死に様データベース
《誅殺》 《1434年》 《6月》 《8日》 《享年38歳》
従二位、前権中納言。
日野家の一流裏松家は、
義資の伯母康子が、3代将軍足利義満の正室、
同叔母栄子が、4代将軍義持の正室、
義資の妹宗子は、6代将軍義教の正室(のち離縁)、
もう一人の妹重子も、義教の側室というように、
足利将軍家とのつながりを強くしていたが、
義資自身は、将軍義教に嫌われ、
所領没収や蟄居の憂き目に遭っている。
永享6年(1434)2月、
義資の妹重子が、義教の子千也茶丸を生んだとき、
籠居中の義資のもとにも、多くの人々が参賀に訪れた。
だが、このことが、
義教の心証をいっそう悪くしたらしい。
義教は、参賀した人々のリストを作成させ、
摂関家から門跡に至るまで、60人以上を処罰している。
それから4ヶ月ほど経った、6月9日の雨の降りしきる暁時、
裏松義資邸に強盗が入った。
犯人は、吊っていた蚊帳ごと、
主人義資と、同衾の青侍(奉公衆畠山持清の甥)を斬り殺して、逃走。
小袖や鏡台などのほか、義資の首も持ち去った。
「希代の横死」(『満済准后日記』)。
中納言広橋兼宣曰く、
「しかしながら天罰(まったく天罰である)」(『満済准后日記』)。
奇怪な事件であったが、
その後、さらなる後味の悪さが続く。
事件から数日後、
義資殺害は、将軍義教の差し金であったとの風聞が立った。
義教は緘口令を敷くが、
6月12日、この噂を流したとして、
前参議高倉永藤が、義教の近習大河内満政によって捕えられた。
永藤は、いったんは死罪とされたが、
伏見宮貞成親王のとりなしにより、硫黄島へ流罪。
永藤の子永豊は、所領没収。
さらに、
義資とともに殺された青侍の父(畠山持清の弟)も、所領没収。
これらの所領は、
義教の側近正親町三条実雅に与えられた。
「万事言うなかれ言うなかれ、」(『薩戒記』)
もはや、何が起きているのかわからない。
暗殺に緘口令に一斉処断、
「「政治」の死」と評される所以である。
義資の子重政や、青侍数名が出家。
義資の所領などは、従兄弟の烏丸資任が相続した。
宝徳2年(1450)6月、
17年忌に際し、正二位権大納言を贈られた。
ときの将軍義政の母重子は、義資の妹であり、
のちに迎える室日野富子は、義資の孫にあたる。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 4』 (宮内庁書陵部 2008年)
『続群書類従 補遺 2 満済准后日記 下』 (続群書類従完成会)
『史料纂集 師郷記 4』 (続群書類従完成会 1987年)
東京大学史料編纂所データベース
桜井英治『室町人の精神 (日本の歴史)』 (講談社 2001年)
森茂暁『室町幕府崩壊 将軍義教の野望と挫折 (角川選書)』 (角川学芸出版 2011年)
従二位、前権中納言。
日野家の一流裏松家は、
義資の伯母康子が、3代将軍足利義満の正室、
同叔母栄子が、4代将軍義持の正室、
義資の妹宗子は、6代将軍義教の正室(のち離縁)、
もう一人の妹重子も、義教の側室というように、
足利将軍家とのつながりを強くしていたが、
義資自身は、将軍義教に嫌われ、
所領没収や蟄居の憂き目に遭っている。
永享6年(1434)2月、
義資の妹重子が、義教の子千也茶丸を生んだとき、
籠居中の義資のもとにも、多くの人々が参賀に訪れた。
だが、このことが、
義教の心証をいっそう悪くしたらしい。
義教は、参賀した人々のリストを作成させ、
摂関家から門跡に至るまで、60人以上を処罰している。
それから4ヶ月ほど経った、6月9日の雨の降りしきる暁時、
裏松義資邸に強盗が入った。
犯人は、吊っていた蚊帳ごと、
主人義資と、同衾の青侍(奉公衆畠山持清の甥)を斬り殺して、逃走。
小袖や鏡台などのほか、義資の首も持ち去った。
「希代の横死」(『満済准后日記』)。
中納言広橋兼宣曰く、
「しかしながら天罰(まったく天罰である)」(『満済准后日記』)。
奇怪な事件であったが、
その後、さらなる後味の悪さが続く。
事件から数日後、
義資殺害は、将軍義教の差し金であったとの風聞が立った。
義教は緘口令を敷くが、
6月12日、この噂を流したとして、
前参議高倉永藤が、義教の近習大河内満政によって捕えられた。
永藤は、いったんは死罪とされたが、
伏見宮貞成親王のとりなしにより、硫黄島へ流罪。
永藤の子永豊は、所領没収。
さらに、
義資とともに殺された青侍の父(畠山持清の弟)も、所領没収。
これらの所領は、
義教の側近正親町三条実雅に与えられた。
「万事言うなかれ言うなかれ、」(『薩戒記』)
もはや、何が起きているのかわからない。
暗殺に緘口令に一斉処断、
「「政治」の死」と評される所以である。
義資の子重政や、青侍数名が出家。
義資の所領などは、従兄弟の烏丸資任が相続した。
宝徳2年(1450)6月、
17年忌に際し、正二位権大納言を贈られた。
ときの将軍義政の母重子は、義資の妹であり、
のちに迎える室日野富子は、義資の孫にあたる。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 4』 (宮内庁書陵部 2008年)
『続群書類従 補遺 2 満済准后日記 下』 (続群書類従完成会)
『史料纂集 師郷記 4』 (続群書類従完成会 1987年)
東京大学史料編纂所データベース
桜井英治『室町人の精神 (日本の歴史)』 (講談社 2001年)
森茂暁『室町幕府崩壊 将軍義教の野望と挫折 (角川選書)』 (角川学芸出版 2011年)
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《病死》 《1447年》 《4月》 《29日》 《享年44歳》
正四位下、参議、右近中将。
文安4年(1447)4月28日亥の刻(夜10時頃)、
滋野井実益は脳卒中を起こし、重態に陥った。
深夜になって、心停止。
翌29日朝、死穢に備えてか、大夫将監某の屋敷に移される。
あわてて駆けつけた中原師郷は、
寝ている人のようにいびきをあげている実益の姿を見るばかりであった。
すでに駆けつけていた正親町三条実雅は、「周章の体」。
前日、日が沈むまで雑談していた相手が、
翌朝にはこのような有り様になってしまう。
「無常転変の理」(『師郷記』)を感じずにはいられなかったという。
29日申の刻(夕方4時頃)、ついにこときれた。
44歳。
実雅は、何かにつけて実益を頼っていた。
「かの心中誠に察せらるるところ也、」(『師郷記』)
と、師郷も実雅に同情を寄せている。
「寝たる人の如くいびきのごとくなる声あるばかり也、」(『師郷記』)
典型的な脳卒中の症状。
〔参考〕
『史料纂集 師郷記 4』 (続群書類従完成会 1987年)
正四位下、参議、右近中将。
文安4年(1447)4月28日亥の刻(夜10時頃)、
滋野井実益は脳卒中を起こし、重態に陥った。
深夜になって、心停止。
翌29日朝、死穢に備えてか、大夫将監某の屋敷に移される。
あわてて駆けつけた中原師郷は、
寝ている人のようにいびきをあげている実益の姿を見るばかりであった。
すでに駆けつけていた正親町三条実雅は、「周章の体」。
前日、日が沈むまで雑談していた相手が、
翌朝にはこのような有り様になってしまう。
「無常転変の理」(『師郷記』)を感じずにはいられなかったという。
29日申の刻(夕方4時頃)、ついにこときれた。
44歳。
実雅は、何かにつけて実益を頼っていた。
「かの心中誠に察せらるるところ也、」(『師郷記』)
と、師郷も実雅に同情を寄せている。
「寝たる人の如くいびきのごとくなる声あるばかり也、」(『師郷記』)
典型的な脳卒中の症状。
〔参考〕
『史料纂集 師郷記 4』 (続群書類従完成会 1987年)
《自害》 《1432年》 《9月》 《某日》 《享年85歳》
室町幕府直臣。
かつて室町将軍に仕えていた中条詮秀は、
6代将軍足利義教の頃には、老齢ゆえか、
本国の三河辺りにひきこもり、
在京奉公は子の満平に任せていた。
こうしたことなどが、
どうやら将軍義教の不興を買っていたようだが、
永享3年(1432)9月、義教が富士遊覧をした折、
詮秀が一向に参仕しなかったことが、
さらに義教の心証を害したらしい。
義教帰洛の後、
詮秀も上洛しようとしたが、
その途次、義教の命により、
尾張の道場において、若党3人・中間1人とともに自害。
85歳の老境に達していた。
同行していた9歳の孫は、この祖父の自害を見て、
「我も自害せん」(『満済准后日記』)と申し出た。
詮秀は自分が腹を切った刀を、孫に与えたが、
検使の尾張守護代織田某は、
「それまでは上意ではない」として、孫の自害を押し留めた。
見るものは涙を流したという。
その後、10月13日、
詮秀の子満平も、
将軍義教の拝賀の際の過失を責められ、
三河国内の所領を没収。
義教近習の一色持信らに分け与えられた。
満平は、高野山に遁世したという。
これまた義教の恐怖政治の一端を示す事件。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 2 満済准后日記 下』 (続群書類従完成会 1928年)
『図書寮叢刊 看聞日記 4』 (宮内庁書陵部 2008年)
室町幕府直臣。
かつて室町将軍に仕えていた中条詮秀は、
6代将軍足利義教の頃には、老齢ゆえか、
本国の三河辺りにひきこもり、
在京奉公は子の満平に任せていた。
こうしたことなどが、
どうやら将軍義教の不興を買っていたようだが、
永享3年(1432)9月、義教が富士遊覧をした折、
詮秀が一向に参仕しなかったことが、
さらに義教の心証を害したらしい。
義教帰洛の後、
詮秀も上洛しようとしたが、
その途次、義教の命により、
尾張の道場において、若党3人・中間1人とともに自害。
85歳の老境に達していた。
同行していた9歳の孫は、この祖父の自害を見て、
「我も自害せん」(『満済准后日記』)と申し出た。
詮秀は自分が腹を切った刀を、孫に与えたが、
検使の尾張守護代織田某は、
「それまでは上意ではない」として、孫の自害を押し留めた。
見るものは涙を流したという。
その後、10月13日、
詮秀の子満平も、
将軍義教の拝賀の際の過失を責められ、
三河国内の所領を没収。
義教近習の一色持信らに分け与えられた。
満平は、高野山に遁世したという。
これまた義教の恐怖政治の一端を示す事件。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 2 満済准后日記 下』 (続群書類従完成会 1928年)
『図書寮叢刊 看聞日記 4』 (宮内庁書陵部 2008年)
《誅殺》 《1424年》 《6月》 《某日》 《享年不明》
傾城の美女。
応永31年(1424)6月、奈良の祇園祭の頃、
酔っ払った「田舎人」(『看聞日記』)が、泥酔の上の粗相をした。
傾城の美女が、それを見て笑わった。
笑われたことを根にもったこの田舎者は、
その後、傾城とその亭主の傾城らを殺害。
自らも切腹して果てた。
朋輩の悲運に憤慨した田舎者の仲間たちが、大勢奈良に押し寄せ、
防戦する奈良の住民たちと、死者が出るほどの合戦に及んだ。
田舎者の都市に対するコンプレックスと、
美女に対するコンプレックスとが生んだような、
凄惨な事件。
とも映るが、
北野社僧の例にもあるように、
他人に嘲笑されることに関して、
中世人の矜持は、思いのほかの反応を示すのである。
なお、
この件のことの真相はよくわからないが、
実際にはどうやら、
興福寺と東大寺の門徒同士の対立であったらしい。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006年)
傾城の美女。
応永31年(1424)6月、奈良の祇園祭の頃、
酔っ払った「田舎人」(『看聞日記』)が、泥酔の上の粗相をした。
傾城の美女が、それを見て笑わった。
笑われたことを根にもったこの田舎者は、
その後、傾城とその亭主の傾城らを殺害。
自らも切腹して果てた。
朋輩の悲運に憤慨した田舎者の仲間たちが、大勢奈良に押し寄せ、
防戦する奈良の住民たちと、死者が出るほどの合戦に及んだ。
田舎者の都市に対するコンプレックスと、
美女に対するコンプレックスとが生んだような、
凄惨な事件。
とも映るが、
北野社僧の例にもあるように、
他人に嘲笑されることに関して、
中世人の矜持は、思いのほかの反応を示すのである。
なお、
この件のことの真相はよくわからないが、
実際にはどうやら、
興福寺と東大寺の門徒同士の対立であったらしい。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006年)
《自害》 《1335年》 《8月》 《19日》 《享年不明》
信濃諏訪大社の祠官。
北条得宗家の被官。
元弘3年(1333)、
新田義貞によって北条高時以下鎌倉北条氏一門が滅ぼされると、
高時の遺児時行を逃がし、匿ったのは、
信濃の諏訪氏一族であった。
後醍醐天皇の建武の新政が始まって、2年目の建武2年(1335)、
西園寺公宗による後醍醐政権の転覆計画が謀られていた。
計画は、京都にひそむ北条高時の弟時興を中心に、
時行ら各地の旧鎌倉幕府勢力を糾合しようというものであったが、
未然に漏洩して失敗。
機を逸した時行・諏訪頼重らであったが、
7月、挙兵。
信濃より上野を経て、武蔵に入り、
各地で、渋川義季・岩松経家・小山秀朝ら討伐軍を破って、
鎌倉に迫った。
鎌倉将軍府(建武政権の出先機関)の成良親王・足利直義は、
鎌倉を脱出するも、各所で時行軍の追撃を受けた。
かくして、鎌倉を占領した北条時行・諏訪頼重らであったが、
翌8月になると、
三河で直義と合流した足利尊氏に、東海道各所で敗れ、
徐々に追い詰められていく。
8月7日、三河矢作宿で、西走する直義と京都から下る尊氏が合流。
9日、遠江橋本、
12日、遠江小夜中山、
14日、駿河国府、
17日、相模箱根、
18日、相模川で、連敗を重ねたのである。
19日、片瀬・腰越で敗れた時行方は、鎌倉に引き退き、
諏訪頼重父子・安保道潭父子ら、
主だった者たちが勝長寿院に籠って自害。
初め遠江の橋本より、
佐夜の中山・江尻・高橋・箱根山・相模川・片瀬・腰越・十間坂、
これら十七ヶ度の戦いに、
平家(北条氏)二万余騎の兵ども、
あるいは討たれあるいは疵をこうむりて、
今僅かに三百余騎になりければ、
諏訪三河守(頼重)をはじめとして、宗徒の大名四十三人、
大御堂(鎌倉勝長寿院)の内に走り入りて、
同じく皆自害して名を滅亡の跡にぞ留めける。
其の死骸を見るに、
皆面の皮を剥いで何れをそれとも見分けざれば、
相模次郎時行も、定めてこの内にぞ在るらんと、
聞く人哀れを催しけり。(『太平記』)
自己の名誉を保つためか、敵軍を欺くためか、
顔の皮を剥いだというのは、
なかなかに凄惨な状況である。
鎌倉は尊氏らに奪還された。
この争乱を、「中先代の乱」と呼ぶ。
なお、北条時行はこのとき自害せず、鎌倉を脱出。
だが、その後、単独での再起は難しく、
再び信濃方面での潜伏生活を余儀なくされた。
〔参考〕
『南北朝遺文 関東編 1』 (東京堂出版 2007年)
『日本古典文学大系 35 太平記 2』 (岩波書店 1961年)
櫻井彦『南北朝内乱と東国 (動乱の東国史)』 (吉川弘文館 2012年)
信濃諏訪大社の祠官。
北条得宗家の被官。
元弘3年(1333)、
新田義貞によって北条高時以下鎌倉北条氏一門が滅ぼされると、
高時の遺児時行を逃がし、匿ったのは、
信濃の諏訪氏一族であった。
後醍醐天皇の建武の新政が始まって、2年目の建武2年(1335)、
西園寺公宗による後醍醐政権の転覆計画が謀られていた。
計画は、京都にひそむ北条高時の弟時興を中心に、
時行ら各地の旧鎌倉幕府勢力を糾合しようというものであったが、
未然に漏洩して失敗。
機を逸した時行・諏訪頼重らであったが、
7月、挙兵。
信濃より上野を経て、武蔵に入り、
各地で、渋川義季・岩松経家・小山秀朝ら討伐軍を破って、
鎌倉に迫った。
鎌倉将軍府(建武政権の出先機関)の成良親王・足利直義は、
鎌倉を脱出するも、各所で時行軍の追撃を受けた。
かくして、鎌倉を占領した北条時行・諏訪頼重らであったが、
翌8月になると、
三河で直義と合流した足利尊氏に、東海道各所で敗れ、
徐々に追い詰められていく。
8月7日、三河矢作宿で、西走する直義と京都から下る尊氏が合流。
9日、遠江橋本、
12日、遠江小夜中山、
14日、駿河国府、
17日、相模箱根、
18日、相模川で、連敗を重ねたのである。
19日、片瀬・腰越で敗れた時行方は、鎌倉に引き退き、
諏訪頼重父子・安保道潭父子ら、
主だった者たちが勝長寿院に籠って自害。
初め遠江の橋本より、
佐夜の中山・江尻・高橋・箱根山・相模川・片瀬・腰越・十間坂、
これら十七ヶ度の戦いに、
平家(北条氏)二万余騎の兵ども、
あるいは討たれあるいは疵をこうむりて、
今僅かに三百余騎になりければ、
諏訪三河守(頼重)をはじめとして、宗徒の大名四十三人、
大御堂(鎌倉勝長寿院)の内に走り入りて、
同じく皆自害して名を滅亡の跡にぞ留めける。
其の死骸を見るに、
皆面の皮を剥いで何れをそれとも見分けざれば、
相模次郎時行も、定めてこの内にぞ在るらんと、
聞く人哀れを催しけり。(『太平記』)
自己の名誉を保つためか、敵軍を欺くためか、
顔の皮を剥いだというのは、
なかなかに凄惨な状況である。
鎌倉は尊氏らに奪還された。
この争乱を、「中先代の乱」と呼ぶ。
なお、北条時行はこのとき自害せず、鎌倉を脱出。
だが、その後、単独での再起は難しく、
再び信濃方面での潜伏生活を余儀なくされた。
〔参考〕
『南北朝遺文 関東編 1』 (東京堂出版 2007年)
『日本古典文学大系 35 太平記 2』 (岩波書店 1961年)
櫻井彦『南北朝内乱と東国 (動乱の東国史)』 (吉川弘文館 2012年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
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1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
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1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
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1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
9歳 | ||
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18歳 | 19歳 | |
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24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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