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死に様データベース
《誅殺》 《1437年》 《11月》 《6日》 《享年不明》


将軍足利義教の召仕、
遁世者。


永享9年(1437)11月6日、
室町殿足利義教に祗候する女房東御方と少弁の、スキャンダルが発生した。
相国寺僧や行道らとの密通が露顕したのである。
東御方と少弁は流罪、
密通相手の相国寺僧4名は、刎首。
また、
少弁の密通相手で、これを庇おうとした佐阿弥も、
斬首された。
追っ手を逃れて、行方をくらました者もいた。

なお、この東御方は、
長慶天皇の孫であったという。


このスキャンダルに相前後して、
室町御所内の暗部が、芋づる式に明るみに出たらしい。
阿野実治の娘二条局は、髪を切られて、追い出され、
その他の関係者も片っ端から処罰されて、
切腹させられる者もいたという。

同じ頃、
義教の室正親町三条尹子の病悩も、
天狗の所行との噂も流れた。
底の見えない不祥事の数々に対する不信感と、
それへの苛烈な追及に対する恐怖が、
人ならぬ者の存在まで生んだのであろう。


スキャンダルが、
左遷でも、丸刈りでも、降板でも済まされなかったのは、
中世ゆえでもあるとも言えるが、
ときの将軍の個性にもよっている。

当時は、将軍足利義教の恐怖政治の最盛期であり、
10月にも、徳大寺公有や、楽人豊原久秋ら一党7人が、
次々と突鼻(失脚、出仕停止)されている。
まさしく、
「薄氷をふむ時節、恐怖無極、」(『看聞日記』)
の日々であった。


とある比丘尼が、
伊勢神宮参詣の帰路に、狂気を発して述べた託宣には、
「すべては悪将軍ゆえ」(『看聞日記』)
というが、
悪将軍の恐怖政治は、義教本人が弑されるまで、
まだ3年以上続く。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 6』 (宮内庁書陵部 2012年)
東京大学史料編纂所データベース
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《誅殺》 《1419年》 《6月》 《20日》 《享年不明》


権大納言三条公光の青侍。


京都の街中に、とある元結い売りがいた。
元結いとは、髻を結う紐のこと。

応永26年(1419)頃のこと、
三条公光に仕える青侍掃部助は、
この元結い売りに、元結いを注文した。
ところが、
待てど暮らせど、なかなかできあがってこない。
しびれをきらした掃部助は、
下女を遣わして、元結い売りの遅延を責めさせた。

しかし、というべきか、案の定、というべきか、
下女の難詰に、店の者は激昂し、口論に発展。
ついには、
店の者が、下女に殴る蹴るの暴力をふるい、
その髪を切り落として、叩き出した。

この上ない屈辱を受けた下女は、主の掃部助のもとに走り帰り、
元結い売りの所業を訴えた。
怒った掃部助は、
さらに主人の三条公光のもとへ報告しに行こうとしたところ、
その途中、一条室町で、元結い売り一行に行き遭った。
あるいは、待ち伏せであったか。
一触即発、
元結い売りは、有無を言わさず矢を放った。
対する掃部助も、太刀を抜いて散々に斬りまわり、
2、3人を斬り伏せ、
両者は差し違えて死んだ。


これで終わらないのが、中世の喧嘩である。


この騒ぎに、
掃部助の同僚たち(三条家青侍)が駆けつけた。
一方の元結い売り方には、
その主人の幕府奉公衆関口氏(今川一族)のもとから、大勢馳せ集まった。
すでに、喧嘩の当人たちは死んでいるのに、である。
両者は京都市街地で衝突、合戦に及び、
数多の死傷者を出した。

元結い売り方・関口勢が優勢だったらしい。
勝ちにのった関口勢は、
さらに、三条公光亭に攻め寄せようとしたが、
抗する三条方には、
足利一門の吉良氏が合力したため、攻められず、
にらみ合いとなった。


ここで、
ようやく事態が室町殿足利義持の耳に達し、
お裁きが下る。
義持は、先に仕掛けた元結い売り・関口方を非とし、
関口を追放。
防戦した三条公光には感状を与えて、
青侍ら功名の者たちには、褒美を与えた。


応永26年(1419)6月20日のこと。


中世人のプライドの高さと、
それを共有する集団意識を示す事件とされている。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
清水克行『喧嘩両成敗の誕生』 (講談社 2006年)
《誅殺》 《1419年》 《正月》 《25日》 《享年不明》


比叡山僧。
青蓮院門徒。山門使節。

山門使節であった円明坊兼承は、
応永25年(1418)冬頃から、
室町殿足利義持の不興を買っていた。

山門使節とは、
室町幕府によって設置された比叡山衆徒統制のための組織で、
複数の有力山徒よりして成り、
幕府から比叡山に対する種々の権限を付与されていて、
「比叡山の守護」とも称されるような存在である。

翌26年(1419)正月25日朝、
兼承は、鞍馬寺へ参詣の途次、市原野において、
暴漢たちの襲撃を受けた。
襲ったのは、兼承の弟の乗蓮房兼宗。
兼宗は、義持の密命を受けていたという。

襲撃を受けた兼承の護衛の者たち20数名は皆、
散り散りに逃げ去ったが、
中間1人だけは踏みとどまり、
主人兼承とともに奮戦の末、ともに討死。
襲った兼宗側も、数名の死者を出した。


翌月、
兼宗は義持より、
その手で葬った兄兼承の旧領を与えられ、
円明坊は廃絶した。
兼宗はその後、いったん失脚するが、復活を果たし、
円明坊を再興して、房主におさまった。


彼とその息子たちが、のちに幕府と対立し、
永享の山門騒乱の中心人物として、
凄絶な死に様を迎えるのは、また別の話。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
『続群書類従 補遺 1 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『増補史料大成 37 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
下坂守『中世寺院社会の研究』 (思文閣出版 2001年)
《病死》 《1417年》 《2月》 《11日》 《享年47歳》



伏見宮家当主。
栄仁親王王子。


応永23年(1416)11月20日、
栄仁親王の薨去により、
その嫡子治仁王は、伏見宮家の当主となった。


11月24日、
栄仁親王の荼毘のさなかに、
桟敷あたりから人魂が飛んだという。


栄仁親王の仏事がひととおり済み、
年始のムードも落ち着いた、応永24年(1417)2月7日、
治仁王のもとにひとりの医師が現れた。
見るからに異様で不気味な医師であったが、
治仁王には以前お目にかかったことがある、とのことで、
御前に呼ばれ、
治仁を診察し、薬を献じて帰っていった。


4日後の11日、
日暮れから黒雲が湧き立ち、
夜には、肝を消すほどの激しい雷雨となった。

治仁王は、退屈しのぎに弟の貞成王を呼ぶことにし、
近臣の田向長資を遣わした。
貞成が赴くと、長資は早々に退出し、
兄弟2人きりとなった。
と、
にわかに、治仁王が昏倒。
何か呻いたが、聞き取ることはできず、
意識が朦朧として、人事不省に陥った。

驚いた貞成は、慌てて近衛局を呼び、
今上臈ら女房たちが集まった。
後ろから抱え起こして、
蘇合を口に含ませようとしたが、
歯を食いしばっていたために、飲ませることができなかった。
右手足も硬直していて、
明らかに中風(卒中)の症状を呈していた。

庭田重有ら近臣たちも、ようやく集まったが、
皆うろたえるばかりであった。

医術の心得のある僧無相中訓は、
「大中風」と診察。
医師心知客も呼んだが、夜中のためか来ず。
そこで、
法安寺の僧良明房を呼び、祈祷を行わせたが、
回復せず、
喋ることもできぬまま、「悶絶の体」(『看聞日記』)であった。

寅の刻(午前4時)、ついに薨去。
47歳。
父に続くこと、わずか2ヶ月と20日ばかり。


翌12日より、荼毘のことが話し合われたが、
伏見宮家の菩提寺大光明寺は、
時宜、室町殿足利義持に憚るとして、固辞。
蔵光庵で密々に行おうとしたが、蔵光庵主も難色を示した。
「両方故障珍事也、
 尊霊不運、没後の恥辱也」(『看聞日記』)
と、弟貞成は憤っている。

13日、
遺骸の剃髪の儀。
法名「松屋衍公」。

14日、
ようやく、蔵光庵で荼毘を行うことが決まり、
15日、荼毘。

17日、収骨の儀であったが、
豪雨のため、中止。
そして、この日、
懐妊していた治仁王の室今上臈が産気づき、
酉の刻(夕方6時頃)、女児を出産した。
これにより、
治仁の子は女児のみとなったため、
弟貞成王の伏見宮家相続が決まった。


しかし、
翌18日頃から、伏見宮家に不穏な空気が立ちこめる。

治仁王の頓死は、貞成王の暗殺によるものではないか、
との風聞が立ったのである。
死の4日前に現れた不気味な医師が献じたのは、毒薬であり、
貞成王・対御方(栄仁親王室)・庭田重有の差し金だった、
というのだ。
また、
死の当日の激しい雷雨は、
治仁王に雷神が取り憑いたからだ、
との噂もあった。

渦中の貞成は、
室町殿足利義持や後小松上皇に釈明し、
火消しに奔走した。
その甲斐あってか、
3月には、貞成の相続が安堵されている。

だが、
3月27日、
治仁王の遺品のなかから、
貞成王を猶子とする旨の置文が出てきたというのは、
なんだかできすぎの感がなくもない。


なお、
3月12日、
院号「葆光院」と定まり、
13日、大光明寺へ納骨。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
横井清『室町時代の一皇族の生涯』 (講談社学術文庫 2002年)
《病死》 《1416年》 《11月》 《20日》 《享年66歳》


崇光天皇皇子。
伏見宮家初代。


父崇光天皇は、持明院統・北朝の正統であったが、
南北朝の動乱の過程で廃位され、
皇位は弟の後光厳天皇にわたった。
崇光上皇は、嫡男栄仁親王の立坊(立太子)を望んだが、果たされず、
後光厳天皇の系統が継ぐこととなる。

崇光上皇没後、
栄仁親王はその遺領を、
後小松天皇(後光厳の孫)に没収されるなど、
非常に苦しい立場にあった。


応永22年(1415)冬、
65歳になる栄仁親王は、脚気が再発。
翌応永23年(1416)夏頃から、
食が細くなり、めっきり憔悴してしまった。

この間、
同阿、高間といった医師たちが治療を行ったが、
快復には向かわなかった。


8月19日、
腰痛で、起きることすらままならなくなった。
医師竹田昌耆が来診し、
2日後、十四味建中湯と腰に付ける薬を調進。

25日と27日には、
大光明寺の継首座が、
医師心知客秘伝の術の、腰痛に効くという灸を、施した。
同時に、24~27日、祈祷のため大般若経が読まれている。


9月2日、
病気快復と旧領回復のため、伏見宮家の近臣や女房たちが、
当時霊験あらかたと流行していた桂地蔵に参詣。


翌10月頃から、
栄仁の終末への準備が始められていく。

10月4日、栄仁詠歌の撰集が開始される。
8日頃、腰痛再び悪化。
11月になっても、回復の兆しはなく、
12日、医師昌耆が灸を施すなど、治療が続けられた。
同日、詠歌の撰集が終了。
13日には、大光明寺への置文が作成された。


11月3日、
前月に続いて、貞成王の顔拭いの布がネズミにかじられる、
ということがあったが、
のち、貞成は、
 これが凶兆だったのかもしれない、
と回想している。


20日、
暁より下痢にかかり、危篤。
夜前、左の脈が絶える。
この頃連日、医師昌耆を呼んでいたが、
都合が悪かったのか、このときも来なかった。
未の刻(午後2時頃)、粥を食べ、平臥した。
次男貞成王が、背中から抱きかかえたが、
辛そうな様子であった。
御前に伺候した仕女の対御方は、
悲しみのあまり嗚咽を漏らしていたが、
栄仁は、それが見えているかどうかも怪しいほど、
意識が混濁としていた。

貞成に代わって、尼玄経が抱きかかえていた頃、
栄仁が「起き上がりたい」というので、起き上がらせた。
だが、
顔色が急変し、喋ることもままならず、
口を閉じることすらできなくなった。
蘇合を口に含ませたが、飲み込めず、
非常に苦しげであった。

このとき、栄仁の周囲にいたのは、
次男貞成王・仕女対御方・近臣田向長資・その姉妹の尼玄経ら。
今度は、田向長資が抱き支えた。

急ぎ呼び集められた、
嫡男治仁王・近衛局・近臣庭田重有らが、集まったところで、
水を口に含ませようとしたが、
飲み込めず、
閉眼。

66歳。


次男貞成王の記。
「其の姿之を見る。
 いよいよ哀傷肝に銘じ、悲涙眼に満つ。
 予、去んぬる応永十八年此の御所へ参り候。
 爾来以降六年の間、日夜昵近、朝暮孝を致す。
 殊更去年御病悩より御臨終に至るまで、
 看病寸暇を競い、忠孝の懇志に励むのみ。
 つらつら案ずるに、
 進退の安否前後惘然、
 只愁涙を拭うのほか他念無きものなり。」(『看聞日記』)


前日19日には、孫娘あごご(貞成の娘)が生まれたばかりであり、
また、懸案の伏見宮家領は、いまだ後小松上皇の院宣が出ておらず、
念願の旧領回復は、まだ先の話であった。

知らせを受けた室町殿足利義持は、
 荼毘は、崇光上皇のときと同じように執り行うように、
と、命じた。
とはいえ、宮家の経営が厳しい折、
そっくりそのままというわけにもいかず、
一部は省略などしなければならないのが実情であった。


生前、栄仁は、
播磨国石見郷を菩提料所として、伏見大光明寺へ寄進し、
没後のことはその年貢をもって賄うこと、
毎事簡略の儀をもってし、大光明寺に負担をかけぬようにすること、
位牌には「大通院無品親王」と書くべきこと、
を言い置いた。
これらの旨も、幕府へ届け出られ、許可が出ている。


23日寅の刻(午前4時頃)、
遺骸は輿に乗せられて、大光明寺に運ばれた。
御簾をあげてその死に顔を見た次男貞成王は、
「聊かも変色なく、
 平生の御時眠る如し。
 凡そ御終焉の儀、悪想現れず。
 御往生と謂うべきものか。」(『看聞日記』)
続けて、
「今年六十六歳、
 宝算長久と雖も、夢の如く幻の如し。
 嗚呼登極の御先途遂にもって達せられざるの条、
 生前の御遺恨此の一事に在り。
 毎事悲歎落涙のほか他事無し。」(『看聞日記』)
と記す。

長寿を得たとはいえ、
即位の夢も果たせず、
所領の回復もままならず、
思い残すことは、少なくなかったであろう。


24日、大光明寺にて荼毘。
伏見宮家親族や侍臣たちが集まり、
おごそかに執り行われた。

荼毘の最中、
桟敷のあたりから人魂が飛んだという。



初七日の翌25日、拾骨。
その後、
12月2日、二七日の仏事。
7日、三七日、
12日、四七日、
13日、遺骨は深草法華堂や椎野浄金剛院に分納された。
17日、卅五日、
21日、六七日の仏事引き上げ、
25日、尽七の儀結願、
明けて応永24年(1417)正月9日、四十九日。
折も折、
関東における上杉禅秀の乱と、
京都での、それにともなう足利義嗣逐電事件のさなかであったが、
洛外の伏見ゆえか、その影響もなく、
いずれも滞りなく行われている。


そして、伏見宮家は栄仁の嫡男治仁王が継いだが…。



〔参考文献〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
横井清『室町時代の一皇族の生涯 『看聞日記』の世界 (講談社学術文庫)』 (講談社 2002年)
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