らと相争ってはならない。
伽藍の荒廃はさだめだが、
戒めなく人のなすことによって、
小事が大事を生むとは、まさにこのことである。」
と説いた。
一方、この混乱の中で、
円覚寺秘蔵の霊鏡が、対立する建長寺に奪われる、
という雑説もおきていたらしい。
〔参考〕
『空華日用工夫略集』 (太洋社 1939年)
『群書類従 第26輯』 (続群書類従完成会)
蔭木英雄『訓注 空華日用工夫略集―中世禅僧の生活と文学』 (思文閣出版 1982年)
山田邦明「室町時代の鎌倉」 (五味文彦編『中世を考える 都市の中世』 吉川弘文館 1992年)
鎌倉円覚寺の上副寺(ふうす、寺院の財政を掌る職)。
応安7年(1374)11月23日、
円覚寺の上副寺某は、柴を買い求めようとしたところ、
その値段をめぐって、柴売りと口論になった。
副寺に罵られたことを根に持った柴売りは、
同日夜、円覚寺に忍び入り、
上副寺寮の柴置き小屋に、松明を投げ入れた。
副寺は、罵ったことを後悔したが、すでに遅く、
火は瞬く間に、仏殿など境内各所に広がった。
塔頭大仙庵に行き、
同僚の僧たちに、ことの次第と別れを告げた副寺は、
衣鉢を帯びて、燃えさかる仏殿に入り、
礼仏三拝して、烈火の中にその身を投じたのであった。
人々はこれを聞き、みな涙したという。
世間の怒りを拡散させた以外は、
何の解決にも資することのない責任のとりかた。
この火事で、
同契庵の僧某や正続院の僧6人、続灯庵の僧13人ほか、
寺中上下の多くの人々が焼死したという。
混乱の渦中にあった義堂周信は、火事の後、
「これを戒めとして、
今後商人らと相争ってはならない。
伽藍の荒廃はさだめだが、
戒めなく人のなすことによって、
小事が大事を生むとは、まさにこのことである。」
と説いた。
一方、この混乱の中で、
円覚寺秘蔵の霊鏡が、対立する建長寺に奪われる、
という雑説もおきていたらしい。
〔参考〕
『空華日用工夫略集』 (太洋社 1939年)
『群書類従 第26輯』 (続群書類従完成会)
蔭木英雄『訓注 空華日用工夫略集―中世禅僧の生活と文学』 (思文閣出版 1982年)
山田邦明「室町時代の鎌倉」 (五味文彦編『中世を考える 都市の中世』 吉川弘文館 1992年)
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《誅殺》 《1448年》 《8月》 《8日》 《享年49歳》
室町幕府奉公衆。
播磨・備前・美作守護赤松満祐の弟。
嘉吉元年(1441)6月24日、
兄満祐と甥教康が、
将軍足利義教を自邸に招いて謀殺した。
主を欠いた幕府は、
混乱の末、ようやく赤松討伐軍を派遣し、
播磨国境各所で、激しい戦闘が行われた。
赤松則繁も、
兄弟とともに幕府軍と戦い、
8月26日の播磨蟹坂合戦で、敗れて退却する折、
加古川渡河に失敗し、溺死。
とされたが、
実際には生き延び、
赤松方最後の拠点、城山城の籠城戦にも参加、
落城の際には、甥教康とともに城を脱出した。
その後のしぶとさが興味深い。
行方知れずとなっていた則繁の足取りがつかめるのは、
翌々年の嘉吉3年(1443)のこと。
九州の菊池氏を頼ったのち、
朝鮮半島に渡り、散々に暴れ回っていた。
「一ヶ国を打ち取り」(『建内記』)というほどの、
広範な暴れぶりだったらしい。
その年の6月、
朝鮮王朝が、使者を室町幕府に遣わし、
則繁の討伐を訴えたのであった。
則繁は、その後再び九州に出没する。
当時、九州北部では、
幕府の支持を得つつ勢力を伸張させていた大内氏と、
対馬より筑前の奪回を狙っていた少弐氏が争っていた。
則繁はこの争いに首をつっこみ、
文安5年(1448)正月、
少弐嘉頼に与して、大内教弘と戦い、敗退している。
傭兵の頭目のような存在だったのだろうか。
しぶとい則繁であったが、
幕切れは意外にあっさりとしている。
同じ文安5年(1448)の8月、則繁は、
河内当麻にて、甥の赤松則尚に討たれた。
赤松氏は、一族の再興を目指して共闘していたが、
阿波守護細川持常から赤松則尚へ、
則繁の討伐と赦免等を引き換えとする誘引があり、
その結果、裏切られたという。
8月8日、
則繁と郎党大西某・魚住某の首が、京都に到着し、
18日未の刻(午後2時頃)、
将軍足利義成以下、管領細川勝元・畠山持国らによる首実検が行われ、
六条河原に晒された。
倭寇の時代、
国内外での広範な活動は珍しくないが、
こと大名家の親類というのは、
稀有な例ではなかろうか。
〔参考〕
『大日本古記録 建内記 5』 (岩波書店 1972年)
『大日本古記録 建内記 6』 (岩波書店 1974年)
『増補史料大成 康富記 2』 (臨川書店 1965年)
高坂好『赤松円心・満祐(人物叢書)』 (吉川弘文館 1970年)
東京大学史料編纂所データベース
室町幕府奉公衆。
播磨・備前・美作守護赤松満祐の弟。
嘉吉元年(1441)6月24日、
兄満祐と甥教康が、
将軍足利義教を自邸に招いて謀殺した。
主を欠いた幕府は、
混乱の末、ようやく赤松討伐軍を派遣し、
播磨国境各所で、激しい戦闘が行われた。
赤松則繁も、
兄弟とともに幕府軍と戦い、
8月26日の播磨蟹坂合戦で、敗れて退却する折、
加古川渡河に失敗し、溺死。
とされたが、
実際には生き延び、
赤松方最後の拠点、城山城の籠城戦にも参加、
落城の際には、甥教康とともに城を脱出した。
その後のしぶとさが興味深い。
行方知れずとなっていた則繁の足取りがつかめるのは、
翌々年の嘉吉3年(1443)のこと。
九州の菊池氏を頼ったのち、
朝鮮半島に渡り、散々に暴れ回っていた。
「一ヶ国を打ち取り」(『建内記』)というほどの、
広範な暴れぶりだったらしい。
その年の6月、
朝鮮王朝が、使者を室町幕府に遣わし、
則繁の討伐を訴えたのであった。
則繁は、その後再び九州に出没する。
当時、九州北部では、
幕府の支持を得つつ勢力を伸張させていた大内氏と、
対馬より筑前の奪回を狙っていた少弐氏が争っていた。
則繁はこの争いに首をつっこみ、
文安5年(1448)正月、
少弐嘉頼に与して、大内教弘と戦い、敗退している。
傭兵の頭目のような存在だったのだろうか。
しぶとい則繁であったが、
幕切れは意外にあっさりとしている。
同じ文安5年(1448)の8月、則繁は、
河内当麻にて、甥の赤松則尚に討たれた。
赤松氏は、一族の再興を目指して共闘していたが、
阿波守護細川持常から赤松則尚へ、
則繁の討伐と赦免等を引き換えとする誘引があり、
その結果、裏切られたという。
8月8日、
則繁と郎党大西某・魚住某の首が、京都に到着し、
18日未の刻(午後2時頃)、
将軍足利義成以下、管領細川勝元・畠山持国らによる首実検が行われ、
六条河原に晒された。
倭寇の時代、
国内外での広範な活動は珍しくないが、
こと大名家の親類というのは、
稀有な例ではなかろうか。
〔参考〕
『大日本古記録 建内記 5』 (岩波書店 1972年)
『大日本古記録 建内記 6』 (岩波書店 1974年)
『増補史料大成 康富記 2』 (臨川書店 1965年)
高坂好『赤松円心・満祐(人物叢書)』 (吉川弘文館 1970年)
東京大学史料編纂所データベース
《誅殺》 《1443年》 《5月》 《18日》 《享年18歳》
建仁寺霊雲庵僧。
室町幕府奉行人布施貞基の子。
建仁寺霊雲庵では、
住持の跡継ぎをめぐって、
住持と門徒との間で、激しい争いが起きていた。
嘉吉2年(1442)、
幕府は、僧録海門承朝の指示にしたがうことを命じ、
いったんは落ち着いたかに見えたが、
水面下では、なおくすぶり続けていた。
嘉吉3年(1443)5月18日暁、
門徒側の血気にはやる僧たちが、
霊雲庵に乱入、放火。
住持の同宿にも、半死半生の深手を負わせるなど、
境内を暴れ回った。
その混乱のなかで、
住持の弟子真瑤侍者も、
「矢庭に」(『康富記』)殺されてしまった。
享年18歳。
「言語道断、未聞の儀なり。」(『康富記』)
真瑤の父布施貞基と旧知の間柄であった中原康富は、
不便(ふびん)申すばかりなし。
しきりに悲涙を催す。
如之何々々々。 (『康富記』)
と記している。
悪僧たちは、
所司代多賀高直の追捕の手をかわして、
逃げ散ったという。
翌6月18日には、
真瑤の弔いのため、
父貞基の同僚飯尾貞元の邸宅で、連歌会が催され、
貞基らが、
浪にしく花は蓮のうてなかな 貞元
むすふは玉か夏草の露 貞基 (『康富記』)
と詠んだ。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 4 看聞御記 下』 (続群書類従完成会 1930年)
『増補史料大成 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
『大日本古記録 建内記 6』 (岩波書店 1974年)
建仁寺霊雲庵僧。
室町幕府奉行人布施貞基の子。
建仁寺霊雲庵では、
住持の跡継ぎをめぐって、
住持と門徒との間で、激しい争いが起きていた。
嘉吉2年(1442)、
幕府は、僧録海門承朝の指示にしたがうことを命じ、
いったんは落ち着いたかに見えたが、
水面下では、なおくすぶり続けていた。
嘉吉3年(1443)5月18日暁、
門徒側の血気にはやる僧たちが、
霊雲庵に乱入、放火。
住持の同宿にも、半死半生の深手を負わせるなど、
境内を暴れ回った。
その混乱のなかで、
住持の弟子真瑤侍者も、
「矢庭に」(『康富記』)殺されてしまった。
享年18歳。
「言語道断、未聞の儀なり。」(『康富記』)
真瑤の父布施貞基と旧知の間柄であった中原康富は、
不便(ふびん)申すばかりなし。
しきりに悲涙を催す。
如之何々々々。 (『康富記』)
と記している。
悪僧たちは、
所司代多賀高直の追捕の手をかわして、
逃げ散ったという。
翌6月18日には、
真瑤の弔いのため、
父貞基の同僚飯尾貞元の邸宅で、連歌会が催され、
貞基らが、
浪にしく花は蓮のうてなかな 貞元
むすふは玉か夏草の露 貞基 (『康富記』)
と詠んだ。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 4 看聞御記 下』 (続群書類従完成会 1930年)
『増補史料大成 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
『大日本古記録 建内記 6』 (岩波書店 1974年)
《事故死》 《1424年》 《6月》 《27日》 《享年不明》
石清水八幡宮社務田中融清の若党。
大力の者という。
応永31年(1424)6月、
石清水八幡宮の神人(下級祠官)たちが、
社務田中融清の罷免などを求めて、大規模な強訴を起こした。
神人たちは、境内の薬師堂に立て籠もり、
八幡宮近隣の郷民も、神人たちに味方する一方、
対する室町幕府も、諸大名の軍勢を差し向け、
薬師堂を包囲して、鎮圧に乗り出した。
小競り合いがあるなど、緊張した状況が、
翌月まで続いた。
そうした騒動のさなかの6月25日、
神人の妻であった1人の巫女が、神がかりとなり、
種々の託宣をした。
社務田中融清は、この巫女を捕えて、
託宣の実否を糾した。
巫女は記憶にないと言ったが、
田中の若党某は、なお厳しく責め立てたらしい。
その後、
この若党は、上洛する道中、
鳥羽の辺りで、にわかに睡魔に襲われた。
淀川べりで、休んでうとうとしていたところ、
誤って川に落ち、水死。
巫女を糾問した神罰か、と噂された。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006年)
石清水八幡宮社務田中融清の若党。
大力の者という。
応永31年(1424)6月、
石清水八幡宮の神人(下級祠官)たちが、
社務田中融清の罷免などを求めて、大規模な強訴を起こした。
神人たちは、境内の薬師堂に立て籠もり、
八幡宮近隣の郷民も、神人たちに味方する一方、
対する室町幕府も、諸大名の軍勢を差し向け、
薬師堂を包囲して、鎮圧に乗り出した。
小競り合いがあるなど、緊張した状況が、
翌月まで続いた。
そうした騒動のさなかの6月25日、
神人の妻であった1人の巫女が、神がかりとなり、
種々の託宣をした。
社務田中融清は、この巫女を捕えて、
託宣の実否を糾した。
巫女は記憶にないと言ったが、
田中の若党某は、なお厳しく責め立てたらしい。
その後、
この若党は、上洛する道中、
鳥羽の辺りで、にわかに睡魔に襲われた。
淀川べりで、休んでうとうとしていたところ、
誤って川に落ち、水死。
巫女を糾問した神罰か、と噂された。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006年)
《誅殺》 《1420年》 《10月》 《某日》 《享年不明》
医師。
高間とも書かれる。
応永27年(1420)8月下旬頃より、
室町殿足利義持は、体調を崩していた。
9月になっても、義持の病は癒えなかった。
食が進まず、苦しげであったという。
坂士仏と高天良覚という2人の医師が診察し、
士仏は「疫病」と診断し、薬は処方せず、
良覚は「シキ(病だれに食)」「傷風」(風邪の一種)と診断し、
薬を進上していった。
しかし、この良覚、なかなか怪しい人物だったようで、
当初から狐憑きとの噂が立っていた。
病状が日増しに悪化していた9月9日、
義持の御台日野栄子のもとで、験者が加持を行っていたところ、
狐2匹が、御所から脱走。
すぐさま捕獲されて殺されたが、
これが、狐憑きの呪詛に使われていたものだとして、
良覚による義持呪詛の露顕、と相成った。
翌10日朝、
良覚は、父や子弟3人とともに、
管領畠山満家に捕らえられた。
同日昼頃、
一味の陰陽師賀茂定棟も、
細川義之に召し捕らえられた。
尋問の末、
良覚は、狐憑きのことを白状。
13日、
良覚の身柄は、侍所に移され、
さらなる尋問により、
新たに、一味の医師・陰陽師・修験僧ら8人の関与が判明。
目薬師の松井や、宗福寺の長老、清水堂の坊主のほか、
二条家の諸大夫高階俊経も、含まれていた。
いずれも逮捕され、
23日にも、新たに僧2人が捕らえられた。
10月に入って、
義持の病状が快復に向かいはじめた頃、
良覚・賀茂定棟・高階俊経は、
それぞれ四国に配流されることが決まった。
8日、配流先の讃岐へと連行される途中、
良覚、某所にて殺害される。
この時代、
流罪とは、法の下の保護からの放逐を意味しており、
流人の生殺与奪は、流刑を執行する側に一切が握られていた。
生かすも殺すも自由、ということは、
流罪と死罪は、ほとんど同じことを意味していたのである。
なお、
一味とされた高階俊経は、秋野道場で出家を遂げて、誅殺を免れ、
賀茂定棟も、その後の存命がうかがえる。
処刑されたのは、良覚1人だったようである。
また、
良覚に代わって、義持の診察を独占した士仏は、
義持から褒美をたんまりと貰った。
「毎事人間の憂喜は定まらず、」(『看聞日記』)
とは、伏見宮貞成王の言。
釈放される前、
賀茂定棟は、獄中で次の歌を詠んだという。
かゝるとも道の道たる御代ならば晴らでや雲の月は照らさむ(『康富記』)
身の無実を訴え、政道の理非を糺すこの歌からは、
覚えのないスキャンダルに巻き込まれたことの、
怨嗟の声が聞こえてくる。
侍医のなかでの主導権をめぐる争いに、
周囲が巻き込まれた、というあたりが実際のところだろうか。
〔参考〕
『増補史料大成 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2004年)
清水克行『室町社会の騒擾と秩序』 (吉川弘文館 2004年)
医師。
高間とも書かれる。
応永27年(1420)8月下旬頃より、
室町殿足利義持は、体調を崩していた。
9月になっても、義持の病は癒えなかった。
食が進まず、苦しげであったという。
坂士仏と高天良覚という2人の医師が診察し、
士仏は「疫病」と診断し、薬は処方せず、
良覚は「シキ(病だれに食)」「傷風」(風邪の一種)と診断し、
薬を進上していった。
しかし、この良覚、なかなか怪しい人物だったようで、
当初から狐憑きとの噂が立っていた。
病状が日増しに悪化していた9月9日、
義持の御台日野栄子のもとで、験者が加持を行っていたところ、
狐2匹が、御所から脱走。
すぐさま捕獲されて殺されたが、
これが、狐憑きの呪詛に使われていたものだとして、
良覚による義持呪詛の露顕、と相成った。
翌10日朝、
良覚は、父や子弟3人とともに、
管領畠山満家に捕らえられた。
同日昼頃、
一味の陰陽師賀茂定棟も、
細川義之に召し捕らえられた。
尋問の末、
良覚は、狐憑きのことを白状。
13日、
良覚の身柄は、侍所に移され、
さらなる尋問により、
新たに、一味の医師・陰陽師・修験僧ら8人の関与が判明。
目薬師の松井や、宗福寺の長老、清水堂の坊主のほか、
二条家の諸大夫高階俊経も、含まれていた。
いずれも逮捕され、
23日にも、新たに僧2人が捕らえられた。
10月に入って、
義持の病状が快復に向かいはじめた頃、
良覚・賀茂定棟・高階俊経は、
それぞれ四国に配流されることが決まった。
8日、配流先の讃岐へと連行される途中、
良覚、某所にて殺害される。
この時代、
流罪とは、法の下の保護からの放逐を意味しており、
流人の生殺与奪は、流刑を執行する側に一切が握られていた。
生かすも殺すも自由、ということは、
流罪と死罪は、ほとんど同じことを意味していたのである。
なお、
一味とされた高階俊経は、秋野道場で出家を遂げて、誅殺を免れ、
賀茂定棟も、その後の存命がうかがえる。
処刑されたのは、良覚1人だったようである。
また、
良覚に代わって、義持の診察を独占した士仏は、
義持から褒美をたんまりと貰った。
「毎事人間の憂喜は定まらず、」(『看聞日記』)
とは、伏見宮貞成王の言。
釈放される前、
賀茂定棟は、獄中で次の歌を詠んだという。
かゝるとも道の道たる御代ならば晴らでや雲の月は照らさむ(『康富記』)
身の無実を訴え、政道の理非を糺すこの歌からは、
覚えのないスキャンダルに巻き込まれたことの、
怨嗟の声が聞こえてくる。
侍医のなかでの主導権をめぐる争いに、
周囲が巻き込まれた、というあたりが実際のところだろうか。
〔参考〕
『増補史料大成 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2004年)
清水克行『室町社会の騒擾と秩序』 (吉川弘文館 2004年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
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1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
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1431 | 1432 | 1433 |
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1447 | 1448 | 1449 |
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1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
6歳 | ||
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
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内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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