死に様データベース
《病死》 《1453年》 《5月》 《12日》 《享年85歳》
従二位、前参議。
宇多源氏の田向・庭田家は、
田向経兼の叔母資子が、
崇光上皇に近侍して、栄仁親王を生んで以降、
伏見宮家の外戚、近習筆頭として、栄えた。
経兼(初名経良)も、その嫡流として、
山城伏見に住して、伏見宮栄仁・治仁・貞成・貞常4代に仕えた。
貞成親王とは、3歳差と歳も近く、仲が良かったようで、
しょっちゅう一緒に、連歌会や饗宴で興じている。
また、一方で、
屋敷地や所領をめぐって、
従弟の庭田重有や同族の綾小路信俊と、度々争っており、
貞成から「軽忽」(『看聞日記』)とか「比興」(同)などと評されている。
正長元年(1428)、
貞成の長男彦仁王(後花園天皇)のところに、皇位が転がりこむ。
これにより、
伏見宮家近臣たちにも、躍進の道が拓かれたかに思われた。
しかし、そう簡単にいくものでもない。
永享2年(1430)7月、
経良は、将軍足利義教の右大将拝賀に供奉しなかったことから、
義教に嫌われる。
翌8月には、
義教の口出しにより、中納言昇進を取り消されている。
10月、
経良の「良」が、義教の「義」に音が通じるとして、これを憚り、
経兼と改名。
伏見宮貞成親王の室町殿訪問の際には、
京都までは供しながら、
「御意不快」(同)のため、室町殿には参じなかった。
12月、義教の伏見殿訪問の際にも、
経兼とその子長資・近衛局の3人は、
御前の出仕が差し控えられ、
義教の目には触れぬところで、
もっぱら供の大名や近習の饗応にあたった。
こうして、面目を失った経兼は、
「恐怖の余り」(同)、
同月末、宮家近臣筆頭として掌握していた、伏見荘奉行職の辞意を表明。
これを受けた貞成親王も、
「軽々しく処理できないので、室町殿の御意をうかがってから」
と、している。
翌永享3年2月、
義教の許可も下り、伏見荘奉行は従弟の庭田重有に代わった。
その後も、浮かばれない日々が続いたらしい。
時折、貞成の許に参じているばかりである。
還暦を過ぎてからの不遇は、身に堪えたであろうが、
ただ、経兼が弱りを見せた様子は、あまりない。
永享7年(1435)8月、
貞成が義教の招きを受けて、洛中へ移住することが決まると、
ついていくことのできない経兼は、
貞成の許を離れて、家領の山城大野荘に隠棲した。
貞成も、
「不便(ふびん)無極、」(同)
と、別れを惜しんでいる。
だが、
根に持つ義教の追い打ちは、なお続く。
翌8年(1436)3月、
経兼の隠棲先の大野荘すら取り上げ、別人に与えてしまった。
進退窮まった経兼は、
4月26日、伏見法安寺にて出家。
息子隆経のいる仁和寺大教院に寓居した。
「昇進遂にもって所望を達せず、
老後に面目を失うの条、
不運の至極、不便の事なり、」(同)
嫡男長資も、伏見に在留したまま、
事態を見守るしかなかった。
当該期の貴族には、
失脚の失意のうちに、世を去る者が少なくないが、
経兼は、逼塞しながらも生き続けた。
嘉吉元年(1441)、
その義教が、嘉吉の変であっけなく犬死を遂げると、
義教に失脚させられた人々が、復権を果たす。
経兼もその一人であったようで、
この後上洛して、再び貞成親王に近侍。
失脚から一転、日の目を見るに至っている。
出家後の気楽な身分であったか、
伏見宮亭で、度々連歌や賭け事に興じている。
貞成親王に先んじること3年、
享徳2年(1453)5月12日、85歳で他界。
残念ながら、臨終の様は伝わらない。
生きていれば何とかなる、の例。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006年)
『図書寮叢刊 看聞日記 5』 (宮内庁書陵部 2010年)
『史料纂集 師郷記 5』 (続群書類従完成会 1988年)
『増補史料大成 康富記 4 親長卿記別記』 (臨川書店 1965年)』
村井章介「綾小路三位と綾小路前宰相」 (『文学』4-6 2003年)
村井章介「日記の人名比定と室町文化研究」 (『日本史研究』596 2012年)
従二位、前参議。
宇多源氏の田向・庭田家は、
田向経兼の叔母資子が、
崇光上皇に近侍して、栄仁親王を生んで以降、
伏見宮家の外戚、近習筆頭として、栄えた。
経兼(初名経良)も、その嫡流として、
山城伏見に住して、伏見宮栄仁・治仁・貞成・貞常4代に仕えた。
貞成親王とは、3歳差と歳も近く、仲が良かったようで、
しょっちゅう一緒に、連歌会や饗宴で興じている。
また、一方で、
屋敷地や所領をめぐって、
従弟の庭田重有や同族の綾小路信俊と、度々争っており、
貞成から「軽忽」(『看聞日記』)とか「比興」(同)などと評されている。
正長元年(1428)、
貞成の長男彦仁王(後花園天皇)のところに、皇位が転がりこむ。
これにより、
伏見宮家近臣たちにも、躍進の道が拓かれたかに思われた。
しかし、そう簡単にいくものでもない。
永享2年(1430)7月、
経良は、将軍足利義教の右大将拝賀に供奉しなかったことから、
義教に嫌われる。
翌8月には、
義教の口出しにより、中納言昇進を取り消されている。
10月、
経良の「良」が、義教の「義」に音が通じるとして、これを憚り、
経兼と改名。
伏見宮貞成親王の室町殿訪問の際には、
京都までは供しながら、
「御意不快」(同)のため、室町殿には参じなかった。
12月、義教の伏見殿訪問の際にも、
経兼とその子長資・近衛局の3人は、
御前の出仕が差し控えられ、
義教の目には触れぬところで、
もっぱら供の大名や近習の饗応にあたった。
こうして、面目を失った経兼は、
「恐怖の余り」(同)、
同月末、宮家近臣筆頭として掌握していた、伏見荘奉行職の辞意を表明。
これを受けた貞成親王も、
「軽々しく処理できないので、室町殿の御意をうかがってから」
と、している。
翌永享3年2月、
義教の許可も下り、伏見荘奉行は従弟の庭田重有に代わった。
その後も、浮かばれない日々が続いたらしい。
時折、貞成の許に参じているばかりである。
還暦を過ぎてからの不遇は、身に堪えたであろうが、
ただ、経兼が弱りを見せた様子は、あまりない。
永享7年(1435)8月、
貞成が義教の招きを受けて、洛中へ移住することが決まると、
ついていくことのできない経兼は、
貞成の許を離れて、家領の山城大野荘に隠棲した。
貞成も、
「不便(ふびん)無極、」(同)
と、別れを惜しんでいる。
だが、
根に持つ義教の追い打ちは、なお続く。
翌8年(1436)3月、
経兼の隠棲先の大野荘すら取り上げ、別人に与えてしまった。
進退窮まった経兼は、
4月26日、伏見法安寺にて出家。
息子隆経のいる仁和寺大教院に寓居した。
「昇進遂にもって所望を達せず、
老後に面目を失うの条、
不運の至極、不便の事なり、」(同)
嫡男長資も、伏見に在留したまま、
事態を見守るしかなかった。
当該期の貴族には、
失脚の失意のうちに、世を去る者が少なくないが、
経兼は、逼塞しながらも生き続けた。
嘉吉元年(1441)、
その義教が、嘉吉の変であっけなく犬死を遂げると、
義教に失脚させられた人々が、復権を果たす。
経兼もその一人であったようで、
この後上洛して、再び貞成親王に近侍。
失脚から一転、日の目を見るに至っている。
出家後の気楽な身分であったか、
伏見宮亭で、度々連歌や賭け事に興じている。
貞成親王に先んじること3年、
享徳2年(1453)5月12日、85歳で他界。
残念ながら、臨終の様は伝わらない。
生きていれば何とかなる、の例。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006年)
『図書寮叢刊 看聞日記 5』 (宮内庁書陵部 2010年)
『史料纂集 師郷記 5』 (続群書類従完成会 1988年)
『増補史料大成 康富記 4 親長卿記別記』 (臨川書店 1965年)』
村井章介「綾小路三位と綾小路前宰相」 (『文学』4-6 2003年)
村井章介「日記の人名比定と室町文化研究」 (『日本史研究』596 2012年)
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《病死》 《1474年》 《7月》 《3日》 《享年50歳》
伏見宮家4代当主。
一品、式部卿。
父は3代当主貞成親王、
母は庭田経有の娘幸子(敷政門院)。
伏見宮貞常親王は、
後花園上皇の実弟として、
足利義政に争乱の鎮静を求める勅使をつとめたり、
義政の意を受けて、後土御門天皇の出家を留めるなど、
京都政界でも一定の役割を果たした。
応仁・文明の乱の兵火で、御所を焼かれ、
伏見や大原など洛外に居を移す。
洛中に戻ってからは、
足利義政の室町殿の片隅に寓居した。
前年に山名宗全と細川勝元が病没し、
その子政豊と政元の講和がようやくなった、
文明6年(1474)の6月、腹病を起こす。
月末には、勅使の見舞いを受けるも、一向によくならず、
7月3日、甥の後土御門天皇自身も見舞いに訪れた。
父貞成親王より琵琶の秘曲伝授を受けていた貞常は、
自身も廷臣等にこれを授けていた。
そのため、
親王の病が篤いと聞くと、
伝授を一部残している弟子が、しまいまで授けてほしいと、
見舞客にまじって、押しかけてくる。
同じ7月3日、
四辻季春来。
貞常が伝授の奥書を与えると、
季春は太刀や馬を進上して、帰って行った。
その晩、いよいよとして、
室町殿を退いて、室庭田盈子の邸に移ることになるが、
その直前になって、
口伝を残していると、今出川教季来。
これにも、貞常は奥書を与えた。
師弟の責務が、
教えを絶やさないことにあった時代の話である。
夜四つ時(10時頃)、盈子邸に移った貞常は、
姉妹の理延や雲岳聖朝、従姉妹観心(後花園天皇娘)の見舞われつつ、
丑の刻(深夜2時頃)、逝去。
享年50歳。
後大通院と追号された。
「和漢の才あり。心荘御穏便。」(『親長卿記』)の人であったという。
〔参考〕
『史料纂集 言国卿記 1』 (続群書類従完成会 1969年)
『増補史料大成 親長卿記 1』 (臨川書店 1965年)
伏見宮家4代当主。
一品、式部卿。
父は3代当主貞成親王、
母は庭田経有の娘幸子(敷政門院)。
伏見宮貞常親王は、
後花園上皇の実弟として、
足利義政に争乱の鎮静を求める勅使をつとめたり、
義政の意を受けて、後土御門天皇の出家を留めるなど、
京都政界でも一定の役割を果たした。
応仁・文明の乱の兵火で、御所を焼かれ、
伏見や大原など洛外に居を移す。
洛中に戻ってからは、
足利義政の室町殿の片隅に寓居した。
前年に山名宗全と細川勝元が病没し、
その子政豊と政元の講和がようやくなった、
文明6年(1474)の6月、腹病を起こす。
月末には、勅使の見舞いを受けるも、一向によくならず、
7月3日、甥の後土御門天皇自身も見舞いに訪れた。
父貞成親王より琵琶の秘曲伝授を受けていた貞常は、
自身も廷臣等にこれを授けていた。
そのため、
親王の病が篤いと聞くと、
伝授を一部残している弟子が、しまいまで授けてほしいと、
見舞客にまじって、押しかけてくる。
同じ7月3日、
四辻季春来。
貞常が伝授の奥書を与えると、
季春は太刀や馬を進上して、帰って行った。
その晩、いよいよとして、
室町殿を退いて、室庭田盈子の邸に移ることになるが、
その直前になって、
口伝を残していると、今出川教季来。
これにも、貞常は奥書を与えた。
師弟の責務が、
教えを絶やさないことにあった時代の話である。
夜四つ時(10時頃)、盈子邸に移った貞常は、
姉妹の理延や雲岳聖朝、従姉妹観心(後花園天皇娘)の見舞われつつ、
丑の刻(深夜2時頃)、逝去。
享年50歳。
後大通院と追号された。
「和漢の才あり。心荘御穏便。」(『親長卿記』)の人であったという。
〔参考〕
『史料纂集 言国卿記 1』 (続群書類従完成会 1969年)
『増補史料大成 親長卿記 1』 (臨川書店 1965年)
《事故死》 《1441年》 《12月》 《28日》 《享年不明》
禁裏御料伊勢国栗真荘の荘民で、
仕丁として内裏に伺候していた人夫。
内裏の北門内の東脇に、古来より井戸があった。
屋根のついた立派な井戸で、
涼味がすぐれているとのことで、
天皇の飲料用に供されてきた。
嘉吉元年(1441)12月28日申の刻(夕方4時頃)、
栗真荘の人夫2人が、水を汲もうとしたとき、
井筒が崩壊。
2人は、井戸の中に転落した。
1人は、途中でひっかかったらしく、
すぐに救出されたが、
もう1人は、井戸の底まで落ちていて、
救い上げることができなかった。
数十人を動員して、土を掘り石をのけての救出作業の末、
未明になって、ようやく人夫のもとに到達したが、
すでに死亡したあとであった。
内裏の内での死穢により、天下触穢。
この井戸の周辺には、埋樋があり、
水が流れず、始終停滞していた。
東洞院から御池に流れる水も、
このあたりを通っていたといい、
何かと排水の悪いところであったらしい。
御庭の者たちは、以前からその改善を願い出ていたが、
何かと先延ばしにしていたところ、
この事故が起きたのである。
お上の怠慢による死亡事故。
既視感たっぷりな一件。
〔参考〕
『大日本古記録 建内記 5』 (東京大学史料編纂所 1972年)
禁裏御料伊勢国栗真荘の荘民で、
仕丁として内裏に伺候していた人夫。
内裏の北門内の東脇に、古来より井戸があった。
屋根のついた立派な井戸で、
涼味がすぐれているとのことで、
天皇の飲料用に供されてきた。
嘉吉元年(1441)12月28日申の刻(夕方4時頃)、
栗真荘の人夫2人が、水を汲もうとしたとき、
井筒が崩壊。
2人は、井戸の中に転落した。
1人は、途中でひっかかったらしく、
すぐに救出されたが、
もう1人は、井戸の底まで落ちていて、
救い上げることができなかった。
数十人を動員して、土を掘り石をのけての救出作業の末、
未明になって、ようやく人夫のもとに到達したが、
すでに死亡したあとであった。
内裏の内での死穢により、天下触穢。
この井戸の周辺には、埋樋があり、
水が流れず、始終停滞していた。
東洞院から御池に流れる水も、
このあたりを通っていたといい、
何かと排水の悪いところであったらしい。
御庭の者たちは、以前からその改善を願い出ていたが、
何かと先延ばしにしていたところ、
この事故が起きたのである。
お上の怠慢による死亡事故。
既視感たっぷりな一件。
〔参考〕
『大日本古記録 建内記 5』 (東京大学史料編纂所 1972年)
《事故死》 《1502年》 《3月》 《22日》 《享年38歳》
室町幕府奉公衆。
南北朝期に、信濃の小笠原氏から分かれた家で、
在京して、室町将軍家に仕え、
武家故実の相承や弓馬師範にあたった。
礼儀作法で名高い「小笠原流」の起源であるとされる。
文亀2年(1502)3月、
小笠原尚清は、
鷹の飼育に必要な鳥の雛を取ってこい
との、将軍足利義高の命を受けた。
小笠原氏が、鷹術師範も務めていたからであろう。
命を受けた尚清は、17日頃、
管領細川政元の屋敷の庭で、
木に登って、鳥の巣から雛鳥を捕ろうとした。
ところが、
足を滑らせたか、木より落下。
このとき、枯れ木の枝で足を踏み抜き、
それがもとで、破傷風を発症。
高熱をともなう症状は、20日には重篤となり、
22日、死亡。
38歳であった。
「かの一流口伝断絶か。
もってのほかの儀也。
…希代の事也。」(『小槻時元記』)
とは、官人大宮時元の言。
事故からわずか4、5日。
なんとも同情を禁じ得ない。
※ 本記事の内容は、K氏の情報提供による。記して謝したい。
〔参考〕
『続史料大成 大乗院寺社雑事記 11』 (臨川書店 2001年)
東京大学史料編纂所データベース
室町幕府奉公衆。
南北朝期に、信濃の小笠原氏から分かれた家で、
在京して、室町将軍家に仕え、
武家故実の相承や弓馬師範にあたった。
礼儀作法で名高い「小笠原流」の起源であるとされる。
文亀2年(1502)3月、
小笠原尚清は、
鷹の飼育に必要な鳥の雛を取ってこい
との、将軍足利義高の命を受けた。
小笠原氏が、鷹術師範も務めていたからであろう。
命を受けた尚清は、17日頃、
管領細川政元の屋敷の庭で、
木に登って、鳥の巣から雛鳥を捕ろうとした。
ところが、
足を滑らせたか、木より落下。
このとき、枯れ木の枝で足を踏み抜き、
それがもとで、破傷風を発症。
高熱をともなう症状は、20日には重篤となり、
22日、死亡。
38歳であった。
「かの一流口伝断絶か。
もってのほかの儀也。
…希代の事也。」(『小槻時元記』)
とは、官人大宮時元の言。
事故からわずか4、5日。
なんとも同情を禁じ得ない。
※ 本記事の内容は、K氏の情報提供による。記して謝したい。
〔参考〕
『続史料大成 大乗院寺社雑事記 11』 (臨川書店 2001年)
東京大学史料編纂所データベース
《事故死》 《1423年》 《正月》 《5日》 《享年不明》
赤松満祐の弟。
室町殿足利義持の近習。
応永30年(1423)正月4日、
赤松則友は、
足利義持の管領畠山満家亭への渡御に供奉。
帰路のお供も、無事につとめた。
しかし、
宴の後で泥酔していた則友は、自邸に帰る途次、
大館満信亭前の辺りで、落馬。
頭を馬に踏まれ、
急所も打ったらしい。
周囲に支えられて帰亭したが、
意識を失っており、
翌5日朝、逝去。
一説によると、
則友は、
三条八幡宮の東辺りで、室町御所の裏築地を、
馬に乗ったまま、乗り越えようとしたらしい。
当日の4日に、則友は、
三条八幡宮に神馬を奉納したばかりであったにもかかわらず、
かかる厄難に遭遇したのであった。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004年)
コトバンク(『朝日日本歴史人物事典』)
赤松満祐の弟。
室町殿足利義持の近習。
応永30年(1423)正月4日、
赤松則友は、
足利義持の管領畠山満家亭への渡御に供奉。
帰路のお供も、無事につとめた。
しかし、
宴の後で泥酔していた則友は、自邸に帰る途次、
大館満信亭前の辺りで、落馬。
頭を馬に踏まれ、
急所も打ったらしい。
周囲に支えられて帰亭したが、
意識を失っており、
翌5日朝、逝去。
一説によると、
則友は、
三条八幡宮の東辺りで、室町御所の裏築地を、
馬に乗ったまま、乗り越えようとしたらしい。
当日の4日に、則友は、
三条八幡宮に神馬を奉納したばかりであったにもかかわらず、
かかる厄難に遭遇したのであった。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004年)
コトバンク(『朝日日本歴史人物事典』)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
6歳 | ||
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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