忍者ブログ
死に様データベース
《病死》 《1418年》 《11月》 《17日》 《享年61歳》


従一位、関白。准三后。
藤原氏長者。


一条経嗣は、二条良基の三男であったが、
一条家の当主房経が早世したため、
経嗣房経の弟、すなわち一条経通の子ということにして、
一条家を継がせたのであった。

実父二条良基にひきつづき、足利義満の信任が厚く、
その才学をもって、義満の公家社会における立場の確立に貢献した。


応永25年(1418)11月17日、没。
享年61。
「諸人仰天、哀傷是非なし。」(『康富記』)


学問に通じていたとはいえ、足利家の御用学者の感が拭えないが、
そうとうできた人物であったらしく、
死後、ずいぶんなもち上げ方をされている。

「御才智世において勝れ、誉四海に及び給う。哀々。」(『康富記』)
「有職漢才等抜群、公家の鏡たり。
 天下重臣、朝廷無人、尤も惜しむべし惜しむべし。」(『看聞日記』)


20日、雨中、東福寺にて葬送。


なお、藤原氏の氏寺興福寺では、翌18日、祭礼の後宴であったが、
経嗣死去の確報を得ていなかったため、猿楽等を催行しようとした。
だが、氏長者没直後の芸能について、田楽頭人たちが逡巡したため、
早めに切り上げている。



〔参考〕
『大日本史料 第7編之31』 (東京大学史料編纂所 2007年)
『国史大辞典 1 (あ-い)』 (吉川弘文館 1979年)
東京大学史料編纂所データベース
PR
《誅殺》 《1431年》 《7月》 《某日》 《享年不明》


山城国伏見荘の地下人。


永享3年(1431)6月、
山城国伏見荘内で、窃盗事件が起きた。
さっそく捜索がなされ、
地下人の内本兵庫という者が、
年来盗人の疑いありとして捕えられた。

この内本兵庫には、
御所侍である善祐・助六、光台寺の僧俊意という3人の兄弟があったが、
彼らはこの兵庫という困った兄弟に、早々に見切りをつけていたようで、
善祐は1年前に義絶、
助六・俊意は、「容疑が固まったら切腹させよ」と言ったという。
ただ、伏見荘の領主伏見宮貞成親王は、
「もし無実だったらかわいそうだ」(『看聞日記』)と、
冤罪を恐れている。


当の内本兵庫は容疑を否認したが、
審判を湯起請にゆだね、有罪なら切腹も辞さないことを述べた。


湯起請とは、
起請文を記して、うそ偽りのないことを神明に誓ったのち、
熱湯に腕を入れ、その結果によってことの審判を行う、というもので、
紛争解決の手段として、中世盛んに行われた。
湯起請ののち、一定期間内に、
火傷や鼻血、病気など身体に変化があらわれた場合、
その変化を「失」といい、その方が敗訴・有罪となる。


6月4日、
伏見御香宮神社において、内本兵庫の湯起請が行われた。
結果、すぐには失は出なかったが、
3日間は経過を見るということで、兵庫は御香宮神社に召し篭められた。


翌5日、
新たに容疑者4人が拘束され、湯起請が行われることとなった。
1人は逐電、
3人が湯起請のため、御香宮神社に連れて行かれた。
1人目の結桶師は、すぐに火傷が出たため、捕縛。
後日、室町幕府侍所の獄舎に入れられた。
残り2人は失が出ず、村に返された。


6日、
内本兵庫の経過観察3日目。
まったく失が出なかったため、無罪が決定した。

放免となった兵庫は、その後伏見荘を離れ、
畿内近国を彷徨ったらしい。
7月のある日、
大和のあたりで流浪人の太刀を盗もうとして、返り討ちに殺されてしまった。

「遂に盗みを以って身を果つ。存内の事なり。」(『看聞日記』)



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006年)
清水克行『日本神判史 (中公新書)』 (中央公論新社 2010年)
《病死》 《1480年》 《正月》 《25日》 《享年55歳》


室町幕府評定衆。


嘉吉の乱~応仁・文明の乱という困難な時期に、
摂津之親は幕府の中枢にあって、8代将軍足利義政に仕えた。
吏僚の家として、
評定奉行や大嘗会総奉行など諸奉行を歴任。


文明12年(1480)正月16日朝、
日頃の疲労からか、にわかに危篤に陥り、
急死。
過労死というべきか。


実子がなく、相続が問題となったが、
養子政親が継ぐ。



〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅰ』 (石川県 1998)
東京大学史料編纂所データベース
《誅殺》 《1422年》 《某月》 《某日》 《享年不明》


冷泉家の青侍。
冷泉持和(のち持為)の継母の兄弟。


冷泉持和は、継母の比丘尼を犯し、
その懐妊を知ると、外聞を気にしてか、これを毒殺。
さらに、それから間もない応永29(1422)年、
比丘尼の兄弟の青侍を、手ずから殺害した。


翌々年の応永31年(1424)2月、
とある尼が室町幕府に訴え出たことで、
事件が公になったのである。

だが、
当の冷泉持和は、所領播磨国細河荘没収の罰のみ。
今なら極刑ものだが…。



〔参考〕
『史料纂集 兼宣公記 第2』 (八木書店 2012年)
《誅殺》 《1334年》 《12月》 《28日》 《享年68歳》


鎌倉幕府政所執事、
建武政権雑訴決断所所衆。
法名、道蘊


鎌倉幕府の高官二階堂貞藤は、才覚優れた人として知られていたようだが、
「我が口において賢人と称する」(『金沢文庫文書』)
といわれたように、
驕るようなふるまいもあったらしい。


貞藤は幕府の重臣として、正中の変などの対応に当たり、
激化する持明院・大覚寺両皇統の対立に際しては、
元徳元年(1329)に、幕府の使者として上洛し、
その調停につとめた。
ただし、
幕府の指示に従わず、独断専行もあったらしく、
不仲の金沢貞顕からは、
「言語道断」(『金沢文庫文書』)
と批判されている。

元徳3年(1331)にも、後醍醐天皇に譲位を勧める使者として上洛。
その後の元弘の乱では、
楠木正成の拠る千早城攻めにも参加した。


鎌倉幕府崩壊後、
「朝敵の最一」(『太平記』)であったが、
「賢才」(同)により死罪一等を減じられ、
雑訴決断所の一員として、建武政権に加わった。


だが、それからわずか1年あまりのち、
陰謀加担の嫌疑がかけられ、
建武元年(1334)12月28日、
京都六条河原にて、子兼藤・孫3人とともに斬られた。
68歳。一説に62歳。


僧日静は、
「誠に以って不慮の外に候」(『上総藻原寺所蔵金剛集第六巻裏書』)
と述べている。



〔参考〕
『大日本史料 第6編之2』 (東京大学出版会 1968年)
『鎌倉遺文 古文書編 39』 (東京堂出版 1989年)
『南北朝遺文 関東編 1』 (東京堂出版 2007年)
『国史大辞典 10 (と-にそ)』 (吉川弘文館 1989年)
永井晋『金沢貞顕』 (吉川弘文館 2003年)
17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27 
ブログ内検索
死因
病死

 :病気やその他体調の変化による死去。
戦死

 :戦場での戦闘による落命。
誅殺

 :処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害

 :切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死

 :事故・災害等による不慮の死。
不詳

 :謎の死。
本サイトについて
 本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
 当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
 内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
最新コメント
[10/20 世良 康雄]
[08/18 記主]
[09/05 記主]
[04/29 記主]
[03/07 記主]
[01/24 記主]
[03/18 記主]
[03/20 記主]
[07/19 記主]
[06/13 記主]
アクセス解析
忍者アナライズ
P R
Admin / Write
忍者ブログ [PR]