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死に様データベース
《病死》 《1416年》 《8月》 《15日》 《享年38歳》


正二位、権大納言、右近衛大将。


応永23年(1416)8月11日、
花山院忠定は、
死の床にて、右近衛大将の宣下を受けた。
清華家花山院流藤原氏の嫡流として、
家格や体面を保つための処置であろう。

15日、逝去。
38歳。


だが、
忠定には子がなく、
家を相続する者がいなかった。


そこで、適当な相続人を探すこととなり、
11月9日、
南朝の関白近衛経家の子孫で12歳になる子に、白羽の矢が当たり、
南朝に仕えた別流の花山院家出身の僧耕雲(子晋明魏、俗名花山院長親)の猶子として、
花山院家を次がせるこことなった。
彼は、伏見宮家に仕える小上臈という女房の弟だという。


応永25年(1418)2月25日、
その子は、室町殿足利義持の加冠によって元服。
持忠と名乗る。


当主が死んでも、血が絶えても、
家だけは続く。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
『続群書類従 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1928年)
『国史大辞典 3 (か)』 (吉川弘文館 1983年)
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《病死》 《1416年》 《7月》 《20日》 《享年不明》


今出川公直の妻。
今出川公行の母。


応永23年(1416)7月12日、
西谷にある亡き夫今出川公直の墓所へ、
焼香へ行った南向は、
その帰邸後、痢病に罹り、
16日、重篤に陥った。
老体には堪えたらしい。

17日夜、
いよいよ臨終かとなって、末期の水をとらせようとしたところ、
わずかに息を吹き返した。
このとき、医師丹波頼直は、
早朝のためか、駆けつけることができなかった。

20日午の刻(正午0時頃)、
出家の後、逝去。


23日、東山法幢寺にて、荼毘に付される。


幼いころより今出川家で養育されていた伏見宮貞成王は、
南向を育ての母と思ってきた。
貞成が伏見宮邸に戻って以降、無沙汰となっていたが、
南向は、最後まで貞成のことを気にかけており、
これを知った貞成は、
「かたがたもって哀懃無極、」「哀傷少なからず、」(『看聞日記』)
と嘆き、悔やんでいる。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
《誅殺》 《1433年》 《2月》 《8日》 《享年不明》


永享5年(1433)2月8日、洛中の大路にて、
酔っ払ったが太刀を抜いて走り回り、人々を追い回す、
という事件が起きた。

その
花山院持忠邸の築地の内側に走り込んで、
下人1人に怪我を負わせたところ、
青侍や下部たちによって、たちまちのうちに殺害された。


自力救済世界の正当防衛法。


〔参考〕
『大日本古記録 薩戒記 5』 (岩波書店 2013年)
《戦死》 《1336年》 《11月》 《3日》 《享年不明》


下野佐野荘を本領とする国人領主。
佐野惣領家ではなく、
有力庶子家の出身だったようである。


建武2年(1335)、
鎌倉にあった足利尊氏が、
後醍醐天皇の建武政権からの決別を明らかにすると、
佐野義綱も、佐野にあって尊氏方へついた。


11月末から、
東海道にて、尊氏方と後醍醐方の戦端が開かれる。
当初は三河・遠江・駿河で、
尊氏の弟直義・高師泰が敗退するなど、
後醍醐方が優勢であったが、
12月中旬、箱根・竹ノ下の合戦で、
尊氏が新田義貞を破って以降、形勢は逆転する。


それから間もない12月19日、
義綱は、同族の阿曽沼朝綱に本領佐野荘へ乱入されたが、
佐野河原にてこれを追いかえした。

同月27日には、
足利氏一族の小俣少輔次郎に属して、
上野男山合戦に参戦。

28日、下野足利町河原合戦では、
敵2人を討ち取る。


この間の12月22日、
陸奥の北畠顕家が、大軍を率いて南下し、
鎌倉を攻撃しているから、
それにともなう戦争が、
関東各地で起きていたものと思われる。


年明けて建武3年(1336)正月9日、
上野新田城を攻め落とし、
笠懸原合戦では、敵1人を討ち取りつつ、乗馬を斬られた。

3月10日、
上野中野館でも、敵1人を討ち取り、
若党清弥九郎も、2人を討ち取った。


その後も義綱は、足利方に属して、
関東にて数々の戦功を立てた。


4月22日、上野利根川渡河戦では、
一族佐野清綱とともに、敵陣に先駆けし、
敵方阿代氏の被官五郎兵衛尉経政を討ち取る。

翌23日、上野板鼻合戦では、敵2人を討ち取りつつ、
乗馬を斬られる。

28日には、
父とともに、感状を与えられた。

29日、
下野沼和田合戦では、
旗差しの孫三郎が負傷。

6月20日、
下野古江山合戦で、
阿曽沼朝綱の被官土淵又六の肘を斬り落とす戦功。

8月9日にも、
下野天命堀籠で宿敵阿曽沼朝綱と戦い、
その家人飯土井四郎を斬った。

11月3日の宇都宮発向に際しては、
桃井直信麾下にあって、下野犬飼・栗崎合戦で先駆け、
武者1人、ほか2人を討ち取った。
だが、
敵の再襲を受け、義綱は討死。


翌月、
義綱の遺児安房一王丸は、父の戦功を室町幕府に訴え、
認められた。
「凡そ悲歎無極といえども、家名至極せしむるものや。」(「落合文書」)
元服前の幼い身とはいえ、安房一王丸にとって、
の戦死を嘆き悲しんでいる暇などなかったのである。
関東の南北朝内乱は、
義綱の死後、なお20年近く続く。


この佐野義綱の戦死は、
山内経之のように、時代の渦に巻き込まれた末の死のようにも見える。
だが、
本領佐野荘が隣接する阿曽沼郷の阿曽沼朝綱との幾度の争いというように、
近隣領主間の抗争という側面もあった。
南北朝内乱が、
上位権力(足利尊氏や後醍醐天皇など)の戦争であった半面、
実質的には、各地の領主たちの所領・境界をめぐる抗争という面も、
濃厚に有していたことを、示している。



〔参考〕
『南北朝遺文 関東編 1』 (東京堂出版 2007年)
櫻井彦『南北朝内乱と東国 (動乱の東国史)』 (吉川弘文館 2012年)
《病死》 《1431年》 《8月》 《2日》 《享年34歳》


醍醐寺妙法院。大僧正。


永享2年(1430)末頃より、
妙法院賢長は、長患いをしていたらしい。


永享3年(1431)6月14日、
医師上池院胤能が、瘧気と診断し、
「200日以上も治療を受けながら、なかなか治らない。
 まずは早く瘧を落したほうがよい。」と、
栂尾高山寺にいる、瘧を落とすのが上手い僧を呼ぶことを勧めた。


17日、
賢長の病は重篤となる。
医師清阿は、
重態だが、今日、明日どうこうということではない、
と診断した。
申の終わり(夕方5時頃)には、
少し回復して、食事を摂ったという。


そして、この日の夕方、
瘧を落とすのが上手いという、栂尾高山寺の禅淳坊という律僧がやってきた。
禅淳坊によれば、
落とすには50日ほど遅かった、ということだったが、
それでもやってみよう、と加持を引き受けたのである。

禅淳坊は、患者賢長の胸に、
「是大明王無其所居、但住衆生心想之中、」と墨書し、
その上下左右に、梵字を書いて、
独鈷杵で背中を打ち、加持を行った。
これは、白芥子の加持というもので、
白ケシを土器に盛り、ザクロなども用いて行うものだという。
禅淳坊は、この日から妙法院に泊り込み、
不動護摩なども焚いた。


なお、この日、
万一に備えて、
賢長跡の相続人として、葉室長忠の9歳の孫を入室させること、
その成人までの間は、金剛手院賢快が扶助することなどが、決められた。


翌18日、
今度は、
山名時煕の被官山口国衡が呼んだ医徳庵善逗という医僧が来て、
単なる積聚(腹痛・胸痛、癇癪)であって、瘧気ではない、と診断した。
医徳庵善逗は、
「人をよくなおす人」(「郡司文書」)
「(細川満久が病死したときも、)
 医徳庵が京都にいれば、助けられただろうに。」(同)
と、評判の医師であったらしいが、
このときは、
「治療をするのが遅すぎた。
 せめてもう20日早ければ、簡単に治ったものを。」
と「放言」(『満済准后日記』)したという。


また、賢長は、
医師寿阿より処方された薬をやめ、
清阿の処方したものに切り替えた。
この18日は、やや体調もよかったらしく、
食事も少し摂ったという。
見舞った三宝院満済は、それを聞いて少し安堵している。


19日、
賢長を診断した寿阿が、
近々急変するということはないが、もはやどうしようもない、と、
匙を投げた。


21日、
またしても賢長は重態に陥るが、一命を保った。
上池院胤能が、14日の時と同じように診断し、
「昨年10月についた瘧気によるものであり、
 脾臓に伏連という虫が入り込んで、悪さをしているのである。
 知らない者は、積聚と判断するだろう。」
と、医徳庵の診断を退けた。


22日、
禅僧の医師桂園が来診。
「脾臓の積聚とも考えられる。
 はやく落としたほうが良い。」
また、建蔵という医師も来て、
「脾臓の積聚であろうが、
 今は瘧気が表に出てきている。
 ただ、危険な瘧気ではない。」
と診断。


23日、
病床の賢長は、大僧正に昇進。

この日は、帥坊という医師が来た。
14日以来、実に7人目の医師。
「瘧気ではなく、脾臓の積聚で、
 かなり活発で、危険な状態ではあるが、
 治療は、絶対に諦めてはならない。」
と励ましのようなことを言った。


27日、
槙尾西明寺の律僧俊光坊が、瘧気を落とす加持を行い、
申の初め(午後3時頃)に始めて、
酉の半刻(夕方6時頃)には、悉く落とした、ということだった。


7月2日申の初め(午後3時頃)、
またしても容態が悪化。


5日、
22日の建蔵、来診。
「特に変わりはないが、
 内熱気が散じたのは喜ばしいことだ。
 だが、この病が回復に向かうのは、なかなか難しいだろう。」


13日、
室町殿足利義教の祈祷の期間中に、
護持僧満済の身内ともいうべき僧が死ぬのは不吉ではないか、
ということが、
義教周辺の三宝院満済や中納言広橋兼郷の間で話し合われたが、
やむを得まい、気にすまい、ということになったらしい。


17日、
奈良興福寺の大乗院経覚が、
賢長の容態を心配して上洛。


そうして、
8月2日、
治療の甲斐なく、賢長入滅。
34歳。
香袈裟を着て、端座正念して入滅したという。
「老後愁歎、法流衰微、
 周章、せんかたを失いおわんぬ。」(『満済准后日記』)


8日、
賢長の初七日の仏事を執り行った醍醐寺三宝院満済は、
「夢の如し。
 老心愁歎、憐れむべし憐れむべし。」(『満済准后日記』)
と述べている。
9月17日には、
賢長の跡を継いだ賢快が、その遺骨を携えて、
高野山に参詣した。


主治医をころころ替える患者、
呪術的な治療行為、
「手遅れ」と匙を投げる医者に、
「大事ない」と気休めをいう医師、
「あきらめるな」と励ます医師。
室町期の終末医療を考えるに、興味深い。




〔参考〕
『続群書類従 補遺 2 満済准后日記 下』 (続群書類従完成会 1928年)
服部敏良『室町安土桃山時代医学史の研究』 (吉川弘文館 1971年)
吉田賢司「在京大名の都鄙間交渉」 (『室町幕府軍制の構造と展開』吉川弘文館 2010年)
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