死に様データベース
《事故死》 《1441年》 《12月》 《28日》 《享年不明》
禁裏御料伊勢国栗真荘の荘民で、
仕丁として内裏に伺候していた人夫。
内裏の北門内の東脇に、古来より井戸があった。
屋根のついた立派な井戸で、
涼味がすぐれているとのことで、
天皇の飲料用に供されてきた。
嘉吉元年(1441)12月28日申の刻(夕方4時頃)、
栗真荘の人夫2人が、水を汲もうとしたとき、
井筒が崩壊。
2人は、井戸の中に転落した。
1人は、途中でひっかかったらしく、
すぐに救出されたが、
もう1人は、井戸の底まで落ちていて、
救い上げることができなかった。
数十人を動員して、土を掘り石をのけての救出作業の末、
未明になって、ようやく人夫のもとに到達したが、
すでに死亡したあとであった。
内裏の内での死穢により、天下触穢。
この井戸の周辺には、埋樋があり、
水が流れず、始終停滞していた。
東洞院から御池に流れる水も、
このあたりを通っていたといい、
何かと排水の悪いところであったらしい。
御庭の者たちは、以前からその改善を願い出ていたが、
何かと先延ばしにしていたところ、
この事故が起きたのである。
お上の怠慢による死亡事故。
既視感たっぷりな一件。
〔参考〕
『大日本古記録 建内記 5』 (東京大学史料編纂所 1972年)
禁裏御料伊勢国栗真荘の荘民で、
仕丁として内裏に伺候していた人夫。
内裏の北門内の東脇に、古来より井戸があった。
屋根のついた立派な井戸で、
涼味がすぐれているとのことで、
天皇の飲料用に供されてきた。
嘉吉元年(1441)12月28日申の刻(夕方4時頃)、
栗真荘の人夫2人が、水を汲もうとしたとき、
井筒が崩壊。
2人は、井戸の中に転落した。
1人は、途中でひっかかったらしく、
すぐに救出されたが、
もう1人は、井戸の底まで落ちていて、
救い上げることができなかった。
数十人を動員して、土を掘り石をのけての救出作業の末、
未明になって、ようやく人夫のもとに到達したが、
すでに死亡したあとであった。
内裏の内での死穢により、天下触穢。
この井戸の周辺には、埋樋があり、
水が流れず、始終停滞していた。
東洞院から御池に流れる水も、
このあたりを通っていたといい、
何かと排水の悪いところであったらしい。
御庭の者たちは、以前からその改善を願い出ていたが、
何かと先延ばしにしていたところ、
この事故が起きたのである。
お上の怠慢による死亡事故。
既視感たっぷりな一件。
〔参考〕
『大日本古記録 建内記 5』 (東京大学史料編纂所 1972年)
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《事故死》 《1502年》 《3月》 《22日》 《享年38歳》
室町幕府奉公衆。
南北朝期に、信濃の小笠原氏から分かれた家で、
在京して、室町将軍家に仕え、
武家故実の相承や弓馬師範にあたった。
礼儀作法で名高い「小笠原流」の起源であるとされる。
文亀2年(1502)3月、
小笠原尚清は、
鷹の飼育に必要な鳥の雛を取ってこい
との、将軍足利義高の命を受けた。
小笠原氏が、鷹術師範も務めていたからであろう。
命を受けた尚清は、17日頃、
管領細川政元の屋敷の庭で、
木に登って、鳥の巣から雛鳥を捕ろうとした。
ところが、
足を滑らせたか、木より落下。
このとき、枯れ木の枝で足を踏み抜き、
それがもとで、破傷風を発症。
高熱をともなう症状は、20日には重篤となり、
22日、死亡。
38歳であった。
「かの一流口伝断絶か。
もってのほかの儀也。
…希代の事也。」(『小槻時元記』)
とは、官人大宮時元の言。
事故からわずか4、5日。
なんとも同情を禁じ得ない。
※ 本記事の内容は、K氏の情報提供による。記して謝したい。
〔参考〕
『続史料大成 大乗院寺社雑事記 11』 (臨川書店 2001年)
東京大学史料編纂所データベース
室町幕府奉公衆。
南北朝期に、信濃の小笠原氏から分かれた家で、
在京して、室町将軍家に仕え、
武家故実の相承や弓馬師範にあたった。
礼儀作法で名高い「小笠原流」の起源であるとされる。
文亀2年(1502)3月、
小笠原尚清は、
鷹の飼育に必要な鳥の雛を取ってこい
との、将軍足利義高の命を受けた。
小笠原氏が、鷹術師範も務めていたからであろう。
命を受けた尚清は、17日頃、
管領細川政元の屋敷の庭で、
木に登って、鳥の巣から雛鳥を捕ろうとした。
ところが、
足を滑らせたか、木より落下。
このとき、枯れ木の枝で足を踏み抜き、
それがもとで、破傷風を発症。
高熱をともなう症状は、20日には重篤となり、
22日、死亡。
38歳であった。
「かの一流口伝断絶か。
もってのほかの儀也。
…希代の事也。」(『小槻時元記』)
とは、官人大宮時元の言。
事故からわずか4、5日。
なんとも同情を禁じ得ない。
※ 本記事の内容は、K氏の情報提供による。記して謝したい。
〔参考〕
『続史料大成 大乗院寺社雑事記 11』 (臨川書店 2001年)
東京大学史料編纂所データベース
《事故死》 《1423年》 《正月》 《5日》 《享年不明》
赤松満祐の弟。
室町殿足利義持の近習。
応永30年(1423)正月4日、
赤松則友は、
足利義持の管領畠山満家亭への渡御に供奉。
帰路のお供も、無事につとめた。
しかし、
宴の後で泥酔していた則友は、自邸に帰る途次、
大館満信亭前の辺りで、落馬。
頭を馬に踏まれ、
急所も打ったらしい。
周囲に支えられて帰亭したが、
意識を失っており、
翌5日朝、逝去。
一説によると、
則友は、
三条八幡宮の東辺りで、室町御所の裏築地を、
馬に乗ったまま、乗り越えようとしたらしい。
当日の4日に、則友は、
三条八幡宮に神馬を奉納したばかりであったにもかかわらず、
かかる厄難に遭遇したのであった。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004年)
コトバンク(『朝日日本歴史人物事典』)
赤松満祐の弟。
室町殿足利義持の近習。
応永30年(1423)正月4日、
赤松則友は、
足利義持の管領畠山満家亭への渡御に供奉。
帰路のお供も、無事につとめた。
しかし、
宴の後で泥酔していた則友は、自邸に帰る途次、
大館満信亭前の辺りで、落馬。
頭を馬に踏まれ、
急所も打ったらしい。
周囲に支えられて帰亭したが、
意識を失っており、
翌5日朝、逝去。
一説によると、
則友は、
三条八幡宮の東辺りで、室町御所の裏築地を、
馬に乗ったまま、乗り越えようとしたらしい。
当日の4日に、則友は、
三条八幡宮に神馬を奉納したばかりであったにもかかわらず、
かかる厄難に遭遇したのであった。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004年)
コトバンク(『朝日日本歴史人物事典』)
《誅殺》 《1424年》 《3月》 《14日》 《享年不明》
室町殿足利義持の近習。
応永31年(1424)3月14日、
前管領細川満元が、赤松一族らを招いて宴を催した。
皆したたかに酔い、
室町殿足利義持の近習安東某も、
酔っ払って、ごろりとしていたところ、
いきなり、赤松義雅によって刺し殺された。
義雅は逃走。
理由は不明。
怒った安東の傍輩たちは、
赤松邸に押し寄せようとしたが、
室町殿義持に制せられ、両者の衝突は回避された。
義持は、義雅を切腹させようとしたが、
義雅はなお雲隠れしていたため、果たせず。
おさまらない安東の傍輩たちは、
赤松家に代わりの人間の切腹を要求する。
そこで、義雅の家臣裏壁(浦上)某を切腹させることとなった。
はじめ、裏壁父子2人の切腹が検討された。
だが、
安東1人の死に対して、父子2人の切腹では釣り合わない、ということで、
1人にしぼることとなり、
散々もめたあげく、息子の方を切腹させることになった。
この息子、まだ元服前であったようだが、
切腹の様は「大強の者」(『常楽記』)のようであり、
人々の涙を誘ったという。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006年)
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『群書類従 第29輯 雑部』 (続群書類従完成会 1959年)
清水克行『喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)』 (講談社 2006年)
室町殿足利義持の近習。
応永31年(1424)3月14日、
前管領細川満元が、赤松一族らを招いて宴を催した。
皆したたかに酔い、
室町殿足利義持の近習安東某も、
酔っ払って、ごろりとしていたところ、
いきなり、赤松義雅によって刺し殺された。
義雅は逃走。
理由は不明。
怒った安東の傍輩たちは、
赤松邸に押し寄せようとしたが、
室町殿義持に制せられ、両者の衝突は回避された。
義持は、義雅を切腹させようとしたが、
義雅はなお雲隠れしていたため、果たせず。
おさまらない安東の傍輩たちは、
赤松家に代わりの人間の切腹を要求する。
そこで、義雅の家臣裏壁(浦上)某を切腹させることとなった。
はじめ、裏壁父子2人の切腹が検討された。
だが、
安東1人の死に対して、父子2人の切腹では釣り合わない、ということで、
1人にしぼることとなり、
散々もめたあげく、息子の方を切腹させることになった。
この息子、まだ元服前であったようだが、
切腹の様は「大強の者」(『常楽記』)のようであり、
人々の涙を誘ったという。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006年)
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『群書類従 第29輯 雑部』 (続群書類従完成会 1959年)
清水克行『喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)』 (講談社 2006年)
《病死》 《1441年》 《5月》 《28日》 《享年26歳》
伏見宮貞成親王第一王女。
父貞成、45歳のときの、待望の第一子である。
三時智恩寺(入江殿)方丈。
嘉吉元年(1441)3月、
京都周辺で、疱瘡(天然痘)が流行。
後花園天皇や後崇光院伏見宮貞成親王の周辺でも、
感染者が相次いだ。
3月14日、性恵も感染し、
母庭田幸子の見舞いを受けた。
17日、病状が思いのほか重篤であるとして、
再び母の見舞いを受けたが、
「今日はいささかよき様なり」(『看聞日記』、以下同)
と、元気な様子を見せたらしい。
この日、
伏見宮家の仕女新大夫が、罹患のため宮亭を退出。
貞成親王の近臣庭田重賢もまだ癒えず、宮家に祗候していなかった。
性恵の実弟後花園天皇も罹っている。
21日にも、母幸子は娘性恵を見舞う。
病状は変わらず。
将軍足利義教から医師が遣わされ、
また父貞成親王も、医師和気茂成を遣わしている。
同日、後花園天皇が発疹して、大騒ぎになっている。
23日、幸子は息後花園の見舞いへ。
25日には、
性恵・後花園姉弟ともに、やや病状が落ち着いた。
27日、また幸子は娘を見舞ったが、
病状は再び悪化したようで、苦しげあったという。
一方の後花園は、次第に快方に向かっていった。
28日、性恵、小康。
こうして、性恵の病状は一進一退を繰り返す。
4月初旬、
疱瘡流行の猛威は、とどまることを知らず、
伏見宮家を襲う。
近衛局・春日局・右衛門督局・新大夫ら女中たちや、近臣西大路隆富が感染し、
貞成の次男・四女・五女も罹った。
宮亭には、竹田昌耆・小森頼豊ら医師が、
たびたび診察に訪れている。
性恵の病状はといえば、
4月3日、「いささかよき様」、
8日、「いささか本復」。
8日の快復具合は、なかなかのもので、
病床から出て、父貞成の御所を訪れるほどのものであった。
しかし、
19日、「再発か」。
「本復念願無極」の言葉には、
父貞成の落胆と切なる祈りが感じられる。
21日、病状変わらず。
23日から29日まで、快復を祈って、
陰陽師土御門有重によって泰山府君祭が行われた。
初日に早速験があったらしく、
「昨日よりいささかまたよき様の気色と云々」、
結願日にも、
「今日いささかよき御事と云々」。
30日、ほぼ変わらずながら、
「いささかよき分也」。
こう記す父貞成の日記からは、
せめて気休めでも…
という想いすらうかがえる。
5月に入っても、病状は変わらなかった。
5月12日、容態はさらに悪化。
「方丈(性恵)の御式(容態)、猶ご窮屈の様たのみなし。
祈療のほかはたのむところなし。
祈念無極。」
この「祈療」、すなわち祈祷と治療が、しきりに行われた。
父貞成は、巷の僧や陰陽師にも祈祷を命じており、
三時智恩寺からも、新伊勢社や御香宮社に、
参拝の使者が派遣された。
15日、「いささかよき様」、
18日、「おなじ御式」。
なお、一進一退。
20日頃、貞成周辺で再び感染が相次ぐ。
新大夫、貞成の四女ちよちよ、大進局、庭田重賢が罹患。
「毎事恐怖無極」。
22日夜、
性恵は重態に陥り、
三時智恩寺からは、もしもの時のことを告げられた。
触穢を避けてのことだろう、
見舞う時はこっそりと、とのことであった。
しかし、医師は、
まだ悪い脈が出ていないので、今夜は大丈夫だろう、
と言うので、父貞成も母幸子も見舞いには行かなかった。
だが、性恵は、
この夜は特に苦しげで、
暁になってようやく静まり、寝付いたという。
23日未明、
性恵は安居院に移された。
父貞成がこっそりと見舞うと、
辛そうな様子で寝ており、
「前後を知らず惘然の式」
すなわち、人事不省に陥っていた。
顔色は、邪気のせいか、
死相はなく、平生のとおりであった。
同日夜、父が再び見舞うと、
朝と同じ様子だったが、
いささか意識を取り戻したようであった。
目を見開き、父の姿を見、
やがてまた寝入ってしまった。
25日、
熱が下がり、性恵の容態は、やや快復。
この一事でも、父貞成は、
「心安く、喜悦」
と喜んでいる。
そして、28日早朝、
性恵の息は、徐々に細くなり、
やがて、絶えた。
享年26歳。
性恵危篤の報を聞いた母幸子らは、急ぎ駆けつけようとしたが、
臨終の際には間に合わなかった。
「老体の親に先立たるるの条、老少不定、今更驚かる」
「ただ悲歎のほか惘然のみ」
70歳の父にとって、
娘の死はどれほどの重さであったろうか。
6月5日、泉涌寺竹園院にて荼毘。
前日の27日には、
貞成の義母東御方が没したばかりであった。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 6』 (宮内庁書陵部 2012年)
伏見宮貞成親王第一王女。
父貞成、45歳のときの、待望の第一子である。
三時智恩寺(入江殿)方丈。
嘉吉元年(1441)3月、
京都周辺で、疱瘡(天然痘)が流行。
後花園天皇や後崇光院伏見宮貞成親王の周辺でも、
感染者が相次いだ。
3月14日、性恵も感染し、
母庭田幸子の見舞いを受けた。
17日、病状が思いのほか重篤であるとして、
再び母の見舞いを受けたが、
「今日はいささかよき様なり」(『看聞日記』、以下同)
と、元気な様子を見せたらしい。
この日、
伏見宮家の仕女新大夫が、罹患のため宮亭を退出。
貞成親王の近臣庭田重賢もまだ癒えず、宮家に祗候していなかった。
性恵の実弟後花園天皇も罹っている。
21日にも、母幸子は娘性恵を見舞う。
病状は変わらず。
将軍足利義教から医師が遣わされ、
また父貞成親王も、医師和気茂成を遣わしている。
同日、後花園天皇が発疹して、大騒ぎになっている。
23日、幸子は息後花園の見舞いへ。
25日には、
性恵・後花園姉弟ともに、やや病状が落ち着いた。
27日、また幸子は娘を見舞ったが、
病状は再び悪化したようで、苦しげあったという。
一方の後花園は、次第に快方に向かっていった。
28日、性恵、小康。
こうして、性恵の病状は一進一退を繰り返す。
4月初旬、
疱瘡流行の猛威は、とどまることを知らず、
伏見宮家を襲う。
近衛局・春日局・右衛門督局・新大夫ら女中たちや、近臣西大路隆富が感染し、
貞成の次男・四女・五女も罹った。
宮亭には、竹田昌耆・小森頼豊ら医師が、
たびたび診察に訪れている。
性恵の病状はといえば、
4月3日、「いささかよき様」、
8日、「いささか本復」。
8日の快復具合は、なかなかのもので、
病床から出て、父貞成の御所を訪れるほどのものであった。
しかし、
19日、「再発か」。
「本復念願無極」の言葉には、
父貞成の落胆と切なる祈りが感じられる。
21日、病状変わらず。
23日から29日まで、快復を祈って、
陰陽師土御門有重によって泰山府君祭が行われた。
初日に早速験があったらしく、
「昨日よりいささかまたよき様の気色と云々」、
結願日にも、
「今日いささかよき御事と云々」。
30日、ほぼ変わらずながら、
「いささかよき分也」。
こう記す父貞成の日記からは、
せめて気休めでも…
という想いすらうかがえる。
5月に入っても、病状は変わらなかった。
5月12日、容態はさらに悪化。
「方丈(性恵)の御式(容態)、猶ご窮屈の様たのみなし。
祈療のほかはたのむところなし。
祈念無極。」
この「祈療」、すなわち祈祷と治療が、しきりに行われた。
父貞成は、巷の僧や陰陽師にも祈祷を命じており、
三時智恩寺からも、新伊勢社や御香宮社に、
参拝の使者が派遣された。
15日、「いささかよき様」、
18日、「おなじ御式」。
なお、一進一退。
20日頃、貞成周辺で再び感染が相次ぐ。
新大夫、貞成の四女ちよちよ、大進局、庭田重賢が罹患。
「毎事恐怖無極」。
22日夜、
性恵は重態に陥り、
三時智恩寺からは、もしもの時のことを告げられた。
触穢を避けてのことだろう、
見舞う時はこっそりと、とのことであった。
しかし、医師は、
まだ悪い脈が出ていないので、今夜は大丈夫だろう、
と言うので、父貞成も母幸子も見舞いには行かなかった。
だが、性恵は、
この夜は特に苦しげで、
暁になってようやく静まり、寝付いたという。
23日未明、
性恵は安居院に移された。
父貞成がこっそりと見舞うと、
辛そうな様子で寝ており、
「前後を知らず惘然の式」
すなわち、人事不省に陥っていた。
顔色は、邪気のせいか、
死相はなく、平生のとおりであった。
同日夜、父が再び見舞うと、
朝と同じ様子だったが、
いささか意識を取り戻したようであった。
目を見開き、父の姿を見、
やがてまた寝入ってしまった。
25日、
熱が下がり、性恵の容態は、やや快復。
この一事でも、父貞成は、
「心安く、喜悦」
と喜んでいる。
そして、28日早朝、
性恵の息は、徐々に細くなり、
やがて、絶えた。
享年26歳。
性恵危篤の報を聞いた母幸子らは、急ぎ駆けつけようとしたが、
臨終の際には間に合わなかった。
「老体の親に先立たるるの条、老少不定、今更驚かる」
「ただ悲歎のほか惘然のみ」
70歳の父にとって、
娘の死はどれほどの重さであったろうか。
6月5日、泉涌寺竹園院にて荼毘。
前日の27日には、
貞成の義母東御方が没したばかりであった。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 6』 (宮内庁書陵部 2012年)
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死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
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1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
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1417 | 1418 | 1419 |
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没年 1430~1459
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1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
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1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
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当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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